オリンピックの記憶(6) 日本初のメダリストは三井物産勤務
Q.88年ソウル五輪のテニス女子シングルで、金メダルを獲得し、その年のグランドスラム4冠と合わせて5冠を達成したのはだれでしょう。
1.グラフ
2.セレシュ
3.サバティーニ
こたえ 1.グラフ
米国テニス協会(USTA)は6月26日、マルチナ・ナブラチロワ(47)をアテネ五輪の代表に選出したことを発表した。
4大大会で58のタイトルを手にしたナブラチロワは、リサ・レイモンドとダブルスのペアを組む。
女子シングルス米国代表には、ビーナス、セリーナのウィリアムズ姉妹とジェニファー・カプリアティ、チャンダ・ルビンが選出された。
☆
日本が始めて五輪に参加したのは1912年、ストックホルム大会である。
1911年11月、五輪派遣のための陸上選考会が開催され、短距離で優勝した東京帝国大学の三島弥彦と、マラソンで世界最高記録を作って優勝した東京高等師範学校の金栗四三の2人を日本代表とした。
短距離の三島は外国選手との体格差の前に100㍍、200㍍ともに予選最下位。
400㍍は予選通過したものの疲労のため準決勝を棄権している。
もう一人の金栗は炎天下のレースで32キロ過ぎに日射病で倒れてしまった。
4年後のベルリン大会は、第一次世界大戦のため中止。
日本の五輪メダル第一号は1920年のアントワープ大会であった。
このときの日本代表は総勢15人。陸上(11選手)・水泳(2選手)とともに、テニスの熊谷一弥(くまがい・いちや)と柏尾誠一郎(かしお・せいいちろう)の両選手が選ばれた。
熊谷は慶應義塾大学出身、三菱合資会社勤務。
柏尾は東京高等商業学校(現・一橋大学)出身で三井物産勤務。
当時、ともにニューヨークに駐在をしていた2人は、アメリカテニス界においてもすでに名を知られた存在だった。
特に熊谷は1918年の全米オープンでベスト4、翌年にもベスト8に入り、全米ランキング3位に名を連ねていた。
当時はまだ、日本テニス協会もできる前で、大日本体育協会(JOC、日本体育協会の前身)が両選手のアントワープ大会派遣を決めた。
三井物産は当時すでに新聞社・通信社をしのぐ海外出先機関の情報網を持っており、JOCがIOCやアントワープの組織委員会との連絡等にも三井物産の力を借りていたといわれている。
柏尾は3回戦で敗退するが、熊谷は実力通り決勝まで進出。しかし、決勝は折悪く雨中の試合となり、眼鏡をかけていた熊谷には条件は悪く、南アフリカのルイス・レイモンドに7-5、4-6、5-7、4-6で惜敗。
日本初のメダルは銀メダルであった
また、熊谷・柏尾のダブルスも銀メダルを獲得している。
ちなみに翌1921年、熊谷、柏尾に清水善三を加えた日本は、日本初のデビスカップ代表となり、チャレンジラウンド(今のワールドグループ決勝)まで進み、テニス王国アメリカに挑戦している。
1924年のパリ大会をもって、正式種目から外れたテニスは64年後、ソウル大会で復活し、プロ選手にも門戸は開放された。
●テニス復活後の日本人選手の戦積
1988年ソウル大会
男子シングルス 土橋登志久1回戦敗退
男子シングルス 松岡修造1回戦敗退
男子ダブルス 土橋登志久、松岡修造1回戦敗退
女子シングルス 井上悦子1回戦敗退
女子シングルス 岡本久美子1回戦敗退
女子ダブルス 井上悦子、岡本久美子準々決勝敗退
1992年バルセロナ大会
男子シングルス 松岡修造1回戦敗退
女子シングルス 遠藤愛2回戦敗退
女子シングルス 沢松奈生子1回戦敗退
女子シングルス 伊達公子2回戦敗退
女子ダブルス 木戸脇真也、伊達公子2回戦敗退
1996年アトランタ大会
男子シングルス 松岡修造1回戦敗退
男子ダブルス 岩渕聡、鈴木貴男2回戦敗退
女子シングルス 沢松奈生子2回戦敗退
女子シングルス 杉山愛3回戦敗退
女子シングルス 伊達公子準々決勝敗退
女子ダブルス 杉山愛、長塚京子1回戦敗退
2000年シドニー大会
男子ダブルス 岩淵聡、島田トーマス1回戦敗退
女子シングルス 浅越しのぶ1回戦敗退
女子シングルス 杉山愛1回戦敗退
女子ダブルス 杉山愛、宮城ナナ2回戦敗退
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