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December 06, 2004

オリンピックの記憶(12) 日本人初のスケートメダリスト北沢欣浩

この週末長野市のエムウェーブで行なわれていたスピードスケートW杯で清水宏保が4季ぶり勝利。翌5日も優勝し、復活を印象付けたLink
このニュースを聞いて思い出したことがある。

1978年2月5日は、非常に印象的な日であった。
ガルミッシュパルテンキルヘンで行われた世界アルペン選手権で、海和俊宏が回転で7位の快挙、別府大分毎日マラソンでは、宗茂が世界歴代2位(当時)の2時間9分6秒で優勝。さらに1984年五輪開催地を決めるIOC総会が開かれ、1972年以来2度目の開催をめざした札幌市は、サラエボ(当時ユーゴスラビア、現ボスニアヘルツェゴビナ)に決選投票の末に敗れたのである。

当時、五輪は莫大な費用を回収できないイベントであり、同日に決定された夏季大会は、ロサンゼルス以外に対立候補が現れずに、無投票で決定されている。
札幌市は、有利に招致活動を進めながらも、72年の1回限りという約束で開発された滑降コースを再度使用する計画に市民グループが反発、IOCは冬季五輪史上初の社会主義国での開催を選んだのである。

それから6年、西武ライオンズ球団新代表になった、群馬県嬬恋村出身の黒岩彰(当時専修大)は、1983年の世界スプリント選手権で日本人初の総合優勝を果たし、サラエボ五輪の星としてマスコミの注目を一身に集めるようになった。

近年の五輪のスピードスケートは屋内リンクで実施されているが、サラエボは屋外。
男子500㍍の日は、激しい降雪のために競技開始時間が遅れた。
黒岩が移動するたびに日本のマスコミもぞろぞろ付いてくるという状況で、22歳の青年は次第に自分を見失っていく。
当時、500㍍は1回のレースのみで順位が決めており、最後のコーナーで外側を滑ることのできるインスタートが有利といわれていた。
4組のアウトスタートを引いた黒岩は、最悪のリンク・コンディション、さらにはプレッシャーにつぶれ、世界一と言われたコーナーワークのテクニックを生かせずに10位に終わる。
が、その直後5組に出場した伏兵・北沢欣浩(当時法政大)が会心のレースを見せ、見事銀メダルを獲得。日本スケート界初の五輪メダリストとなった。

黒岩の故郷 嬬恋村には数十台のテレビカメラが用意されていた一方、北沢の故郷釧路にはもちろんカメラは来ていなかった。
北沢はその年のシーズン前に、初めて五輪強化選手になった選手で、降雪のためレース開始が遅れ、黒岩がマスコミを引き連れている間にも宿舎で身体を横たえ、休めていたという。
大学卒業後も、「通勤ラッシュがきつい」と実業団に入ることなく釧路市役所に勤務。その後、五輪の舞台を踏むことはなかった。
長野五輪の500㍍の際には、テレビ解説を担当、懐かしい姿を見せていた。

●スピードスケートの五輪メダリスト

84年 サラエボ五輪
男子500㍍ 北沢欣浩 銀

88年 カルガリー五輪
男子500㍍ 黒岩彰 銅

92年 アルベールビル五輪
男子500㍍ 黒岩敏幸 銀、井上悟 銅
男子1000㍍ 宮部行範 銅
女子1500㍍ 橋本聖子 銅

94年 リレハンメル五輪
男子500㍍ 堀井学 銅
女子5000㍍ 山本宏美 銅

98年 長野五輪
男子500㍍ 清水宏保 金
男子1000㍍ 清水宏保 銅
女子500㍍ 岡崎朋美 銅

02年 ソルトレークシティ五輪 
男子500㍍ 清水宏保 銀

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