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June 16, 2020

戦後唯一 オリンピックを返上したまち

オーストリアのインスプルックは、1964年と1976年に冬季オリンピックを開催したまちである。
これだけの短期間に2回オリンピックを開催したまちはない。
なぜこのようなことができたのだろうか

1964年と1976年のインスブルック冬季オリンピックの大会ロゴ ほとんど同じ Picture_pc_93798f59a0abcedc2e510026793cd

当初1976年の冬季オリンビック開催地に決定していたのは、アメリカ コロラド州のデンバーであった。
コロラド州はアメリカ独立から100年後の1876年に誕生した州で、州誕生100年目にあたる1976年に向けて、大々的なイベントを計画していた。
そこで持ち上がったのが、冬季オリンピック招致である。
他に立候補していたのは、シオン (スイス)、タンペレ (フィンランド)とバンクーバー(カナダ)。
デンバーとシオンのデッドヒートの結果、デンバーが開催地に決まった。

第69回IOC総会 オランダ アムステルダム 1970年12月5日

1976年冬季 デンバー 米国
シオン スイス
タンペレ フィンランド
バンクーバー-ガリバルディ カナダ
29
18
12

9
29
31

8
-
39
30
-
-

ところが、冬季オリンピックを開催するにあたり、地元コロラド州が負担する費用は500万ドル(当時)という莫大な金額。
そんな費用をかけてまで開催するべきかと、疑問の声が上がるようになった。
環境問題や観光への影響、直前のミュンヘン夏季オリンピック開催中に起こったテロの影響なども懸念され、市民グループによる開催返上運動が盛んになっていった。
そこで1972年11月、ニクソン対マクガバンの大統領選挙と同時にオリンピック返上が住民投票にかけられた。
開催派35万票に対して返上派は52万票、大会返上が決定した。
これを受けてIOCはインスブルックを代替開催地としたのである。

冬季オリンピックは夏季オリンピック以上に、施設を整備するのに時間がかかる。
デンバーが開催返上した時点で、新たな開催地を決めることは難しかった
そこで既に大会開催経験のあるグルノーブル(1968年開催 フランス)か、インスブルック(1964年開催 オーストリア)で行うのが妥当と判断し、オーストリア政府の後押しの強かったインスブルックに決まったというわけだ。

興味深いのはここからだ。
インスブルックでの2回目のオリンピック開催が決まると、1980年冬季才リンピック開催地にアメリカのレークプラシッド (ニューヨーク州)が正式に名乗りを上げた。
開催地決定の直前になって、対立候補のバンクーバーが立候補を取り下げたため、無投票で開催地に決定している。
商業主義が確立されていなかった1970年代は、最もオリンピックの開催が苦しかった時期である。
同じアメリカ人の都合で返上しておきながら、何ごともなかったようにまた手を挙げる。
こんなことができるのはアメリカだけだ。

 

 

 

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June 10, 2020

金メダルを12年ぶりに獲ったウルリケ・マイファルトと16年ぶりに獲ったアンソニー・アービン

ウルリケ・マイファルト(西ドイツ=当時)は陸上史に残る選手である。
(Ulrike Nasse-Meyfarth 英語であれば メイファース と読むのだろうが、日本では昔から マイファルト と読んでいる。)

というのも16歳と28歳で、オリンピックの同一種目に金メダルを獲ったからだ。
1968年のメキシコオリンピック、走り高跳びはアメリカのフォスベリーによって新しい時代を迎えた。
現在では、誰しもが跳ぶ背面跳びを最初に始めたのがフォスベリーである。
とはいうものの、4年後のミュンヘンオリンピックでも背面跳びをマスターしていた選手は少なく、自己ベストが1m85だったマイファルトはホームの熱狂的な応援を背に1m92を跳び優勝。16歳の金メダリストとなった。

●ウルリケ・マイファルトの主な戦績
1972年 ミュンヘン五輪 ①1.92m
1974年 欧州選手権 ⑦1.83m
1976年 モントリオール五輪 1.78m 予選22位敗退
1978年 欧州選手権 ⑤1.91m
1980年 モスクワ五輪 ボイコット
1982年 欧州選手権 ①2.02m
1983年 第1回世界陸上 ②1.99m 
1984年 ロス五輪 ①2.02m

岩崎恭子がバルセロナオリンピックで14歳で金メダルを獲った後、自分の泳ぎが出来なくなり、アトランタオリンピックには出場しているが、バルセロナ以後、金メダルタイムを更新することは一度もなく引退した。
洋の東西を問わず、若き金メダリストが壁にぶち当たるのは同じようだ。
マイファルトも、1976年のモントリオールオリンピックでは決勝に進むことが出来なかった。
このときの記録を調べてみると予選通過ラインは1m80、マイファルトは1m78しか跳べずに22位に終わった。
西ドイツは、1980年のモスクワオリンピックを、日本と同様アメリカに追随しボイコット、マイファルトはモスクワの地を踏むことが出来なかった。

が、この後徐々に復調していく。
1983年、ヘルシンキの世界陸上選手権では、ブルガリアのタマラ・ブイコワと壮絶な争いの末2位。
1984年、ロサンゼルスオリンピックはソ連、東ドイツなど東側諸国が報復ボイコットし、オリンピックでのブイコワとの対決は見ることはできなかったものの、マイファルトは12年ぶりに同一種目での金メダルを獲得。
優勝記録は2m02と好記録だった。

同一種目で、12年のブランクを経て再び金メダルを獲った例はマイファルトが唯一である と長い間言って来たが、2016年のリオデジャネイロオリンピックでこの記録を上回る金メダリストが現れた。

競泳男子50m自由形において、19歳と35歳で金メダルを獲ったのがアンソニー・アービン。
同一種目で16年のブランクを置いての金メダルは、ウルリケ・マイファルトの12年を超える。

19歳で迎えたシドニーオリンピック。
50m自由形で金メダルを獲ったアービンは、白人と黒人の両親を持つハーフだが、初の黒人系金メダリストとして注目された。
22歳で一度は現役を引退した。
その際に両腕に鮮やかな入れ墨をしたが、現在も彫ったままだ。
シドニーの金メダルはオークションにかけ、04年のスマトラ沖地震の被災者のために寄付したというが、その額は17000ドル。

その後、ロックバンドで活動するなどしたものの、酒におぼれ、自殺未遂をしたこともあるというが、どん底の時期をへて2010年にプールに戻ってきた。
大学院に入学し、水泳の動作解析などを研究するうちに泳ぐ意欲が沸いてきたと言う。
そして、リオデジャネイロオリンピック。
35歳5カ月での金メダルは競泳個人種目で最年長となる。

昨年9月 競泳金メダリストの「挫折」と「復活」と題してNHK BSでアンソニー・アービンの特集が放送された。

38歳になった金メダリストは東京オリンピックをめざすとしている。
が、東京オリンピックの開催延期が決まり、2021年に彼は40歳になる。
果たして、東京のプールで泳ぐことはできるだろうか。

●アンソニー・アービンの50m自由形
2000年 シドニー五輪 ①21.98(ゲイリー・ホールJrと同タイム)
2004年 アテネ五輪 出場なし
2008年 北京五輪 出場なし
2012年 ロンドン五輪 ⑤21.78
2016年 リオデジャネイロ五輪 ①21.40

 

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May 15, 2020

デーブ・スペクター「多くの競技で定期的に世界選手権がある。五輪にしかないものがあるか?」 →競技団体にとってはIOCからの分配金がなければ生き残れない

朝日新聞5月13日付で、デーブ・スペクター氏がこんなことを言っている。

「五輪の時にしか注目を浴びない競技があるなど、開催には一定の意義はあるかもしれませんが、もう規模を縮小すべきではないでしょうか。近代五輪が始まったころと異なり、多くの競技で定期的に世界選手権があります。五輪にしかないものってありますか?」https://digital.asahi.com/articles/DA3S14473756.html?iref=pc_ss_date

デーブ氏は日米のテレビ事情に相当精通した人物だが、そのデーブ氏でも、見えていない五輪の姿がある。

『競技団体にとってはIOCからの分配金がなければ生き残れない』と言っても過言ではない。

IOCは4年単位で動くが、例えば2013年から2016年までの収入は、約57億ドル(約6140億円)。
その内訳は、73%がテレビ放映権料、18%がTOPと呼ばれるスポンサー企業から得ている。
テレビ放映権料が収入の73%だから約41.6億ドル。
そのうち、米NBCネットワークの支払った額が21.9億ドル、NHKと民放の共同体であるジャパンコンソーシアムが支払った日本国内向けのテレビ放映権が660億円で、全体の15%程度にあたる。

一方、IOCはその収入の90%以上をNOC(各国のオリンピック委員会)や)IF(各競技の国際団体)、五輪の大会組織委員会に分配している。

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リオ五輪から各IFへ分配された額は合計5億4000万ドル(約577億円)。
その4年前のロンドン五輪の5億1960万ドルからやや増となっている。
IOCは五輪で行われている競技を観客動員数、テレビなどのメディアでの露出など複数の項目に基づいてランク付けをし、これに従って分配金も傾斜配分しているのだ。

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2012年のロンドン五輪当時の正式競技は、A~Dの4段階にランク分けされた。
最高のIAAF(当時、現在の世界陸連)が得た分配金は4700万ドル。以下、Bランクの競技が2200万ドル、Cが1600万ドル、Dは1400万ドルだった。
その後、リオデジャネイロ五輪に向けて新たに公表されたランクは、1つ増えてA~Eの5段階になり、最高のAランクは陸上に加えて体操と水泳がBランクから昇格し3競技となった。

日本人が好む競技であるサッカー、バレーボール、卓球、柔道はいずれもランキングの上位にある。

一方で、一度五輪正式種目から外されかけたレスリングや韓国発祥のテコンドーはD、リオ五輪から正式種目となったラグビー(7人制)、ゴルフはEランクにある。

陸上(WA)、サッカー(FIFA)など自己資金が潤沢な競技団体は少なく、IOCから資金分配は、プロのあるバスケットボールやテニスといえども競技の普及や発展のために貴重な金額であり、五輪の舞台から降りたい競技団体は存在しないのである。
五輪競技から外れるとこのカネが入らなくなり、マイナー競技のIFほど運営は苦しくなる。
IFが主催する世界選手権や国際大会のブランド価値も落ち、独自にスポンサーを集める力も衰え、競技人口の減少につながるなどダメージは計り知れない。

スイスの一非営利団体に過ぎないIOCが、世界のスポーツの生殺与奪の権を握る最大の理由がここにあるのだ。

 

●(参考)少し古い記事だけどUSOCの存在も特別だ。

米国オリンピック委員会の資金は なぜ潤沢なのか

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April 25, 2020

日本と韓国 両国の代表としてオリンピックに参加した選手

戦争責任のため日本が参加できなかった1948年ロンドン大会では、 女子陸上短距離のフランシーナ・ブランカース・クン(クン夫人・オランダ)がスターになった。

女子陸上の100m、200m、80m障害、400mリレーに優勝、一大会で四つの金メダルをとったのは女子陸上ではクン夫人だけだ。

このとき30歳だが、実は1936年のベルリン五輪に18歳で400mリレーと走り高跳びに出場している。

ご存知のように五輪は、1940年(東京→ヘルシンキ)、44年(ロンドン)と2大会が第二次世界大戦のために中止になり、1948年のロンドン五輪は実に12年ぶり催であの開った。

12年はあまりに長く、選手としての全盛期に五輪が開催されなかった選手も多くいた。

クン夫人は、1940年にコーチと結婚。翌年に長男を出産、1946年に長女を出産しながら競技を続けた。

日本とドイツはロンドン五輪に招待されず、1952年のヘルシンキ五輪まで16年のブランクができた。

ベルリン五輪では、マラソンの孫 基禎と南昇竜がそれぞれ金と銅メダルに輝いたが、彼ら以外にも7名の朝鮮半島出身の選手が日本代表に加わっていた。

陸上競技:孫基禎、南昇竜

サッカー:金容植

バスケットボール:張利鎮、李性求、廉殷鉉

ボクシング:李奎煥

その7名の選手の内、2選手がロンドン五輪に出場した。

勿論 韓国代表としてだ。

ひとりはサッカーの金容植。韓国サッカーの父と呼ばれる人物だ。

26歳のときのベルリン五輪、ベルリンの奇跡と呼ばれたスウェーデン戦での勝利の一翼を担った。

その12年後のロンドン五輪にはコーチ兼任選手として出場。 

1954年のW杯にも韓国代表コーチとして参加をした。

もうひとりはバスケットの張利鎮。18歳で日本代表としてベルリン五輪、30歳で韓国代表としてロンドン五輪に参加し8試合に出場、8強入りに貢献した。

あらゆるスポーツ選手の中で、日韓の両方で代表になった選手は何人かはいるが、両国の代表で五輪に出場したのはこの2人だけではないかと思う。

 

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April 07, 2020

男性だったオリンピック女子金メダリスト

2009年にべルリンで開催された陸上世界女子800mに、彗星のごとく現れ、圧倒的な強さで勝ったキャスター・セメンヤ

ロンドン、リオデジャネイロの両五輪と2009年、11年、17年の世界陸上の女子800mを制した選手だ。が、子宮と卵巣が無く精巣があり、通常の女性の3倍以上のテストステロン(男性ホルモンの一種)を分泌している性分化疾患が判明したと報じられたことがある。

国際陸連(IAAF・現世界陸連)はこの件について肯定も否定もしていないが、2018年4月になって、男性ホルモンのテストステロンに関するルール変更を行った。

テストステロン値が高い女子選手に対し、400m800m、および1500mへの出場を制限するというものだ。セメンヤ潰しのルールと言われ、セメンヤは昨秋のドーハの世界陸上は出場を断念した。

29歳で迎えるはずだった東京五輪は200mに出場すると明らかにしたが、これまで200mを走ったことはほとんどない。

2021年、彼女は東京の国立競技場のピッチに現れるだろうか。

 

女子選手だと思ったら、男子だった。

こういった例は今始まった問題ではない。

特に陸上競技では昔からある。

 

もう40年も前のことだが、1980年の暮れに、ショッキングなニュースが飛び込んで来た。

「女性金メダリストは男だった」

 

その内容はこんなところだ。

スタニスラワ・ワラシェビッチ(通称ステラ・ウォルシュ)という陸上短距離の選手がいた。

幼い頃にポーランドからアメリカに移住したが、ポーランド代表として1932年のロサンゼルス五輪に出場、陸上女子100mで金メダルを獲得した。

4年後のベルリン五輪では銀メダルを獲得。

その後もアメリカに住み続けた。

が、不幸にしてこの数日前に強盗に会い、殺害された。

警察が司法解剖したところ、なんと男性だったことが判ったというのだ。

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この頃は、東西冷戦の華やかな時代で、旧ソ連や旧東ドイツには異様に筋肉の発達した陸上や競泳の女子選手がいた。

そのため、すぐはドーピングで男のようになった女子選手のことを言っているかと勘違いをした。

だが、しばらくして『女子選手のはずが、実は男性だった』という内容だと気が付いた。

 

翌日の新聞には『ステラ事件』の詳細と続報が書かれていた。

「男性だったと」いう第一報に対し、遺族が「ステラは、男性器と女性器の両方を持っていた」と反論したという。

要は、半陰陽=両性具有=インターセックスだったということだ。

 

後にエリック・カーマーというオーストリアの五輪研究家が、ポーランド国内でステラ・ウォルシュの出生証明書を発見するのだが、女児として届けられている。

恐らく女性として育てられたのだが、死亡後家族が両性具有であることを逸早く公表していることから、生前、家族はそのことを知っていたということになる。

問題になるのはロサンゼルス五輪当時、本人や周囲がその事実を知っていたかどうかだが、今となっては判らない。

 

インターネットを検索していると事件からひと月後の新聞の記事が出てきた。

これによると、ステラには女性器はなかったとある。

 

Report Says Stella Walsh; Had Male Sex Organs

Published: January 23, 1981

CLEVELAND, Jan. 22 Stella Walsh, who won a gold medal and

several silver medals in track competing as a woman in the 1932 and

1936 Olympics, had male sex organs, according to an autopsy report

released today. The report also said that Miss Walsh had no female

sex organs.Chromosome sex tests were inconclusive, and further

tests are being made.

The report by the Cuyahoga County Coroner's Office was obtained

through the courts by television station WKYC, which had been

criticized for broadcasting a report questioning Miss Walsh's sex last

month. Miss Walsh, 69 years old, was killed in an apparent robbery

attempt in Cleveland Dec. 4. Born in Poland, she competed in the

Olympics representing her native land, although she had lived in the

United States since she was a year old.

 

一昔前の五輪ではセックスチェックなるものが行われていた。

本当の女性であるか、医学的に確認するというものだ。

1964年の東京五輪以前は、男子選手が女子選手になりすましてメダルを獲るも、後に男性であることが判り、メダルが剥奪された例がいくつかある。

そのため1966年に、「能力の平等さを保つ」を建前とした、セックスチェック(本当に女性であるか調べること)が行われるようになった。

この検査は、スポーツ史上類を見ない女性差別と言っても過言ではない。何人もの医師の前で全裸になっての視認検査や、さらには直接性器を確認するなど行為が行われていた。

あまりに露骨なチェック方法に、選手からはクレームが殺到し、それを受けて、1968年のメキシコ五輪からは、頬の内側の粘膜を採取する遺伝子検査が行われるようになった。

ところが、この検査方法だと、生まれながら染色体に異常のある女性が「男性」と判定されかねない。

性分化疾患と言うが、生まれてからずっと女性として育てられてきたのに、DNA的には男性、あるいは半陰陽、インターセックス等であると判明し、五輪に出場できなかった選手が少なからず出てきたのだ。

そんな選手たちは急にケガをしたことにし、「棄権」という形をとり、ひっそりと帰国させられた。

 

日本人選手にも該当者がいたと言われている。

IOC1999年になって、すべてのセックスチェックを中止した。

検査に費用がかかることをその理由としているが、実際には選手の人権に配慮したのであろう。

セックスチェックが最後に行われた1996年のアトランタ五輪では、チェックを受けた3387人中医学上女性でない女子選手が8名参加していたことが判っている。

 

〇1932年ロサンゼルス五輪 陸上女子100m 

①ステラ・ウォルシュ 11.9(ポーランド)

 

ロサンゼルスで圧倒的な強さを見せたステラ・ウォルシュも、4年後のベルリン五輪ではアメリカ選手に敗れてしまう。

 

〇1936年ベルリン五輪 陸上女子100m 

①ヘレン・スティーブンス 11.5(アメリカ)追い風参考

②ステラ・ウォルシュ 11.7(ポーランド)追い風参考

 

ベルリン五輪で、金メダルを獲ったヘレン・スティーブンス(アメリカ)は、「あのステラ・ウォルシュよりも速いとは信じられない」

「男が女子選手に化けているのではないか」

と話題になった。そのため組織委員会は、本当に女子選手であるか確認するために医師の立会いのもと、全裸にして確認をし、女子選手と認められている。

なんという皮肉だろうか。

 

1992年まで国際陸連(IAAF・現世界陸連)はステラ・ウォルシュのような性分化疾患の選手が女子の競技に出場することを認めていなかった。ウォルシュの記録を抹消するか否かという議論が発生したが、IOCIAAFはともに抹消するといった決定はせず、ウォルシュの記録は現在も残っている。

 

男女の違いは思いのほか判断が難しい。

2000人に一人の割合で、男女の区別が難しい体を持った子供が生まれている。

卵巣と精巣を持つ。卵巣と子宮があるのに、性器が男性様の形。逆に性器は女性様だが、精巣があり子宮がない人もいる。胎児期に性が分化する過程で、ホルモンの作用に障害が起きるのが原因という。現在では医学的には、男と女だけではなく、多種多様な性があるとされている。

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March 24, 2020

アメリカにおいて進むオリンピック離れ ② フィギュアスケート

私はこれまでも、米国において五輪離れが起きていると指摘してきた。

2年前に行われた2018年平昌冬季五輪は、テレビ放送、ケーブル、ストリーミングで同時に利用できる最初の冬季五輪であったにもかかわらず、米国において史上最も視聴者の少なかった五輪だ。

平昌冬季五輪のゴールデンタイムの報道は、NBCNBC Sports Network、およびNBC Sports Digitalのストリーミング放送で1晩に平均1980万人の視聴者を記録したが、これは、NBC Sports Networkで放映されず、同時ストリーミングがなかった2014年のソチ五輪から約7%も減少している。

2014年のソチ五輪の視聴者は平均で2130万人。

過去最高の視聴者数は、2002年のソルトレークシティ五輪で、平均3190万人の視聴者を擁した。

米国から見て、平昌と同じ時差である1998年の長野五輪の平均視聴者数は2530万人、2010年のバンクーバー五輪が2440万人、2006年のトリノ五輪が2020万人と続く中で、2000万人を割った平昌の視聴者の少なさが判るだろう。

Joshi

フィギュアスケートは、冬季五輪の華であり、どの大会でも高い視聴率を稼いできた。特にナンシー・ケリガンとトーニャ・ハーディングの米国人選手が争ったリレハンメル五輪の女子フィギュアは、米国テレビ史に残る高視聴率を上げている。

私も見に行った長野五輪の女子フリーは、当時16歳だった荒川静香が13位。米国のタラ・リピンスキーの金メダルが決まったのが日付の変わる少し前の2330分。1998年2月20日金曜日のことだ。

これは米国東海岸の朝9時30分にあたり、米国の熱心なフィギュアファンは金曜日の朝にリピンスキーを応援し、15.8%のまずますの視聴率を取っている。

長野五輪では、米国のミシェル・クワンが銀メダルを獲ったが、この大会以降米国女子はメダル争いに絡めなくなり、視聴率も芳しくなくなる。そこで、2年前の平昌五輪は、米国の視聴者に合わせ、韓国時間の昼に行われた。そういえば、羽生結弦やザギトワの演技を昼休みを延長して観たという人も多いのではないか。

それでもフィギュア女子フリーの米国の視聴率は9.0%、ネット配信を含めても10.4%と史上最低に終わっているのだ。

米国における視聴率の目安

昨年のMLBワールドシリーズ Nationals-Astros 第7戦は、FOXテレビで平均8.1%、1391万人の視聴者を記録している。 

参考 アメリカにおいて進むオリンピック離れ ① 逃げ出すスポンサー

 

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January 06, 2020

2019年のスポーツ中継の視聴率と2007年とを比べてみた

2019年に行われたスポーツ中継番組の視聴率をまとめてみた。
ラグビーW杯が5つ入っている。

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日本代表は5試合あり、そのうち4試合がランクインしたほか、12位のウェールズ対南アフリカは、東京スタジアムで行われた準決勝の試合だ。

大会の開幕戦だった 日本対ロシア も表には出て来ないが平均18.3%と軒並み高視聴率だった。

一方で、同時期の行われていたのがプロ野球の日本シリーズ。

4連勝したソフトバンクが巨人を下したが、10/19 8.4%10/20 7.3%10/22 9.7%10/23 11.8%に終わった。

10/20はラグビーの 日本対南アフリカ 戦とぶつかり、やむを得なかったとは言え、 10/19のラグビーは、ニュージーランド対アイルランドの外国勢同士の試合にも完敗だった。

39.2%の視聴率だった日本対スコットランドが行われた10/13には、セリーグのクライマックスシリーズの巨人対阪神が11.3%、バレーボールのW杯男子日本対イランが5.9%と影響を受けている。

バレーボールW杯の最高視聴率は、女子が9/29の日本対オランダで12.1%、男子が10/14の日本対ブラジルの13.5%という記録が残っている。

では、12年前の2007年のスポーツ中継番組の視聴率はどんなだったのだろうか。

この年は、北京五輪の前年で、ラグビーW杯が行われた年でもあり、2019年と共通点が多い。
1、2位に入ったのは世界フィギュアスケート選手権。
この前年に行われたトリノ五輪で荒川静香が金メダルを獲得し、空前のフィギュアブームの中、東京体育館で行われた世界選手権、女子シングルに優勝したのは誰だったか。

安藤美姫である。
2位に浅田真央、3位に金妍兒と2010年のバンクーバー五輪の金メダルを争うことになる二人が続いた。

ボクシングのWBC世界フライ級タイトルマッチ 内藤大助 対 亀田大毅 が行われ、王者の内藤が亀田を下している。
うっかりしそうだが、内藤大助と亀田興毅が対戦したのは、2009年の11月であり、内藤大助対亀田大毅の試合に亀田興毅はセコンドを務めていた。

2011年のラグビーW杯は、フランスで開催され、南アフリカがイングランドを下して優勝。奇しくも2019年の決勝と同じ結果だった。
日本代表はオーストラリア、フィジー、ウェールズに敗れ、最終戦でカナダと引き分けての1分け3敗。
カナダ戦の視聴率は2.2%、しかも日本テレビは録画中継し、試合終了直前の平浩二のトライをカットしてしまい、謝罪することとなった。

 

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November 25, 2019

日本オリンピック選手団の獲得したメダルは 前回の東京五輪で100個、長野五輪で300個に達し、2020年東京五輪で500個を超える

1964年の東京五輪の開幕までに日本選手団の獲得したメダルは、夏季五輪が金24、銀38、銅28、冬季五輪が銀1の合計91個。東京五輪では29個のメダルを獲得しているので、大会期間中に通算100個目のメダル獲得は達成されていた。

1988年の長野五輪の開幕までに日本選手団の獲得したメダルは、夏季五輪が金93、銀87、銅97、冬季五輪が金3、銀8、銅8の合計296個。長野五輪では10個のメダルを獲得しているので、大会期間中に100個目の金メダルと、通算300個目のメダル獲得が達成された。

100個目の金メダルは、スキージャンプ団体(岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜)。

300個目のメダルは、スピードスケート女子500mの岡崎朋美ということになる。

金栗四三等が1912年のストックホルム五輪に初参加以来、昨年の平昌五輪までに、日本選手団がこれまでに獲得したメダルの総数は、夏季五輪で日本選手団が、獲得したメダルは、金142、銀136、銅161の合計439個。

冬季五輪で日本選手団が、獲得したメダルは、金14、銀22、銅22の合計58個。

総計497個となり、記念すべき500個目のメダルは、2020年の東京五輪で得られることになる。

日程を見ると、柔道か競泳ではないかと予想される。

日本と同様に500を超えそうなのがハンガリーの498個。
フィンランドが470個で続いている。
また、平昌冬季五輪までに500個を超えたのが、カナダとオーストラリアで、501個と512個である。

 日本選手団の獲得したメダル

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July 12, 2019

(続)いだてん オープニングに映るあの選手は誰?(大幅に補足あり)

「いだてん」が第二部になって、オープニングの内容が新しくなった。
過去の五輪のシーンを取り上げているのは同じだが、そのすべてが変わった。
その中でいくつか気になる顔を紹介しよう。

日本が初参加したストックホルム五輪、金栗四三が途中棄権するマラソンで、不幸にもレース中に亡くなる選手がいた。
第一部で描かれたのでご存知だと思うが、ポルトガルのフランシスコ・ラザロ、この時21歳。
ポルトガルの五輪初参加は、1912のストックホルム五輪で日本と一緒。
その後の大会で、銀メダルや銅メダルはいくつか獲るのだが、初金メダルは1984年のロサンゼルス五輪の男子マラソンのカルロス・ロペスまで待つことになる。
そして、ロペスこそが、この画像の人物。
Cropez

このときなんと37歳。
25歳のとき、モントリオール五輪の1万mで銀メダルを獲った選手で(金メダルはラッセ・ビレン)、ロス五輪前は好調が伝えられていた。が、本当に勝ってしまったときは驚いた。
ラザロの死から72年目の金メダルだった。
ロス五輪では、マラソン女子でもポルトガルのロサ・モタが銅メダルを獲るのだが、彼女は4年後のソウル五輪では、金メダルを獲ってのけた。

冷戦華やかなりし1980年代、五輪は不幸だった。
開催の引き受け手はなく、開催してもボイコットの応酬にあった。
1976、80、84年の五輪が片肺のまま開催されている。
そんな中1980年モスクワと84年のロサンゼルスの両五輪に連覇した選手が3人だけいる。
陸上10種競技D・トンプソン(イギリス)、ボートシングルスカルのP・カルピネン(フィンランド)と陸上1500mのセバスチャン・コー(イギリス)である。
現在、国際陸連会長を務めるコー。
ロンドン五輪のときは、大会組織委員長を務めた。
ちなみに2020年東京五輪の大会組織委員長は元総理のあの人だから…。

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コーは五輪2大会に4種目出場している。
モスクワ800m銀、1500m金
ロサンゼルス800m銀、1500m金
この画像はロサンゼルスの1500m。
ゼッケン359がセバスチャン・コー。
その後ろの背の高い選手が銀メダルのクラムだ。

19843000

1984年ロサンゼルス五輪は、女子3000mも随分話題になった。
前年のヘルシンキ世界陸上のチャンピオンのメアリー・デッカー(米国)が、イギリスのゾーラ・バットと接触し、棄権をしてしまった。
ゾーラ・バッドは、わざと脚をかけたのではないかと大騒ぎになったが、結局故意ではないということで落ち着いた。
673の選手がメアリー・デッカーで隣がゾーラ・バット。

この2人はモントリオール五輪の最終聖火ランナーだ。
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ともに17歳の少年はプレフォンテーヌ、少女の名前はヘンダーソン。
2人により聖火はスタジアムに運ばれた、点火された。
少年はイギリス系で、少女はフランス系だ。
2人は、複合国家であるカナダを象徴していた。
モントリオール市は、英語と仏語の二重言語都市であり、日本人選手を紹介する際の、JAPANに続けてアナウンスされるJAPONの耳慣れない響きが新鮮だった。
2人の青年は、カナダがボイコットした4年後のモスクワ五輪の開会式にも現われた。
その後結婚したという話もあったが、結局誤報だった。

五輪開会式というと、五輪の中でも最も華やかなイベントであり、入場券も最も高額になる。
実はこんな意味合いもある。

開会式は、開催国から全世界に向けてメッセージを発信する唯一の場所である。
モントリオール以外にも、これまでの五輪で開催国からこんなメッセージが発信されている。

例えば1964年東京五輪、最終聖火ランナーは坂井義則氏(故人)。
後にフジテレビで活躍する人物だが、原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれている。
当時19歳、「戦禍から立ち上がり、平和日本を象徴する若い力」を世界に披露した。

1988年ソウル五輪 蚕室五輪スタジアムに入ってきた聖火は、孫基禎(当時76歳・故人)から、女子陸上のヒロイン・林春愛(当時19歳)に渡された。
孫基禎氏は、朝鮮半島の日本統治下時代の1936年・ベルリン五輪に日本代表として出場し、マラソンで金メダルを獲った韓国の歴史的な英雄である。
老雄から若いアスリートへのリレーは、新しい韓国の出発を意味した。

 

2020年の東京は、何を世界に発信するのだろうか。

 

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June 25, 2019

2026年冬季オリンピックはミラノ・コルチナ 一方のスウェーデンは8連敗中

イタリアのミラノ-コルチナとストックホルム・オーレの一騎打ちとなった2026年冬季五輪招致は、スイスのローザンヌで開催された第134回IOC総会で、ミラノ-コルチナを開催地に決めた。

82人のIOC委員が投票し、棄権が1、ミラノ-コルチナが47票、ストックホルム-オーレが34票だった。

「いだてん」をご覧だった方はよくご存じだろうが、ストックホルムは1912年の夏季五輪の開催都市であり、金栗四三、三島弥彦の両名が、初の五輪日本選手団として参加した縁の深い街だが、その後スウェーデンは、100年以上に渡って五輪開催の機会がない。
なんと、今回の敗退で8連敗となった。

◎スウェーデン8連敗の軌跡

1984年冬季 イエテボリ
1988年冬季 ファルン
1992年冬季 ファルン
1994年冬季 エステルスンド
1998年冬季 エステルスンド
2002年冬季 エステルスンド
2004年夏季 ストックホルム
2026年冬季 ストックホルム/オーレ

スウェーデンの8連敗を上回る9連敗中なのがスペイン。
(*のマークは一次選考の書類審査で落選している。)
1998年冬季 ハカ
2002年冬季 ハカ*
2004年夏季 セビリア
2008年夏季 セビリア*
2010年冬季 ハカ*
2012年夏季 マドリード
2014年冬季 ハカ*
2016年夏季 マドリード
2020年夏季 マドリード

フランスも5連敗していたが、2024年のパリが決まっている。

1992年夏季 パリ
2004年夏季 リール*
2008年夏季 パリ
2012年夏季 パリ
2018年冬季 アヌシー
2024年夏季 パリ 開催決定

ドイツは4連敗中だ。
1992年冬季 ベルヒテスガーデン
2000年夏季 ベルリン
2012年夏季 ライプチヒ*
2018年冬季 ミュンヘン

●第二次大戦後の五輪開催回数(1948~2028年)青字は冬季五輪
6回
アメリカ 19601980、1984、1996、2002、2028年

4回
日本 1964、19721998、2020年
イタリア 1956、1960、20062026

3回
カナダ 1976、19882010
フランス 19681992、2024年

2回
イギリス 1948、2012年
ノルウェー 19521994
オーストラリア 1956、2000年
オーストリア 19641976
ロシア1980(当時ソビエト)、2014
韓国 1988、2018
中国 2008、2022

1回
スイス 1948
フィンランド 1952年
メキシコ 1968年
ドイツ 1972年(当時西ドイツ)
ボスニアへルツェゴビナ 1984年(当時ユーゴスラビア)
スペイン 1992年
ギリシャ 2004年
ブラジル 2016年

 

 

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