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March 18, 2005

カリヤ兄弟・若林兄弟

前回の記事でポール・カリヤのことに触れた。
今季のNHLは中止、アイスホッケー日本代表もトリノに行くことはできなかったが、今日はカリヤ兄弟を取り上げたい。

カナダにはバンクーバーとトロントを中心に約6万8000人の日系カナダ人がいる。100万の在米日系人、150万の在伯(ブラジル)日系人とは比較にならない数だが、移民の歴史は古く、1877年から安い労働力として漁業や林業を営むために移住した。

8459426ポール・カリヤ(現コロラドアバランチ)は、1974年10月16日にバンクーバー(ブリティッシュコロンビア州)で生まれた。
父親のテツヒコ氏は日系2世、母親のシャロン氏はスコットランド系のカナダ人。両親とも先生だった。テツヒコ氏は、ラグビーのカナダ代表チームのメンバーだったスポーツマンである。

カリヤが初めてカナダ代表に入ったのはメイン大学に入学したU-18カナダ代表。フェニックスカップでカナダを銀メダルに導いた。
その後はカナダ代表の常連である。

1994年のリレハンメル五輪、NHLのスター選手が五輪の舞台に現れるのはこの4年後の長野五輪からだが、19歳のカリヤはカナダ代表のエースだった。
8試合で6得点を挙げるも、決勝でスウェーデンとの延長の末ペナルティショット戦の末敗れ、銀メダル。
放送終了予定時刻をはるかに超えた深夜、ペナルティショットをはずした若き日系エースの顔をNHKのカメラがアップにしたのをよく覚えている。

長野五輪ではカナダ代表のメンバーに入っていたが、脳震盪の影響で来日せず、カリヤのいないカナダは4位に終わった。

さらに4年後のリレハンメル五輪。
総監督が、ウェイン・グレツキー。マリオ・ルミューも現役復帰した豪華な顔ぶれが揃った。
とはいえ、最初は危なっかしかった。カリヤはマリオ・ルミューと一緒にFW第1セットを組んだが、初戦のスウェーデンに2-5で大敗、予選3試合目のチェコ戦は3対3の引き分け。長野の二の舞を踏むのでは、とやきもきさせたが、準々決勝でフィンランドに2-1で勝つと準決勝はベラルーシを7-1と圧倒。
決勝はアメリカとの対戦になった。
カナダは先制された後の第1ピリオド14分50秒に、ルミューを起点にパスをつなぎ、左から詰めていたカリヤがゴール。18分33秒にはサキックが左からゴール前に絶妙なパスを送り、イギンラが押し込んだ。
2―2とされて迎えた第2ピリオド18分19秒には、サキックが左から鮮やかに決めて勝ち越し。第3ピリオドにもイギンラとサキックが加点した。
アメリカは選手の集散が速く、序盤はサイドを広く使った攻撃が有効だった。だが終盤は足が止まり、カナダの突破力に屈した。

●ソルトレークシティ五輪 カナダ代表の結果
(予選リーグ) カナダ2-5スウェーデン カナダ3–2ドイツ チェコ3-3 カナダ
(順々決勝) フィンランド1-2カナダ
(準決勝) カナダ7-1ベラルーシ
(決勝) アメリカ2-5カナダ

(最終順位)1.カナダ2.アメリカ 3.ロシア 4.ベラルーシ 5.スウェーデン6.フィンランド 7.チェコ8.ドイツ9.ラトビア10.ウクライナ11.スイス12.オーストリア13.スロバキア14.フランス

カリヤには2人の弟がいる。スティーブ・カリヤはバンクーバーカナックスで活躍した。
もうひとりの弟マーティーン・カリヤは今季日光アイスバックスに入団した。
「日本に縁のある僕にアジアリーグでプレーするチャンスを頂けた事を感謝します。これから多くの事を学ぶためにチームメイトやファンの方々と良い関係を築いていきたいです。是非、霧降アリーナに僕のプレーを見に来て下さい。」とアイスバックスのHPで語っている。
大学時代はDFだったと思うが、今は二人の兄と同様にFWをしているようだ。

もちろんカリヤ兄弟は皆カナダ国籍なのだが、アイスホッケー界には、海外生まれの兄弟選手が目立つ。
父親が日本人で母親がフィンランド人、スウェーデンで育った二瓶太郎・次郎兄弟。
そして若林仁・修兄弟である。

1944年12月23日カナダ・オンタリオ州に生まれたハービー・ワカバヤシは、アメリカ・ボストン大学ではアメリカ大学リーグで新人王、大学2年~4年までは3年連続で全米大学リーグベスト6に選ばれるなどスターFW選手として活躍。
札幌五輪を前にアイスホッケーの強化のために来日しアイスホッケー日本リーグの西武鉄道で活躍していた兄の若林仁氏(西武鉄道→国土計画)の誘いもあり69年8月、24歳で来日。本場仕込みの若林兄弟のプレーは日本アイスホッケー界に衝撃を与えた。翌年70年からは西武鉄道の日本リーグ3連覇に貢献。札幌五輪の前年71年9月に日本国籍を取得し(兄の仁氏はカナダ国籍を通した)、札幌五輪出場(9位)。
76年のインスブルック五輪(9位)、80年のレークプラシッド五輪(予選リーグ敗退)と3大会連続出場を果たす。特に80年のレークプラシッド大会では開会式の旗手を務めた。

関連リンク
トリノ五輪まであと1年(1) 氷上の奇跡
カナダ優勝へあと一つ 

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