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July 12, 2005

ひとりぼっちのオリンピック 津田真男さんのはなし

ボートのワールドカップ(W杯)ルツェルン大会は10日、スイスのルツェルンで行われ、男子軽量級シングルスカル決勝で武田大作(ダイキ)が7分3秒80で勝った。日本ボート協会によると、日本選手がW杯で優勝したのは初めて。

Rowingdescriptionscullシングルスカルという名前を聞くと一人の男を思い出す。
津田真男さん。おそらくもう年齢は50を超えているはずだ。

津田は20代のころ、たった一人でモスクワオリンピックを目指した。
その夢は、半分だけ実現した。

津田さんの話は、今は亡き山際淳司氏の「ひとりぼっちのオリンピック」として紹介されているのでご存知の方もあるかもしれない。
津田は名門東京教育大付属高校(現筑波大付属高校)の出身だったが、大学受験に失敗、3浪してT大学に進学することになる。
中学・高校時代はサッカー部で活躍。しかしT大学ではマージャンに明け暮れる日々が続いた。
1975年、津田は突如思い立つ。「オリンピックで金メダルを取ろう」22歳のときだった。

創刊当時のNUMBER誌にモスクワオリンピック幻の日本代表の一覧が載っている。
ボート・シングルスカルに黒縁のメガネをかけた長髪の男、これが津田だ。

当初はアーチェリーをしようと思った。道永宏がモントリオールオリンピックで銀メダルを獲るのはこの1年後だが、津田の近眼はアーチェリーをするには悪すぎた。

そこで津田が選んだのはボート。しかも一人で乗るシングルスカルだった。
コーチもつけず、一人でボート漬けの生活を過ごすことになった。
180センチを超す体躯。サッカーで鍛えた身体。
モントリオールオリンピックの年にはもう日本でトップ選手だった。
しかし、日本漕艇(ボート)協会はモントリオールにシングルスカルを派遣しなかった。
ボートの華 エイトに絞ったというのだ。

果たして、モントリオールで日本のエイトは、11位。審判艇にも抜かれるという失態で、国際映像の中継には影も形も映らなかった。

津田は腐らず、モスクワオリンピックを目指すことにした。
競技生活5年目、最盛期で迎えるモスクワに日の丸を掲げる夢を見た。

モスクワ直前の津田は、18連勝を記録するなど、国内では敵なしだった。
そしてモスクワオリンピックシングルスカル代表に選出を果たす。

ところが、また運命が狂いだす。
ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、日本はアメリカ、西ドイツなどとともにモスクワ五輪のボイコットを決めたのだ。

津田の不運振りをラジオの深夜放送が紹介した。「文芸春秋」にも取り上げられた。
だが、彼はボートから離れた。友人の父親が社長を務める電気通信関連の会社に就職。アメリカに滞在するなど、仕事にも追われた。合間にヨットに挑戦し、大会で優勝したこともあった。
                      ☆
津田は、平成になってからもエルゴメーター大会(日本国内のボートの大会)などに出ているようだ。
所属クラブは「ザ・トールキング・クラブ」
選手登録をしないと公式戦に出場できないのはボートも同様で、「ザ・トールキング・クラブ」とは、彼がモスクワを目指しているときに自ら作ったクラブのことだ。
トールキング 金メダルを獲る から付けた。
現在、子供は4人いるそうだ。

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