秋元正博氏が衆議院選挙に立候補するそうだ
秋元正博氏が衆議院選挙に立候補するそうだ。
実力は80年代世界有数でありながら、不運に泣いたジャンパーだ。
旧ソ連は、12年ごとに近隣諸国に軍事侵攻するといわれていた。
56年のハンガリー動乱、68年チェコ弾圧(プラハの春)に続いて、79年からアフガニスタンに軍事侵攻を開始した。
翌80年は五輪イヤーであり、米国大統領選挙の年でもあった。
大統領選において不利が伝えられていたカーター米国大統領は、80年の夏に開催が予定されていたモスクワ五輪のボイコットを提唱。西側諸国に同調するように求めた。
対選挙外交と見られていたものの、米国内の世論はボイコットに賛成だった。
そうした中、冬季五輪がニューヨーク州のレークプラシッドで開幕した。
1980年レークプラシッドでの冬季五輪開催は1932年の第2回大会以来48年ぶり2度目で、参加国は37カ国。その中には1952年のヘルシンキ夏季大会以来、28年ぶりに参加した中国も含まれていた。
日本ジャンプ陣は、秋元正博と八木弘和の2枚看板で臨んだ。
レークプラシッド五輪直前の札幌のW杯では八木弘和と1、2フィニッシュを決め優勝。にわかにメダル獲得の期待が膨らみ始めていた。
この当時実施されていたのは、70M級ジャンプ(現ノーマルヒル)、90M級ジャンプ(現ラージヒル)の2種目のみで、団体戦が実施されるようになるのは88年カルガリー五輪からである。
70M級、八木は1本目に87M、2本目に83.5Mを飛び、オーストリアのインナウアーに次いで銀メダルを獲得。八木と同点で東独のデッカートも銀メダル。
エース秋元正博は1本目83.5M、2本目87.5Mで惜しくも4位に終わった。
続く90M級、秋元の10位が最高で八木は19位。
フィンランドのトルマネンが優勝。日本人選手がラージヒル=90M級で金メダルを獲るのは、それから18年後の長野五輪の船木和喜まで待たなければならなかった。
1984年サラエボ五輪、絶不調の八木は70M級55位、90Mは19位に終わり、引退。勤めていた拓銀を退社、デサントに入社し、後進の指導を始めることになる。
一方、秋元は82年、自動車運転中にスピードの出し過ぎにより死亡事故を起こし、翌シーズンを棒に振る。
84年、五輪を含めた海外での競技の辞退するよう文部省(当時)が圧力をかけ、サラエボ五輪出場は果たせなかった。
国内で出場した大会では、W杯での1勝を含め23戦し15勝のシーズン最高勝利を記録した。
国際舞台に復帰した秋元は、86年世界フライング選手権に出場。これが大事故を招くことになる。
初めてのフライング挑戦だった秋元は2日目に空中でバランスを崩し、転倒。
右足複雑骨折の重傷を負った。医者には2度とジャンプを続けることは無理だと宣告されたが、不屈の精神で復活。が、けが以前のような調子には戻らなかった。
加えて31歳という年齢には勝てず、カルガリー五輪代表に入ることができなかった。
代わって、このときの代表の中には、高校を卒業したばかりの原田雅彦が名を連ねていた。
●1980年レークプラシッド五輪ジャンプ結果
70M級 K=90M
1.インナウアー(オーストリア) 266.3
2.八木宏和(日本) 249.2
2.デッカート(東独) 249.2
4.秋元正博(日本) 248.5
29.川端隆普実(日本) 207.2
42.会沢仁康(日本) 176.9
90M級 K=114M
1.トルマネン(フィンランド) 271.0
2.ノイパー(オーストリア) 262.4
3.プイコネン(フィンランド) 248.5
10.秋元正博(日本) 234.7
19.八木宏和(日本) 220.2
32.川端隆普実(日本) 201.4
42.会沢仁康(日本) 195.3
八木氏はジャンプのテレに解説などを見ていると、欧州に1年の半分くらい遠征している競技なのだから当然なのだろう、ドイツ語の場内アナウンスも理解しているようだ。
秋元氏は八木氏ほどテレビには出ないものの、やはり解説を聞いて随分と頭の良い人だと関心したことがある。
The comments to this entry are closed.
Comments