栄光への架け橋はまだまだ続く 冨田洋之体操個人総合を制す
Q.体操で史上初めて10点を出した選手は女子ではナディア・コマネチですが、男子では誰でしょう。
1.塚原光男
2.ニコライ・アンドリアノフ
3.ゾルタン・マジャール
1976年のモントリオール五輪にコマネチが登場し、段違い平行棒と平均台で計7回の10点を出した。
当時のスコアボードは9.95までしか表示できず、「1.0」と表示された。
コマネチはこの前年1975年のプレ五輪でも10点を出しており、これが人類最初の10点といえる。
一方の男子は加点式で争われたためなかなか10点は出なかったが、当時「あん馬の神様」と呼ばれたハンガリーのゾルタン・マジャールが1979年のメキシコユニバーシアードのあん馬で出した10点が最初だったと記憶している。マジャールの名前は「マジャール旋回」というあん馬の技として耳にしているだろう。
ところが、体操の10点満点は現在開催中の世界体操選手権が最後になり、来年からは事実上上限はなくなることになる。
<<体操採点方式変更「10点満点」廃止
国際体操連盟(FIG)は10日、当地で理事会を開き、体操競技の代名詞ともいえる「10点満点」の採点方法を、来年1月1日からは満点を設けない方式に変更することを決めた。
1976年モントリオール五輪で女子のナディア・コマネチ(ルーマニア)が史上初の満点をマークし、世界を驚かせた10点満点の採点方法が姿を消すことになった。
かつて「ウルトラC」と呼ばれていた最高難度の技は、現在では「スーパーE」にまで進化するなど、目覚ましい進歩を遂げる体操の技術は、10点の尺度で測ることが困難になってきていた。
新システムでは〈1〉選手の演技構成の難度を反映した上限なしの「演技価値点」〈2〉実施の正確さを10点満点から減点して出す「演技実施点」―の2つを合計し、順位を決める。合計点は10点を超える見通し。
FIGは7年前にも導入を試みたが、反対意見が強く廃案になった経緯がある。しかし、昨夏のアテネ五輪での採点の不手際が各方面から批判を招き、改革への動きが加速していた。 (共同通信10月10日)>>
アテネ五輪当時は(2001年版ルール)で実施5.0+難度2.8+要求グループ1.0加点1.2=10.0だったが、現在は2005年版ルールで
実施5.0+難度2.8+要求グループ0.6加点1.6=10.0となっている。
事実上、0.4点五輪当時よりも得点が出にくくなっている。
こうした条件下での冨田・水鳥のワンツーフィニッシュは体操日本の実力を改めて証明した形だ。
今回ポール・ハム、楊威、梁泰栄が欠場していることを指摘する声もあるが、彼らは単に準備ができなかったのであり、日本勢は周到な準備と練習を重ねてきたのだ。
●体操個人総合優勝者
1964年 |
五輪 |
遠藤幸雄(日本) |
1968年 |
五輪 |
加藤沢男(日本) |
1970年 |
世界選手権 |
監物永三(日本) |
1972年 |
五輪 |
加藤沢男(日本) |
1974年 |
世界選手権 |
笠松茂(日本) |
1976年 |
五輪 |
アンドリアノフ(旧ソ連) |
1978年 |
世界選手権 |
アンドリアノフ(旧ソ連) |
1979年 |
世界選手権 |
ディチャーチン(旧ソ連) |
1980年 |
五輪 |
ディチャーチン(旧ソ連) |
1981年 |
世界選手権 |
コロレフ(旧ソ連) |
1983年 |
世界選手権 |
ベロツェリツェフ(旧ソ連) |
1984年 |
五輪 |
具志堅幸司(日本) |
1985年 |
世界選手権 |
コロレフ(旧ソ連) |
1987年 |
世界選手権 |
べロツェリツェフ(旧ソ連) |
1988年 |
五輪 |
アルチョーモフ(旧ソ連) |
1989年 |
世界選手権 |
コロブチンスキー(旧ソ連) |
1991年 |
世界選手権 |
ミチューシン(CIS) |
1992年 |
五輪 |
シェルボ(CIS) |
1993年 |
世界選手権 |
シェルボ(ベラルーシ) |
1994年 |
世界選手権 |
イワンコフ(ベラルーシ) |
1995年 |
世界選手権 |
李小双(中国) |
1996年 |
五輪 |
李小双(中国) |
1997年 |
世界選手権 |
イワンコフ(ベラルーシ) |
1999年 |
世界選手権 |
クルコフ(ロシア) |
2000年 |
五輪 |
ネモフ(ロシア) |
2001年 |
世界選手権 |
馮敬(中国) |
2003年 |
世界選手権 |
P.ハム(アメリカ) |
2004年 |
五輪 |
P.ハム(アメリカ) |
2005年 |
世界選手権 |
冨田洋之(日本) |