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April 10, 2017

内村航平 日本選手権個人総合10連覇、でも室伏広治はハンマー投げで20連覇だった

体操の全日本選手権が、東京体育館で行われ、男子個人総合は内村航平10連覇を飾り、自身の記録を更新した。

日本体操界初のプロとして、」リンガーハットの所属となった内村航平も28歳。
前人未到の10連覇だが、86・350点の得点は記憶にない。

5連覇を果たした2012年以降の全日本選手権での点数は以下のようになる。
リオ五輪での激闘からまだ回復し得ていないのだろう。

⑩2017年 内村航平(リンガーハット) 86・350
⑨2016年 内村航平(コナミスポーツ) 91・300
⑧2015年 内村航平(コナミスポーツ) 90・550
⑦2014年 内村航平(コナミスポーツ) 90・300
⑥2013年 内村航平(コナミスポーツ) 90・500
⑤2012年 内村航平(コナミスポーツ) 92・650

内村が、全日本選手権を初めて制したのは2008年の19歳のとき。
この年は北京五輪の開催されたあと11月に全日本が行われ、五輪銀メダリストの実力見せつけての勝利だった。
その後内村は、ロンドン、リオ五輪と6回の世界選手権の個人総合を制している。
体操競技における他の選手による全日本連覇は、アテネ五輪団体金メダルのメンバーである塚原直也が1996年~2000年まで5連覇、同じく冨田洋之が2001年~2007年までに4連覇を含む6回の優勝をしている。

体操以外の競技で、日本選手権を長い間連覇した選手には、どんな選手がいるのだろうか。

(陸上)
他の競技を見ると、何といっても陸上男子ハンマー投の室伏広治が際立っている。
1995年から2014年まで20連覇した。
室伏の妹である室伏由佳は、円盤投げで2002年から2011年まで10連覇、父である重信氏はハンマー投げで1974年~1983年まで10連覇を果たしている。
室伏由佳はハンマー投げでも5回の優勝があり、室伏親子としては実に49回目の日本選手権優勝(重信12回、広治20回、由佳17回)を誇る。
こういう陸上一家は、おそらく二度と出てこないだろう。

ほかには、2009年ベルリン世界陸上銅メダリストの村上幸史が、やり投げに2000年~2011年に12連覇を果たしている。 
現役の金丸祐三は、400mに2005年から2014年までに10連覇している。

(レスリング)
五輪3連覇した吉田沙保里は、女子55キロ級に2002年~11年に10連覇を達成。 
同一階級ではないが森山泰年は、グレコローマン82キロ級と90キロ級で、1982〜95年にかけて14年連続で優勝している。 

(柔道)
谷亮子は、女子48キロ級に1991年~2001年に11連覇をしている。 
ロス五輪無差別級金メダリストの山下康裕は、1977年~1985年にかけて9連覇を果たした。
アテネ五輪女子78キロ級金メダリストの阿武教子は、1993年~96年に72キロ超級で4連覇、1994年~2004年までは72キロで8連覇している。

(フィギュアスケート)
浅田真央や小塚崇彦のコーチとして知られる佐藤信夫は、男子シングルに1957年~66年にかけて10連覇した。

(スピードスケート)
現在参議院の橋本聖子は、500m、3000m、1500m、5000mの4種目総合で競う全日本選手権で、1982年~90年にかけて10連覇した。

(競泳)
ローマ五輪女子100m背泳ぎ銅メダリストの田中聡子は、200m背泳ぎで1957年~65年に9連覇した。
1980年に、小学校6年生で200m平泳ぎを制した長崎宏子は、1980~87年に8連覇をした。
1936年ベルリン五輪200m金メダリストの前畑秀子は、同種目で1929~36年に7連覇を果たした。


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June 12, 2014

サッカー日本代表を巡るおカネのはなし(2) なぜキャンプ地はイトゥに決まったのか

サッカーW杯、日本代表はサンパウロの北西100㎞にあるイトゥをキャンプ地にしている。
ところが、日本代表が3試合を行う都市まではイトゥから1200~2300㎞も離れている。

第1戦 対コートジボアール 試合会場:レシフェまで2144㎞
第2戦 対ギリシャ  試合会場:ナタルまで2324㎞
第3戦 対コロンビア  試合会場:クイアバまで1288㎞

2000㎞を超す距離ってわかりにくいだろうが、稚内と那覇を直線で結ぶと約2460㎞になる。
なんでこんなに移動をするの?

日本と同じC組の他国代表はどうか。
コートジボワールも随分遠くまで試合に行かなくてはならないが、ギリシャ、コロンビアは日本に比べればかなり試合会場から近いところをキャンプ地にしている。

ブラジルは国土が広大で、この時期の気候は様々だ。
イトゥは15~20度の過ごしやすい気候らしいが、試合をする3都市はいずれも25度を超す気温になる。
なぜわざわざ2000㎞も離れた気候も違う土地を選んだのか。

イトゥにキリンのブラジル法人の本社があるからだ。

日本サッカー協会とキリンが蜜月関係であることは、サッカーファンであればよく知っているだろう。
キリンカップ、キリンチャレンジなど国内の代表の試合にはキリンの名前が冠される。

現在のサッカー協会とキリンとのスポンサー契約は、年間15億円。
これは今年終了し、
2015年年4月1日~22年12月31日の7年9カ月は、年間25億円で総額約200億円の超大型契約を結んでいる。
男子のA代表だけでなく、女子のA代表、フットサル、ビーチサッカー、各年代別の代表も支援の対象となる。


日本にビールメーカーはキリン、サントリー、アサヒ、サッポロの4社があるが、キリンホールディングス(HD)
の売り上げは2兆円を超え、そのうち海外での売り上げが40%を占める。
その40%はブラジルと豪州の現地法人によるもの。

4beers

キリンHDは、2011年にブラジルでビールや清涼飲料事業を展開するスキンカリオール・グループを3000億円で買収、BRASIL KIRINとして傘下に収めた。
この本社と工場がサンパウロ州イトゥにあるのだ。

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▲イトゥにあるBrasil Kirinの工場 キャンプ地であるスパ・スポーツ・リゾートの隣にある。

日本代表の強化にキリンには十分すぎるほどお世話になっている。
が、イトゥをキャンプ地に選んだことは納得仕切れない。
グループリーグが終わった時に後悔していなければいいのだが…。


●C組の他国のキャンプ地と試合会場までの距離
コートジボワール代表 キャンプ地 アグアスデリンドイア(サンパウロ州)
①レシフェ 2235㎞
②ブラジリア 930㎞
③フォルタレーザ 2455㎞

ギリシャ代表 キャンプ地 アラカジュ(セルジッペ州)
①ベロオリゾンテ 1219㎞
②ナタル 607㎞
③フォルタレーザ 824㎞

コロンビア代表 キャンプ地 コチア(サンパウロ州)
①ベロオリゾンテ 496㎞
②ブラジリア 851㎞
③クイアバ 1328㎞


参考記事
なぜ日本代表のキャンプ地はイトゥに決まったのか②

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January 19, 2014

新・冬季五輪の記憶6 夏冬のオリンピックにサッカーW杯まで出場したスヴェン・ベルクヴィスト

1936 Garmisch-Partenkirchen

1936年のベルリン五輪は、ヒトラーが国威発揚のために開催した五輪として、今日に至るまで鮮烈に記憶されている。
サッカー競技に始めて出場した日本代表は、事実上の国際デビュー戦。
極東からやってきた男たちが、優勝候補スウェーデンに3-2で勝利し、「ベルリンの奇跡」と語り継がれている。
負けたスウェーデンにとっても忘れがたい記憶として残っており、「Japaner, Japaner, Japaner(日本人、日本人、また日本人)」というラジオのアナウンサーの連呼は、やがてスウェーデンにおいて、大変驚いたときに、今でも使われるフレーズになっている。
(日本1勝1敗ベスト8、スウェーデン1敗ベスト16 16カ国参加)

このときのスウェーデン代表チームに、凄い選手がいた。
GKのスヴェン・ベルクヴィストがその人だ。
1935年から1943年までスウェーデン代表を務めた。
出場した国際Aマッチ35試合には、1936年のベルリン五輪だけでなく、1938年のFIFAワールドカップ・フランス大会も含まれる。
このときのスウェーデン代表は、1回戦で当たるはずだったオーストリアが、この年3月にドイツに併合され「不戦勝」となるハプニングもあったが、準決勝まで進出、イタリア、ブラジルに敗れたが4位となった。

夏季五輪とW杯の両方に出場した選手は、たくさんいる。
が、ベルクヴィストが凄かったのはこれからだ。

サッカーと並行してアイスホッケー選手としても活躍していた。
その実力は高く、スウェーデン代表としてベルリン五輪の半年前に開催された、ガルミッシュパルテンキルヒェン冬季五輪にも出場した。
面白いことにスウェーデン代表は、予選リーグD組で日本代表と対戦し、2-0で日本を下し順決勝リーグに進んだ。(最終順位6位、日本は0勝順位なし)
さらに、1948年サンモリッツ冬季五輪には、スウェーデン代表監督として出場している。
(9カ国参加4位、*戦争責任からサンモリッツ五輪に日本は招待されていない)


夏冬の五輪とW杯、人類が誇る3大スポーツイベントに全て参加した選手はベルクヴィストだけではないか?
もし他にもいたら教えて欲しい。

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June 05, 2013

新・五輪招致の記憶(3) 今だから言える 名古屋がソウルに敗れた理由

 「セウル!」
1981年9月30日、西ドイツ(当時)・バーデンバーデンのクアハウス2階で開かれたIOC総会で、1988年の五輪開催地がIOC会長から発せられた。
会長の名前はアントニオ・サマランチ。
この前年東西冷戦の最中、ボイコットに揺れたモスクワ五輪の際のIOC総会で会長になった男が発したのは極東の半島にある軍事政権下の国の首都で、当然勝つだろう言われていた名古屋市ではなかった。

1980年代、五輪は嫌われ者だったといってもいいだろう。
開催に手を挙げる都市はなく、開催すれば莫大な赤字が残った。
加えて76年にはNZのオールブラックスの南アフリカ遠征に端を発したアフリカ諸国のボイコット、80年、84年は東西冷戦の煽りを食ったボイコットの応酬に見舞われ、3大会続けて五輪は正常な形で開催されなかった。
実際1976年以降1988年までの夏季五輪に立候補した都市はこれしかない。

1976年 ◎モントリオール モスクワ ロサンゼルス
1980年 ◎モスクワ ロサンゼルス
1984年 ◎ロサンゼルス
1988年 ◎ソウル 名古屋
(◎は開催の決まった都市)

1976年大会に立候補した3都市が、結局順番に84年まで開催しているのだが、1984年大会に立候補した都市はロサンゼルスのみ。
莫大な赤字を背負ったモントリオールの記憶が新しく、他に立候補を表明する都市はなかった。
アメリカ連邦政府、カリフォルニア州政府はビタ一文税金を使わないのなら、開催してもいいよとロサンゼルス市に通告した上での立候補だった。
これが今日でも踏襲される商業五輪の原型となるのだが、1988年五輪開催地を決めるIOC総会は、ロサンゼルス五輪開催のまだ3年前のことだ。

当時は東西冷戦の真っ最中。
この前年に開催されたモスクワ五輪は西側主要国のボイコットに遭った。
多くの方は西側のほとんどが参加していないと思われているだろうが、実際にボイコットをした西側の主要国は米国、カナダ、日本と分断国家だった西ドイツ、韓国などだ。
その韓国は全斗煥政権時代。
1979年に朴正煕大統領が暗殺されると、全斗煥は、暗殺を実行した金載圭を逮捕・処刑するなど暗殺事件の捜査を指揮、12月12日に戒厳司令官鄭昇和大将を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。
1980年9月に自ら大統領に就任した。

朴政権は、1990年代初頭に五輪招致の目標を掲げていたが、全斗煥政権は目標を前倒し、1988年夏季五輪招致を決めた。

ソ連、東ドイツなど東側諸国は北朝鮮と友好関係にあり、当時韓国とは一切の国交を持っていなかった。
そのため、1978年にソウルで開催された世界射撃選手権に東側諸国は参加をしていない。
こうした事情から、日本側はソウルが開催地に決まっても、東側の参加しない片肺五輪になるリスクが高く、浮世離れしたIOC委員も、ソウルには投票しないと予想、戦わずして名古屋勝利を誰もが信じていた。
日本のマスコミの中では、最も名古屋五輪に否定的だった朝日新聞ですら10月1日付けの「決定名古屋五輪」の別刷りを用意していた。

ここからソウルの逆転劇が始まるのだが、重要な登場人物が3人いる。

●ホルスト・ダスラー
 ドイツのスポーツ用品メーカーadidas社の社長。
●金雲龍
 韓国の元外交官 世界テコンドー連盟会長。後のIOC副会長。
●瀬島龍三
 戦前は大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長。


◇名古屋五輪構想◇
1988年10月8日から16日間、名古屋市を中心に東海地方で21競技を繰り広げる。主競技場は、名古屋市の平和公園南部に建設。市の試算では、大会運営費、競技施設費は合計1100億円。
1980年11月に閣議了解された。  
1988年五輪に立候補意志のあった都市はほかにもアテネ、メルボルンがあったが、財政的な理由などで立候補を見送った。
立候補締め切り日に手続きをした都市は名古屋のみ。
ソウルは締め切り翌日にファクシミリで手続き書を送るが、IOCはこれを受け付けた。
ソウルの準備不足は明らかと思われた。


この当時の五輪が政治に振り回されたことは先にも書いた。五輪にプロは原則排除され、自主的な収益モデルを持たない競技団体、選手個人は行政(政府)に頼っていた。
この件についてサマランチ氏は生前こう話している。
『国際スポーツ組織にとって重要なのは「お金」だと、私は思っていた。資金がなければ、何もできないからだ。そして、その資金は、テレビ放送権やマーケティングによって生み出すべきで、政府に依存するべきではないと。政府に頼れば、組織の独立性が失われる。そして政府は、(五輪ボイコットのように)時として異なる方針を持っているからだ。』

政治からの独立のためには五輪の商業化、五輪の商業化のためには世界最高水準の選手の五輪参加が必要。これが1980年にIOC会長に就任したサマランチの考えだった。

サマランチの考えに賛同し、当時確立されていなかったスポーツをビジネスにするモデルを考えついたのが世界最大のスポーツ用品メーカー「アディダス」を創設したアドルフ・ダスラーの長男、ホルスト。
この時代の五輪の画像を見て欲しい。
多くの選手が履くシューズには3本線、ウエアの胸には月桂樹の冠をモチーフにした三つ葉マークがある。
どちらもアディダス製であることを物語る。
アディダス社を率いるホルストは、世界のスポーツ界に絶大な影響力を持っていた。

IOC委員を長く務め、日本サッカー協会の名誉会長でもある岡野俊一郎氏。
岡野氏はホルスト・ダスラーとは旧知の仲で、ホルストが来日すれば必ず岡野氏の自宅を訪れていたという。

名古屋招致はほぼ決まったかのように見えた。
名古屋市の幹部の元には米国3大ネットワーク(ABC、NBC、CBS)の副社長級の人物がたびたび訪れていた。
IOC総会の前にテレビ放映権交渉の予備交渉が始まっていたのだ。
このとき名古屋市は放映権を350億円と見込んでいた。

ところが、あるとき岡野氏は、ホルストが来日して東京にいたはずなのに、自分に連絡してこなかったことに気づいた。
それまでなかったことだ。自分を避けているようだった。
調べてみて、その情報に驚いた。
「アディダスが、ソウルについた」

サマランチは、IOC会長になってすぐに、ホルスト・ダスラーと、IOCのマーケティング・プログラムについて話し合いを始めている。
これがやがて現在も続くIOCのスポンサー制度TOPの元になる。
ホルストは、IOCだけでなく、FIFAマーケティングの仕組みを作り、82年にはマーケティング会社ISLを創業した。(但し2001年に破綻)
こうしたホルストの動きに目を付けたのが、韓国の外交官から国際テコンドー連盟の会長を務めていた金雲龍。
金雲龍はホルストにこう話を持ちかけた。
『ソウルが五輪招致に成功したら、ソウル五輪に関する全ての商業的権利、テレビ放映権、コイン、切手、マスコットの権利を10億ドルで君に売るよ。』
こうしてアディダスはソウルについた
金雲龍とホルストは、前代未聞の買収=サンダーボール作戦を展開、票固めをした。
世界一周の航空券が渡されたとか、現金が飛んだとか様々言われている。

一方東京では、海外との名古屋の橋渡し役を果たしていた外務省の動きが鈍くなっていく。
そして一切外務省から情報が流れてこなくなった。
これを操っていたのが伊藤忠商事会長の瀬島龍三。
韓国大統領の全斗煥や盧泰愚は、瀬島の陸軍士官学校の後輩にあたり、若い頃から瀬島に絶大な信頼を寄せていたという。
瀬島龍三が、日本政府として名古屋五輪招致に関与しないよう、ソウルに勝たせるべく動いた。

1981年9月30日、西ドイツ、バーデンバーデン 第84回IOC総会が始まった。
会場には韓国の欧州駐在大使が勢ぞろいした。
IOC委員の部屋には朝、韓国側から花束が届けられ、活発なロビー活動が繰り広げられた。
一方、名古屋の招致団は総勢49名いたが、在欧州の外交官はゼロ。
余りに華やかさに欠け、JALのCAが数人手伝ってくれた。
IOC総会開幕直前になり、招致団はようやく深刻な事態に気が付いた。
柴田勝治JOC委員長(当時は会長職ではない)がなぜか直前に帰国。
愛知県選出の江崎真澄衆院議員の会場入りも中止になった。
五輪に立候補しているNOCのトップが、IOC総会に参加しない、これだけでも異常な状態であることが判るだろう。
投票結果が発表される数時間前、名古屋市の事務局に現地情報が流れた。
「小差ながら、負ける可能性が高い。」

投票結果は午後3時45分にサマランチ会長の口から発表された。
52-27
シナリオ通りソウルが名古屋を圧倒した。


ソウル五輪開催決定に暗躍した3人のその後について簡単に述べよう。
●ホルスト・ダスラー
 1982年にスポーツマーケティング会社ISLを電通と合弁で設立。
 1987年ソウル五輪の開幕1年半前にガンのため死去 51歳。
 2人の子どもは盧泰愚大統領の招きでソウル五輪の開会式を観戦している。
 なお、スポーツマーケティング会社ISLは2001年破綻。
●金雲龍
 ソウル五輪招致を成功させ1986年からIOC委員、92~96年IOC副会長。
 国際競技連盟総連合会(GAISF)会長。
 93年大韓体育会会長、韓国五輪委員会委員長を経るが、2005年再三の汚職と横
 領の罪により逮捕され辞任。
 韓国語のほか日、英、独、仏、スペイン、ロシア語を操った。(存命中)
●瀬島龍三
 1981年伊藤忠商事相談役、1987年同社特別顧問。中曽根政権のブレーンとして、 
 中曽根康弘首相の訪韓や全斗煥大統領の来日や昭和天皇との会見の実現の裏舞
 台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。
 山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正のモデル。
 2005年95歳で死去。

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February 15, 2013

IOC理事会は何故レスリングを除外したか② 英国のレスリング選手は一人しかいなかった

ひとつ問題を出そう。
昨年ロンドン五輪を開催した英国は金メダル29個を含む65個という史上最大のメダルを獲得した。では、英国がレスリングで獲得したメダルはいくつだったでしょう?

この問題に答えられる人はいないのではないか。
ロンドン五輪のレスリングは、男子フリースタイル7階級、同グレコローマン7階級、女子フリースタイル4階級が行われた。
英国からレスリングに出場した選手は実はたった一人。
ウクライナから英国に移住した女子選手が55キロ以下級に出場、11位に入ったのみだ。
英国は他の西欧スポーツ先進国と構造が少し異なる、特殊な事情だ、と言われる方もいるかもしれない。

では他の西欧諸国、特に五輪開催国から何人の選手がレスリングに出場したか。

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これは驚くべき数字である。
スウェーデンやフランスはともかく、スペインやギリシアといった比較的最近の五輪開催国ですら、ほとんど五輪に選手が出ていない。
西欧から、レスリングで五輪に出ようなんて若者はいないのだ。
同じようにシドニー五輪を開催したオーストラリア、次期五輪開催国のブラジルもそうだ。

これは、五輪に出場するハードルが随分と高くなっていることがまず挙げられる。
遡って見てみよう。

●1988年ソウル五輪
男子のみ 
フリースタイル10階級、
グレコローマン10階級
ひとつの国から最大20人の選手が出場可能、合計446選手が出場した。

ところが、1991年にソビエトが崩壊し、世界最大のレスリング大国は15の国に分かれた。
一方で、この頃から五輪の肥大化を阻止しようという動きが強くなる。

●1992年のバルセロナ五輪
男子のみ
フリースタイル10階級、
グレコローマン10階級
五輪に出場した選手:合計360選手。
(*この大会に旧ソ連は合同チームEUNとして参加している。)

●2000年のシドニー五輪
フリースタイル8階級
グレコローマン8階級
五輪に出場した選手:合計320選手。

●2004年アテネ五輪
女子フリースタイル4階級新設 各階級12~14名が出場し、その合計は50選手。
男子フリースタイル7階級
男子グレコローマン7階級
五輪に出場した選手:合計358選手。

●2012年ロンドン五輪
女子フリースタイル4階級
男子フリースタイル7階級
男子レコローマンとも7階級
各階級19名の選手が出場、その合計は399名。

出場できる選手の枠が狭くなれば、出場するための条件も厳しくなる。
ロンドン五輪で、 例えば男子の19名は、前年の世界選手権の上位6、各大陸予選が2×4、残りの5を2回に分けた世界最終予選で争った。
そのため、ロシア、アゼルバイジャン、ウクライナ、ブルガリア、トルコといったレスリング強国がひしめく欧州から五輪へ進むのは至難となっていく。

だが、この点はアジアも同様で、旧ソ連のカザフスタン、ウズベキやイラン、韓国、北朝鮮と競うことになる日本も五輪出場の道は非常に厳しいのが現実であり、好調な女子の一方、男子は24年間金メダルが獲れなかった。

レスリングの五輪除外が決まって、ツイッターやFACE BOOKでもレスリングを残すためのメッセージが拡散されている。
が、この動きの発信源はほとんどが米国発なのだ。
ご存じない方も人もいるかもしれないが、米国は非常にレスリングが盛んで、大抵の高校にはレスリング部がある。
『ビジョン・クエスト 青春の賭け』といったアマレスを描いた傑作映画もあった。
(筆者の友人は米国の高校時代レスリング部で、試合の前日には必ずこの映画を見ていた。)

その一方で、ヨーロッパからこうした発信はまず見られない。
現在のレスリングはアジアとアメリカ、旧ソ連で盛んな一方、IOCの幹部が揃う西欧においては「忘れられた競技」となっている。
そんな彼等にとっては、レスリングが五輪で除外されることは大きな問題ではない。

自分は常々言っているのだが、スポーツ貴族とも揶揄されるIOC委員の中には、アジア・アフリカの方で、全く冬季五輪に参加しない国の委員も冬季五輪開催地決定の投票をしている。
極端なことを言えば、彼らにとって、ウィンタースポーツをするためにベストな開催地を選ぶか選ばないかは、どうでもいいことだ。
今回のレスリングの除外にしても、西欧諸国のIOC委員にとっては、「どうでもいいこと」。
むしろ、五輪の規模適正化に貢献できたと、自負しているかもしれないのだ。

今後のことを考えてみた。

*スポーツ仲裁裁判所に提訴する
レスリング除外問題についてIOCを相手にCAS(スポーツ仲裁裁判所に提訴する)一つの手だろう。
ポイントとしては、なぜ、正式種目除外のような重大な事柄をIOC総会でなく、IOC理事会で決めるのか。


*競技普及のための草の根活動をする
先の表で見てもらったように、レスリングは地域による偏りが大きい。
ロンドン五輪が2005年に決まった際に、なぜ、国際レスリング連盟は英国における競技の普及を考えなかったのだろうか。
次期五輪開催国のブラジルですら、一人しかロンドン五輪に出場できなかった。
西欧・南米・オセアニア等に、米国・ロシア・トルコ・イラン等のレスリング強国による、指導者を派遣しての地道な普及活動が必要だ。


*韓国の陰謀?
レスリング除外に関して「また韓国にやられた」といった書き込みを良く見かける。
たしかにテコンドーの阻害阻止のために、彼等がロビー活動を重視したことは確かだろう。
が、韓国もまたレスリング強国のひとつであり1984年以降の五輪で10個の金メダルを獲っている。
彼等にとってもレスリングの除外は、好ましいことでは決してない。


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February 13, 2013

IOC理事会は何故レスリングを除外したか① 見えてきた密室会議 

レスリングの五輪除外から1日が経ち、少し内情が見えてきた。
時事通信は、IOC理事会における得票数を公表している。

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これによると近代五種とレスリングが1回目の投票から5票ずつ獲り、最終決定まで争ったことが判る。
そもそも、今回除外されるかもしれない競技は近代五種かテコンドーではないかと言われていた。
それがなぜレスリングになったか。

テコンドーも近代五種も、度々五輪種目から除外されるという瀬戸際に追い詰められた経験を持つ。
そのため、しばし積極的なロビー活動を展開する。
例えばテコンドーだ。
2018年の冬季五輪を開催する平昌で今年冬季スペシャルオリンピックが開催された。
スペシャルオリンピックと名前がついているが、五輪ともパラリンピックとも関係はない知覚障害者のための大会である。
韓国側はこの大会にIOCのロゲ会長を招き、朴槿恵次期大統領が面会をしている。
ここで「根回し」があった可能性がある。(もっともロゲ会長自身はIOC理事会で投票はしない。)

一方の近代五種。
国際近代五種連合の副会長はサマランチ・ジュニア。
そう、長くIOC会長として君臨し、五輪の肥大化と商業化を大胆に推し進めたあのサマランチ前会長(故人)の子息である。
サマランチ・ジュニアはまだサマランチ前会長が健在の2001年からIOC委員を務めており、IOCは今もサマランチファミリーの影響下にある。
このジュニアがIOC理事会にいれば、票を自分等に都合よく動かすこと(不正という意味ではない)など比較的たやすいと思われる。

そもそも、100人以上いるIOC委員のなかの僅かに15名しかいない理事会で、除外競技を決めること事体非常にナンセンスではないか。
実は、2009年に2016年五輪の正式種目を決める際も同様に理事会の投票のみで決められた。
そのときIOC副会長として参加していた猪谷千春氏は
「プレゼンも含めて総会ですべき」
と指摘していたとされるが、2009年も今回も適わなかった。
これでは、まるでサマランチ時代を髣髴とさせる密室会議である。


ではその密室会議に参加したIOC理事の皆さんを紹介しよう。
名前の後の競技名は、自身がその競技で五輪に出場したか、国際競技団体の役員をしているかを示す。

(副会長)
Ser Miang Ng セーリング
Thomas Bach フェンシング
Nawal El Moutawakel 陸上
Craig Reedie バドミントン

(委員)
John Coates 豪州五輪委
Sam Ramsamy 水泳
Gunilla Lindberg スェーデン五輪委
Ching-Kuo Wu ボクシング
René Fasel アイスホッケー 
Patrick Joseph Hickey アイルランド五輪委
Claudia Bokel フェンシング
Juan Antonio Samaranch Jr 近代五種
Sergey Bubka  陸上
Willi Kaltschmitt Luján テコンドー

ご覧頂いたようにレスリング関係者はいない。

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June 16, 2012

飛び込みの神様の告白

かつて飛び込み界に「神」と呼ばれるアメリカの選手がいた。
グレッグ・ルガニスだ。
サモア人とスウェーデン人を両親に生まれるが、小さい時に養子に出された。
小さい頃の環境は劣悪で級友のいじめにあい、8歳で喫煙、13歳で麻薬に手を染めるなど、すさんだ生活を送っていた。
そんな彼が、誰にも負けなかったのが飛込みだった。

水泳競技には、競泳、水球、シンクロのほかに飛込みがある。
飛び込みは飛び板飛び込みと、高飛び込み競技の2種類があり、1人の競技と、2人一組で飛び込むシンクロナイズドダイビングとがある。

16歳で出場したモントリオール五輪の高飛び込みで銀メダルを獲り、4年後のモスクワ五輪の2冠は確実と誰しもが思ったが、ソビエトのアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカが大会をボイコット、ルガニスは涙を飲んだ。
それでも、1984年のロサンゼルス、88年のソウルでは史上初となる連続2冠を成し遂げ、「飛び込みの神様」との異名を獲った。

ソウル五輪ではこんなことがあった。 
飛び板飛び込みで、五輪史上初めての2連覇を果たし、最後の高飛び込みを残すのみになった。
ところが、その予選で、飛び込み板に頭をぶつけて五針も縫うという神様らしくないミスを犯した。
その時の様子がこれだ。

Greg_a_gifsoupcom

Greglouganis

後頭部を飛び込み板にぶつけているのがわかるだろう。
出血し、血がプールに拡がっていき、場内が静まり返る。
3位。
予選では出遅れたが、傷ついた汚名を挽回しようと決勝に備え、予定通り4個目の金メダルを獲り、五輪の舞台から去って行った。

引退後の1995年、ルガニスは自伝『Breaking the Surface: The Greg Louganis Story』を発表。
この中で、自身が同性愛者であることを公表し、翌年アトランタ五輪の行われた1996年にさらに大きなカミングアウトをするのだ。

 
『僕はHIVに感染している。』


すると世間が急に騒がしくなる。
ソウル五輪の高飛び込みで5針を縫った予選の失敗を巡ってだ。
当然出血したまま水中に入っていたことから、他の選手へのHIV感染の危険性があったのではないか、と議論を呼ぶことになったのだ。

ソウル五輪当時、彼は自分が感染していることを公表すべきかどうか悩んだのだが、HIVの専門医から感染の危険性は無いとアドバイスを受けていたことをその自伝で明らかにしている。
この当時HIVへの偏見は強く、直ぐにスポンサーはルガニスから離れていった。

それから20年近くが経ち、HIV感染者が偏見で見られることは少なくなった。現在ルガニスは、オフ・ブロードウェイの俳優として活動したり、LGBTのための幅広い人権活動を行っている。
グレッグ・ルガニスはもちろん存命中だが、不幸にしてエイズで亡くなったHIV感染者も多くいる。

エイズによって亡くなったスポーツ選手といってすぐに思い浮かぶのは、テニスのアーサー・アッシュだ。
1968年全米オープン、1970年全豪オープン、1975年ウィンブルドンで優勝した実績を持ち、アフリカ系アメリカ人として唯一4大大会シングルに優勝した選手だ。
1988年に心臓手術を受け、その際に施された輸血の影響でHIVに感染した。
1992年にエイズ感染を公表、1993年2月6日に49歳で亡くなった。
エイズの公表の際に、たまたまアメリカにいてテレビで会見を見ていた。
人柄のよいアッシュが終始うつむいていたのが印象に残る。

ほかにも何人か著名なスポーツ選手がエイズによって亡くなっているのだが、ことのほかフィギュアスケートの男子の選手が多い。
昨年末、バンクーバー五輪の男子フィギュアで6位入賞したジョニー・ウィアーが、アトランタ在住の弁護士と同性婚したと報じられた。
ほかにもブライアン・オーサー、ライアン・オメラなど同性愛を公表しているフィギュアの選手・元選手の話は度々耳にする。

1980年代にアメリカでエイズが広がりだした頃、感染者にゲイや麻薬中毒者が多かったことから、感染者に偏見が持たれていたことがある。
亡くなったフィギュアの選手は1980年から90年に亡くなっているケースが多い。
これは偶然か、あるいは必然なのか。

ジャネット・リンに沸いた1972年の札幌五輪、男子シングルに金メダルを獲ったオンドレイ・ネペラ(チェコスロバキア=当時)を始め、3人の五輪メダリストがエイズにより亡くなり、1人の金メダリストがHIV感染を公表している。
また、HIV感染を公表しているサラエボ五輪金メダルのスコット・ハミルトンはゲイであることも公表している。
詳しい統計がある訳ではないが、他の競技に比べてやはり多い。


●エイズで亡くなった(存命中含む)フィギュア選手
・オンドレイ・ネペラ(チェコスロバキア=当時)1972年五輪金メダル 1989年38歳没
・ジョン・カリー(英国)1976年五輪金メダル 1994年44歳没
・デニス・コイ(カナダ)1978年世界Jr金メダル 1987年27歳没
・ブライアン・ポッカー(カナダ)1980年五輪出場 1992年32歳没
・ロバート・ワーゲンホッファー(米国)1982年全米選手権2位 1999年39歳没
・スコット・ハミルトン(米国)1984年五輪金メダル HIV感染を公表
・ロバート・マッコール(カナダ)1988年五輪アイスダンス銅メダリスト 1991年33歳没
・ルディ・ガリンド(米国)1996年世界フィギュア銅メダル K・ヤマグチのペア時代の相手 存命中
・ブライアン・ライト(米国フィギュアスケートの名振付師)2003年没

●エイズで亡くなった他の競技の選手
・アーサー・アッシュ(米国)テニス 1993年49歳没
・グレン・バークGlenn Burke(米国)MLB 1995年42歳没
・エステバン・デ・ヘスス(プエルトリコ)ボクシング世界チャンピオン 1989年37歳没
1976年5月8日、WBC世界ライト級王者ガッツ石松に挑戦し、15回判定勝ちで世界王座を獲得したことで知られる。
・ビル・ゴールズワージー(カナダ)NHL 1996年51歳没
1972年ソビエト対カナダで争われたアイスホッケーのサミットシリーズのカナダ代表。
・マジック・ジョンソン(米国)NBA 存命中
1992年バルセロナ五輪バスケットボール米国代表で金メダル。

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June 10, 2012

男性だった五輪女子金メダリスト

1980年は五輪イヤーで、冬季五輪がアメリカのレークプラシッド、夏季五輪が旧ソ連の首都モスクワで開かれた。
冬季五輪が夏季五輪と異なる年に開催されるようになったのは1994年からだ。
社会主義の優位性を世界中に示すはずだったモスクワ五輪は、その前年からのソ連軍のアフガニスタン侵攻に、ジミー・カーター米国大統領が抗議、五輪のボイコットを呼びかけた。
これに日本、西ドイツ、カナダなど西側のいくつかの国と、IOCに復帰したばかりの中国などが応じた。
その一方、英国、フランス、イタリアをはじめとする西欧先進国のNOC(国内五輪委員会)は政府の圧力に屈せず、モスクワに選手を派遣した。
4年後のロサンゼルス五輪は、逆に東側諸国に報復ボイコットをされており、80年代は、五輪運動が危機状態にあった時代である。


そんな1980年の暮れに、何ともショッキングなニュースが飛び込んで来た。
「女性金メダリストは男だった」


その内容はこんなところだ。
スタニスラワ・ワラシェビッチ(通称ステラ・ウォルシュ)という陸上短距離の選手がいた。
幼い頃にポーランドからアメリカに移住したが、ポーランド代表として1932年のロサンゼルス五輪に出場、陸上女子100mで金メダルを獲得した。
4年後のベルリン五輪では銀メダルを獲得。
その後もアメリカに住み続けた。
が、不幸にしてこの数日前に強盗に会い、殺害された。
警察が司法解剖したところ、なんと男性だったことが判った。

Stanislawa_2

先述のようにこの頃は、東西冷戦の華やかな時代で、旧ソ連や旧東ドイツには異様に筋肉の発達した陸上や競泳の女子選手がいた。
そのため、すぐはドーピングで男のようになった女子選手のことを言っているかと勘違いをした。
だが、しばらくして『女子選手のはずが、実は男性だった』という内容だと気が付いた。

 
翌日の新聞には『ステラ事件』の詳細と続報が書かれていた。

「男性だったと」いう第一報に対し、遺族が「ステラは、男性器と女性器の両方を持っていた」と反論したという。
要は、半陰陽=両性具有=インターセックスだったということだ。

後にエリック・カーマーというオーストリアの五輪研究家が、ポーランド国内でステラ・ウォルシュの出生証明書を発見するのだが、女児として届けられている。
恐らく女性として育てられたのだが、死亡後家族が両性具有であることを逸早く公表していることから、生前、家族はそのことを知っていたということになる。
問題になるのはロサンゼルス五輪当時、本人や周囲がその事実を知っていたかどうかだが、今となっては判らない。


インターネットを検索していると事件からひと月後の新聞の記事が出て
きた。
これによると、ステラには女性器はなかったとある。


Report Says Stella Walsh; Had Male Sex Organs
Published: January 23, 1981
CLEVELAND, Jan. 22 Stella Walsh, who won a gold medal and
several silver medals in track competing as a woman in the 1932 and
1936 Olympics, had male sex organs, according to an autopsy report
released today. The report also said that Miss Walsh had no female
sex organs.Chromosome sex tests were inconclusive, and further
tests are being made.
The report by the Cuyahoga County Coroner's Office was obtained
through the courts by television station WKYC, which had been
criticized for broadcasting a report questioning Miss Walsh's sex last
month. Miss Walsh, 69 years old, was killed in an apparent robbery
attempt in Cleveland Dec. 4. Born in Poland, she competed in the
Olympics representing her native land, although she had lived in the
United States since she was a year old.


一昔前の五輪ではセックスチェックなるものが行われていた。
本当の女性であるか、医学的に確認するというものだ。
1964年の東京五輪以前は、男子選手が女子選手になりすましてメダルを獲るも、後に男性であることが判り、メダルが剥奪された例がいくつかある。


そのため1966年に、「能力の平等さを保つ」を建前とした、セックスチェック(本当に女性であるか調べること)が行われるようになった。
この検査は、スポーツ史上類を見ない女性差別と言っても過言ではない。何人もの医師の前で全裸になっての視認検査や、さらには直接性器を確認するなど行為が行われていた。
あまりに露骨なチェック方法に、選手からはクレームが殺到し、それを受けて、1968年のメキシコ五輪からは、頬の内側の粘膜を採取する遺伝子検査が行われるようになった。


ところが、この検査方法だと、生まれながら染色体に異常のある女性が「男性」と判定されかねない。
生まれてからずっと女性として育てられてきたのに、DNA的には男性、あるいは半陰陽、インターセックス等であると判明し、五輪に出場できなかった選手が少なからず出てきたのだ。
そんな選手たちは急にケガをしたことにし、「棄権」という形をとり、ひっそりと帰国させられた。


日本人選手にも該当者がいたと言われている。
IOCは1999年になって、すべてのセックスチェックを中止した。
検査に費用がかかることをその理由としているが、実際には選手の人権に配慮したのであろう。
セックスチェックが最後に行われた1996年のアトランタ五輪では、チェックを受けた3387人中医学上女性でない女子選手が8名参加していたことが判っている。


●1932年ロサンゼルス五輪
陸上女子100m 
1.ステラ・ウォルシュ11.9(ポーランド)

●1936年ベルリン五輪
陸上女子100m 
1.ヘレン・スティーブンス(アメリカ) 11.5 追い風参考
2.ステラ・ウォルシュ11.7(ポーランド)追い風参考


ステラ・ウォルシュが銀メダルに終わったベルリン五輪で、金メダルを獲ったヘレン・スティーブンス(アメリカ)は、
「あのステラ・ウォルシュよりも速いとは信じられない」
「男が女子選手に化けているのではないか」
と話題になった。そのため組織委員会は、本当に女子選手であるか確認するために医師の立会いのもと、全裸にして確認をし、女子選手と認められている。
なんという皮肉だろうか。


1992年まで国際陸連(IAAF)はステラ・ウォルシュのような性分化疾患の選手は女性の競技に出場することを認めていなかった。ウォルシュの記録を抹消するか否かという議論が発生したが、IOCとIAAFはともに抹消するといった決定はせず、ウォルシュの記録は現在も残っている。


男女の違いは思いのほか判断が難しい。
2000人に一人の割合で、男女の区別が難しい体を持った子供が生まれている。
卵巣と精巣を持つ。卵巣と子宮があるのに、性器が男性様の形。逆に性器は女性様だが、精巣があり子宮がない人もいる。胎児期に性が分化する過程で、ホルモンの作用に障害が起きるのが原因という。現在では医
学的には、男と女だけではなく、多種多様な性があるとされている。
ロンドン五輪の女子陸上800mにキャスター・セメンヤ(南アフリカ)の出場が決まった。


2009年ベルリン世界陸上で18歳ながら圧倒的な強さで優勝したが、男性疑惑が起きた。
2年近くのブランクの後、大邱世界陸上で復活、銀メダルを獲った。
この2年の間に彼女に何があったか、いずれ考えてみたい。


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February 13, 2012

ますます開く日韓スポーツ予算の差

韓国の聯合通信を見ていたら、興味深い記事があった。

ロンドン五輪が開催される今年は、昨年より2.7%多い8634億ウォン(約572億円)の予算が体育分野に投入される。

(中略)

代表選手の1日当たりの手当は3万ウォンから4万ウォンに、指導者の手当も月380万ウォンから430万ウォンに引き上げられる。また、2018年に開催される平昌冬季五輪に備え、冬季スポーツ施設の拡充や優秀選手の育成に135億ウォンを投入する。


韓国は、国家がスポーツに注力し、国威発揚をはかる国のひとつだ。
6個の金メダルを獲った2010年のバンクーバー五輪の年の、韓国のスポーツ関連予算は7500億ウォン。
このとき、円に換算して約555億円と日本では報道されている。
あれから2年が経ち、歴史的な円高となっているため、555億円が572億円と微増程度にしか見えないが、2年前の円相場で見てみると8634億ウォンは、約634億円となる。

一方の日本、12月24日に閣議決定された2012年度政府予算案の、スポーツ関係予算は前年度より4.4%増えて237億9300万円と過去最高になった。(これでも韓国の半分以下)
が、この内ロンドン五輪でメダル獲得が期待される競技を重点的に支援するマルチサポート事業は、前年度当初比約5億円増の27億4600万円、前年度と同額となったJOCへの補助金25億8800万円。
この合計の約53億円が、五輪等の強化費にほぼ近いと見られる。

韓国では8634億ウォンの50%が選手強化に当てられている。
日本の人口は1億2800万人で韓国4800万人の2.5倍、日本のGDPは4兆3095億ドルで韓国1兆3423億ドルの3.3倍規模があるにも関わらず、どうしてこうなるのだろうか。
ちなみに先のスポーツ関連予算を国の予算費で見ると、日本は約0.025%。
韓国は約0.26%。
桁が一桁違う訳だ。

韓国式の選手強化が正しいとは思わない。
韓国は一握りのエリートを重点的に育てる少数精鋭主義。
アーチェリー、ショートトラックスケート、テコンドー等強い競技は圧倒的に強い。
逆に地元開催でありながら、昨年のテグの世界陸上では一人の入賞者も出せなかったように、この国のスポーツ環境が歪(いびつ)なのは歴然としている。

が、かといって日本のスポーツ環境は余りに貧弱だ。
日本は、2008年にナショナルトレーニングセンター(NTC)を作ったが、その総面積は6万6000㎡。
使用にあたっては国は費用の3分の2しか負担していない。

韓国のNTCである泰陵の総面積は31万㎡、強化指定選手、コーチはもちろん無料で使用できるどころか、選手には聨合の記事にあるように日当が4万ウォン支払われる。
ここにインドアのロングトラックのスケート場が完成し、バンクーバーのスピードスケートだけで3個の金メダルを獲ったことは記憶に新しい。
そして、今年の6月にはソウルの南110キロに総面積104万㎡の第2NTCがオープンする予定もある。

韓国では五輪メダリストには、毎月最高100万ウォンの年金が生涯支給されているのだが、最高額を受け取っている(元)選手だけで1000人を超している。
一方の日本は、当然ながら五輪金メダリストにも特別な年金はない。
1992年以降のメダリストに対し、JOCからの報奨金が金メダル300万円、銀メダル200万円、銅メダル100万円与えられるに過ぎない。

参考のために申し上げるが、1988年ソウル五輪以降の11回の夏冬五輪の金メダル争いで、日本が韓国を上回ったのは1998年の長野五輪と2004年のアテネ五輪の2回しかない。

Photo


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September 29, 2011

バーデンバーデンから30年

ドイツ南部にバーデンバーデンという温泉地がある。
人口5万人ほどの小さなまちだが、観光と保養で欧州中に名前が通っている。
そのため、年に数回はテレビを観ているとその地名を聞くことがある。
その度にぼくはこの日のことを思い出す。

今からちょうど30年前の1981年9月29日。
当時は西ドイツとよばれていた国のバーデンバーデンでIOCの会議、五輪コングレスが開催された。
五輪コングレスとは、IOC総会よりも規模が大きく、この先の五輪運動の根本からを話し合うための会議である。

実はバーデンバーデンでは、1988年冬季・夏季五輪開催地を決めるIOC総会も行われた。
「名古屋 ソウルに敗れる!」
というやつだが、今回は敢えて触れないこととする。

この当時、世はまさに東西冷戦下。
この前年に開催されたモスクワ五輪は、アメリカ、カナダ、西ドイツ、日本などの主要国がボイコットし、片肺に終わっていた。
当時のIOC委員は現在のように、選手出身の委員よりも、欧州の王族や経済的な成功者が多くを占めるブルジョアクラブのようになっており、スポーツの世界、あるいは社会全体の動きに疎い連中の集まりだった。
そのため、IOCは、「モスクワ五輪ボイコット」を突如ぶちまけたジミー・カーター米国大統領(当時)を説得するでもなく、打開案を見出すでもなく、みすみす五輪の崩壊を指をくわえて見ていただけだった。

1980年にIOC会長になったばかりのアントニオ・サマランチは、銀行家から外交官になり、IOCに入った人物だが、社会の変化と現状を示そうと、五輪コングレスで初めて、現役選手に発言の場を与えたのだ。
このときIOCを舞台に、選手の立場から初めて演説をしたのがセバスチャン・コー。
世界に3人しかいないモスクワ・ロサンゼルスの両五輪で金メダルを獲ったコー。
現在、ロンドン五輪組織委員会会長を務める彼は、モスクワに選手を送らなかった国、送ることをじゃました国を痛烈に批判し、
「現代の五輪選手の負担は大きく、その犠牲は無視すべきでない。IOCには、選手への社会的配慮を保証する、道義的義務がある」
と訴えた。
さらには、近代五輪が誕生したときからの最大の課題、スポーツを通じて報酬を得る選手(いうなればプロ)の五輪参加を認めるかどうかのアマチュア問題を一刀両断していった。

このコーのスピーチをきっかけとして、五輪は排他的エリート意識の産物から、プロ解禁による普遍的なスポーツの祭典へと変わっていくのだ。

そしてコーのスピーチは、IOC内部に選手委員会の創設をももたらし、コー自身が初代委員長になった。
選手には、現場で何が起きているかを一番良く知っている。
だから、現在は選手が互選した者が、IOCの委員にもなり、選手委員長はIOCの理事も務めている。

ドイツでは今日、バーデンバーデンのIOCコングレスから30周年を祝う式典が行われ、IOC選手委員の初代メンバーが揃った。
この5人である。

キプチョゲ・ケイノ(ケニヤ) 陸上競技金・銀メダリスト
スベトラーナ・オツェトバ(ブルガリア) ボート金メダリスト
トーマス・バッハ(ドイツ) フェンシング金メダリスト 現IOC副会長
セバスチャン・コー(イギリス) 陸上競技金・銀メダリスト 
ピーター・トールバーグ(フィンランド) ヨット選手)

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