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July 12, 2019

(続)いだてん オープニングに映るあの選手は誰?(大幅に補足あり)

「いだてん」が第二部になって、オープニングの内容が新しくなった。
過去の五輪のシーンを取り上げているのは同じだが、そのすべてが変わった。
その中でいくつか気になる顔を紹介しよう。

日本が初参加したストックホルム五輪、金栗四三が途中棄権するマラソンで、不幸にもレース中に亡くなる選手がいた。
第一部で描かれたのでご存知だと思うが、ポルトガルのフランシスコ・ラザロ、この時21歳。
ポルトガルの五輪初参加は、1912のストックホルム五輪で日本と一緒。
その後の大会で、銀メダルや銅メダルはいくつか獲るのだが、初金メダルは1984年のロサンゼルス五輪の男子マラソンのカルロス・ロペスまで待つことになる。
そして、ロペスこそが、この画像の人物。
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このときなんと37歳。
25歳のとき、モントリオール五輪の1万mで銀メダルを獲った選手で(金メダルはラッセ・ビレン)、ロス五輪前は好調が伝えられていた。が、本当に勝ってしまったときは驚いた。
ラザロの死から72年目の金メダルだった。
ロス五輪では、マラソン女子でもポルトガルのロサ・モタが銅メダルを獲るのだが、彼女は4年後のソウル五輪では、金メダルを獲ってのけた。

冷戦華やかなりし1980年代、五輪は不幸だった。
開催の引き受け手はなく、開催してもボイコットの応酬にあった。
1976、80、84年の五輪が片肺のまま開催されている。
そんな中1980年モスクワと84年のロサンゼルスの両五輪に連覇した選手が3人だけいる。
陸上10種競技D・トンプソン(イギリス)、ボートシングルスカルのP・カルピネン(フィンランド)と陸上1500mのセバスチャン・コー(イギリス)である。
現在、国際陸連会長を務めるコー。
ロンドン五輪のときは、大会組織委員長を務めた。
ちなみに2020年東京五輪の大会組織委員長は元総理のあの人だから…。

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コーは五輪2大会に4種目出場している。
モスクワ800m銀、1500m金
ロサンゼルス800m銀、1500m金
この画像はロサンゼルスの1500m。
ゼッケン359がセバスチャン・コー。
その後ろの背の高い選手が銀メダルのクラムだ。

19843000

1984年ロサンゼルス五輪は、女子3000mも随分話題になった。
前年のヘルシンキ世界陸上のチャンピオンのメアリー・デッカー(米国)が、イギリスのゾーラ・バットと接触し、棄権をしてしまった。
ゾーラ・バッドは、わざと脚をかけたのではないかと大騒ぎになったが、結局故意ではないということで落ち着いた。
673の選手がメアリー・デッカーで隣がゾーラ・バット。

この2人はモントリオール五輪の最終聖火ランナーだ。
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ともに17歳の少年はプレフォンテーヌ、少女の名前はヘンダーソン。
2人により聖火はスタジアムに運ばれた、点火された。
少年はイギリス系で、少女はフランス系だ。
2人は、複合国家であるカナダを象徴していた。
モントリオール市は、英語と仏語の二重言語都市であり、日本人選手を紹介する際の、JAPANに続けてアナウンスされるJAPONの耳慣れない響きが新鮮だった。
2人の青年は、カナダがボイコットした4年後のモスクワ五輪の開会式にも現われた。
その後結婚したという話もあったが、結局誤報だった。

五輪開会式というと、五輪の中でも最も華やかなイベントであり、入場券も最も高額になる。
実はこんな意味合いもある。

開会式は、開催国から全世界に向けてメッセージを発信する唯一の場所である。
モントリオール以外にも、これまでの五輪で開催国からこんなメッセージが発信されている。

例えば1964年東京五輪、最終聖火ランナーは坂井義則氏(故人)。
後にフジテレビで活躍する人物だが、原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれている。
当時19歳、「戦禍から立ち上がり、平和日本を象徴する若い力」を世界に披露した。

1988年ソウル五輪 蚕室五輪スタジアムに入ってきた聖火は、孫基禎(当時76歳・故人)から、女子陸上のヒロイン・林春愛(当時19歳)に渡された。
孫基禎氏は、朝鮮半島の日本統治下時代の1936年・ベルリン五輪に日本代表として出場し、マラソンで金メダルを獲った韓国の歴史的な英雄である。
老雄から若いアスリートへのリレーは、新しい韓国の出発を意味した。

 

2020年の東京は、何を世界に発信するのだろうか。

 

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June 25, 2019

2026年冬季オリンピックはミラノ・コルチナ 一方のスウェーデンは8連敗中

イタリアのミラノ-コルチナとストックホルム・オーレの一騎打ちとなった2026年冬季五輪招致は、スイスのローザンヌで開催された第134回IOC総会で、ミラノ-コルチナを開催地に決めた。

82人のIOC委員が投票し、棄権が1、ミラノ-コルチナが47票、ストックホルム-オーレが34票だった。

「いだてん」をご覧だった方はよくご存じだろうが、ストックホルムは1912年の夏季五輪の開催都市であり、金栗四三、三島弥彦の両名が、初の五輪日本選手団として参加した縁の深い街だが、その後スウェーデンは、100年以上に渡って五輪開催の機会がない。
なんと、今回の敗退で8連敗となった。

◎スウェーデン8連敗の軌跡

1984年冬季 イエテボリ
1988年冬季 ファルン
1992年冬季 ファルン
1994年冬季 エステルスンド
1998年冬季 エステルスンド
2002年冬季 エステルスンド
2004年夏季 ストックホルム
2026年冬季 ストックホルム/オーレ

スウェーデンの8連敗を上回る9連敗中なのがスペイン。
(*のマークは一次選考の書類審査で落選している。)
1998年冬季 ハカ
2002年冬季 ハカ*
2004年夏季 セビリア
2008年夏季 セビリア*
2010年冬季 ハカ*
2012年夏季 マドリード
2014年冬季 ハカ*
2016年夏季 マドリード
2020年夏季 マドリード

フランスも5連敗していたが、2024年のパリが決まっている。

1992年夏季 パリ
2004年夏季 リール*
2008年夏季 パリ
2012年夏季 パリ
2018年冬季 アヌシー
2024年夏季 パリ 開催決定

ドイツは4連敗中だ。
1992年冬季 ベルヒテスガーデン
2000年夏季 ベルリン
2012年夏季 ライプチヒ*
2018年冬季 ミュンヘン

●第二次大戦後の五輪開催回数(1948~2028年)青字は冬季五輪
6回
アメリカ 19601980、1984、1996、2002、2028年

4回
日本 1964、19721998、2020年
イタリア 1956、1960、20062026

3回
カナダ 1976、19882010
フランス 19681992、2024年

2回
イギリス 1948、2012年
ノルウェー 19521994
オーストラリア 1956、2000年
オーストリア 19641976
ロシア1980(当時ソビエト)、2014
韓国 1988、2018
中国 2008、2022

1回
スイス 1948
フィンランド 1952年
メキシコ 1968年
ドイツ 1972年(当時西ドイツ)
ボスニアへルツェゴビナ 1984年(当時ユーゴスラビア)
スペイン 1992年
ギリシャ 2004年
ブラジル 2016年

 

 

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June 24, 2019

いだてんオープニングに映るあの選手は誰?

「いだてん」は、6月23日の放送で金栗四三編が終わり、次週からは田畑政治編となる。

金栗四三は1924年のパリ五輪のマラソンにも出場しているし、ストックホルム五輪の55周年のイベントに招かれた話など楽しみなエピソードがまだある。そして、人見絹枝の銀メダル獲得は描かれないのだろうか?

実は、1月の第1回の放送から、オープニングで映る過去の五輪選手の中で気になる選手がいる。

来週以降オープニングが変わってしまう可能性があるので、今回取り上げてみた。

まずは、このグリーンのユニフォームの円盤投げの選手。
黒縁のメガネをかけていてちょっと印象に残る。
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ローズマリー・ペインという名のイギリスの選手で、1972年のミュンヘン五輪に出場し、17人出場しての12位という記録が残っている。
1933年生まれというから、このとき39歳。
大変なベテランだと思うが、五輪出場はこの1回のみらしい。

判りにくいのが、この後に出て来るモーリーン・チッティ。
この選手もイギリスの選手でっミュンヘン五輪の走り幅跳びに出場、16位になっているのだが、ローズマリーペインと違うユニフォームを着ている。
同じ国で、同じ五輪であれば同じユニフォームだろうが、なぜか異なっている。
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この重量挙げの選手は、旧ソ連のワシリー・アレクセイエフ(故人)。
男子スーパーヘビー級(当時重量挙げは男子しか行われていないが…)で、ミュンヘン、モントリオールと五輪2連覇を遂げた大選手だ。
「いだてん」で使われたのは、そのうちのモントリオール五輪のも。
五輪のロゴマークが、モントリオール大会のものであるし、ジャークの記録が255㎏であるところからも判る。
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そして、この体操の女子選手は、リュドミラ・ツリシチェワ。
メキシコ五輪からモントリオール五輪までの3回の五輪で、金メダル4個を含む9個のメダルを獲得した旧ソビエト連邦の選手。
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特に、個人総合で優勝したミュンヘン五輪では、同じソ連のオルガ・コルブトとともに世界的なアイドルになった。
ヘンリー・マンシーニが作曲した「リュドミラのテーマ」は今でもYouTubeにあり、聴くことができる。
引退後の1977年、ミュンヘン五輪の陸上100mと200mの金メダリストであるワレリー・ボルゾフと結婚しているのは陸上ファンでもあまり知らないだろう。

 

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April 30, 2019

日本オリンピック選手団の獲得したメダルは 前回の東京五輪で100個、長野五輪で300個に達し、2020年東京五輪で500個を超える

1964年の東京五輪の開幕までに日本選手団の獲得したメダルは、夏季五輪が金24、銀38、銅28、冬季五輪が銀1の合計91個。東京五輪では29個のメダルを獲得しているので、大会期間中に通算100個目のメダル獲得は達成されていた。

1988年の長野五輪の開幕までに日本選手団の獲得したメダルは、夏季五輪が金93、銀87、銅97、冬季五輪が金3、銀8、銅8の合計296個。長野五輪では10個のメダルを獲得しているので、大会期間中に100個目の金メダルと、通算300個目のメダル獲得が達成された。

100個目の金メダルは、スキージャンプ団体(岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜)。

300個目のメダルは、スピードスケート女子500mの岡崎朋美ということになる。

金栗四三等が1912年のストックホルム五輪に初参加以来、昨年の平昌五輪までに、日本選手団がこれまでに獲得したメダルの総数は、夏季五輪で日本選手団が、獲得したメダルは、金142、銀136、銅161の合計439個。

冬季五輪で日本選手団が、獲得したメダルは、金14、銀22、銅22の合計58個。

総計497個となり、記念すべき500個目のメダルは、2020年の東京五輪で得られることになる。

日程を見ると、柔道か競泳ではないかと予想される。

日本と同様に500を超えそうなのがハンガリーの498個。
フィンランドが470個で続いている。
また、平昌冬季五輪までに500個を超えたのが、カナダとオーストラリアで、501個と512個である。

 日本選手団の獲得したメダル

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March 30, 2019

ゴンザガ大4強逃す マーチ・マッドネス MLBを超えるテレビ放映権

バスケットボール男子の全米大学選手権(NCAAトーナメント)は30日、準々決勝2試合が組まれ、八村塁を擁するゴンザガ大はアナハイムでのテキサス工科大戦に69-75で敗れた。

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▲試合会場だったホンダセンター

アメリカでは3月から4月にかけて、マーチ・マッドネスと呼ばれるカレッジ・バスケットボールのNCAAトーナメントが爆発的な人気を呼ぶ。 
日本式に言えば、大学生のバスケットボールの全国トーナメントに過ぎない。
カレッジバスケットの人気は、アメリカに住んでいないことにわかりにくいかもしれないが、1992年のこの時期にニューヨークにいたことがあるが、誰もがカレッジバスケットの話題をする、そんな状況だった。
大学バスケットは、スーパースター依存ではなく、チームプレーを重視する玄人むけといわれる。
この年はデューク大が優勝し、その中心選手だったクリスチャン・レイトナーが、バルセロナ五輪のドリームチームにアマチュア選手として唯一選ばれている。

米4大テレビネットワークの一つ、CBSとケーブルテレビ局のターナー・ブロードキャスティング(TBS)は、NCAAとマーチ・マッドネスのテレビ放映権とインターネット配信権について14年間で108億ドルという契約を結んでいる。
1シーズンあたり7億7714万ドル、日本円に直して854億円という高額になる。

これが、どのくらいの高額であるか、比較するのは難しいが、米NBC放送は2014年のソチ五輪、2016年リオデジャネイロ五輪、2018年平昌五輪、そして2020年の東京五輪の計4大会のアメリカ国内向け独占放送権を、43億8000万ドル(約4856億円)支払っている。
単純に4で割ると五輪一大会あたり1200億円。

そしてMLB(大リーグ)の放映権は、1シーズンあたりESPNが7億ドル、FOXが5億2,500万ドル
ESPN単独で見れば、マーチ・マッドネスよりもその額は低くなってしまう。

大学スポーツの放映権料が、MLB、NHLという4大プロスポーツを上回るようになったのはこの10年あまりのこと。
米国がいかにスポーツ大国といえども、優良ソフトは決して多くない。
それゆえに希少コンテンツの価格は高騰する。
多チャンネル時代を迎えて、他局との差別化、ブランド化は一層厳しいはずだ。
そこでは高視聴率が約束されたイベントが必要になる。
ワールドシリーズ、スーパーボウル、ゴルフのマスターズと同様に大学バスケもその中にあるということだ。

 

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March 04, 2019

高木美帆2位 世界スピードスケート選手権とある選手の訃報

スピードスケートの世界選手権。
ディフェンディングチャンピオンとして出場した高木美帆は、500mと1500mで1位だったが、3000mは10位、5000mは8人中8位の総合2位。
3000m、5000mともに世界新記録を出したマルティナ・サーブリコワに競い負けた。

●高木美帆のタイム 500m、3000m、1500m、5000mの記録 ( )内は順位
2018年総合優勝
39.01 (1) 4:19.78 (2) 1:58.82 (1) 7:29.12 (4) 合計166.905 (1)
2019年総合2位
37.22 (1) 4:00.16(10) 1:52.08 (1) 7:02.72 (8) 合計156.878 (2)

スピードスケートのオールラウンド選手権は、500m、1500m、3000m、5000mを1回ずつ滑って、その合計ポイントで優勝を決める大会である。
昨年は、オランダ・アムステルダムで行われていた世界スピードスケート選手権に高木美帆が日本人選手として初めて優勝した。

高木の優勝はもちろん快挙だったが、試合会場のリンクが1928年のアムステルダム五輪のメイン会場のオリンピス・スタディオンだったことに何よりも驚いた。
こういうのを五輪のレガシーという。

今年の大会は1988年カルガリー五輪のスケート会場だったオリンピックオーバル。
高地にあり、世界記録が出やすいリンクとして知られている。

●歴代優勝者(女子
2007年:イレイン・ブスト
2008年:パウリーン・ファン・デートコム
2009年:マルティナ・サブリコワ
2010年:マルティナ・サブリコワ
2011年:イレイン・ブスト
2012年:イレイン・ブスト
2013年:イレイン・ブスト
2014年:イレイン・ブスト
2015年:マルティナ・サブリコワ
2016年:マルティナ・サブリコワ
2017年:イレイン・ブスト
2018年:高木美帆
2019年:マルティナ・サブリコワ

2007年から2019年までの女子の総合優勝者を並べてみた。
今年の総合優勝者で、五輪でも3つの金メダルを持つサブリコワ。
平昌の1500mで高木美帆に勝つなど、五輪の5つの金メダルを獲ったブスト。
この二人が交互に優勝している中、間を縫うように1回ずつ優勝しているのが高木美帆とオランダのパウリーン・ファン・デートコムだ。

平昌で金銀銅のメダルを一つずつ獲った高木美保に比べて、パウリーン・ファン・デートコムには、輝かしい実績はない。
2006年トリノ五輪に出場してはいるが、メダルは獲っていない。
オランダ語は発音が難しく、なんとなく名前を覚えているといった選手だった。
2012年引退したと言うことだったが、消息を調べていると・・・
今年の1月に亡くなっていた。

37歳。

昨年の夏に肺がんが見つかり半年持たなかったと言う。
ご主人と娘さん(Lynnちゃん)が残されたと言うが、娘さんは2017年生まれの1歳。
何とも気の毒でならない。

カルガリーで高木美帆選手はパウリーン・ファン・デートコム財団にサイン入りのユニフォームを贈った。オークションに出されて金額は財団に寄付されるようだ。



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January 28, 2019

平成のスポーツの記憶③ 東京世界陸上 谷口浩美マラソンを制す

平成1991

1991年9月1日 防災の日と重なったこの日、第3回世界陸上競技選手権大会東京大会 男子マラソンがスタートしたのは午前6時。
それでも気温は26度。しかも湿度が73%という悪条件だった。
日本陸連科学部が「東京での開催は選手の生命にかかわりかねない」として、この種目だけ北海道での分離開催が提案されたこともあった。
懸念された通り、厳しい残暑との戦いとなった。

体力の消耗を避けるためか、どの選手もスピードを上げない。いや上げられないのか、ゆっくりしたペースで進んでいく。25キロを過ぎて強豪のメコネン(エチオピア)が棄権。
続いて31キロ付近で、日本のエース中山竹通がレースを止めた。

先頭グループから次々と脱落者が出る中、「暑さは気にならない」という谷口浩美は「我慢」と自分に言い聞かせていた。
早朝にもかかわらず、沿道には約5万3000人(警視庁調べ)が応援に駆けつけた。
日本人のマラソン好きは、東京五輪時も、世界陸上時も、そして今も変わらない。
声援が谷口を押す。
38キロの市ケ谷駅前の上り坂を、口をあけ、首を振りふり、必死の形相でスピードアップ。
4人の先頭集団から、谷口が抜け出した。
四ツ谷の交差点で右折した時、谷口が後ろを振り返ると、もう後続は小さくなっていた。

いつものように首を傾け、口を開いてゆがめた苦しみの形相が笑顔に変わる。
ゴール手前100メートル。悲鳴にも似た歓声がスタンドを包む中、谷口は両手を広げてガッツポーズ。
酷暑のレースに耐え抜いて日本選手として大会初の金メダルをつかんだ瞬間だった。

マラソン金メダルは、1936年ベルリン五輪で日本統治下の朝鮮出身の孫基禎氏が獲ったことはあるが、日本人としては女子を通しても五輪、世界陸上を通じて初の快挙だった。

当時、谷口はマラソン14戦で7勝目。その最高のタイトルは自己最低の2時間14分57秒という記録だった。

 ◆1991年 東京世界陸上 男子マラソン成績
 (1) 谷口浩美(日本) 2時間14分57秒
 (2) サラ(ジブチ) 2時間15分26秒
 (3) スペンス(米) 2時間15分36秒

谷口は世界選手権金メダルでバルセロナ五輪代表に内定される。
しかし、バルセロナでは途中シューズを踏まれ転倒。それでも後半追い上げ8位入賞を果たした。
そのとき、誰に恨みをいうでもなく「こけちゃいました」
と笑顔で答えた谷口。彼の人柄を示すエピソードだった。
なおバルセロナ五輪では男子は森下公一が、女子では有森裕子が銀メダルを獲った。

マラソン選手にとって最も過酷だったのはどの五輪あるいは世界陸上だろうか。
マラソンはロード競技であり、トラック競技とは性格を少々異にしている。道路や環境の状況によって条件が違いすぎるためだ。
そのため、かつては競歩とともに世界新記録という言い方をせずに「世界最高記録」と言われた。

1983年に始まった世界陸上選手権の優勝タイムを合わせて比較してみると、優勝タイムの最も悪かったのは1968年メキシコ五輪の2時間20分台。
メキシコシティは海抜2240メートルの高地であり、空気抵抗が少ないため、陸上の短距離や跳躍で高記録が続出した。
一方、空気が薄いため長距離は苦しかったようだ。
エチオピアのマモーに続いて君原健二さんが2位に入ったが、タイムは2時間23分台。
マモーから3分以上離されていたことになる。
君原さんの走り方は首を振り、いかにも苦しそうに走るのだが、このときは一層苦しそうに見えた。

ついで注目は2つの東京のタイム。
1964年10月10日に開幕した東京五輪のマラソンは、すばらしい条件下で、アベベ・ビキラがローマ大会に続いて史上初の連覇を達成。世界記録のおまけもついた。
一方、1991年の東京世界陸上。
高地のメキシコを除いて、ここ40年間の五輪、世界陸上で最もタイムが悪い。
夏のマラソンとしては陸上史に残る過酷なレースである。

●世界陸上東京大会男子マラソン
1991年9月1日
スタート:午前6時
エントリー:60選手
完走:36選手、完走率60%
優勝:谷口浩美 記録:2:14:57
真夏のマラソンは過酷。
2020年の東京五輪は1991年よりもさらに暑い。
スタートは何時?完走できるのは何人?

日本で行われた灼熱のマラソンといえばもうひとつある。

●世界陸上大阪大会男子マラソン
2007年8月25日
スタート:午前7時
出場:87選手
完走:57選手、完走率66%
優勝:ルーク・キベト 2:15:59

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January 25, 2019

平成のスポーツの記憶② 代々木オリンピックプール最後の世界記録

平成1989

1964年の東京五輪のために建設され、2020年の東京五輪でも競技会場となる施設がいくつかある。
代々木競技場、日本武道館、東京体育館などがそうだ。

代々木競技場は、国立代々木競技場が正式な名称で、第一体育館と第二体育館からなる。
第一体育館は代々木体育館あるいは、代々木第一と呼ばれることが多い。が、かつてはオリンピックプールと呼ばれていた。
というのも1964年の東京五輪時は、水泳競技(競泳・飛込み)の会場だったのだ。

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当時から、プールだけでなく体育館しても使えるように設計されており、五輪後は、水泳と並んでフィギュアスケート、アイスホッケー、バレーボール、室内陸上、ボクシング等様々な競技が行われてきた。
また、コンサートの殿堂としても知られている。
最初に代々木を使ったアーチストは、1983年のチャゲ&飛鳥、外国人では1985年のブルース・スプリングスティーンだ。

平成元年 1989年8月21日、代々木のオリンピックプールで行われていた競泳のパンパシフィック選手権最終日、女子800m自由形でジャネット・エバンスが、自己記録を0秒90短縮する8分16分22の世界新記録を出した。
この前年のソウル五輪で3冠を達成したエバンスもこのときはまだ18歳、この記録がその後18年も生き残るとは思わなかっただろう。

バルセロナ五輪でこの種目に連覇したエバンスのタイムは8分25秒52。
そして、25歳で迎えたアトランタでは6位(8分38秒91)に終わった。

この種目、2004年のアテネ五輪では、柴田亜衣が金メダルを穫っているが、そのタイムは8分24秒54、エバンスの記録が、競泳の永遠に残る世界記録になりかけていた。

ところが、北京五輪で、イギリスのレベッカ・アドリントンが、8分14秒10で優勝、19年目の世界新記録となった。
ベッカ・アドリントンは、続く400mでも4分3秒22で優勝しており2冠となった。
女子競泳で、イギリス勢が金メダルを獲得するのは、1960年のローマ大会以来の快挙であり、4年後のロンドン五輪開催に向けての強化が実り始めていた。

このように代々木のオリンピックプールは、18年間もだれも超えられなかった世界記録を生んだプールだったのだ。
今でこそ、辰巳、習志野、横浜と国際規格のプールが首都圏に3つもあり、有明には五輪仕様のプールが建設されている。が、1989年当時は代々木にしかなかった。

ところが、水泳の競技施設としての代々木体育館は徐々に老朽化し、1997年頃にその役割を終えた。
それ以降オリンピックプールと呼ばれることはない。

体育館の設計は丹下健三の手によるもので、丹下の代表的作品とされる。
第一体育館・第二体育館とも、吊り橋と同様の吊り構造の技術を用いており、第一体育館は2本、第二体育館は1本の主柱から、屋根全体が吊り下げられている。
その形状の美しさは、1964年当時五輪のために来日した関係者にも強烈な印象を残したと言う。

現在、代々木第一体育館は、2020年の東京五輪のハンドボール会場として迎えるべく改装工事をしている。

●競泳女子800m世界歴代ランキング 1989年のエバンスの記録が堂々6位にランクされている。
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January 22, 2019

平成のスポーツの記憶① サウジアラビアに勝って貴乃花に負けたサッカー日本代表

平成1992

サッカーのアジア杯は21日、アラブ首長国連邦(UAE)のシャルジャなどで決勝トーナメント1回戦を行い、2大会ぶりの優勝を目指す日本はサウジアラビアを1─0で下し、準々決勝進出を決めた。 

アジア杯を4回制した日本に対し、3回の優勝経験のあるサウジアラビア。
決勝トーナメントで両者が当たるのはもったいない、そう思った人も多いだろう。
日本代表が、アジア杯に初めて優勝したのは1992年11月広島で開催された26年前のこと、相手はサウジアラビアだった。

舞台は広島ビッグアーチ、2年後(1994年)に開催予定の広島アジア大会のメインスタジアムとして新規に作られ、収容人数は50000人。
2002年のW杯のために日本各地に大競技場が揃ったが、この当時サッカーのできる大競技場は旧国立競技場(56000人収容=当時)、神戸ユニバ競技場(45000人)と広島ビッグアーチしかなかった。

当時、日本代表のアジア杯での最高成績は1988年の1次グループ敗退、アジア大会でも4強止まり。
アジアで大きな結果は残せていなかった。
が、この翌年1993年にJリーグの開幕を控え、1992年には最初のナビスコ杯が開かれるなど、Jリーグブームの兆しの中での大会だった。
監督は初の外国人監督であるハンス・オフト。

準決勝の中国戦を途中出場の中山雅史のゴールで3-2と競い勝ち、決勝では3連覇をめざしたサウジアラビアと対戦した。
立ち上がりから速いパス回しでサウジアラビア陣内に攻め込む日本代表。
前半36分、左サイドの三浦知良から出たボールを、ゴール前の高木卓也が胸で受けて落とし、そのまま左足でゴール。
1-0 サウジアラビアの3連覇を阻止し、初めてアジアを制した瞬間だった。

ところが、この試合の翌日 1992年11月9日(月)の全スポーツ紙の一面には何が来たであろうか?

貴乃花(当時貴花田)である。

貴花田は、1992年9月場所に2回目の優勝を果たし、11月場所は大関昇進が懸かっていた。
ところが、股関節故障を抱え初日から4連敗、その後持ち直して10勝5敗でこの場所を終えた。

貴花田の大関取りが持ち越された、というだけの11月8日のNHKの相撲中継の視聴率はなんと43.4%。
アジア杯 日本対サウジアラビアの試合は大相撲の裏 NHK衛星第一で中継され、視聴率は残っていない。

●日本代表先発メンバー
前川 (広島)←松永出場停止のため
堀池 (清水)
柱谷 (川崎)
都並 (川崎)
井原 (横浜M)
福田 (浦和)
ラモス(川崎)
北沢 (川崎)
吉田 (ヤマハ)←中山ともどもJFLのヤマハから選出されていた
(勝矢 横浜M)
三浦 (川崎)←まだ現役
高木 (広島)

●1992年の視聴率トップ10
順位 番組名(放送日)視聴率
1.紅白歌合戦(12月31日) 57.9%
2.おんなは度胸(10月3日) 48.8%
3.大相撲九州場所(11月8日) 43.4%←この日にアジア杯決勝が行われた
4.ひらり(10月6日)    42.5%
5.大相撲初場所(1月26日) 39.5%
6.君の名は(2月13日)   37.7%
7.プロ野球日本シリーズヤクルト×西武第6戦(10月25日) 36.7% 
8.ずっとあなたが好きだった(9月25日) 36.0% 
9.大相撲秋場所(9月25日) 35.8%
9.スターものまね王座決定戦(12月1日) 35.8% 

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January 18, 2019

1981年バーデンバーデン オリンピック史に残る日

ドイツ南部にバーデンバーデンという温泉地がある。
人口5万人ほどの小さなまちだが、観光と保養で欧州中に名前が通っている。
そのため、年に数回はテレビを観ているとその地名を聞くことがある。
その度にぼくはこの日のことを思い出す。
この日をきっかけに五輪は排他的エリート意識の産物から、プロ解禁による普遍的なスポーツの祭典へと変わっていくのだ。

今から38年前の1981年9月29日。
当時は西ドイツとよばれていた国のバーデンバーデンでIOCの会議、五輪コングレスが開催された。
五輪コングレスとは、IOC総会よりも規模が大きく、この先の五輪運動の根本からを話し合うための会議である。

実はバーデンバーデンでは、1988年冬季・夏季五輪開催地を決めるIOC総会も行われた。
「名古屋 ソウルに敗れる!」
というやつだが、今回は敢えて触れないこととする。

この当時、世はまさに東西冷戦下。
この前年に開催されたモスクワ五輪は、アメリカ、カナダ、西ドイツ、日本などの主要国がボイコットし、片肺に終わっていた。
(勘違いをしている人が多いが、イギリス、フランス、イタリアなど欧州の主要国は抗議こそすれど、モスクワ五輪に参加している。)

当時のIOC委員は現在のように、選手出身の委員よりも、欧州の王族や経済的な成功者が多くを占めるブルジョアクラブのようになっており、スポーツの世界、あるいは社会全体の動きに疎い連中の集まりだった。
そのため、IOCは、「モスクワ五輪ボイコット」を突如ぶちまけたジミー・カーター米国大統領(当時)を説得するでもなく、打開案を見出すでもなく、みすみす五輪の崩壊を指をくわえて見ていただけだった。

1980年にIOC会長になったばかりのアントニオ・サマランチは、銀行家から外交官になり、IOCに入った人物だが、社会の変化と現状を示そうと、五輪コングレスで初めて、現役選手に発言の場を与えたのだ。
このときIOCを舞台に、選手の立場から初めて演説をしたのがセバスチャン・コー。
世界に3人しかいないモスクワ・ロサンゼルスの両五輪で金メダルを獲ったコー。
ラミーヌ・ディアクの後の国際陸連会長を務める彼は、モスクワに選手を送らなかった国、送ることをじゃました国を痛烈に批判し、

「現代の五輪選手の負担は大きく、その犠牲は無視すべきでない。IOCには、選手への社会的配慮を保証する、道義的義務がある」

と訴えた。
さらには、近代五輪が誕生したときからの最大の課題、スポーツを通じて報酬を得る選手(いうなればプロ)の五輪参加を認めるかどうかのアマチュア問題を一刀両断していった。

そしてコーのスピーチは、IOC内部に選手委員会の創設をももたらし、コー自身が初代委員長になった。
選手には、現場で何が起きているかを一番良く知っている。
だから、現在は選手が互選した者が、IOCの委員にもなり、選手委員長はIOCの理事も務めている。

バーデンバーデンのIOCコングレスで選出されたIOC選手委員の初代メンバーがこの5人である。

キプチョゲ・ケイノ(ケニヤ)陸上競技金・銀メダリスト
スベトラーナ・オツェトバ(ブルガリア)ボート金メダリスト
トーマス・バッハ(ドイツ)フェンシング金メダリスト 現IOC会長
セバスチャン・コー(イギリス)陸上競技金・銀メダリスト 
ピーター・タルバーグ(フィンランド)ヨット選手

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