デドー監督逝く
米アマチュア球界の“顔”で日米大学野球の創設に尽力したラウル・デドー南カリフォルニア大(南加大)元監督が5日、脳卒中による合併症で死去した。91歳だった。AP通信が伝えた。 デドー氏は、86年に引退するまで45年間にわたって南加大の監督を務め、11度、全米大学選手権を制した。この間、シーズン70本塁打のマグワイア、快速球で通算311勝のシーバー、現役左腕のジョンソン(ヤンキース)ら、60人近い大リーガーを育て「20世紀最高の監督」とたたえられた。 50年代から南加大を率いて来日、72年に始まった日米大学選手権の創設に力を注ぎ、同選手権では監督などで米代表を率いた。自宅に和風の風呂を設けたほどの親日家で、巨人入りを希望し野球留学した江川卓氏を受け入れたことでも有名。愛称「ラウル」。日米の大学野球の交流に尽くしたことが認められ、96年に勲四等旭日小綬章を受章した。(共同通信 06.01.06)デドー監督、懐かしい名前です。 日本語も上手で、日米大学球界の架け橋でした。ご冥福をお祈りします。
南カリフォルニア大学の監督だったラウル・デドーは、1984年彼の故郷ロサンゼルスで開催された五輪で、五輪史上初となる全米代表チームを指揮した。
全米チームは、マーク・マグワイア(南カリフォルニア大学)、ウィル・クラーク(ミシシッピ州立大学)とバリー・ラーキン(ミシガン大学)といった大学球界のスター軍団だったため、公開競技で8カ国の参加ながら、延べ385,000人以上の観客が詰め掛けた。
史上最強との呼び声が高かった全米チームは、予選リーグは難なく突破、準決勝ではドン・オーガストの好投とO・マクダウェルのツーランホームランで5-2で韓国を下した。
決勝の相手である日本には、6月のプレ五輪でも勝っており、全米チームの優勝は間違いないと見られていた。
ところが、決勝の日本戦、3-3で迎えた8回の表、4番明大4年の広沢克己にスリーランホームランが飛び出す、アメリカは伊東昭光(元ヤクルト)ら3投手の継投をついに崩すことができず、
日本が金メダルを獲得した。
実は、日本代表は前年に開催されたロサンゼルス五輪予選で、韓国が優勝、台湾との2位決定戦に敗れ、五輪出場権を得られていなかった。
ところが、東側諸国のボイコットにより、キューバが不参加、急遽日本に参加が要請された。
日本は将来のためにと大学生と社会人の平均年齢22・5歳という若手で臨み、金メダル。
当時、日本代表の主力だった青島健太(東芝)等は選ばれなかった。
青島は、自分のいない日本代表が金メダルを獲ったことで、アマチュアでいても金メダルチームよりも評価されることはない、と判断。東芝ではエリート社員で翌年の筑波科学博の担当も決まっていたにもかかわらず、プロ入りを決意。
ドラフト外でヤクルトに入団することになる。
因みにこの年のヤクルトのドラフト1位は、金メダルの立役者広沢克己だった。
日本代表が手にした金メダルだが、公開競技ということで表は通常のメダルと同じデザインだったが、裏面は異なったデザインだったことは余り知られていない。
また、この大会日本は10個の金メダルを獲得するも、野球の分は当然カウントされていない。
●1984年ロサンゼルス五輪 公開競技野球
金 日本
銀 アメリカ
銅 台湾
▲PHOTO:デドー全米監督と松永怜一日本代表監督 84年ロス五輪
The comments to this entry are closed.
Comments