« <速報>原田雅彦、里谷多英トリノ五輪代表決定! | Main | とかく五輪はカネ次第 スポンサー様万歳 »

January 10, 2006

船木和喜 辞めてしまうにはまだ早い

残念ながら船木和喜の3度目の五輪出場はならなかった。
もう8年も前のことだ。
長野五輪の個人LHを見に行っていた。
このとき僕が考えていたのは「五輪年のジャンプ週間のチャンピオンが、金メダルを外すことだけはやめてくれ」だった。
逆説的な応援だったと思うが、船木はこの一月まえのジャンプ週間で総合優勝した。
ジャンプ週間のチャンピオンは必ず、五輪でも金メダルを獲ってきたのだ。
先に行われたNHで船木は2位に入っていた。金メダルを獲るならこの日しかない。
競技前、各選手が1本ずつ試技を飛ぶ。
最後に船木が飛んでくる。
観ていた僕の目の前で着地、得意のテレマークをと思ったら、転倒。
オイオイ、金メダルは大丈夫なのか?
しかし、本人は全く悪びれず笑っていた。

競技が始まった。
一本目、トップに立ったのはビドヘルツル(オーストリア)、2位に岡部考信がつける。
130m以上を飛んだのはこの二人だけ。
そしてNH金メダリストのソイニネン(フィンランド)、船木は4位だった。
ソイニネンとの差は僅かだったが、ビドヘルツルとはちょうど9ポイント差。
最長不倒で勝負するタイプでない船木としては2本目もビドヘルツルが大ジャンプを飛ぶと、金メダルは遠のいてしまう。

と、思いつつも2本目は進んでいった。
このときの船木はまさに怖いもの知らずだったのだろう。132.5mを飛ぶと6人の飛型審判員は全員が20点を付けた。
1本目3位のソイニネンは126.5m、2位の岡部孝信は119.5m、1位のビドヘルツルは120.5mといずれも船木を上回れない。
1本目6位で、2本目の計測に時間がかかっていた原田雅彦の距離が136mと発表され、船木の金、ソイニネンの銀、原田の銅が決まった。

原田の計測にことのほか時間がかかっている最中、場内には説明がなく、いらいらしたものの、ジャンプ週間チャンピオンの五輪個人金メダルは長野五輪でも達成され、なぜかほっとしていた。

この後、ジャンプ団体でも日本チームは金メダルを獲得し、長野五輪のジャンプは大盛況の内に幕を閉じた。
このときだ、あるヨーロッパのジャンプ伝統国のスキー連盟会長が苦々しくこういったという。
「もう、ジッパーアイには金メダルを獲らせない」

ジッパーアイとは、ジッパー(ファスナー)のように目の細い人、つまり東洋人をさす蔑称である。
当然、日本人をさしている。
船木も原田も目は大きいのだが・・・。

これまでもノルディック複合で、荻原健司が活躍中には、ジャンプよりも距離が有利になるようにルール改正がされた。
ほかの競技でも、競泳背泳でのバサロスタートの制限など、日本たたきのためのルール改正はいくらでもある。

ジャンプでは、スキー板の長さが身長+80センチだったところが、身長の146%に改められた。
だいたい身長175センチ以上の選手にはこれまでよりも長い板が、175センチよりも低い選手のスキー板は短くなった。
船木の場合、身長は実測で174センチ台だったはずだ。
スキー板の長さはほとんど変わらないはずなのに、微妙なジャンプのずれが生じてきた。
さらに、明らかに他の選手よりもジャンプ台を滑っていく速度が遅いのだ。

1999年のラムソーの世界ノルディック選手権NHで船木、宮平、原田でメダル独占をやってのけると、その後は長期不振に入っていく。

2002年のソルトレークシティ五輪ではNH 9位、LH 7位に終ったものの、日本人選手の中では最も上位だった。
原田、山田、宮平、船木で臨み5位に終った団体でも4番目の選手の中では2位の得点を出していた。しかし、W杯でも予選落ちがおおくなっていく。

2005年のオーベルストドルフの世界ノルディック選手権ではついに日本代表から落ちた。

ヤンネ・アホネンによると、ジャンプはその70%がメンタルな部分に影響される競技だそうだ。
1994年のリレハンメル五輪ジャンプ団体でまさかの失速をやってしまった原田雅彦が、この数日後に挑んだNHでは56位に沈んでいる。
原田の精神的ダメージがいかに大きかったかが伺える例だ。

かつて、デサントに所属していた船木は、独立するまで八木弘和氏のコーチを受けてきた。
1980年レークプラシッド五輪、日本ジャンプ陣は、秋元正博と八木弘和の2枚看板で臨んだ。
レークプラシッド五輪直前の札幌のW杯では秋元、八木で1、2フィニッシュを決め、札幌五輪以来のメダル獲得の期待が膨らみ始めていた。

この当時実施されていたのは、70M級ジャンプ(現NH)、90M級ジャンプ(現LH)の2種目のみで、団体戦が実施されるようになるのは88年カルガリー五輪からである。
70M級、八木は1本目に87M、2本目に83.5Mを飛び、オーストリアのインナウアーに次いで銀メダルを獲得。
エース秋元正博は1本目83.5M、2本目87.5Mで惜しくも4位に終わった。

続く90M級、秋元の10位が最高で八木は19位。
フィンランドのトルマネンが優勝。日本人選手がラージヒル=90M級で金メダルを獲るのは、それから18年後の長野五輪の船木和喜だ。

さて、1984年サラエボ五輪、絶不調の八木は70M級で58人中55位に終る。4年前の銀メダリストがびりから4番だったことになる。特に2本目は62mしか飛べなかった。
ところが、これで憑き物がとれたのだろう。
身体は急に軽くなり、90m級の練習ではK点越えジャンプを連発。
ひょっとしたら、と関係者をあわてさせた。
結果は19位に終ったものの、僅か数日で別人のように飛べるようになった例だ。

船木はこのときの八木さんの状況に似ているのではないだろうか。
五輪代表を落ちたことで、今まで背負ってきたプライドも自負も全て振り払ってゼロから始めてほしい。
五輪前に札幌にW杯が来る。また来年はとうとう札幌で世界ノルディックが開催される。
これで辞めてしまうには早すぎる。

ついでながら、一方の秋元は82年、自動車運転中にスピードの出し過ぎにより死亡事故を起こし、謹慎という形で翌シーズンを棒に振る。
84年、五輪を含めた海外での競技の辞退するよう文部省(当時)が圧力をかけ、サラエボ五輪出場は果たせなかった。
国内で出場した大会では、W杯での1勝を含め23戦し15勝のシーズン最高勝利を記録した。特に当時全盛期のマッチ・ニッカネンを破った大倉山のW杯は良く覚えている。

やがて、国際舞台に復帰した秋元は、86年世界フライング選手権に出場。これが大事故を招くことになる。
初めてのフライング挑戦だった秋元は2日目に空中でバランスを崩し、転倒。
右足複雑骨折の重傷を負った。
医者には2度とジャンプを続けることは無理だと宣告されたが、不屈の精神で復活。が、けが以前のような調子には戻らなかった。
加えて31歳という年齢には勝てず、1988年のカルガリー五輪代表に入ることができなかった。
この大会、はじめて行われたジャンプ団体 佐藤晃、田尾克史、田中信一、長岡勝で挑んだ日本チームは最下位の11位に終った。

●トリノ五輪出場選手の五輪の戦績
<原田雅彦>
2002年
NH 20位
LH 20位
TEAM 5位 原田、山田、宮平、船木

1998年
NH 5位
LH 3位
TEAM 1位 岡部、斉藤、原田、船木

1994年
NH 56位
LH 13位
TEAM 2位 西方、岡部、葛西、原田

1992年
NH 14位
LH 4位
TEAM 4位 上原子、葛西、原田、須田

<葛西紀明>
2002年
NH 49位
LH 41位
TEAM なし

1998年
NH 7位
LH なし
TEAM なし

1994年
NH 5位
LH 14位
TEAM 2位 西方、岡部、葛西、原田

1992年
NH 31位
LH 26位
TEAM 4位 上原子、葛西、原田、須田

<岡部孝信>
1998年
NH 6位
LH なし
TEAM 1位

1994年
NH 9位
LH 4位
TEAM 2位 西方、岡部、葛西、原田

<参考:船木和喜>
2002年
NH 9位
LH 7位
TEAM 5位 原田、山田、宮平、船木

1998年
NH 2位
LH 1位
TEAM 1位

●参考記事
苦悩する船木和喜 COCでも惨敗

|

« <速報>原田雅彦、里谷多英トリノ五輪代表決定! | Main | とかく五輪はカネ次第 スポンサー様万歳 »

Comments

そうでしたか。。。船木選手。
わたしは、またみたいと思います。
白鳥が湖に舞い降りるような美しいフォームを。

Posted by: kobayashi jin | February 13, 2006 08:18 AM

The comments to this entry are closed.

« <速報>原田雅彦、里谷多英トリノ五輪代表決定! | Main | とかく五輪はカネ次第 スポンサー様万歳 »