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June 07, 2006

プラティニ、ストイコビッチ、ロマーリオ、クリンスマン・・・実は大物選手も参加していたオリンピックのサッカー

過去にこのブログでも千葉のオシム監督が東京五輪に出場していること、ジーコ日本代表監督がミュンヘン五輪を目指していたことなどを書いてきた。
実は、思わぬ大物選手が、若き日に五輪のサッカーのピッチに立っている。

今となっては信じがたい話しだが、五輪にはアマチュア憲章なるものがあり、プロの参加が認められていなかった。そのため、西欧のサッカー強豪国はW杯を唯一無二の世界一決定戦と見るようになる。

すると、五輪サッカーの主役となったのはステート・アマを擁した東側諸国である。
事実 五輪サッカーの金メダルは1952年のヘルシンキ大会から1980年のモスクワ大会まで東側諸国が独占している。

メダルには届いていないが1976年のモントリオール大会のフランスチームには21歳のミッシェル・プラティニが、メキシコチームには18歳のウーゴ・サンチェスがいた。
当時のプラティニは背番号11、フランスは準々決勝で敗れたものの、プラティ二は3点を挙げた。
 
サマランチIOC会長、ユベロス組織委員長が登場し、五輪そのものが大きくオープン化され、プロの参加に道が開かれたロサンゼルス五輪。
W杯の威厳を守りたいFIFAはIOCと対立しながらもヨーロッパ、南米の選手はW杯に出場した事のある選手除くという妥協点を見出し、プロの参加を認めた。
事実上、若い才能のある選手が五輪に出場することになる。

ソ連、東ドイツなど東側諸国の報復ボイコットに遭った1984年のロサンゼルス大会
とはいうものの東側からも、独自の社会主義路線を進めていたユーゴスラビア(当時)、ルーマニア、そして長いブランクの後IOCに復帰していた中国は参加の道を選択した。

サッカーの金メダルはブラジルを下したフランス、3位決定戦はイタリアとユーゴスラビアで争われた。
この試合ユーゴスラビアには、ドラガン・ストイコビッチ、イタリアにはフランコ・バレージ、ダニエレ・マッサーロ、ピエトロ・ビエルコウッドが揃う豪華なチームだった。
さらにグループリーグで敗退したカメルーンにはロジェ・ミラーがいた。
ミラーは1982年のW杯に出場していたのだが、アフリカの選手であるため五輪出場が可能だった。このとき32歳。
イタリアW杯で活躍するのは38歳のときである。

1991年に崩壊するソビエト連邦は、1988年のソウル大会が結果的にソビエトとしての最後の五輪となった。
1956年のメルボルン大会以来2回目のサッカー金メダルを獲得した。
五輪を国威発揚のために使ったソ連もサッカーだけはなかなか勝てなかった訳だ。

決勝戦はブラジル相手に延長の末2-1で辛勝だったが、このときのブラジルのGKはクラウディオ・タファレル。
ほかにもジョルジ―ニョ、ロマーリオ、ベベトと1994年W杯アメリカ大会優勝のメンバーが顔を揃えていた。
また、銅メダルを獲った西ドイツ(当時)には現ドイツ代表監督クリンスマンがいた。

1992年のバルセロナ大会から年齢別のカテゴリーがはっきりとし、五輪のサッカーは23歳以下になった。
となると、どの大会に誰が出ていたかはあまり問題ではなくなる。
そして1996年のアトランタ大会に日本は28年ぶりに五輪出場を果たし、2000年シドニー大会、2004年アテネ大会と連続出場を続けている。

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