北朝鮮のシンクロW杯入国拒否とマラドーナの思い出
14日、横浜国際プールで開幕したシンクロナイズドスイミングのW杯で北朝鮮代表選手団のアン・ソダン団長ら役員3人が入国を拒否され、選手は入国を認められたものの、来日はせず、W杯には不参加となった。
これに対し、在日本朝鮮人体育連合会は同日、東京都内で記者会見し、「スポーツ交流に政治を介入させ、正常な交流まで阻害する不当な制裁措置だ」と抗議した。
同連合会によると、法務省にビザ発給を拒否された役員3人のうち2人は国際水連に認められた国際審判員。「政府関係者の疑いがあるということを入国拒否の理由としているが、関係者でなかった場合どうしてくれるのか」などと話した。
日本政府は、7月にミサイルを発射した北朝鮮に対して、国連安保理の非難決議と改正外為法に基づき、海外への送金禁止や資産凍結などを盛り込んだ金融制裁を月内にも発動する方針を固めている。
安保理決議から2カ月が経過したにもかかわらず、北朝鮮側が6カ国協議復帰など対話に応じる姿勢をみせないためだ。
シンクロの役員の入国拒否もこの制裁の一環であるのだが、いつまでも懲りない人たちだ。
このはなしを聞いて、思い出したのはサッカー 元アルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナだ。
マラドーナの世界デビューは、1979年東京で行われたWユース選手権。
日本に対して少なからずの思い入れがあるらしいが、後年度々入国拒否されたのだ。
1994年のことだ。
前年のドーハの悲劇でアメリカW杯の出場権を逃した日本は、キリン杯にアルゼンチンとやはりロスタイムにブルガリアに追いつかれ出場権をさらわれたフランスを招こうとした。
ところが、マラドーナには過去にコカイン吸引の前歴があり、刑事処分も受けており、法務省が入国を許可しなかった。
アルゼンチンは「マラドーナを入国させないなら来日しないと」言い出し、急遽オーストラリア代表が呼ばれた。
当時、フランス代表にはジャンピエール・パパン等がいた時代で、日本対フランス戦では売り出し中だった小倉隆史が1点獲った。(これがA代表唯一のゴールかもしれない)
その後マラドーナは2000年のTOYOTA杯 レアルマドリード対ボカジュニアーズの観戦
のために来日しようとしたがまたも拒否された。
そして2002年、マラドーナは日韓共催のW杯にアルゼンチン代表の応援に来日しようとする。
このときは、外務省は入国に前向きな姿勢だったが、法務省が難色を示し、国会でも問題になった。
「マラドーナはW杯期間中は、麻薬中毒のリハビリ治療を受けたキューバで過ごす」と発表された直後、法務省が入国を許可するも、本人はついにやって来なかった。
結局アルゼンチンはナイジェリア、イングランド、スウェーデンとの死のグループF組を勝ち抜けず敗退したのはまだ記憶に新しいところだ。
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