ミュンヘン2018年冬季五輪招致へ
ドイツ五輪委員会(DOSB)はフランクフルトで理事会を開き、ミュンヘンの2018年冬季五輪開催地立候補を支持する方針を固めた。
ミュンヘンは1972年に夏季五輪を開催しており、開催地となれば同一都市での夏、冬両五輪の開催は初めてとなる。
ハンブルグとベルリンが2016年夏季五輪招致に関心があるといわれて来たが、2012年の夏季五輪が同じヨーロッパのロンドンに決まったため、夏季五輪招致を回避、ミュンヘンでの冬季五輪招致を決めたようだ。
ミュンヘン市のあるドイツ南部、オーストリアと国境を接するバイエルン地方はアルプスの一角をなし、多くのスキー場が点在している。
ジャンプ週間でお馴染みのオーベルストドルフ、ガルミッシュ・パルテンキルヘンも近い。
このあたりは、ドイツ最大のスキー場としてだけでなく、ドイツ有数の高級保養地として国際的にも名高い。
そのガルミッシュ・パルテンキルヘンは、1936年の冬季五輪開催都市としても知られる。
当時は、夏季五輪開催国が、冬季大会も併催することになっていた。
そのため、1940年の幻の東京五輪の半年前にはやはり幻の札幌五輪が予定されていたのである。
ドイツでは1936年にベルリン、1972年にミュンヘンで夏季五輪を開催しているが、東西ドイツの統一後は一度も五輪開催はない。
ベルリンは2000年夏季五輪に立候補したものの、シドニーに敗れ、2012年の夏季五輪招致に立候補したライプツィヒは予備選考(1次選考)で落選している。
2018年の冬季五輪には、フランスのアネシー、ノルウェーのトロムソー等が立候補する予定だ。
2014年冬季五輪招致でソチに敗れたザルツブルクは招致断念、平昌は態度を表明していない。
ミュンヘンといえばやはり思い出すのはテロだ。
ナチス ヒットラーの政治宣伝に利用されたベルリン五輪から36年経過した1972年、民主主義が成熟した新生ドイツをアピールすべく、西ドイツ(当時)は、ミュンヘンで五輪を開催した。
西ドイツは、ミュンヘン五輪の成功でベルリン五輪の暗い影を払拭するはずだった。
だが、西ドイツ政府の思いとは裏腹に、ミュンヘンは近代五輪史上最大の悲劇の舞台と化してしまったのである。
9月5日、イスラエル選手宿舎に侵入したテロリスト“黒い9月”の7名は、イスラエル選手団のレスリングコーチとウェイトリフティングの選手2名を射殺し、選手とコーチ9名を人質として拘束した。
彼らは、人質にしたイスラエル選手とコーチと交換に、イスラエルの刑務所に拘留されている256名のパレスチナ人の釈放を要求。
西ドイツ警察は、テロリストが人質を連れて五輪村を出てヘリコプターに乗り移る際、テロリストを狙撃しようとするも失敗。
彼らは、手榴弾を2機のヘリコプターに投げ込み、人質のイスラエル人9名とドイツ人のヘリコプター・パイロット全員が殺害されたのである。
この事件により、競技は中断、翌日メインスタジアムで追悼式典が行われた。
ブランデージIOC会長は、テロに屈しないオリンピックを主張、競技は再開された。
しかし、ミュンヘン五輪は血の塗られた大会として記憶されている。
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