サッカーソウル五輪アジア最終予選 日本対中国 国立競技場
11月17日 サッカー日本五輪代表は4-0でベトナムに勝利、一方サウジアラビアが2-1でカタールに勝ち、カタールの予選敗退が決定、21日の日本対サウジアラビアで、日本は勝つか引き分けるかで北京五輪出場権を得る。
ホームの国立競技場で勝つか引き分けで五輪出場が決まる、同じようなことが昔あった。
もう20年も前のことになる。
翌年のソウル五輪を控えた1987年、メキシコ五輪以来20年ぶりの五輪出場を日本代表は目指していた。
1986年のW杯出場を争った韓国が五輪開催国として出場権を持っていたため、これまでの五輪予選に比べ比較的楽に予選突破が可能ではないかと見られていた。
事実日本は最終戦を前に4勝1引き分けで、勝ち点9、最終戦の相手の中国は3勝1敗で勝ち点7。
特に10月4日に広州で行われたアウェーの中国戦は1-0で日本が辛勝。
シュートの数は日本3に対し中国は20。フリーキックを得た水沼(日産)が時間を置かずにすぐセンタリング、これを原(三菱)がヘディングで挙げた貴重な1点を守って先勝している。
試合が始まった。
勝った方が五輪出場権を手にする激しい試合。ともにディフェンシブな立ち上がりたが、ディフェンスが素早く攻め上がる中国が、左右からの速い展開を仕掛ける。
中国の2トップは、前半15分から一方的に日本ゴールを脅かし、37分 左からの大きなセンタリングを長身FWが頭に合わせ0-1。日本はこの予選初の失点だった。
1点を獲り引き分けに持ち込みたい日本は、守りを固めた中国守備陣を崩し切れず得点できず、逆に82分、だめ押しの2点目を奪われてしまう。
これでソウル五輪出場権は中国が獲得、中国は五輪サッカー初出場。一方の日本は5大会連続の予選敗退となった。
日本代表には木村和司も奥寺康彦もいた。が、大半は終身雇用制の中の大企業の社員選手だった。
数字上は日本有利だったがが、捨て身で攻めれば良い中国と、20年ぶりの五輪と大合唱するマスコミ、国立競技場を埋めた大歓衆の前で負けられない日本代表のプレッシャーは想像に難くない。
今から思えば負けるべくして負けたと思う。
▼アマからプロへ
当時はJリーグ発足前の日本リーグ時代 プロの選手はいなかったのか?
1969年に設立されたサッカーの読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)の出現は、企業アマの形態を崩す一助となった。
試合の結果に対して選手に報酬を出したのである。読売クラブの選手は原則社業がない。彼らがサッカーを職業とし、その対価として給与をもらっていた。
すると1972年設立の日産自動車(現横浜Fマリノス)をはじめ、新興チーム、老舗のチームにも事実上のプロ選手が現れる。
こうした形態を日本サッカーリーグ事務局、又日本サッカー協会が追認する形で認めたのが1986年から始められた実質的なプロ契約である「スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度」である。
当初西ドイツのブンデスリーガでプレーし、日本に帰国し古河電工に復帰した奥寺康彦のために用意した制度だったが日産自動車の木村和司も自ら手を挙げた。
そして日立、古河電工などでアマチュアとして登録していたものの実態は何らかの手当てを受け取っていた選手を、「ノン・アマチュア」、全く社員のままの選手を「アマチュア」と区分した。
翌年「スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度」と「ノン・アマチュア」を統合、プロ選手は57人に増えた。
▼Jリーグ誕生
プロリーグへの待望論は、読売や日産、全日空、ヤマハといった後発チームの方が積極的であり、古河、三菱、日立といった老舗チームは消極的であった。
しかし後発チームに古河、三菱からのスタッフを加えたプロジェクトチームがプロリーグ構想を推し進め、1991年に日本プロサッカーリーグの構想を発表、1993年にJリーグが開幕した。
開幕後 日本は1996年のアトランタ五輪から3大会連続五輪出場を果たしている。
The comments to this entry are closed.
Comments
こんばんは。どうもご無沙汰しました。
不本意ながら、なぜか妙に忙しく、アクセス自体もあまりできませんでした。ボクシングの世界選手権の話など、必ず話題にしてくれると思っていたので、私も書き込みたかったのですが、どうもすみません。
>開幕後 日本は1996年のアトランタ五輪から3大会連続五輪出場を果たしている。
そうですねえ。その前のW杯も含めて、どうしても国際大会に出られなかった日本サッカー界のことを考えると信じられない気さえします。今回も、明日のサウジアラビア戦に引き分ければ、出場というところまで来ました。ただ、ホームとはいえ、相手に自力進出の目があるだけに、20前の悪夢が繰り返されなければと願うばかりです。
サッカーのオリンピック予選と言えば、やはり最も印象強いのは、銅メダルを獲得したメキシコ大会の予選ですね。管理人さんは、リアルタイムで見ていないにしても、この予選のことはよくご存じかと思います。
東京でのセントラル方式での総当たり戦での予選でした。事実上の代表決定戦だった、日本対韓国の試合は、小学校5年生だった私が、サッカー観戦中に思わず立ち上がり、日本の旗を紙でこしらえて、フレーフレーニッポンと叫ばずにはいられなかった激闘でした。試合は3-3の引き分けでしたが、残り5分の韓国の猛攻は、とても生きた心地はしなかったです。シュートがクロスバーに1回、ゴールポストに1回当たって跳ね返ってきましたが、あそこで決められていれば、銅メダルを取ったメキシコ五輪への出場はなかったわけですから、ほんとに勝負は紙一重だと思います。
得失点差の勝負になり、日本が初戦のフィリピン戦で15-0で勝ったのが効いて、出場となりました。もっとも、日本対韓国は最後から2番目の試合で、日本が3位の南ベトナムとの対戦を残していたのに対し、韓国がフィリピン戦を残していたので、一筋縄では行かなかったのですが・・・
釈迦に説法になってもいけないのでこれ以上は控えますが、明日はすんなり行きますかねえ。でもすんなり出ても、前回のように本大会で惨敗しても空しいですしね。どうにかしてもらいたいです。
Posted by: でいのしん | November 20, 2007 09:13 PM
でいのしん様
こんにちは。
いつもありがとうございます。
あの伝説のメキシコ五輪予選に行かれてるのですか。
言葉が悪いかもしれませんがまさに戦後スポーツ界の生き字引ですね。!?
ボクシング、コメントお待ちしていますよ。
Posted by: 管理人 | November 20, 2007 10:53 PM
いやいや、書き損ねましたが、「テレビで」観戦中の話です。すみませんです。サッカーを見て初めて興奮し、思わず立ち上がり、旗を作って振りながらテレビを見たんですよ。小学生でしたから(笑)。
私は中学ではサッカー部に入り、先生のコネで、国立競技場でのベンフィカ・リスボン対日本代表の試合のボールボーイをしたことがあります。エウゼビオを目の当たりに見たのが自慢です(笑)。
それにしても、昔は日本代表(五輪代表も含めて)のサッカーの試合を見るのは、いつもつらかったですねえ。
バルセロナ五輪の最終予選なんか、セントラル方式の総当たり戦で6チーム中、上位3チームが出られるのに、ダメでした。韓国戦なんか初めからスコアレス・ドロー狙いで、ボールは8割方韓国にキープされながら、必死に耐えたのに、後半43分に決勝点を決められたりとか・・・
こっちも翌日の仕事を気にしながら、寝不足覚悟で見てるのに、がくっとしました。主将の沢登など、全く良いところなしで・・・
当時は勝ちが勝ち点2、引き分けが勝ち点1だったので、当初は「全試合引き分けで勝ち点5を取れば、3位で出られる」などという超消極論が支配的(笑)でした。
でも、この予選、Jリーグの始まるわずか2年前に行われたのに、この予選の話を振って、乗ってきた人に会ったことがありません。まったくその後のサッカー人気の方が信じられない(笑)です。
Posted by: でいのしん | November 21, 2007 01:21 AM
エウゼビオの現役時代を生で見た人に初めて出会いましたよ。(笑)
のポルトガル代表といってもモザンビーク出身で、イングランドW杯の北朝鮮戦で世界に知られたんでしたね。
バルセロナの日本代表には、沢登正朗、名波浩、小村徳男、名良橋晃などその後A代表に入る選手も結構いたのに… 敗因は総監督だった横山謙三氏の采配でしょうか?
Posted by: 管理人 | November 22, 2007 10:10 PM