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March 18, 2008

8大会32年に渡って五輪出場を果たした馬術選手

五輪は4年に一度の開催だから、なかなか複数回出場することは難しい。
それでも、近年選手寿命が伸びているため、昔に比べて連続出場は随分増えた。
北京五輪出場を果たせば、谷亮子は5回目となる。
ほかにも下記の選手が、1996年アトランタ五輪から連続4回目の五輪をめざしている。

野村忠宏 柔道
朝原宣治 陸上短距離
山本貴司 競泳バタフライ
塚原直也 体操

ところが、世界は広い。
過去の五輪で最多連続出場は、イタリアの男子馬術代表、ライモンド・ディンゼオの連続8回。
1948年のロンドン五輪から1976年のモントリオール五輪まで32年間に渡って出場し、1個の金メダルを含めて6個のメダルを獲った超人だ。
ライモンド・ディンゼオ以外にも、連続出場ではないが、40年かけて8回の五輪出場を果たしたヨットの選手が2人いる。

日本人では、ロサンゼルス五輪ラピッドファイアーピストル金メダルの蒲池猛夫氏が、モスクワ五輪を含む5回連続代表という記録がある。
アーチェリーのアテネ五輪銀メダリスト山本博氏、同じく松下和幹氏が連続ではないが5回出場(代表)している。
北京の出場権を失った山本だが、ロンドン五輪に意欲的であり、6回目もあるかも知れない。

アルベールビル五輪銅メダリストで、現参議院議員の橋本聖子氏は冬4回、夏3回の合計7回の日本人最多五輪出場記録を持つ。

冬季五輪は、アルベールビル五輪(1992年)と、リレハンメル五輪(1994年)の間が2年だったため、原田雅彦、葛西紀明のジャンプの2選手が5回五輪出場をしている。
葛西はまだ現役であるため、山本同様6回目があるかもしれない。

●4回以上五輪に出場した選手

(夏季五輪)

選手

48

52

56

60

64

68

72

76

80

84

88

92

96

00

04

08

ディンゼオ

銀銀

金銅

小野喬

三宅義信

菅原武男

猫田勝敏

蒲池猛夫

松下和幹

山本博*

谷亮子

橋本聖子

小野喬氏の獲得メダルは52年銅156年金13160年金31264年金1の合計13

(冬季五輪)

選手

64

68

72

76

80

84

88

92

94

98

02

06

笠谷幸生

橋本聖子

荻原健司

原田雅彦

金銅

葛西紀明*

清水宏保*

金銅

岡崎朋美*

里谷多英*

*は現役選手

 

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Comments

名前を挙げられた選手で唯一球技(しかも団体球技)の選手はバレーの猫田勝敏さんだけですね。
団体球技の場合たとえ本人の調子がピークでもチームが下降線を辿ると大舞台に立つ事が困難になるので当時の日本男子が世界のトップに君臨していたのも幸いだったと思います。
ただ皮肉にも猫田さんが余りにも偉大すぎた存在だった為、次世代のセッターが育たなかったのがミュンヘン後の低迷に繋がりました。
モスクワ五輪の予選ではアジア予選で中国と韓国に屈し、世界最終予選では欧州勢に惨敗して史上初めて五輪出場を逃しました。
実はこの予選まで猫田さんが正セッターだった(しかもとても不調でした)のが世代交代に完全に失敗している事を物語っています。
連続出場は公正な競争を勝ち抜いた上でのものなのか、それともチームの苦し紛れの選択なのかによって価値が問われると思います。
(一番最悪なのは協会の政治的な都合ですけど・・・)

Posted by: 中東の太鼓 | March 23, 2008 12:26 PM

>ただ皮肉にも猫田さんが余りにも偉大すぎた存在だった為、次世代のセッターが育たなかった

モスクワ予選の時の猫田さんの控えだったセッターって誰ですか?
モントリオールで控えのセッターだったのは柳本晶一氏ですが。

この時代は、逆に韓国に金浩哲というアクロバティックなトスを挙げる世界的なセッターが現れて、エースの姜萬守も田中幹保さんより凄かったですね。
この2人は、イタリアやUAEでもプレーしていて、国際経験でも日本は負けていた。
でも、そんな韓国もモスクワ予選では中国に負けてしまうのですが・・・(笑)。

Posted by: 管理人 | March 23, 2008 08:55 PM

>モスクワ予選の時の猫田さんの控えだったセッターって誰ですか?

松下電器に所属していた志水健一さんです。
1979年12月のバーレーンでのアジア選手権は志水さんがレギュラーで猫田さんはワンポイントで出場されましたが翌年1月のブルガリアでの世界最終予選では逆になります。
モントリオール五輪後はさすがに協会は猫田さんの後継者を真剣に探し始めます。
この頃の傾向は、春先は若手を起用→国際試合で結果が出ない→「やっぱりネコさんのトスがいい」→公式大会で猫田さんを起用の繰り返しでした。
1977年秋の地元開催のW杯こそ2位に入るが1978年の世界選手権は11位、アジア大会2位、1979年のプレ五輪7位、そしてモスクワの切符を賭けたアジア選手権では史上初めて韓国に敗戦を喫し中国にも敗れて3位に転落するなど日本の退潮傾向は顕在化します。
そして世界最終予選では参加10チームを5チーム×2組で予選を行い上位2位までが決勝リーグに進出し決勝リーグでは2位までしかモスクワに行けないという大変厳しい予選でした。
初戦はチェコに2-3、第2戦はルーマニアに1-3で敗北。
猫田さんはこの2試合に先発しますがもはや衰えを隠す事は出来ずルーマニア戦の第2セットで志水さんと交代します。
絶体絶命の状況で迎えた第3戦の韓国戦は若手主体の背水の陣で臨むがなんと第1セットを0-15で失うという有様。
そして第2セットを落とした時点でセット率の関係で東京五輪以来の連続出場が途絶えました。
(ちなみに試合は2-3で敗戦)
最後のハンガリー戦こそ勝利するがもはや焼け石に水。
そしてこの大会を最後に猫田さんは代表チームから引退を表明。
日本の一時代を築き上げた不世出のセッターとしては余りに悲しく寂しい終わり方でした。
「私は懸命に戦ってきた。自分が走っていれば後を必ずついてきてくれるものと信じていた。でもふと立ち止まって後ろを振り返ったら誰もいなかった。そんな気持ちです。」
ブルガリアから帰国後に猫田さんが後継セッターについて語ったこの言葉に当時の日本の現状がよく表れています。

ちなみにこの時のメンバーは猫田さんのほかに大古誠司さんと西本哲雄さんがミュンヘン組として名を連ねてました。
また監督は中村祐造さんで総監督に松平康隆さんです。

Posted by: 中東の太鼓 | March 30, 2008 08:29 PM

中東の太鼓様

詳細なコメント感謝します。

>松下電器に所属していた志水健一さんです。
私は1978年の世界バレー惨敗で、少しバレーから離れていた時期がありまして。

>1977年秋の地元開催のW杯こそ2位に入るが…
日本男子バレー衰退の因はここにあるかと思います。森田淳悟さんが復帰して、地元開催で2位になってしまって、これがなければ世代交代はもっと早かったはず。

>1978年の世界選手権は11位
イタリア、ブラジルが活躍し、バレーが世界的に広がるきっかけになったと大会だと思っています。
ミュンヘンで準決勝を争った4カ国のうち日本、東ドイツ、ブルガリアが9-12位決定戦で顔を合わせたことが象徴しています。
その後志水さんは81年のW杯では正セッターになるも、全日本は引退。
「五輪3大会を任せられる人材を」と82年に順大の学生だった古川靖志を抜擢するも、協会はその後もぶれるんですよね。
御獄、真鍋、米山、成田…と、古川が周囲の期待に答えられなかったこともあるんですが。

Posted by: 管理人 | March 30, 2008 11:38 PM

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