ヘーシンクに助けてもらってはどうだろう
2016年夏季五輪の開催地の決定される10月2日のコペンハーゲンのIOC総会まで約2ヶ月となった。
追い込みである。
投票するIOC委員は100人以上いるが、中には1964年の東京五輪に選手として出場した経験を持つ委員が7人もいる。
男子バレーボールに出場したカルロス・ヌズマン氏は、リオデジャネイロ五輪招致委の会長を務める、東京に立ちはだかる一人だ。
イレーナ・シェビンスカ氏は、1964年東京から1980年モスクワまでの5大会に出場し、金メダル3個を含む7個のメダルを獲得した陸上史上5指に入るポーランドの女性アスリートだ。
そして、アントン・ヘーシンク氏。
東京から正式種目なった柔道・無差別級(現在は未実施)で神永昭夫さん(故人)を敗り、初代王者になった。
198センチ120キロの堂々たる体躯もさることながら、優勝の瞬間、喜びのあまり畳に駆け上がろうとしたオランダチームの仲間を、ヘーシンクは右手を掲げて制した。
柔道の祖国を抑え込んだのは、並外れた体格と力を持つ侵略者ではなく、柔道の精神を会得した世界の柔道家だったのだ。
女子バレーの東洋の魔女とともに、ヘーシンクの金メダルは、当時の日本人に多大なるインパクトを与えた。
東京の次の1968年メキシコ五輪では、柔道は実施されず、ヘーシンクの五輪出場はこの1回のみ。
それだけに、彼にとってもTOKYOへの思いは、生半可ではないだろう。
ヘーシンクも75歳、IOC委員としても引退が近づいている。
また、今年8月にはヘーシンクの母国オランダ・ロッテルダムで世界柔道選手権が開催されるのも何かの縁だ。(早い話、世界柔道は日本のテレビ局からの放映権料、日本企業のスポンサー料なしには成り立たないイベント)
また、オランダはアムステルダム五輪から100年目の2024年の夏季五輪招致を目指している。
2016年がマドリードになってしまっては困る事情もある。
それならば、来るべきIOC総会では、ヘーシンクにひと肌脱いでもらってはいかがだろうか。
*日本が、長野五輪招致を進めていた1990年頃、IOC委員の現地訪問は1回とのルールが当時あったが、ヘーシンクは複数回長野を訪れ、厳重注意を受けたことがある。
逆に言うならば、長野招致の際にも大いに後押ししてくれたということだろう。
●参考記事
青い柔道着はヘーシンクの提案だった
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