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October 21, 2009

冬季五輪の記憶(3) カタリーナ・ビット

1994

カタリーナ・ビットは、1965年12月3日 旧東ドイツ・シュターケン生まれのフィギュアスケート選手である。
五輪2連覇、世界選手権4回優勝など、史上最も成功したスケーターの一人だ。

●カタリーナ・ビットの主な戦績
1984年サラエボ五輪   フィギュアスケート女子 金メダル
1988年カルガリー五輪  フィギュアスケート女子 金メダル
1994年リレハンメル五輪 フィギュアスケート女子 7位
世界選手権金メダル   1984・85・87・88年
世界選手権銀メダル   1982・86年

冬季五輪の女子フィギュアは、五輪の全ての競技の中でも、最も注目を集める種目といっても過言ではない。
事実、アメリカでは、夏冬合わせた五輪中最高の視聴率をとっているともいわれている。

古くは札幌五輪のジャネット・リン、インスブルック五輪のロドシー・ハミル、レークプラッシド五輪のアネット・ペッチ、アルベールビル五輪のクリスティ・ヤマグチ、そしてトリノ五輪の荒川静香
女子フィギュアは技と美をともに追求し、話題の中心であった。

五輪のフィギュアスケートは、1908年から正式種目に加えられている。
といっても、冬季五輪の第1回・シャモニー大会は1924年であり、初期は、夏季五輪の種目だった。
この長い歴史の中で、女子で連続優勝したのは、ビット以外には1928年から3連覇したノルウェーのソニア・へニーしかいない。
連覇が難しいのは、この競技の特殊性にある。
五輪の金メダルは、プロ入りのまたとない格付けになるからである。
五輪2連覇を果たし、プロ転向後再び五輪の銀盤に現れた、それがビットであった。

1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊するまで、カタリーナ・ビットは東ドイツの「顔」だった。
ミスのない演技。
サイボーグのように鍛え上げられた肉体。
端正な顔に浮かべられた勝つことを疑わない笑み。
西側のメディアはビットを「社会主義の最も美しい顔」と呼んだ。

Witt98gカルガリー五輪金メダルの後、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長は、祖国功労大勲章でビットを迎え、彼女は東ドイツ選手として初の「プロ」になった。
サラエボ、カルガリーと五輪2連覇の実績、妖艶にして聡明さもうかがわせる容姿。
東ドイツのスポーツ界だけでなく、ホーネッカー議長に気に入られ、プロパガンダとして政治の舞台に上がることも多くなっていった。

東ドイツは五輪を、社会主義国家の優位性を示す国際舞台と位置付けていたのはご存知の通りだ。
金メダルを獲得した者には、報奨金などの多くの恩恵が与えられていた。
事実、ビットもいくつかの特別待遇を受けた。
月々の手当に、勝てばボーナスが加わった。
18歳で運転免許をとると、すぐに車が購入できた。 
国際大会は食物持参で参加をした。
競技会の主催者から支給される食費をため、東ベルリンの外貨用高級デパートで買い物をした。
ささやかではあるが、物々交換が当たり前の庶民には、民主化によって批判の対象となっていったのである。

1990年、東西ドイツが統一された。
スパイ疑惑、ドーピング(禁止薬物使用)疑惑、大衆紙による男性関係の話題。
気がつけば、元「特権階級」のビットはスキャンダルとゴシップにおぼれそうだった。
自らの真情を繰り返し訴えるしか、対する道はないと思われた。
そんな中「プロ転向後も1回だけ、五輪出場を許可する」というISUの決定が、ビットを五輪に戻した。
 
1994年リレハンメル五輪、金メダルはウクライナの16歳、オクサナ・バイウルに決まっていた中、ビットはフリー最後の選手として銀盤に立った。
鮮やかな赤いコスチュームは血の色を表す。
曲は「花はどこへいった」。ヒトラーを嫌って米国へ逃れたドイツ女優マルレーネ・ディートリヒが歌った反戦歌である。
3回転ジャンプは2回しかない。
代わりに、舞う指先の1本1本へ、戦禍に苦しむサラエボへ平和の祈りを込めた。
この1994年当時は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っ只中であった。
ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力が、丘の上に陣取ってサラエボを包囲していたのだ。
1984年 サラエボで最初の金メダルを獲ったビットにとって、思いでの地が血にそまっていることに耐えられなかったのだろう。

7位

順位を示す得点表示板へ、ハーマル円形競技場を埋めた6,000人の観客席からブーイングが飛んだ。
銀盤を渦巻いたファンの声はそのまま、ビットの演技をたたえる声に変わった。
この瞬間は、サラエボの犠牲者に対する祈りによる開会式で始まったリレハンメル五輪の、ハイライトだったと記憶している。

*画像は1998年PlayBoy誌に登場したときのもの。

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