旧ソ連書記長の急死とサラエボ五輪スピードスケート500m
1984 Sarajevo
1984年2月10日夜。
サラエボ冬季五輪 スピードスケート男子500mの競技開始時間はとっくに過ぎていたが、現地は朝から大雪。
レースの開始時間は、いつになるか全く判らなかった。
サラエボ五輪に参加した日本選手は僅かに39名。
この当時は、同一年に冬・夏の両五輪が開催され、冬季五輪の規模は現在よりもはるかに小さかった。
その少数の日本選手団の目玉の選手は、黒岩彰。
サラエボの前年に行われたスピードスケートの世界スプリント選手権で日本人初優勝を遂げ、一気にサラエボの星になった男だ。
近年の五輪のスピードスケートは屋内リンクで実施されているが、サラエボの頃は屋外。
競技開始時間がはっきりしない間、黒岩が移動するたびに日本のマスコミもぞろぞろ付いてくるという状況で、22歳の青年は次第に自分を見失っていった。
結局、500mの競技開始は予定より5時間以上も遅れた。
この間黒岩は、大勢の記者を引き連れたまま、選手村には戻らず、雪の中にいた。
日本時間で2月11日になり、間もなく遅れていた競技開始時間になる、というとき、ビッグニュースが飛び込んできた。
朝からクラシック音楽を流していたソ連国営タス通信が、「アンドロポフ書記長死去」と報じたのだ。
超大国の国家元首の突然の訃報。
各紙の朝刊の締め切りは急きょ延長されることになった。
「アンドロポフ書記長死去」がこの日でなければ、朝刊に「日本スケート日本初メダル」の見出しが一面を飾ることはなかった。
ただし、初メダルは黒岩彰ではなく、法政大学の学生 北沢欣浩だった。
当時、500mは1回のレースのみで順位が決めており、最後のコーナーで外側を滑ることのできるインスタートが有
利といわれていた。
4組のアウトスタートを引いた黒岩は、最悪のリンク・コンディション、さらにはプレッシャーにつぶれ、世界一と言われたコーナーワークのテクニックを生かせずに10位に終わった。
が、その直後5組に出場したノーーマークの北沢欣浩が会心のレースを見せ、見事銀メダルを獲得。
日本スケート界初の五輪メダリストとなった。
黒岩の故郷 嬬恋村には数十台のテレビカメラが用意されていた一方、北沢の故郷釧路にはもちろんカメラは来ていなかった。
北沢はその年のシーズン前に、初めて五輪強化選手になった選手で、降雪のためレース開始が遅れている間にも選手村で身体を横たえ、休めていたという。
大学卒業後も、「通勤ラッシュがきつい」と実業団に入ることなく釧路市役所に勤務。
その後、五輪の舞台を踏むことはなかった。
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