たくぎん ニッカウヰスキー・・・ ジャンプ選手の所属企業の栄枯盛衰
かつて北海道拓殖銀行という都市銀行があった。
元々は、北海道の開拓という大事業(拓殖)を経済的に支援する目的で設立された政府の金融機関だったが、戦後都市銀行に転換した。
バブル期に、首都圏・関西圏を中心に不動産を担保にした強引な融資を続けた結果、バブル崩壊とともに巨額の不良債権を抱え、1997年11月17日都市銀行として初めて破綻、106年の歴史に幕を下ろした。
「たくぎん」としてなじまれたこの企業は、野球とスキージャンプに力を入れ、幾人もの五輪ジャンパーが出ている。
1972年、札幌五輪の日の丸飛行隊のメダル独占はあまりに有名だが、メダリスト3人は下記の企業に所属していた。
●1972年 札幌五輪 70m級ジャンプ
金 笠谷幸生(ニッカウヰスキー)
銀 金野昭次(たくぎん)
銅 青地清二(雪印乳業)
たくぎんのメダリストには金野昭次氏のほか、1980年レークプラシッド五輪70m級銀メダリストの八木弘和氏なども所属していたが、実は現役のバンクーバー五輪代表の中にも元たくぎんマンがいる。岡部孝信だ。
たくぎんは経営悪化に伴って、運動部を廃止、名門の野球部に続き、スキー部も廃部になった。
たくぎん最後のジャンパー岡部は、1995年カナダのサンダーベイの世界ノルディック選手権NH優勝の実績を持つが、このとき2位になったのが、現在の岡部の所属雪印でコーチを務める斎藤浩哉。
この2人と原田雅彦、船木和喜との4人が長野五輪ジャンプ団体優勝のメンバーだ。
たくぎんの破たんにともない、たくぎんをメインバンクにしていた地崎工業のスキー部も経営悪化により廃部。
レークプラシッド五輪70m級4位の秋元正博の所属企業としてしられた地崎工業には、16歳の高校1年生から日本代表を務める葛西紀明も所属していた。
葛西らは大手スーパー、マイカルに移籍するも、マイカルも01年9月に民事再生法の適用を申請し経営破たん。
葛西はマイカルから土屋ホームに移籍することになった。
バンクーバー五輪を23歳で迎える伊東大貴も、高卒後土屋ホームに入社。
が、スキー部の活動費を減らした土屋ホームを、2008年限りで退社。
その後暫定的にサッポロスキッドを所属先とし、日立製作所などの支援を受けて活動しながら新たな所属先を探したが、深刻な不況の影響でスキー部を新設する企業はなく、最終的に雪印に移籍することになった。
札幌五輪金メダリストの笠谷幸生氏はニッカウヰスキーの所属だった。
そのニッカも1999年に廃部。最後に所属していた東輝は日本空調サービスに移籍。2003年、2005年の世界ノルディック選手権に出場したが、今回、バンクーバー五輪のメンバーからは漏れた。
五輪ではスポンサーロゴ付きのウエアを着ることはできないが、W杯のときなどよく見てみよう。日本人選手のウエアにNIKKAの文字をみることができる。
現在はアサヒビールの子会社になり、スポンサーとして日本人選手を支えている。
札幌五輪で銅メダルの青地清二氏が所属していたのが雪印乳業。
自他共に認める日本最強のジャンプチームだが、2000年の大阪工場の不祥事を発端に業績が大幅に悪化。
それに伴い、陸上部とアイスホッケー部を廃部した。
スキー部、それも複合は廃止し、ジャンプだけを残し現在に至っている。
●バンクーバー五輪ジャンプ選手の所属
岡部孝信(たくぎん→雪印)、
伊東大貴(土屋ホーム→サッポロスキッド→雪印)
栃本翔平(雪印)
葛西紀明(地崎工業→マイカル→土屋ホーム)
竹内択(フィンランド留学→北野建設)
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