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March 22, 2011

アンドリアノフ死去

ニコライ・アンドリアノフが亡くなった 58歳。
早すぎる体操界の大選手の訃報にただ驚いた。
少年時代にテレビで見た五輪のスター選手の印象は強烈であり、ニコライ・アンドリアノフもそのうちの一人だ。

1976年 モントリオール五輪の体操は、団体5連覇を目指す日本と、次回五輪開催国として金メダル奪回を目指すソ連との一騎打ちだった。
日本は、2年前の世界選手権個人総合を制した笠松茂が、現地に入ってから盲腸炎になり入院。
五十嵐久人が急遽メンバー入りをした。

団体規定ではソ連がリード。
団体自由でソ連を0.5点差で追う日本は差を詰めていく途中、つり輪の演技終了後藤本俊が負傷リタイヤとなる。
当時は6選手が演技をし、上位5名の得点が採用されるルール。
残り5名は失敗の許されない中、驚異的な集中力でソ連に0.4点差をつけて逆転し五輪5連覇を達成した。

ソ連は4年後のモスクワ五輪を控え10代の選手を揃える中、最年長がニコライ・アンドリアノフの23歳、日本で最も若い梶山広司と同年齢だった。
団体では涙を飲んだアンドリアノフは、加藤沢男、塚原光男を押さえ個人総合を制しただけでなく、つり輪、跳馬の種目別の金メダルを獲得、合わせて金3、銀2、銅1のメダルを獲った。

1980年のモスクワ五輪は、ライバルである日本が不参加となり、男子体操はソ連の独壇場となり、アンドリアノフは生涯獲得メダルを金7、銀5、銅3の15個に伸ばした。
この数は、北京五輪までに通算16個のメダルを獲得しているマイケル・フェルプスに抜かれるまで、五輪男子史上最多メダルだった。

塚原光男氏とは親友で、息子である直也氏のコーチに招かれていたことでも有名だ。
アンドリアノフと塚原氏にはこんなエピソードがある。
1972年ミュンヘン五輪の選手村。
団体総合4連覇を果たし、個人総合と各種目別を含め計16個のメダルを手にした日本の男子チームの部屋に、19歳のロシア選手がウオツカのビンを携えてやって来た。
その青年こそがニコライ・アンドリアノフ。
ソ連チームのメンバーを連れてきたアンドリアノフは、日本選手と飲み始めた。
金メダル奪回をめざす彼等は、日本から何でも学ぼうと貪欲だったのだ。
身ぶり手ぶりに英単語、さらに体操界で用いられていたドイツ語を挟んでコミュニケーションをしたという。
日本側は技術的なはなしだけでなく、
『うまくなりたければ器具を大事にしろ』
『日本では練習の前後に頭を下げて、あいさつする。これは礼儀であり、感謝を示すためだ』
など様々なことを教えたという。

その2年後、1974年の世界選手権で、ソ連チームは驚くべき光景を見せる。
かつては、練習場で各自バラバラにウオーミングアップをしていた彼等が整列し、一斉に礼をして練習を開始したのだ。
現在でもロシアやウクライナなどの旧ソ連の体操チームは、多くの選手が競技の前後に軽く礼をしている。
日本から学んだ教えは、今でも伝統として根付いている。

●アンドリアノフの五輪メダル獲得
1972年 19歳 団体銀 床金 跳馬銅
1976年 23歳 団体銀 個人総合金 床金 跳馬金 平行棒銀 つり輪金 あん馬銅
1980年 27歳 団体金 個人総合銀 床銀 跳馬金 鉄棒銅

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