« 東京五輪のレガシーが生きる街 | Main | 新・五輪招致の記憶(2) 札幌 サラエボに敗れる »

April 12, 2013

新・五輪招致の記憶(1) 大阪 北京どころかイスタンブールにも及ばず

1993年9月モンテカルロで開かれたIOC総会、2000年の夏季五輪の開催地が決まろうとしていた。
立候補していたのはシドニー、北京、マンチェスター、ベルリン、イスタンブール。
北京が本命、シドニーが対抗と見られていたが、4回目の投票で45-43 シドニーが開催地に決まった。

北京の敗因は人権問題。1989年6月に起こった天安門事件が記憶に新しかった。
米国議会が人権問題批判から北京五輪反対決議を行い、さらにはEC(当時)の欧州議会もこれに続き、IOC総会に影響を及ぼしたことは否めなかった。

それでも、五輪運動を世界に広める意味でも、五輪ビジネスの上でも、13億の人口を抱える中国のスケールは大きく、近い将来の北京開催を唱えるIOC委員、マスコミ関係者は多かった。

この後1994年の広島アジア大会で、中国競泳陣は大量のドーピング違反者を出し面子は丸つぶれ、中国は2004年夏季五輪には手を挙げることができず、次の立候補は2008年夏季五輪となった。

当初2008年大会の招致にはアメリカが意欲満々だった。
ニューヨーク、ワシントンDC、サンフランシスコ、シアトル、ボルティモア、ヒューストン、ニューオーリンズ、シンシナティの8都市が名乗りを挙げていたが、アメリカ五輪委員会(USOC)は国内候補地を決める前に、2008年大会招致はチャンスが少なく、招致に伴う4000万ドル近くの費用に見合わないと、早々に立候補を断念してしまった。

その一方、大阪市は、世界で最も早く立候補を表明、そして、サマランチ元IOC会長に背中を押された北京が立候補を表明した。

実は、このとき水面下でアメリカと中国が、接触を持っていたと言われている。
2000年時と異なり、中国がアメリカに対抗し得る大国になりつつあると感じていたアメリカは、中国を国際舞台に引きずり出したいと考えたのだ。
この時点で、北京五輪招致成功の台本は、ほぼ出来上がっていたと見てよい
大阪始め、トロント、パリ、イスタンブールは何も知らないで招致費用を無駄にしたことになる。

IOCは北京と大阪を次のように評価していた。

大阪 IOC評価=課題が残る
(長所)
47会場中、66%が既存施設。選手全員に個室を用意。日本で3度の五輪運営実績。海上五輪
(短所)
国際的知名度が低い 現地視察禁止がハンデとなる 交通渋滞の可能性がある

北京 IOC評価=エクセレント(最高)
(長所)
13億人の国での初の五輪開催 95%ほとんどのの市民が開催を支持。江沢民国家主席ら国家的招致活動と開催保証がある。
(短所)
世界から人権問題に批判がある 競技施設は新設が多く、青写真段階である

都市のインフラが充実し、競技施設の66%が既存という大阪に「改善の余地あり」という評価が付き、競技施設のほとんどが計画のみの北京に「エクセレント」と評価されるなど、始めに北京ありきという政治的な色彩の濃い招致レースだった。

その結果開催地は圧勝で北京に決まった。
大阪は、イスタンブールにも劣る6票しか獲れなかった。

歴史に残る6票だが、後日談がある。
大阪招致の報告会がJOCの総務委員会総会で行われた際、八木祐四郎JOC会長(当時・故人)は「投票後に11人のIOC委員がが『おれは(大阪に)入れた』と肩をたたいてきた。本当に大阪に入れた6人がだれか分からない」と投票後のエピソードを披露、「今回は政治的なものに振りまわされてしまった」と振りかえった。


2008osaka

当時の様子を毎日新聞は次のように酷評している。
Photo


|

« 東京五輪のレガシーが生きる街 | Main | 新・五輪招致の記憶(2) 札幌 サラエボに敗れる »

Comments

The comments to this entry are closed.