新・五輪招致の記憶(2) 札幌 サラエボに敗れる
筆者自身が、始めて目の当たりにした五輪招致は1984年の冬季五輪だ。
このときは、1972年の冬季五輪を成功させた札幌市が、再度立候補していた。
投票が行われたのは1978年5月のアテネで行われたIOC総会。
札幌五輪から僅かに6年後のことだった。
1972年の札幌五輪では、恵庭岳の山頂から麓まで至る滑降コースが使われた。
が、自然破壊が叫ばれる中、五輪の1度に限ってのコースであり、五輪後は元に戻すという約束があった。
しかし、札幌市は1984年の冬季五輪の計画でも滑降は恵庭岳を使う、としたのだ。
これに対し、自然保護団体の反発は凄まじく、IOC総会の行われたアテネにまで多くが詰め掛けた。
札幌の一つ目の対立候補はスウェーデンのイエテボリ。
スウェーデンといえば、ウィンタースポーツの主役の国のひとつだが、飛行機による移動が必要なほどの広域開催を掲げ、すこぶる評判は悪い。
もう一つの対立候補はユーゴスラビア(当時)のサラエボ。
当時のユーゴスラビアは、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国といわれたほどの複雑な民族構成の国であった。
このときは、チトー大統領が健在で、チトーのそのカリスマによって各共和国・民族のバランスが取られ、ソビエトの支配下にない独自の社会主義体制を執っていた。
札幌優位で進んでいった招致レースだったが、IOC総会での、最初の投票でまずイエテボリが脱落、札幌とサラエボの一騎打ちとなり、3票差でサラエボ開催が決まった。
社会主義国での冬季五輪開催の懸念はあったが、あまりにも1972年から時間が経っていなかったことと、自然破壊を訴えた市民グループの反対が大きく、2度目の札幌は夢と消えた。
一方1984年の冬季五輪開催地に決まったサラエボだが、1980年にチトー大統領が死去、ユーゴスラビアは急速に民族間の対立が進んで行く。
こととき、仮に2度目の札幌開催が決まっていたら、1988年夏季五輪の名古屋招致はなかったであろうし、1998年の長野五輪もなかった、2016年の東京五輪招致も違った形になっていたはずだ。
世界史を勉強した人はサラエボ事件をご存知だろう。
1914年6月にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子がセルビア人の青年に暗殺された事件だ。この事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発したのだが、五輪開催の1984年はこの事件からちょうど70年目だった。
●1984年冬季五輪 結果
サラエボ(ユーゴスラビア 現ボスニアヘルツェッゴビナ) |
31 |
39 |
●旧ユーゴスラビアを構成した国
・クロアチア 1992年アルベールビル五輪から参加
・スロベニア 1992年アルベールビル五輪から参加
・セルビア 1996年アトランタ五輪から2006年トリノ五輪までセルビア・モンテネグロとして参加。2008年北京五輪からセルビアとして参加。
・ボスニア・ヘルツェゴビナ 1992年バルセロナ五輪から参加
・マケドニア 1996年アトランタ五輪から参加
・モンテネグロ 2008年北京五輪から参加
・コソボ 日・米・英など90カ国以上が独立を承認しているが露・中等が非承認のためIOCに未加盟 2012年ロンドン五輪に一部の選手がアルバニア代表として参加
・ヴォイヴォディナ自治州 現在もセルビアの一部
The comments to this entry are closed.
Comments