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June 18, 2013

新・五輪招致の記憶(5)嘉納治五郎の意思が呼び込んだ64年東京五輪

後に五輪開催地になるミュンヘン(西独=当時)のIOC総会で1964年の夏季五輪東京開催が決定したのは、1959年5月26日のこと。
半世紀以上前になる。
対立候補だったデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを抑えて、聖火はアジアに初めて灯されることになった。
 
当時の首相は岸信介。「東京で五輪を開くことは、国民多年の念願。成功させるため、全力を挙げて努力していきたい」と決意を述べたという。
IOC総会のひと月前に東京都知事に選ばれたばかりの東龍太郎も、公約の一つに五輪開催を掲げていた。
東は1947年から1959年まで日本体育協会会長とJOC会長を兼務、1950年から1968年までIOC委員を務めた人物である。

東京が最初に五輪招致を目指したのは1940年大会。
このとき対立候補はヘルシンキと、ローマ(その後撤退)だった。
1936年8月31日 ベルリン五輪に合わせて開催されたIOC総会で東京に決定した。
36対27という投票結果が残っている
このとき東京開催に尽力したのは嘉納治五郎。
柔道の創始者として知られ、今日でも嘉納杯に名を残す嘉納だ。

嘉納は1909年(明治42年)に日本人初のIOC委員となった。
IOCの創立が1894年だからことのほか日本人初のIOC委員は早く誕生していたことになる。
1911年に日本体育協会の前身である大日本体育協会を設立し、1912年日本初の五輪参加となるストックホルム五輪に団長として参加した。

ところが、嘉納は東京五輪を2年後に控えた1938年、カイロで開かれたIOC総会の帰路、5月4日 横浜港に帰港する氷川丸の船内で肺炎により急死した。
突然の死から2カ月後、日本政府は日中戦争の拡大を理由に東京五輪開催を返上、1940年五輪はヘルシンキに変更されたが、後に大会そのものが中止とされた。

嘉納が氷川丸船上で亡くなったときに、最期を看取った人物に当時外務省に勤務していた平沢和重がいた。
平沢は後にNHK解説委員になり、1959年の東京招致を決めたIOC総会では招致演説をしている。
「世界柔道史」(恒友社刊)の序文に平沢のこんな文章がある。

「東龍太郎博士がIOC委員諸公に私を紹介する時に『嘉納先生の最後をみとった人物』であることに触れたとたん、委員諸公の顔にはありありと緊張の色が浮かんだ。大部分の委員は嘉納先生を知っていて、改めて先生の逝去を悼んでくれた。従って、私の演説の蔭(かげ)の力としてどれだけ嘉納先生の存在が物を言ったか計り知れないのである」

嘉納治五郎の思いが1964年の東京五輪招致にも生き続けたというエピソードである。

 

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