新・五輪招致の記憶(3) 今だから言える 名古屋がソウルに敗れた理由
「セウル!」
1981年9月30日、西ドイツ(当時)・バーデンバーデンのクアハウスの2階で開かれたIOC総会で、1988年の五輪開催地がIOC会長から発せられた。
会長の名前はアントニオ・サマランチ。
この前年東西冷戦の最中、ボイコットに揺れたモスクワ五輪の際のIOC総会で会長になった男が発したのは極東の半島にある軍事政権下の国の首都で、当然勝つだろう言われていた名古屋市ではなかった。
1980年代、五輪は嫌われ者だったといってもいいだろう。
開催に手を挙げる都市はなく、開催すれば莫大な赤字が残った。
加えて76年にはNZのオールブラックスの南アフリカ遠征に端を発したアフリカ諸国のボイコット、80年、84年は東西冷戦の煽りを食ったボイコットの応酬に見舞われ、3大会続けて五輪は正常な形で開催されなかった。
実際1976年以降1988年までの夏季五輪に立候補した都市はこれしかない。
1976年 ◎モントリオール モスクワ ロサンゼルス
1980年 ◎モスクワ ロサンゼルス
1984年 ◎ロサンゼルス
1988年 ◎ソウル 名古屋
(◎は開催の決まった都市)
1976年大会に立候補した3都市が、結局順番に84年まで開催しているのだが、1984年大会に立候補した都市はロサンゼルスのみ。
莫大な赤字を背負ったモントリオールの記憶が新しく、他に立候補を表明する都市はなかった。
アメリカ連邦政府、カリフォルニア州政府はビタ一文税金を使わないのなら、開催してもいいよとロサンゼルス市に通告した上での立候補だった。
これが今日でも踏襲される商業五輪の原型となるのだが、1988年五輪開催地を決めるIOC総会は、ロサンゼルス五輪開催のまだ3年前のことだ。
当時は東西冷戦の真っ最中。
この前年に開催されたモスクワ五輪は西側主要国のボイコットに遭った。
多くの方は西側のほとんどが参加していないと思われているだろうが、実際にボイコットをした西側の主要国は米国、カナダ、日本と分断国家だった西ドイツ、韓国などだ。
その韓国は全斗煥政権時代。
1979年に朴正煕大統領が暗殺されると、全斗煥は、暗殺を実行した金載圭を逮捕・処刑するなど暗殺事件の捜査を指揮、12月12日に戒厳司令官鄭昇和大将を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。
1980年9月に自ら大統領に就任した。
朴政権は、1990年代初頭に五輪招致の目標を掲げていたが、全斗煥政権は目標を前倒し、1988年夏季五輪招致を決めた。
ソ連、東ドイツなど東側諸国は北朝鮮と友好関係にあり、当時韓国とは一切の国交を持っていなかった。
そのため、1978年にソウルで開催された世界射撃選手権に東側諸国は参加をしていない。
こうした事情から、日本側はソウルが開催地に決まっても、東側の参加しない片肺五輪になるリスクが高く、浮世離れしたIOC委員も、ソウルには投票しないと予想、戦わずして名古屋勝利を誰もが信じていた。
日本のマスコミの中では、最も名古屋五輪に否定的だった朝日新聞ですら10月1日付けの「決定名古屋五輪」の別刷りを用意していた。
ここからソウルの逆転劇が始まるのだが、重要な登場人物が3人いる。
●ホルスト・ダスラー
ドイツのスポーツ用品メーカーadidas社の社長。
●金雲龍
韓国の元外交官 世界テコンドー連盟会長。後のIOC副会長。
●瀬島龍三
戦前は大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長。
◇名古屋五輪構想◇
1988年10月8日から16日間、名古屋市を中心に東海地方で21競技を繰り広げる。主競技場は、名古屋市の平和公園南部に建設。市の試算では、大会運営費、競技施設費は合計1100億円。
1980年11月に閣議了解された。
1988年五輪に立候補意志のあった都市はほかにもアテネ、メルボルンがあったが、財政的な理由などで立候補を見送った。
立候補締め切り日に手続きをした都市は名古屋のみ。
ソウルは締め切り翌日にファクシミリで手続き書を送るが、IOCはこれを受け付けた。
ソウルの準備不足は明らかと思われた。
この当時の五輪が政治に振り回されたことは先にも書いた。五輪にプロは原則排除され、自主的な収益モデルを持たない競技団体、選手個人は行政(政府)に頼っていた。
この件についてサマランチ氏は生前こう話している。
『国際スポーツ組織にとって重要なのは「お金」だと、私は思っていた。資金がなければ、何もできないからだ。そして、その資金は、テレビ放送権やマーケティングによって生み出すべきで、政府に依存するべきではないと。政府に頼れば、組織の独立性が失われる。そして政府は、(五輪ボイコットのように)時として異なる方針を持っているからだ。』
政治からの独立のためには五輪の商業化、五輪の商業化のためには世界最高水準の選手の五輪参加が必要。これが1980年にIOC会長に就任したサマランチの考えだった。
サマランチの考えに賛同し、当時確立されていなかったスポーツをビジネスにするモデルを考えついたのが世界最大のスポーツ用品メーカー「アディダス」を創設したアドルフ・ダスラーの長男、ホルスト。
この時代の五輪の画像を見て欲しい。
多くの選手が履くシューズには3本線、ウエアの胸には月桂樹の冠をモチーフにした三つ葉マークがある。
どちらもアディダス製であることを物語る。
アディダス社を率いるホルストは、世界のスポーツ界に絶大な影響力を持っていた。
IOC委員を長く務め、日本サッカー協会の名誉会長でもある岡野俊一郎氏。
岡野氏はホルスト・ダスラーとは旧知の仲で、ホルストが来日すれば必ず岡野氏の自宅を訪れていたという。
名古屋招致はほぼ決まったかのように見えた。
名古屋市の幹部の元には米国3大ネットワーク(ABC、NBC、CBS)の副社長級の人物がたびたび訪れていた。
IOC総会の前にテレビ放映権交渉の予備交渉が始まっていたのだ。
このとき名古屋市は放映権を350億円と見込んでいた。
ところが、あるとき岡野氏は、ホルストが来日して東京にいたはずなのに、自分に連絡してこなかったことに気づいた。
それまでなかったことだ。自分を避けているようだった。
調べてみて、その情報に驚いた。
「アディダスが、ソウルについた」
サマランチは、IOC会長になってすぐに、ホルスト・ダスラーと、IOCのマーケティング・プログラムについて話し合いを始めている。
これがやがて現在も続くIOCのスポンサー制度TOPの元になる。
ホルストは、IOCだけでなく、FIFAマーケティングの仕組みを作り、82年にはマーケティング会社ISLを創業した。(但し2001年に破綻)
こうしたホルストの動きに目を付けたのが、韓国の外交官から国際テコンドー連盟の会長を務めていた金雲龍。
金雲龍はホルストにこう話を持ちかけた。
『ソウルが五輪招致に成功したら、ソウル五輪に関する全ての商業的権利、テレビ放映権、コイン、切手、マスコットの権利を10億ドルで君に売るよ。』
こうしてアディダスはソウルについた
金雲龍とホルストは、前代未聞の買収=サンダーボール作戦を展開、票固めをした。
世界一周の航空券が渡されたとか、現金が飛んだとか様々言われている。
一方東京では、海外との名古屋の橋渡し役を果たしていた外務省の動きが鈍くなっていく。
そして一切外務省から情報が流れてこなくなった。
これを操っていたのが伊藤忠商事会長の瀬島龍三。
韓国大統領の全斗煥や盧泰愚は、瀬島の陸軍士官学校の後輩にあたり、若い頃から瀬島に絶大な信頼を寄せていたという。
瀬島龍三が、日本政府として名古屋五輪招致に関与しないよう、ソウルに勝たせるべく動いた。
1981年9月30日、西ドイツ、バーデンバーデン 第84回IOC総会が始まった。
会場には韓国の欧州駐在大使が勢ぞろいした。
IOC委員の部屋には朝、韓国側から花束が届けられ、活発なロビー活動が繰り広げられた。
一方、名古屋の招致団は総勢49名いたが、在欧州の外交官はゼロ。
余りに華やかさに欠け、JALのCAが数人手伝ってくれた。
IOC総会開幕直前になり、招致団はようやく深刻な事態に気が付いた。
柴田勝治JOC委員長(当時は会長職ではない)がなぜか直前に帰国。
愛知県選出の江崎真澄衆院議員の会場入りも中止になった。
五輪に立候補しているNOCのトップが、IOC総会に参加しない、これだけでも異常な状態であることが判るだろう。
投票結果が発表される数時間前、名古屋市の事務局に現地情報が流れた。
「小差ながら、負ける可能性が高い。」
投票結果は午後3時45分にサマランチ会長の口から発表された。
52-27
シナリオ通りソウルが名古屋を圧倒した。
ソウル五輪開催決定に暗躍した3人のその後について簡単に述べよう。
●ホルスト・ダスラー
1982年にスポーツマーケティング会社ISLを電通と合弁で設立。
1987年 ソウル五輪の開幕1年半前にガンのため死去 51歳。
2人の子どもは盧泰愚大統領の招きでソウル五輪の開会式を観戦している。
なお、スポーツマーケティング会社ISLは2001年破綻。
●金雲龍
ソウル五輪招致を成功させ1986年からIOC委員、92~96年IOC副会長。
国際競技連盟総連合会(GAISF)会長。
93年大韓体育会会長、韓国五輪委員会委員長を経るが、2005年再三の汚職と横
領の罪により逮捕され辞任。
韓国語のほか日、英、独、仏、スペイン、ロシア語を操った。
*金雲龍氏は2017年10月3日老衰のため亡くなりました。86歳でした。
●瀬島龍三
1981年伊藤忠商事相談役、1987年同社特別顧問。中曽根政権のブレーンとして、中曽根康弘首相の訪韓や全斗煥大統領の来日や昭和天皇との会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。
山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正のモデル。
2005年に95歳で死去。
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