20年ぶり五輪出場 アイスホッケー チェコ代表ペトル・ネドベド
チェコ人のネドベドというと多くの人はサッカーのパベル・ネドベドを思い起こすだろう。
ラツィオやユベントスで活躍したあのネドベドだ。
とこころが、ソチ五輪のチェコ選手団に同じネドベドという名前の選手がいて、密かに注目が集まっている。
彼の名前はペトル・ネドベド。チェコスロバキア時代の1971年12月9日リベレツに生まれたアイスホッケーの選手。
42歳、サッカーのネドベドよりも1歳年上になる。
1989年1月 17歳だったネドベド少年はカナダ・カルガリーで行われた国際試合Mac's Midget AAA World Invitational Tournamentに参加した。
アイスホッケーの非常に盛んなカナダではこうしたジュニアを対象にした大会は頻繁に行われている。
大会開催中だった1989年1月2日、ペトル・ネドベドは、夜中に彼のホテルの部屋を出てからカルガリー警察署に入り言った。
『亡命したい』
東西冷戦時代、東側のスポーツ選手が西側に遠征に行った際に亡命するケースが多々あった。
ただ、1989年というのは、冷戦末期であり、ポーランドではポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、ハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れている。
東ドイツ国民が西ドイツへ大量脱出し、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴とも言うべきベルリンの壁が崩壊しているのも1989年だ。
ネドベドが亡命するひと月前の1989年11月には、体操のナディア・コマネチがルーマニア革命の直前にハンガリー、オーストリア経由でアメリカに亡命している。
ネドベドは、亡命する意思を両親にも伝えていなかった。
そして、カルガリー警察に出頭した際の所持金は僅かに20ドルだった。
10カ月後、チェコスロバキアの共産主義体制はビロード革命により崩壊した。
彼の両親は母国に戻るように説得にあたったが、ネドベドが戻ることはなかった。
1シーズンマイナーリーグでプレーしたネドベドは、翌年からNHLのカナックスに移籍、その後はNHLのスター選手の一人となる。
3年間のカナックス時代にカナダの市民権を取得、1994年のリレハンメル五輪にカナダ代表として出場することになった。
五輪のアイスホッケーにNHLのスター選手が出場してくるようになったのは1998年の長野五輪からで、リレハンメル五輪に参加したカナダ代表は、若手のNHL選手が中心だった。
このチームには日系三世のポール・カリヤがおり、ネドベドとともに中心選手として活躍した。
年齢は二人とも22歳だった。
スウェーデンとの決勝戦は2-2から延長戦でも決着が付かず、PS戦になる。
7人目のカリヤのショットは、スェーデンのゴーリー、トミー・サロに止められ金メダルはスェーデンが手にした。
リレハンメルの銀メダルのから8年後、NHLのオールスターで固めたカナダ代表は決勝で米国を下し、金メダルを獲得した。
アイスホッケー大国で知られるカナダだが、トッププロが出場できなかった五輪では金メダルが遠く、1952年のオスロ五輪以来50年ぶりの金メダルだった。
このカナダ代表の中にポール・カリヤの名前はあるが、ペトル・ネドベドの名前はない。
それから12年
2014年1月6日 ソチ五輪に出場するアイスホッケーチェコ代表が発表されると世界中のホッケーファンが驚いた。
チェコの長野五輪金メダルの立役者であるヤロミール・ヤーガーが41歳にして5度目の五輪出場を決めたことと、ヤーガーよりも1歳上のペトル・ネドベドがチェコ代表に名前を連ねたからだ。
So Team Czech Republic's Petr Nedved is going to end up having played in two Olympics. The first time he did it? With CANADA in 1994.
— Chris Peters (@chrismpeters) 2014, 1月 6
ネドベドは2007年にチェコに戻り、2008年からは故郷のホワイトタイガースリベレツに所属している。
ネドベドがカナダ亡命後もずっとチェコ国籍を所持していたのか、あるいは再取得したのかは不明だが、IIHE国際アイスホッケー連盟の規則では4年以上の間隔があれば、かつての代表チーム以外の代表チームでプレーすることができるとある。
20年のブランクを経て五輪の舞台に再び立つのは、アイスホッケーにおいては初となる。
(*注)日本の馬術選手 法華津寛は、1964年の東京五輪に出場から44年後の2008年北京五輪に出場、史上最長記録である44年ぶりの五輪出場を果たした。
チェコスロバキア(現チェコ)から亡命したスポーツ選手として、恐らくもっとも有名なマルチナ・ナブラチロワは、1975年に米国に亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得し、現在は二重国籍である。