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February 24, 2014

平昌の真実Ⅳ 韓国のアイスホッケーは地元開催のオリンピックに出場できるか?

ソチ五輪の最終日に行われた男子アイスホッケーは、カナダがスウェーデンに3-0で圧勝、バンクーバー五輪に続き連覇を成し遂げた。

4年前のホッケー決勝は凄かった。
カナダの人口は約3400万人。
その内の80%、最大2650万人のカナダ人がアイスホッケー決勝をテレビで視聴、9つのネットワークが上の8つの言語で放送するという大騒ぎだった。

ソチ五輪でも、ロシア代表の活躍に期待するメディアは多かったが、準々決勝でフィンランドに1-3で完敗、早々と姿を消した。
旧ソ連時代、圧倒的な強さを誇った彼らはどこへ行ってしまったのだろうか。

ソチ五輪のアイスホッケーに出場した国は次のような基準で決まった。
夏季五輪の球技と異なり、ほとんどの国は予選を経ることなく推薦で決まっている。

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かつて冬季五輪の開催国は、アイスホッケーに自動的に出場することができた。
日本も開催国枠で出場権を獲得し、次のような結果を残している。

1972年 9位日本(11ヶ国参加)
1998年 男子13位(14カ国参加)、女子6位(6ヶ国参加)

女子のアイスホッケーは長野五輪から始まったが、開催国日本は0勝5敗 得点2、失点45と大敗した。
本来五輪は上位8カ国に入れば入賞となるが、事前の取り決めで6位の日本は入賞扱いにならなかった。

2006年にトリノ五輪を開催したイタリアは、日本同様アイスホッケーは強くなく、この大会を持って、開催国の無条件出場は終了することになった。
2010年バンクーバー、2014年ソチ両五輪は、カナダとロシアというアイスホッケー強国での開催であるので問題は起きなかったが、2018年平昌五輪では史上初めて開催国がアイスホッケーに出場しないかもしれない。

国際アイスホッケー連盟IIHFは、当初、平昌五輪の男子の出場国を世界ランキングの上位12カ国とすると発表した。
当時、韓国は世界ランキングで30位台であり、まず平昌五輪出場は難しいと思われた。
ところが、ネゴシエーションに長けている韓国は、IIHFと粘り強く強く交渉し、韓国がランキング18位内に入れば、開催国として平昌五輪に出場可能と取り付けた。
ソチ五輪を踏襲すると考えると、韓国が2016年のIIHFの世界ランキングで18位以内に入っていなければ、地元開催の五輪に出場することができない。

短期間にアイスホッケーの強化を図るにはどうしたら良いか。
彼等がモデルとするのはもちろん日本である。
1960年から6大会連続五輪出場を果たしてきた日本代表も、1980年を最後に五輪の舞台に立てなくなり、1991年に長野五輪開催が決定した当時、その競争力は落ちていた。
地元の五輪で恥ずかしくない成績を求める声に、日系カナダ人を呼び、帰化してもらい、代表チームを強化することを実践した。

ライアン•藤田、ダスティ妹尾、マシュー•樺山、ライアン•桑原、スティーブ辻占、クリス•ユール
といった日本にルーツを持つカナダ人が日本代表に加わり、日本は長野五輪で1勝(オーストリア戦)を挙げ、13位となった。

韓国でも代表チームの強化のために、外国人選手の帰化を進めることを決めた。
韓国には最近、特別帰化制度とよばれる制度が始まっている。

◆特別帰化=特定分野で優秀な能力を保持しており韓国の国益に寄与するものと認められる場合、特に国籍を付与する制度。一般帰化とは違い、既存の国籍を放棄しなくても良い。

この制度により3人の純カナダ人のアイスホッケー選手が韓国籍を取得した。(カナダ籍を放棄することなく二重国籍)。以下の3名である。

ブラック・ラダンスキー 30歳 カナダ・オンタリオ州出身
マイケル•スウィフト 26歳 カナダ・オンタリオ州出身
ブライアン•ヤング 27歳 カナダ・オンタリオ州出身

ブラック・ラダンスキーのインタビューがある。

現在の韓国は世界23位。
ちなみに同じアジアでは日本が22位、カザフスタンが17位。

平昌五輪までにあと5ランクアップできるだろうか。
Ranking

*長野五輪よりさらに昔 日本はカナダ出身の若林兄弟に大いに世話になった。
1944年12月23日カナダ・オンタリオ州に生まれたハービー・ワカバヤシは、アメリカ・ボストン大学ではアメリカ大学リーグで新人王、大学2年~4年までは3年連続で全米大学リーグベスト6に選ばれるなどスターFW選手として活躍した。
札幌五輪を前にアイスホッケーの強化のために来日し、アイスホッケー日本リーグの西武鉄道で活躍していた兄の若林仁氏(西武鉄道→国土計画)の誘いもあり69年8月、24歳で来日。
本場仕込みの若林兄弟のプレーは、日本アイスホッケー界に衝撃を与えた。
翌年70年からは西武鉄道の日本リーグ3連覇に貢献。
札幌五輪の前年71年9月に日本国籍を取得し(兄の仁氏はカナダ国籍を通した)、札幌五輪出場(9位)。
76年のインスブルック五輪(9位)、80年のレークプラシッド五輪(予選リーグ敗退)と3大会連続出場を果たした。
特に80年のレークプラシッド大会では開会式の旗手を務めている。


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