東京オリンピックに影を落とす集団的自衛権
7月1日安倍晋三政権は、最悪の禁じ手である解釈改憲を使って、日本が集団的自衛権を行使し得る道を強引に切り拓いた。
集団的自衛権とは、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が、協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。
が、その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、共同で武力攻撃に対処するというところにある。
日本を守るという話ではない。
売られた喧嘩に正当防衛で対抗するというものでもない。
売られてもいない他人の喧嘩に、わざわざ飛び込んでいくこと。
それが集団的自衛権。
集団的自衛権の意味を米国人の元大学教授G.D.Greenberg氏はこうツイートしている。
「集団的自衛権」という言葉がなじめないのは、日本語として意味不明なこともあるが、根本的問題は「権」。いま議論されている「集団的~」は、「アメリカに何かあったときに助太刀を強要されること」なのだから、これ、「権利」じゃなく「義務」なのだ。
— G.D.Greenberg (@G_D_Greenberg) 2014, 6月 30
詰まる所米国が起こす戦争に日本が追従し、米国とともに武力攻撃を加えるということだ。
集団的自衛権のほかに紛らわしい個別的自衛権、集団安全保障といったものがあるが、政府はあえてこれらの差を明確に説明してこなかった。
7月3日付朝日新聞に出ていた下記の図が判りやすい。
2005年7月7日にロンドンで同時爆破事件が起きたことを覚えているだろうか。
ロンドンの地下鉄の3か所がほぼ同時に、その約1時間後にバスが爆破され、56人が死亡したテロ事件である。
このテロは、英国が、米国の起こした戦争に参加したことが原因だ。
先に書いたように集団的自衛権は売られてもいない他人の喧嘩に、わざわざ飛び込むこと。
すると喧嘩相手からは「敵」とみなされるのは当たり前だ。
英国だけでない。
スペインも、ドイツも、フランスも、テロ事件が起きて市民が殺されている。
英国のしたことをすこし振り返ってみよう。
2001年9月11日に米国で起きた同時多発テロは、よく覚えているだろう。
同時多発テロ事件の首謀者として指定された「アルカイダ」とこの引き渡しに応じなかったタリバン政権に対し、米国が武力介入を始めた。
このとき、米国と同盟関係を結ぶ英国は、集団的自衛権を発動して戦争に加わった。
だが、対テロ戦争は泥沼化し、2001年から今日までに英国軍の死者は計453人にも上る。
2003年 米国はG・ブッシュ大統領がイラク戦争を始めた。
イラク戦争は国連決議もなければアメリカに対する差し迫った脅威もないただの侵略戦争であり、集団的自衛権とは関係ない。
が、当時の英国ブレア政権は、「イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有している」という米国情報をもとにイラク戦争に参戦。
後に情報は後に虚偽だったと判明したが、英国は参戦した6年間で計179人に及ぶ兵士らの死者を出した。
こうした米国とともに行った戦争が、英国でのテロ関連活動の動機になっている。
このことは、王立国際問題研究所や英国政府のテロ合同分析センターも認めている。
ロンドンで同時爆破事件が起きた2005年7月7日は、実は2012年のロンドン五輪開催が決定した翌日である。
同時爆破事件はロンドン五輪開催とは関係ないとされているが、2020年の東京五輪を控える日本が、テロを招きかねない米国との戦争に首を突っ込む必要はない。
安倍首相は、湾岸戦争やイラク戦争のような戦闘への参加を否定しているが、これには何の保証もない。
日本の生命線とされるホルムズ海峡やマラッカ海峡を、日本政府が「明白な危険がある」と認定してしまえば、集団的自衛権を行使できてしまうのだ。
集団的自衛権が実際に行使された過去の主な事例を見ると、その多くが、他国への無法な侵略・干渉を合理化する口実として用いられてきたことが判る。
旧ソ連と米国によるケースがほとんどであり、これが夏季五輪開催に極めて密接に影響してきた歴史がある。
この点も2020年に東京五輪開催を控える日本にとって決して他人事ではない。
政府の協議の過程で示されたほとんどの具体的事例は、これまでも認められている個別的自衛権で対応できる。
それを放棄し、最初から集団的自衛権の行使の検討を進めたところに、安倍政権のホンネ「いつの日か集団的自衛権全面行使」が透けて見える。
他国への無法な侵略・干渉を合理化する口実として用いられてきた集団的自衛権を行使するような国になる日本に、平和運動である五輪を開催する資格が果たしてあるのだろうか?
●過去の集団的自衛権の行使とされる主な事柄
1956年 メルボルン五輪
旧ソ連によるハンガリー軍事介入
1960年 米国などによるベトナム戦争
~75年
1964年 東京五輪
1968年 メキシコ五輪
旧ソ連・ワルシャワ条約機構によるチェコスロバキア侵攻
1979年 旧ソ連によるアフガニスタン侵攻
1980年 モスクワ五輪←米、日、西独等のボイコット
1981年 米国によるニカラグア侵攻
1983年 米国によるグレナダ侵攻
1984年 ロサンゼルス五輪←東側諸国のボイコット
1990年 イラクのクウェート侵攻に対する湾岸戦争
~91年
2001年 アメリカとNATOによるアフガニスタン戦争
ハンガリー動乱とは?
1956年10月 ポーランドにおける10月政変に刺激されたハンガリーの学生、労働者が同月ナジ内閣の樹立とソ連軍の撤退を要求してデモを行い、治安警察と衝突。暴動が約2ヵ月間続いた。
首都ブダペストでソ連に支配された共産主義政権に民主化を求めた住民を、20万人のソ連軍は強引に鎮圧、数1000人が殺害され、25万人もの人が難民としてハンガリーを去った。
このひと月後に開催されたメルボルン五輪の水球準決勝で、当事国であるソ連とハンガリーが対戦。
血を血で洗う激戦となり、プールが真っ赤になった。
チェコスロバキア侵攻とは?
チェコスロバキア(当時)は、社会主義国でソ連の同盟国だったが、1968年民主化運動「プラハの春」が始まった。
これに対し、造反の広がりを恐れたソ連はチェコ指導部を突き上げ、領内での軍事演習で威嚇した。
メキシコで五輪開幕が約50日後に迫っていた8月20日深夜、チェコスロバキア国境にとどまっていたソ連、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリアの兵力計75万、戦車6000両がチェコスロバキアを襲い、全土を占領した。
ソ連は当時、「チェコスロバキア政府の要請を受け、危機を防ぐために集団的自衛権を行使した」と国連に説明したが、チェコ政府は要請を否定している。
この4年前の東京五輪で日本人に強烈な印象を残した女子体操の世界的スター、ベラ・チャスラフスカは、民主化宣言に署名しており、メキシコ五輪で個人総合の連覇を含む金メダル4個を得たが、署名の撤回を拒み、国には冷遇され続けた。
チャスラフスカの名誉回復はチェコスロバキアの民主化まで20年待つことになる。
アフガニスタン侵攻とは?
1979年 ソ連がアフガニスタンに侵攻、親ソ傀儡政権を樹立した。
米国カーター政権はこれを非難、翌80年開催のモスクワ五輪のボイコットを提唱する。
これは大統領選を控えたカーター氏のパフォーマンスの一環だったが、日本、カナダ、西ドイツ、韓国などが追従。
逆に英、仏、伊、スペイン等は政府の圧力に屈せず参加の道を切り開く。
英国選手団のリーダーだったのが、後にロンドン五輪組織委員長を務めるセバスチャン・コー。
旧ソ連だけでなく米国の集団的自衛権行使も五輪に大きく関与している。
ベトナム戦争 1960年頃~1975年
米国が、東南アジアにおける反共防波堤という性格を持つ傀儡国家ベトナム共和国を支援した戦争。
インドシナ半島を舞台に、米国を盟主とする資本主義陣営とソ連を盟主とする共産主義陣営との対立=冷戦を背景とした代理戦争である。
米国は、非人道兵器も使い残虐の限りを尽くしたが、これらの武力介入を南ベトナム政府の要請に基づく集団的自衛権の行使と説明。
この戦争に日本はと自衛隊の派兵を「憲法9条があるからできない」米国に拒否した。
一方、韓国は32万人を出兵し、5000人が戦死した。
グレナダ侵攻 1983年
1983年にカリブ海に浮かぶ島国グレナダで親米政権がクーデターで倒された際、アメリカ軍および東カリブ諸国機構(OECS)参加国軍が侵攻したもの。
米国は、グレナダがソ連・キューバの強い影響を受けて反米・共産主義化し「第二のキューバ」となる事を防ぐため武力介入した。
翌年のロサンゼルス五輪にソ連をはじめとする東側諸国はグレナダ侵攻を口実に、4年前のモスクワ五輪の報復ボイコットを果たした。