国際陸上連盟新会長は セバスチャン・コー
この週末から世界陸上が始まるのに先駆けて、IAAFの新会長を決める選挙があった。
立候補していたのはセバスチャン・コー(英国)とセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)。
どちらも五輪金メダリストであり、陸上史に残るアスリートである。
結果は115-92でコーが勝った。
このブログでもセバスチャン・コーのことは何度も書いているが、陸上界でコーよりも影響力のある人間はいないだろう。
「非常に光栄だ。私がこれほどまでに希望し、また打ち込める仕事はほかにない」
と新会長になったコーの談話が発表された。
IAAFは現在、危機にあると言っても過言ではないだろう。
大きなドーピング疑惑に直面している。
英紙サンデー・タイムズと独公共放送ARDが8月初め、2001~12年に選手5000人を対象に実施された血液検査1万2000余りのデータを入手し、中・長距離種目で150人近い五輪、世界陸上のメダリストについて、ドーピングが疑われる結果が出ていたと伝えている。
この報道は、北京世界陸上を直前にしたIAAFへの挑戦状である。
これに対し、IAAFは不正を全面的に否定する声明を発表。
コーもAP通信とのインタビューで、
「選手たち並びに競技そのものの名誉を傷つける報道だ。まさに宣戦布告だ」
と怒りをあらわにしている。
が、新会長決定後には
「禁止薬物への寛容さはゼロだ。監視を最高レベルに高める」
とも語っており、その手腕が楽しみでもある。
陸上競技はサッカーを除けば、世界的にも最も人気の高い競技だ。
だが、その財政を支えているのは日本企業だ。
TBSがIAAFの各選手権の独占放送権を持っているほか、IAAF公式スポンサー7社の内4社が日本企業だ。
1社の支払うスポンサー料は年間200万ドル。
しかし
キャノンは2016年まで
セイコーは2019年まで
TDKは2019年まで
トヨタは2017年までの契約に留まっている。
日本は2020年に東京五輪を控え、広告効果を再確認している状況にある。
IOCのTOPスポンサーにも決まったトヨタが、トヨタカップ時代から長年協賛してきた、クラブW杯のスポンサーを降りたのもその一環だ。
(*スポンサーの内、中国のSINOPEC、ロシアのVTBは今年で契約切れになり、大会中にも更新するかの交渉がもたれる)
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セバスチャン・コーは過去に歴史的なスピーチをしている。
その一端を紹介しよう。
◆第117回国際オリンピック委員会総会 2005年7月6日 (シンガポール)
2012年夏季五輪開催地決定に際してのロンドンのプレゼンテーション。
45分のプレゼンのほとんどは、セバスチャン・コーが話している。
私が今日ここに立っているのは、自分自身が、オリンピックムーブメントによって感激させられたからです。
メキシコ五輪当時、私が12歳の時、私は学校の集会所にクラスメートとともに行きました。
私たちは古い白黒テレビの前に座り、五輪の映像を見ました。
その日が、私を新しい世界に連れて行ってくれる窓となったのです。
そしてコーは、14歳のロンドンの二ューハム地区に住むバスケットボール選手Amber Charlesを紹介した。
その風貌はいかにも移民といった様子だ。
なぜ彼女がロンドン招放団の一員なのか、私たちの目的は、若者たちに活気を与えることです。
ロンドン東部に住む彼女らは、最も直接的に五輪に触れることが出来るでしょう。
ロンドンに住む人の出身国は、200カ国にも及び、彼女らの家族は各大陸出身者です。
ロンドンの文化の融和は、彼らの存在は、世界のお手本になるでしょう。
彼女らのスポーツを愛する心、そして私たちのロンドンに五輪を招くことは、心からの夢なのです。
通常、各立候補都市の最後のプレゼンテーションでは、施設の充実をアピールに終始する。
が、ロンドン招致委委員会会長のセバスチャン・コーは、五輪選手出身者らしい締め方をした。
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◆第84回国際オリンピック委員会総会 1981年9月29日 (西ドイツバーデンバーデン)
当時は西ドイツとよばれていた国のバーデンバーデンで、IOC総会と、五輪コングレスが開催された。
五輪コングレスとは、IOC総会よりも規模が大きく、この先の五輪運動の根本からを話し合うための会議である。
この当時、世はまさに東西冷戦下。
この前年に開催されたモスクワ五輪は、アメリカ、カナダ、西ドイツ、日本などの主要国がボイコットし、片肺に終わっていた。
当時のIOC委員は現在のように、選手出身の委員よりも、欧州の王族や経済的な成功者が多くを占めるブルジョアクラブのようになっており、スポーツの世界、あるいは社会全体の動きに疎い連中の集まりだった。
そのため、IOCは、「モスクワ五輪ボイコット」を突如ぶちまけたジミー・カーター米国大統領(当時)を説得するでもなく、打開案を見出すでもなく、みすみす五輪の崩壊を指をくわえて見ていただけだった。
1980年にIOC会長になったばかりのアントニオ・サマランチは、銀行家から外交官になり、IOCに入った人物だが、社会の変化と現状を示そうと、五輪コングレスで初めて、現役選手に発言の場を与えた。
このときIOCを舞台に、選手の立場から初めて演説をしたのがセバスチャン・コー。
後に、ロンドン五輪組織委員会会長を務める彼は、モスクワに選手を送らなかった国、送ることをじゃました国を痛烈に批判し、
現代の五輪選手の負担は大きく、その犠牲は無視すべきでない。IOCには、選手への社会的配慮を保証する、道義的義務がある
と訴えた。
さらには、近代五輪が誕生したときからの最大の課題、スポーツを通じて報酬を得る選手(いうなればプロ)の五輪参加を認めるかどうかのアマチュア問題を一刀両断したのだ。
このコーのスピーチをきっかけとして、五輪は排他的エリート意識の産物から、プロ解禁による普遍的なスポーツの祭典へと変わって行った。