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January 02, 2016

箱根駅伝に名を残す日本初の五輪選手 金栗四三

今年の箱根駅伝は青学大が優勝し、最優秀選手の久保田和真(4年)に金栗四三杯が贈呈された。
金栗四三は、日本初の五輪選手として知られているが、箱根駅伝の誕生に尽力し、2004年から最優秀選手に金栗の名を冠した賞が贈られている。
 
近代五輪の第1回が行われたのが1896年。
日本が初めて五輪に参加したのは、その16年後の1912年、第5回ストックホルム五輪である。
最初の日本選手団はたったの4名だった。
柔道の創始者として知られる嘉納治五郎・大日本体育協会(日本体協の前身)会長、大森兵蔵同総務理事を役員に、選手は陸上短距離の三島弥彦(東大)とマラソンの金栗四三(東京高師=現筑波大)の2人だけだった。
ストックホルムと言えばスウェーデンの首都。
仮に今年ストックホルムで五輪開催となれば、日本選手団はチャーター便でひとっ飛び…となるところだが、1912年当時、彼ら選手団はどうやって移動したのだろうか。
ちなみに、ライト兄弟の世界初の動力飛行成功が1903年のことである。
そのわずか9年後となれば、当然、日本からヨーロッパへの移動に飛行機が浸透しているわけもなく、鉄道か船を利用するしかなかった。

三島・金栗の両選手は、自腹でストックホルムに向かっている。
まず5月16日に新橋駅を出発し、敦賀から船でウラジオストクへ向かう。そしてシベリア鉄道でサンクトペテルブルクまで行き、さらに船に乗ってようやくストックホルムに到着。かかった時間、実に18日間。
短距離選手の三島はまず100m予選に出場し、最下位で落選。
続く200m予選も敗退した。
3種目目の400m予選では、3人が棄権したため、2位で準決勝に進出を果たしたが、疲労のため結局棄権した。

一方、マラソン代表の金栗は、当時のマラソン世界記録保持者だったが、32キロ地点で日射病のために倒れ、民家で一晩介抱された。
当時は極東から来た選手が行方不明になったと話題になり、時の人にもなっている。

ちなみに金栗には、後日こんなエピソードがある。五輪開催から55年後の1967年、ストックホルム市は五輪開催55周年記念祭を開き、「消えた日本人」こと金栗老人を招待した。
76歳になっていた金栗は、かつてのゴール地点に案内されて10m手前から走ってゴールする。
そこに場内放送が流れた。
「第5回ストックホルム五輪マラソン競技は完全に終了しました」
タイムは、54年と8ヶ月6日5時間37分20秒3
その後の会見で、金栗老人はこんな素晴らしいスピーチを披露した。

「長い道中でした。途中で孫が5人もできました。」

Stockholmphoto

▲旗手は三島弥彦。金栗四三は「NIPPON」と書かれたプラカードを持つが、日章旗に隠れてしまっている。

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