聖火リレーの歴史
オリンピック開会式前のハイライトとなっている聖火リレー。古代オリンピックでは、競技の間、聖火はゼウスの神殿祭壇にあった。競技開始の前には、招待状を携え休戦を告げる平和の使者たちが各地を走ったという。
◆聖火リレーの始まり 1936年・ベルリン大会
近代オリンピックでは、ヒトラー政権下の1936年ベルリン大会において、故事を生かした聖火リレーが考案された。古代オリンピック遺跡のヘラの神殿跡で、太陽光線を凹面鏡で集めて採火、ランナーに手渡す儀式が行われた。
ギリシャのオリンピアからベルリンまでは3000キロ。ナチスの国民啓蒙宣伝省が綿密な計画を立て、ドイツ国境から首都ベルリンにかけて壮観な演出が施された。
オリンピアからナチス直轄のラジオ局が同行し、暑さで機材を溶かしながらリレーの様子をドイツに伝えている。
ベルリンに入ると、2万5000人の青年隊と約4万人の突撃隊員が聖火を出迎えた。こうして、世界的な関心を集めた聖火リレーは、オリンピ″クプロパガンダ最高の広告塔となり、今日のオリンピックの先例となったのである。
◆1964年・東京大会
東京オリンピックでは、開会式(10月10日)の約2ヵ月前に当たる8月21口に、採火式がギリシャのオリンピア・ヘラ神殿跡で行なわれた。翌日、アテネに到着した聖火は、日本航空の聖火空輸特別機シティ・オブ・トウキョウ号に積まれ、アジア各地を経由しながら東京を目指すこととなった。
アテネ→イスタンブール→ベイルート→テヘラン→ラホール→ニューデリー→ラングーンバンコク→クアラルンプール→マニラ→香港→台北と11の中継地を経て、9月7日に沖縄(当時、沖縄はまだ日本に返還される前である)に到着した。
日本国内では4ルートに別れてリレーが行われ、実に10万713名もの人が参加した。
◆1998年・長野冬季大会
1972年の札幌オリンピック以来、26年ぶりに聖火が日本を駆け巡った。開催まで1カ月余に迫った1月、沖縄県糸満市、北海道杜幌直、鹿児島県鹿児島市の3ヵ所を出発した聖火は、33日間をかけて46都道府県を通過し、長野県に入った。
長野県内では120全市町村をくまなく回り、オリンピック開会式前日の2月6日、長野市で1つになった。この間、全国で約7000人のランナーが聖火を繋いでいる。
長野オリンピックでは、走行中に度々聖火が消えたことが話題になった。トーチのガスボンベのねじが緩んだことや、想定外の強風などが原因だったが、いずれも種火から採火し直してリレーを継続、事なきを得た。
◆2004年・アテネ大会
聖火の採火式が行われるオリンピアから、オリンピックが開かれるアテネまでは車で約5時間。聖火リレーは史上最短のコースとなるはずだった。だが近代オリンピックが発祥の地に戻ってくる特別な大会ということもあり、聖火リレーも特別なものにしたいと考えたアテネオリンピック組織委員会が、世界1周聖火リレーの実施を打ち出した。
オリンピアで採火された聖火は、前回のオリンピック開僣地であるシドニーを皮切りに、過去の全夏季オリンピック開催都市を含む、5大陸36都市を回った。
総延長は7万8000キロ。108年ぶりに発祥地へと帰還するオリンピックを迎える、空前のスケールの聖火リレーとなったのである。
この大掛かりな試みに、IOCのスポンサーのサムスンとコカコーラが協力を申し出た。これまでもシューズの提供など小規模なスポンサー絡みの例はあったが、史上初めて世界5大陸を回る国際ルートは、IOCのスポンサーなくして成り立たない大イベントだったのである。
◆2008年・北京大会
中国は、北京オリンピックを歴史上最も目立つオリンピックにすることを目標に掲げていた。一大国家事業として、対外的には国際的地位の向L、内向きには愛国心の高揚を狙ったものである。史上最長距離となる13万7000キロのルートでは、世界最高峰のチョモランマ(英名エベレスト)を越えるという壮大な計画もあり、「他のどの国にも真似のできないオリンピック」を象徴するものとなるはずだった。
ところが、中国の抱える人権問題、特に、チベット騒乱への弾圧に抗議するグループによる抗議活動が世界各地で起こり、聖火リレーは物々しい雰囲気の中で行われている。さらに、リレーが中国国内に移ってからの5月12日には、6万人以上が犠牲となった四川大地震が発生。被害の大きい場所では聖火リレーの中止や規模の縮小を余儀なくされた。予定通り行われた場所でも、リレーの前に黙梼を捧げる姿が見られた。