ベルリン五輪以来!日本サッカー80年ぶりスウェーデンと対戦
リオデジャネイロ五輪の男子サッカー日本代表は、1次リーグでナイジェリア、コロンビア、スウェーデンと対戦する。五輪でスェーデンとの対戦するのは1936年のベルリン五輪以来80年ぶりだ。
日本とスウェーデンの間にはこんな因縁がある。
まだ戦争が終わったばかりの1949年、日本初のノーベル賞が湯川秀樹博士に贈られた。
受賞のためストックホルムを訪れた湯川秀樹博士の記者会見の際、スウェーデンの記者が博士にサッカーのボールを手渡した。
博士はそれをヘディングする格好をして拍手を浴びたという。
スウェーデン人にとって、日本についての最も鮮明な記憶は、1936年のベルリン五輪でのサッカーの試合であることのエピソードである。
「ヤパネー、ヤパネー、ヤパネー、日本人が飛んでくる…」
スウェーデンでは、「日本」の国名を3度重ねた言葉が生きている。
日本人のニュースを伝える時や、予想もしなかった出来事が起きた時に語られる言葉だという。
1936年のベルリン五輪で生まれた言葉だ。
1ベルリン五輪は、ナチス政権下でドイツの国威発揚に利用された大会として、今尚ヨーロッパの人に語り継がれている大会だが、スウェーデン人にとっては、忘れられない思い出もあるようだ。
1912年にストックホルム五輪を開催し、北欧のスポーツ大国を自認していたスウェーデン。
1924年のパリ五輪のサッカーでは銅メダルを獲得し、ベルリン五輪でも優勝候補の一角に挙げられていた。
まさか、極東からシベリア鉄道で2週間かけて渡欧して来た日本人に負けるとは、誰も思わなかったのだ。
前半、圧倒的にスウェーデンに攻められる日本。24分、37分に、ゴールを許し、前半終了。
後半、2点のリードに安心したかのようなスウェーデンから日本は3点を挙げ、歴史に残る逆転劇を演じてみせた。
(まるでリオ五輪予選の日韓戦のような内容だ)
当時、ベルリンの新聞には
「日本はこの試合でサッカーの醍醐味を味わわせてくれた。高い技術的プレーを知っているはずのベルリン市民も、日本チームが示した極めて細かいプレーに感嘆した。
加茂兄弟は見事な左翼を形成し、CF川本の技巧は惚れ惚れするほどだった。スウェーデンと日本の攻撃を比べると、遥かに日本の方が近代的で優勢だった」
と評された。
日本のサッカーの恩人といわれるデットマル・クラマー氏(故人)も1960年の初来日のとき、少年のときに、ベルリン五輪の逆転劇を聞いたのが日本への強い興味を持つきっかけだと語ったこともある。
スウェーデンではこの敗戦は語り継がれているようで、若い人にも随分むかし、日本に負けたことがあるという事実は多く知られている。
2002年のW杯開催前に、テストマッチが日本・スウェーデン間で行なわれ、スウェーデンが先制するも、中田のゴールで日本が追いつき引き分けた。
W杯の本番、決勝トーナメント1回戦で日本がトルコに敗れず、スウェーデンがセネガルに敗れなければ、日本対スウェーデンの対決が66年振りに実現するはずだった。
五輪におけるスウェーデン代表は過去に9回出場し、金メダル1(1948年)、銅メダル2(1924・52年)の実績を持つ強豪だが、1992年のバルセロナ五輪を最後に五輪出場は遠ざかっていた。
しかし、昨年開催されたU-21欧州選手権で優勝し五輪の舞台に戻って来た。
80年ぶりの日本対スウェーデンは、アジア王者対欧州王者の対決でもある。
●1936年ベルリン五輪 ベスト8
日本 3-2 スウェーデン
日本 0―8 イタリア
日本代表GK:佐野理平、FB:堀江忠男、竹内悌三、HB:立原元夫、種田孝一、金容植、FW:松永行、右近徳太郎、川本泰三、加茂健、加茂正五
FBの堀江忠男さんは当時早大在学中、卒業後は朝日新聞勤務ののち早稲田大学政治経済学部の教授に就任。早稲田大学サッカー部監督を務め、釜本邦茂氏、森孝慈氏(政経学部卒)、西野朗氏、岡田武史氏(政経学部卒)らを育てた。