サッカー カタルーニャ代表のはなし
スペインのカタルーニャ州が、スペインから独立しようという動きがあることは、ご存じだろう。
カタルーニャ州の州都、バルセロナは1992年の夏季五輪の開催地であり、サッカーのFCバルセロナのホームタウンである。
カタルーニャ州が、スペインから独立したら、スペイン・プロサッカーリーグは、カタルーニャ州内のクラブがリーグに所属し続けることは認めないとしている。
スペインのスポーツ法によると、ペインリーグに所属できるのはスペインとアンドラのチームのみと明記されているのだ。
カタルーニャ州のクラブでは、FCバルセロナのほかに、RCDエスパニョールとジローナFCがスペイン1部リーグに属している。
現在は、リオネル・メッシらを擁するバルセロナだが、スペインリーグを脱退すれば、世界最高峰の選手たちを引き止めることはできなくなり、中規模のクラブになっていくというのが、大方の見方だ。
一方で、サッカー・カタルーニャ代表も存在する。
僕がカタルーニャ代表があると知ったのは、1998年の12月のことだ。
1998年は、フランスW杯が開かれた。
日本代表が初出場した大会だが、この大会のスペイン代表は、ナイジェリア代表に2-3で敗れ、1次リーグ突破はならなかった。
ところが、その年の暮れ、エスタディ・デ・モンジュイックで行なわれた、カタルーニャ代表対ナイジェリア代表の試合は、5-0でカタルーニャ代表が大勝した。
エスタディ・デ・モンジュイックとは、1992年に行われたバルセロナオリンピックのメインスタジアムであるが、「カタルーニャ代表はスペイン代表より強い」カタルーニャの市民の鼻息は荒かった。
バルセロナのあるカタルーニャ州は、歴史的にスペイン中部のカスティーリャ地方とは異なる文化を擁したが、18世紀初頭にマドリードの王室によって支配された。
19世紀後半以降工業などの発達で栄え、それに伴い文化芸術活動も盛んになる。
アントニオ・ガウディはまさにこの時代の人間である。
1936年、ナチスのベルリン五輪に対抗し、バルセロナで人民オリンピックが開催されようとする数日前にスペイン内戦が勃発、フランコ将軍率いる反乱軍が3年かかってスペイン共和国政府を倒し、これ以降スペイン全土でスペイン語のみが公用語とされた。
カタルーニャ独自のことばであるカタルーニャ語は、使用が大幅に制限された経緯がある。
フランコの没後1978年に新憲法が制定され、カタルーニャ語はカタルーニャ自治州の公用語とされ、短期間に再び社会の幅広い層で使われるようになっている。
法律上は、スペイン国内の自治州でしかないのに、カタルーニャにサッカーの独立した「代表チ-ム」があるなんて…。
スペインでは、カタルーニャに限らず、スペイン国内のいち地方(州)であるバスク、アンダルシア、バレンシア、アストリアス、バレアレの計6地域が「代表チーム」を選抜し、正式な他国の代表チ-ムを招いて国際試合を行っている。
もっともFIFAにもUEFAにも加盟していないため、W杯やユーロに出場することはできない。
海外のしかも強豪代表チームをカタルーニャサッカー協会が、初めて招待したのは1997年。
以後、カタルーニャ代表の試合は当地の年末の恒例行事となっている。