ジンバブエのムガベ大統領が辞任 思い出すのはやっぱりこの金メダル
ジンバブエのロバート・ムガベ大統領が21日、辞任した。37年間にわたり政権の座にあった同氏の退陣を受けて、喜びをあらわにする国民の姿が各地で見られた。
ジンバブエと言えばカースティ・コベントリー。
16歳(シドニー)から32歳(リオデジャネイロ)まで5回の五輪に出場し、金メダル2、銀メダル4、銅メダル1個を獲った大選手だ。
1964年の東京五輪を調べていくと、知られざることがいくつも出て来る。
例えば、イギリス領北ローデシアは、閉会式の日にあたる1964年10月24日(日本時間では同日午前7時)にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。
選手村の国旗なども、同日をもって新国旗に付け替えられたという。
北ローデシアの隣国、イギリス領南ローデシアは、東京五輪にはローデシアとして参加し、ホッケー(当時は男子のみ)などに選手を送ってきている。
南ローデシアは、1965年に白人政権によるローデシア共和国として、イギリスから一方的に独立するが、国際社会からは認められずに、1968年から1976年までの五輪には参加していない。
このあたりは、1964年から1988年まで五輪から締め出されていた南アフリカと同様だ。
ローデシアは、1980年にジンバブエとして独立し、国際舞台に復帰するのだが、ローデシア政府によって投獄されていて、ジンバブエ独立後の選挙で勝利したのが、今回、大統領を辞したロバート・ムガベ氏。
1980年当時、南アフリカにおけるネルソン・マンデラ氏のような、新国家の象徴としてもてはやされていた。
このムガベ氏が、37年間に渡り政権の座にあり独裁政権を継続してきたということだ。
1980年のモスクワ五輪 ご存知のように日本、米国、西ドイツ、韓国などがボイコットした大会だが、この大会から正式種目として女子のホッケーが採用された。
女子ホッケーは6か国で争われる予定だったが、豪州やオランダは五輪には参加したが、女子ホッケーは不参加を決め、五輪開幕35日前、1980年6月14日にジンバブエ女子代表が急遽出場することになる。
ホッケーの競技は、モスクワのディナモ・マイナー・アリーナ。
現在では、当たり前の人工芝の競技場もジンバブエ代表にとっては初めての体験であり、相応しいシューズも持っていなかった。
ところが、
初戦のポーランドに4-0で勝つと、2戦目のチェコスロバキアには2-2で引き分け。
地元ソ連を2-0で下すと、インドには1-1。
最終戦に4-1で勝利し金メダルを獲得した。
わずか6か国しか参加していなかったとはいえ、総当たりで1度も負けていない。
勝利したホッケー選手はすぐにジンバブエの記者たちによって「ゴールデン・ガールズ」と呼ばれた。
日本でも、ジンバブエという耳になじみのない国の金メダルは興味を持って報じられ、朝日新聞の社会面の見出しを飾った。
その内容は、白人主導の国が倒れ、新たな国が生まれ、その年の五輪で金メダルを獲ったことを絶賛する内容だった。
チームのジンバブエへの帰国時には、大勢の人々に出迎えられ、国家的有名人になった。
当時首相になったばかりのロバート・モガブは自宅に招いて彼女らを歓迎した。
首相の妻サリーは、選手には牛を贈る約束をしたが、実際にはポリスチレンに包装された肉を贈った。
モスクワ五輪でのジンバブエ・ホッケーチームの金メダルを、スポーツの歴史研究科は、「おとぎ話」や「魅力のない妖精物語」と呼び、ボイコット騒動によって、競技のレベルが下がり、思いがけない国がメダルを手にした象徴と評価している。
イギリスの高級紙The Sunday Timesは、「1980年のモスクワの多くの選手と同様に、彼女らはチャンスをつかんだ」と結論づけている。
ジンバブエがこれまでの五輪で獲得したメダルは8個
1980年の女子ホッケーの金メダルのほかは、先述のカースティ・コベントリーが競泳で獲った7個のみ。
モガブ大統領の独裁は、スポーツに予算を回さなかったのだ。
▼全員白人のジンバブエ代表
https://www.youtube.com/watch?