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December 19, 2017

新・冬季五輪の記憶(5) フィギュアスケート15歳の壁

1984 Sarajevo


スピードスケートの1500mの有力な金メダル候補である高木美帆は、1994年5月22日生まれの23歳。

2010年のバンクーバー五輪に出場、当時中学校3年生でのスピードスケート代表は、史上最年少と騒がれた。
4年後のソチ五輪は不振で代表から漏れたが、今回は圧倒的な強さで代表の座を手にし、五輪本番でも複数のメダルを獲るだろう。

2006年のトリノ五輪当時、15才だった浅田真央が、GPファイナルで優勝したにも関わらず、五輪出場条件を満たせなかったことは覚えておられる方も多いだろう。

少し意外な気もするが、スピード、フィギュアともISU国際スケート連盟が統括する競技であり、同じ年齢制限の対象となる。

ISUは、1996年6月の総会で、五輪出場資格をそれ以よりも1歳引き上げ「五輪前年の6月30日までに15歳」と定めた。
これによるとバンクーバー五輪は、2009年6月30日までに15歳に達していれば問題はなく、高木美帆は1994年5月22日生まれで条件をクリアしていた。

一方、トリノ五輪の際は、「2005年6月30日までに15歳に達している」ことが条件となり、1990年9月25日生まれの浅田は条件に87日足らず、五輪デビューが4年遅くなった。

ISUは「医学的見地から決めた」としているが、五輪競技の中で年齢制限を設けているのは女子体操の16歳以上、アマチュアボクシングの19歳以上40歳以下などごく小数しかない。

往年のフィギュアスケーターで、アルベールビル五輪銀メダリストの伊藤みどり(1969年8月13日生まれ)は、浅田と同じ名古屋市出身である。
当時、不世出の天才少女といわれた伊藤も年齢制限に引っ掛かったことがあった。
当時は現在よりも1年緩く、五輪は15歳以上とされていたのだ。

伊藤みどりは1984年のサラエボ五輪をめざしていた。
というよりも、伊藤の将来のことを考え、五輪を経験させてやりたいというのが関係者の本音だった。
サラエボ五輪を14歳で迎える伊藤には、本来五輪出場資格はなかった。
ところが、五輪の年の世界ジュニア選手権で3位以内に入れば五輪出場資格を認めるという特例があった。

日本スケート連盟は伊藤のために1983年の世界ジュニア選手権を札幌市に招致。
伊藤は、首尾よく3位に入り、五輪出場権を手にしたかに見えた。
ところが、当時シニアの世界では人材の乏しかった日本フィギュア。
女子の五輪出場枠は僅かに一人しかなかった。
全日本選手権で優勝することが五輪出場の条件とされた伊藤は、ショートプログラムで得意のダブルアクセルで転倒し5位、フリーで1位と追い上げだが、加藤雅子に次ぐ2位に終わった。
サラエボ五輪代表は加藤雅子が手にした(19位)。

伊藤みどりはその後18歳で出場したカルガリー五輪で5位、22歳で出場したアルベールビル五輪で銀メダルを獲得するのだが、アルベールビルのSPではトリプルアクセルで緊張のあまり転倒。
フリーでは、再度挑み成功。五輪の舞台で初めてトリプルアクセルを決めた女子選手となった。
とはいえ、SPの転倒がなければクリスティ・ヤマグチに勝てた、と今でも思う。

*調べてみると、15歳以下で五輪に出場した選手は数人いる。
稲田悦子 12歳 1936年ガルミッシュパルテンキルヘン五輪10位
八木沼純子 14歳 1988年カルガリー五輪14位
福原美和 15歳 1960年スコーバレー五輪21位 (1964年5位)
井上怜奈 15歳 1992年アルベールビル五輪ペア14位 (1994年シングル19位 2006年米国代表ペア7位)

ポスト金妍児の劉永(You Young 2004年5月27日生まれの13歳)も平昌五輪には出られない。
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