新・冬季五輪の記憶(1) 5冠王エリック・ハイデン
1976 Innsbruck
1980 LakePlacid
1984 Sarajevo
五輪は時として、とんでもない怪物を生む。
5回の五輪に出て23個の競泳の金メダルを獲ったマイケル・フェルプス
生涯9個の金メダルを獲ったカール・ルイス
円盤投げ4連覇のアルフレッド・オーター
冬季五輪はその種目の少なさからか、夏季大会ほどのスーパースターは出ていない。
が、冬季五輪史上最高のスーパースターの一人がエリック・ハイデンであろう。
1980年2月、ソ連のアフガニスタン侵攻に対するモスクワ五輪のボイコット問題に揺れる中、レークプラシッド五輪が開幕した。
男子のスピードスケートは500m、1000m、1500m、5000m、そして10000mの5種目が行われている。
近年の五輪では、屋内のスケートリンクが会場となっているが、以前の五輪では屋外のリンクが当然であり、スピードスケートもスキーと同様に「自然と戦う」競技だった。
名門ウィスコンシン大学の医学生だったハイデンは、1977年、78年、79年と5種目の総合得点で争われる世界スピードスケート選手権で3連覇を果たし、レークプラシッド五輪では、「全ての種目に金メダルを狙う」と5種目全てにエントリーしてきた。
当時は現在ほど、スプリント専門、長距離専門と分かれておらず、オールラウンドに強い選手も多かった。
だが、5種目全てに金メダルなんて、誰もがそう思った。
最初の500mは辛勝だった。
この時代の500mは、1回のレースで全てが決まる。
当時の世界記録保持者クリコフ(ソ連=当時)をわずか0秒32差で振り切った。
そして、翌日の5000mは中間タイムで5秒遅れたが、後半ピッチを上げ、逆転で金メダルを手にすると1000m、1500mと金メダルを積み重ねていった。
ハイデンは、常に異彩を放つ金色ワンピーススーツを着ていた。
金色のハイデンが、常に同走者を置き去りにした。
5種目制覇のかかった10000mは、余裕たっぷりだった。
前日は、アイスホッケーの決勝。
「ミラクルオンアイス」と呼ばれたアイスホッケーの米ソの金メダルをかけた対決の応援に駆けつけ、スケートの代表仲間と大騒ぎした。
そして、10000mのレースでは2位と8秒差、世界記録を6秒も更新するタイムで5つ目の金メダルを手にした。
「モスクワでの2週間のために選手は人生をかけてきた。カーター大統領は再考をすべきだ。」
5冠王に輝いた後、インタビューでモスクワ五輪ボイコット問題に触れ、ハイデンは力説した。
米ソの冷戦華やかりし頃、五輪が政治の道具にされた。
ソ連の存在すら、良く思わないカーター大統領(当時)は、ソ連軍のアフガニスタン侵攻を理由に、1980年7月に開幕の予定されていたモスクワ五輪のボイコットを西側の友好国に呼びかけていたのだ。
しかし、ハイデンの訴えに、米国や日本の決定が覆ることはなかった。
▼エリック・ハイデン 当時21歳 184cm86kg それほど大きい訳ではない。
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実は、最近までスピードスケートの全種目制覇は五輪史上ハイデンが唯一、と思っていたが、もう一人いた。
1964年のリディア・スコブリコーワ(ソ連)である。
この時代はの女子は5000mが未実施であったため、500m、1000m、1500m、3000mの4冠王ということになる。
スコブリコーワは、冬季五輪史上、女子のスピードスケートが最初に採用された1960年のスコーバレー五輪の1500mと3000mで金メダルを獲った。
このとき20歳。
元々は中長距離が得意だったようだ。
1964年のインスブルック五輪の前年、1963年に軽井沢で開催された世界選手権で500m、1000m、1500m、3000mの4種目制覇をやってのけると、インスブルックでの4冠の期待が膨らみ始めた。
五輪初日に苦手な500mで同僚のエゴロワに0.4秒差で圧勝すると、4冠達成はいとも簡単に成し遂げられた。
スコーバレー五輪での2個の金メダルと合わせ、冬季五輪6個の金メダルは今も女子選手としては、最多タイとして記録に残っている。
このインスブルック五輪3000mでHan Pil-Hwa(韓弼花)という選手が銀メダルを獲っている。
この選手は北朝鮮の選手で、五輪のスピードスケート史上アジアで最初にメダルを獲った選手でもある。