新・冬季五輪の記憶(7) ダン・ジャンセンの軌跡
1992 Calgary
冬季五輪にも様々なドラマがある。
1回の五輪で5個の金メダルを獲った男もいれば、1個の金メダルを取るのに4回の五輪に出た男もいる。
男の名前はダン・ジャンセン。
五輪の歴史において、ダン・ジャンセンは悲劇のヒーローとして記憶に残っている。
1988年、2月14日。
米国ミルウォーキーの病院でジェーン・ジャンセンが白血病のために亡くなった。
27歳。ダン・ジャンセンの姉である。この1週間前、ジャンセンは500と1000mを2回ずつ滑る世界スプリント選手権で総合優勝を遂げ、姉ジェーンにその報告をしていた。
カルガリー五輪2日目、ダン・ジャンセンは選手村で姉の悲報を聞き、その数時間後、スピードスケート500mのスタートラインに立った。
2組インスタート。
当時、500mは1回のみのレースで順位が確定した。そのため、インコースかアウトコースかで明らかな有利・不利があると言われていた。
ジャンセンは100mを9秒95で通過したが、第1コーナーで転倒してしまった。
サラエボ五輪で惨敗した黒岩彰が銅メダルを獲り、雪辱を果たした。
日本の新聞には黒岩の文字が大きく踊る脇に、ジャンセンの小さな記事が載った。
4日後の1000m。
翌日には、ジェーンの葬儀が予定されていた。
ダン・ジャンセンに金メダルを
米国メディアは合言葉のようにくり返していた。
米国オリンピック委員会が、彼の帰国のために特別機をチャーターした。
600mまで44秒02。
世界記録を0秒38上回るペースだった。しかし、最終コーナーで再びバランスを崩し倒れてしまった。
1992年、雪辱を期したアルベールビル五輪、500mはウーべ・メイ(東独=当時)が金メダル。
銀メダルは黒岩敏幸、銅メダルには井上純一が入った。
が、ダン・ジャンセンは4位。
米国の新聞にジャンセンは、スケートでなくスキーを履いていたと酷評された。
さらに、1000mは屈辱の26位に終わった。
この後、冬季五輪は夏季五輪の中間年に開催されるようになり、2年後、1994年にリレハンメル五輪が巡ってきた。
500mは6年前と同じ2月14日だった。
ダン・ジャンセンがリンクに姿を見せた。
彼は、生後9カ月の長女を連れて大西洋を越えてきた。
長女の名は、「ジェーン」。もちろん姉の名前から取った。
「2人のジェーン」のために、ジャンセンは4度目の五輪に挑んだ。
実力は、間違いなく世界一だったろう。
35秒76、スラップスケート以前の当時としては驚異的な世界記録を持ち、直前にカルガリーで開催された世界スプリント選手権も制していた。
ところが、第2カーブの入り口で、左足のエッジの先端が氷に突き刺さる。
バランスが崩れた瞬間、左手の3本の指がリンクにつく。36秒68。8位だった…。
専修大の学生だった堀井学が銅メダル、まだ19歳だった清水宏保が5位に入った。
実力がありながら、メダルに縁のない選手もいる。
ジャンセンもそんな選手の一人。周囲にそんな雰囲気が漂い始めていた。
リレハンメル五輪1000m、ダン・ジャンセンの最後のレースが始まった。
700m付近で、ジャンセンは、またスリップした。左手を2度、氷についた。
しかし、転倒することはなかった。
リズムを取り戻し、最後の直線でさらに加速した。
1分12秒43。世界新記録。
8回目のレースで金メダルに手が届いた瞬間だった。
リンクサイドで生後9カ月のジェーンを抱いた妻ロビンが号泣している。
ジャンセンの人生観の中で、最も価値が高いものが「家族」であることを、そのことが象徴している一瞬だった。
だが、この話にはオチがある。
金メダルを取って、実業家としても成功したジャンセンは忙しくなり、家族とすれ違いが多くなり、そして離婚してしまった。
カルガリー五輪の500mで、転倒したダン・ジャンセンに巻き込まれた選手がいる。
黒岩康志。
当時500mの日本記録を持っていたスケーターだった。
銅メダルの黒岩彰、銀メダル黒岩敏幸など、かつては黒岩姓のスピードスケートの選手が多くいた。
いずれも群馬県の出身だが、特に姻戚関係はない。
ジャンセンの転倒に巻き込まれ、再レースを要求するも却下される。
4年後のアルベールビル五輪を目指すが、果たせなかった。