新・冬季五輪の記憶(6) ジャンプメダル独占と4人目の選手
1972 Sapporo
東京が1940年の会五輪の開催を決めていながら、日中戦争のため返上したのはご存じだろう。
この当時は、冬季五輪も同じ年に夏季五輪開催国が開くことになっていた。
そのため、1940年の五輪は冬季が札幌、夏季が東京を予定していた。
東京は、1964年に念願の五輪を開催したが、札幌は東京から遅れること8年、1972年の大会を開催した。
当時、札幌市の人口は100万人に少し足らず、五輪閉幕後の1972年4月に川崎市、福岡市とともに政令指定都市に昇格している。
札幌五輪以前に、日本が冬季五輪で獲得したメダルはひとつ。
1956年コルチナダンペッツオ五輪のアルペンスキー男子回転で、猪谷千春氏が獲得した銀メダルが唯一であったが、スキージャンプチームは経験豊富な選手が揃っていた。
1970年の世界ノルディック選手権ビソケタトリ大会の70m級(NH)で銀メダルを獲った笠谷幸夫、同じく1966年のオスロ大会90m級(LH)で銀メダルを獲得した藤沢隆がいた。
特に笠谷は、1971~72年のジャンプ週間の4戦のうち3戦に勝利しながら、札幌五輪の調整の為に4戦目を欠場したが、世界の誰しもが認める金メダル候補であった。
70m級ジャンプにエントリーしたのは56人の選手。
日本から出場したのは下記の4選手である。
笠谷幸生 28歳(ニッカウヰスキー)
金野昭次 27歳(北海道拓殖銀行)
青地清二 29歳(雪印乳業)
藤沢隆 28歳(国土計画) 所属は当時の企業名
笠谷、藤沢は1964年、68年に続いて3回目の五輪。(但し藤沢の64年はノルディック複合)
金野、青地も1968年に続いて2回目の五輪だった。
ジャンプは2本跳び、その合計で争われるが、
1本目
①笠谷 84.0m 126.6pts
②青地 83.5m 123.3 pts
③金野 82.5m 120.2 pts
④藤沢 81.0m 117.8 pts
なんと1本目を終わって日本人選手が上位4位までを独占する。
2本目は下位の選手から跳び、上位につけた選手ほど後から跳ぶ。
4位につけていた藤沢が68.0m 90.0ptsの失敗ジャンプでメダル圏外へ。
3位につけていた金野が79.0m 114.6ptsで首位へ。
2位につけていた青地は77.5m 106.2ptsを跳び2位へ。
最後に跳んだ笠谷は金野と同じ79.0mながら117.6ptsの飛型点をマーク。
金野、青地を超えて金メダルを手にした。
当時、笠谷の飛型は世界一美しいと言われていたが、
5人の審判員は1本目、19.0、19.0、19.0、18.5、19.0
2本目、19.0、18.5、18.5、19.0、18.5
5人の審判の内、最高点と最低点を除いた3人の合計が採用されるが、ほぼ完璧に近いジャンプだった。
札幌五輪のジャンプメダル独占を知る世代の人に、メダルが獲れなかった藤沢隆氏のことを尋ねてもまず覚えていない。
藤沢の2本目は56人中46位、総合で23位という記録が残っている。
札幌五輪70m級ジャンプ(NH)1972年2月6日
①笠谷幸生 244.2
②金野昭次 234.8
③青地清二 229.5
㉓藤沢隆 207.8
札幌五輪の90m級ジャンプ(LH)は、5日後の2月11日に行われた。
青地清二に代わって板垣宏志(国土計画)が起用されたが、笠谷7位、金野12位、藤沢14位、板垣19位と一人の入賞もできなかった。(当時の入賞は6位まで)
なお、ジャンプ団体は1988年以降に正式種目になっており、この時代には行われていない。
金野、青地、藤沢、板垣は、札幌が最後の五輪となったが、笠谷幸生は、1976年のインスブルック五輪にも出場。
32歳になった老雄の最後の五輪は、70m級16位、90m級17位に終わった。
なお、青地 清二さんは2008年8月14日札幌市内の病院で亡くなっている。享年66歳。