新・冬季五輪の記憶(8) 朝鮮半島出身者が過半数を占めた1936年冬季五輪スケート日本代表
1936 Garmisch-Partenkirchen
平昌は雪はあまり降らないものの、たいそう寒いと言う。
朝鮮半島の冬は厳しく、昔からスケートは盛んだった。
1910年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)は日本に併合され、1945年の敗戦まで日本の統治下にあった。
そのため、朝鮮半島出身選手が、日本代表として五輪に出場するといった例が少なからずあった。
最も有名な選手は孫 基禎氏(ソン・ギジョン、そん きてい、1912年8月29日 ~ 2002年11月15日)。
1936年のベルリン五輪に日本代表としてマラソンに出場し、世界記録の2時間29分19秒2で金メダルを獲得した。
このとき3位にはやはり朝鮮半島出身の南昇竜氏が入り、銅メダルを獲得している。
ほかにもベルリン五輪には、ベスト8に入ったサッカーには金容植氏が、ボクシング、バスケットボールにも朝鮮半島出身と思われる名前の選手がいる。
当時、朝鮮半島出身者で日本人を上回る技能を持つ選手がいても、日本人選手を差し置いて日本代表になることは、極めて少なかったと言われている。
戦前は、夏季五輪開催国には優先的に冬季五輪開催権が与えられ、1936年はドイツ・ガルミッシュパルテンキルヘンで冬季五輪が開催されている。
当時の冬季五輪ではスキー、スケート(スピード・フィギュアスケート)、アイスホッケー、ボブスレーの4競技しか行われていない。
しかも、まだ女子は実施されず、男子だけだったスピードスケートの日本代表として出場した選手の過半数が、驚いたことに朝鮮半島出身者だった。
上記のようなベルリン五輪の代表選考の過程を見ても、半島出身者の実力は、日本人を圧倒していたと推測できる。
ちなみに、アジアで最初にスピードスケートのメダルを獲ったのは、1964年のインスブルック五輪女子3000mの韓弼花(北朝鮮)の銀メダルである。
▲ガルミッシュパルテンキルヘン冬季五輪日本代表 金正淵氏の死去を伝える東亜日報の記事。(1992年7月18日付)
●1936年ガルミッシュパルテンキルヘン冬季五輪
スピードスケート日本代表選手結果
500m
4.石原省三 11.中村礼吉 16.李聖徳 22.南洞邦夫
河村泰男=失格
1500m
15.金正淵 19.石原省三 23.李聖徳 28.河村泰男
5000m
21.金正淵 27.李聖徳 27.張祐植 31.南洞邦夫
10000m
13.金正淵 25.李聖徳 26.張祐植
*この当時1000mは実施されていない。