平昌2018

December 12, 2017

新・冬季五輪の記憶(4) カナダ人の80%が見たアイスホッケー決勝

2010 Vancouver

面白いデータがある。
カナダの歴史上で最も多くの視聴者を集めたテレビ番組のランキングである。
10位までのうち、7つが2010年のバンクーバー五輪。

▼カナダにおける高視聴者番組ベスト10

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1964年の東京五輪が、押しなべて高視聴率だったというのは想像できる。
五輪に合わせてテレビが普及し、五輪にチャンネルを合わせ日本人選手の活躍に見入り、外国人選手の活躍に世界を垣間見た。

ところが、文字通りの先進国であるカナダで、夏冬合わせて3回目の五輪になぜそんなにも盛り上がったのか。

カナダのアイスホッケーが活躍したからだ。

アイスホッケーはカナダの国技である。
しかし、カナダはなかなか五輪チャンピオンになれなかった。
長い間プロの参加が認められていなかった五輸の舞台では、“ステートアマ”軍団のソ連が強く、金メダルから遠ざかっていた。

1988年の地元カルガリー大会からは、五輪へのプロの参加が認められたものの、NHLシーズンと五輪開催時期が重なるため、一流NHL選手は出場を見送ってきた。
カルガリー五輪の金メダルはソビエト、フィンランド、スウェーデンと続き、カナダは4位に終わっている。

バルセロナ五輪でのNBAのスター軍団の活躍に刺激され、NHLは五輪をショーケースと捉えるようになり、長野五輪以降は一流スター選手が五輪に乗り込んでくるようになった。
ただし、NHLに欧州のスター選手も所属するようになり、五輪に出場するチームはいずれもNHL選抜、なかなかカナダ言えども毎回金メダルが獲れる訳ではない。

1次リーグA組に入ったカナダはノルウェーに8-0で勝利、スイスに3-2で連勝するも米国に3-5で敗れ2位で決勝トーナメント(8か国)に進んだ。
まず予備選でドイツに8-2で快勝、準々決勝ではロシアを7-3と圧倒する。
準決勝のスロバキア戦は3-2で手堅く勝利し、決勝は再び米国と対戦。

ともにNHLのスター選手で固めたカナダと米国は、延長の末3-2でカナダが勝利した。
カナダの人口は約3400万人。
その内の80%、最大2650万人、平均でも1667万人のカナダ人がこの試合をテレビで見たという。
移民の多いカナダでは、9つネットワークが8つの言語で放送した。

一方、銀メダルの米国でも、視聴者数は記録的な数字となった。
アイスホッケーの過去最大の視聴者は、ミラクルオンアイスと呼ばれた1980年レークプラシッド五輪決勝 米国対フィンランドの3280万人。
この数字には及ばなかったものの、全米で2760万人の人が、TVの前に釘付けになった。
(ちなみに米国の人口は3億人を超える。)

来年の平昌五輪では、NHLのスター選手の活躍は見られない。
長野五輪以来5大会連続でNHLの選手が五輪参加してきたが、リーグ中断による経済的損失などを考慮し、平昌五輪には参加しないことになった。

NHLは世界市場開拓の一環として五輪に参加してきたが、NHLが実施したアンケートによると、リーグを中断しての五輪参加に反対するファンは米国で73%、カナダで53%に上ったという。
五輪開催時の2月は、リーグ戦の最中で、NFLや大リーグの公式戦がほぼない。
その時期に約2週間中断することは、チケット収入や放映権料など経済的な面から大きな損失となるとしている。


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December 07, 2017

新・冬季五輪の記憶(3) 銀盤の女王カタリーナ・ビット

1994

カタリーナ・ビットは、1965年12月3日 旧東ドイツ・シュターケン生まれのフィギュアスケート選手である。
五輪2連覇、世界選手権4回優勝など、史上最も成功したスケーターの一人だ。

●カタリーナ・ビットの主な戦績
1984年サラエボ五輪   フィギュアスケート女子 金メダル
1988年カルガリー五輪  フィギュアスケート女子 金メダル
1994年リレハンメル五輪 フィギュアスケート女子 7位
世界選手権金メダル   1984・85・87・88年
世界選手権銀メダル   1982・86年

冬季五輪の女子フィギュアは、五輪の全ての競技の中でも、最も注目を集める種目といっても過言ではない。
 
古くは札幌五輪のジャネット・リン、インスブルック五輪のロドシー・ハミル、レークプラッシド五輪のアネット・ペッチ、アルベールビル五輪のクリスティ・ヤマグチ、そしてトリノ五輪の荒川静香
女子フィギュアは技と美をともに追求し、話題の中心であった。

五輪のフィギュアスケートは、1908年から正式種目に加えられている。
といっても、冬季五輪の第1回・シャモニー大会は1924年であり、初期は、夏季五輪の種目だった。
この長い歴史の中で、女子で連続優勝したのは、ビット以外には1928年から3連覇したノルウェーのソニア・へニーしかいない。
連覇が難しいのは、この競技の特殊性にある。
五輪の金メダルは、プロ入りのまたとない格付けになるからである。
五輪2連覇を果たし、プロ転向後再び五輪の銀盤に現れた、それがビットであった。

1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊するまで、カタリーナ・ビットは東ドイツの「顔」だった。
ミスのない演技。
サイボーグのように鍛え上げられた肉体。
端正な顔に浮かべられた勝つことを疑わない笑み。
西側のメディアはビットを「社会主義の最も美しい顔」と呼んだ。

Witt98g

カルガリー五輪金メダルの後、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長は、祖国功労大勲章でビットを迎え、彼女は東ドイツ選手として初の「プロ」になった。
サラエボ、カルガリーと五輪2連覇の実績、妖艶にして聡明さもうかがわせる容姿。
東ドイツのスポーツ界だけでなく、ホーネッカー議長に気に入られ、プロパガンダとして政治の舞台に上がることも多くなっていった。

東ドイツは五輪を、社会主義国家の優位性を示す国際舞台と位置付けていたのはご存知の通りだ。
金メダルを獲得した者には、報奨金などの多くの恩恵が与えられていた。
事実、ビットもいくつかの特別待遇を受けた。
月々の手当に、勝てばボーナスが加わった。
18歳で運転免許をとると、すぐに車が購入できた。 
国際大会は食物持参で参加をした。
競技会の主催者から支給される食費をため、東ベルリンの外貨用高級デパートで買い物をした。
ささやかではあるが、物々交換が当たり前の庶民には、民主化によって批判の対象となっていったのである。

1990年、東西ドイツが統一された。
スパイ疑惑、ドーピング(禁止薬物使用)疑惑、大衆紙による男性関係の話題。
気がつけば、元「特権階級」のビットはスキャンダルとゴシップにおぼれそうだった。
自らの真情を繰り返し訴えるしか、対する道はないと思われた。
そんな中「プロ転向後も1回だけ、五輪出場を許可する」というISUの決定が、ビットを五輪に戻した。
 
1994年リレハンメル五輪、金メダルはウクライナの16歳、オクサナ・バイウルに決まっていた中、ビットはフリー最後の選手として銀盤に立った。
鮮やかな赤いコスチュームは血の色を表す。
曲は「花はどこへいった」。ヒトラーを嫌って米国へ逃れたドイツ女優マルレーネ・ディートリヒが歌った反戦歌である。
3回転ジャンプは2回しかない。
代わりに、舞う指先の1本1本へ、戦禍に苦しむサラエボへ平和の祈りを込めた。
この1994年当時は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っ只中であった。
ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力が、丘の上に陣取ってサラエボを包囲していたのだ。
1984年 サラエボで最初の金メダルを獲ったビットにとって、思いでの地が血にそまっていることに耐えられなかったのだろう。

7位

順位を示す得点表示板へ、ハーマル円形競技場を埋めた6,000人の観客席からブーイングが飛んだ。
銀盤を渦巻いたファンの声はそのまま、ビットの演技をたたえる声に変わった。
この瞬間は、サラエボの犠牲者に対する祈りによる開会式で始まったリレハンメル五輪の、ハイライトだったと記憶している。

*画像は1998年PlayBoy誌に登場したときのもの。

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December 06, 2017

新・冬季五輪の記憶(2) 女子フィギュアで初めてメダルを獲った日本人

 1976 Innsbruck

1980 LakePlacid

  1984 Sarajevo

今年引退した浅田真央のソチ五輪は6位で幕を閉じた。
五輪で6位というとこの人の名前を思い出す。

渡部絵美
「わたべ」ではなく「わたなべ」と読む。

渡部絵美さんといっても若い人は現役時代のことを知らず、元フィギュアスケート選手のタレントくらいにしか見られていないかもしれない。
1972年から1979年まで全日本選手権では8連覇。
ウィーンで開催された1979年の世界フィギュアでは、日本人女子として初めて銅メダルを獲得した実績を持つ。
(1997年東京開催の世界フィギュアでの佐野稔氏の銅メダルが、男女を含めての最初のメダル。)

日本人の父親とフィリピン人の母親を持ち、高校はアメリカ、大学は上智大学比較文化学部(当時)に進学、(後に専修大に編入)した、バイリンガルというよりも英語の方が、得意な選手だった。

当時の冬季五輪は、夏季五輪と同じ年に開催され、規模は今よりも遥かに小さく、冬季五輪が閉幕すると夏季五輪が話題になる、そんな時代だった。
札幌五輪のジャンプでメダルを独占した日本だったが、76年インスブルック五輪では、全競技を通じてメダルはおろか入賞者はゼロ(当時の入賞は6位まで)。
冬季五輪は、メダル候補がひとりいるかどうか、というのが日本選手団の常だった。

渡部絵美が気の毒だったのは、レークプラシッド五輪の前年、79年のウィーンで開催された世界選手権で銅メダルを獲得したこと。
一躍数少ないメダル候補としてマスコミの注目に晒されたことだ。


レークプラシッド五輪、女子は3回転ジャンプの幕開けともいえる大会だった。
当時まだあった規定演技でペッチ、フラチアニ、ルルツに次いで4位。
SPでは4位を確保はしたものの上位との左は大きく広がった。
フリー演技はNHKも生中継した。
レークプラシッド五輪では、北海道を除いて八木弘和が銀メダルを獲った70m級ジャンプも生中継はしていない。
それくらい日本中が注目していたということだ。

フリーで渡部は、トリプルサルコーを決め、でき得る最高の演技をした。
が、ペッチ、ルルツ、フラチアニの上位選手が後から演技をし、抜かれていく。
最終演技者はスイスの新鋭のデニス・ビールマン。
今もビールマンスピンに名前を残すビールマンが4位に滑り込み、渡部は6位に終わった。

その後日本のフィギュア界は、1988年に天才と呼ばれた伊藤みどりが女子で初めてのトリプルアクセルを成功させ、世界のトップに躍り出た。
1988年カルガリー五輪は5位に終わるも、1989年のパリで開催された世界選手権で優勝。
ヨーロッパの記者は「日本人選手がヨーロッパで開催された世界選手権で金メダルを獲ったことは非常に異議深い」と称えた。
伊藤は1992年アルベールビル五輪で、日系米国人クリスティ・ヤマグチに敗れはしたものの、銀メダルを獲得。
日本フィギュア界の悲願を達成するのである。

話は戻るが、渡部絵美が6位に入ったレークプラシッド五輪の女子フィギュアに申恵淑(シン•ヘスクという名前の22歳の韓国人の選手がいた。
結果は20位(参加22人)
劣悪だった韓国のフィギュアの環境を離れ、専修大学に留学し、渡部と同窓となっていたが、若くして選手は引退、1984年からフィギュアのコーチを務めている。

金妍児(キム・ヨナ)も小学校4年から3年間申恵淑に教えを請い、ブライアン・オーサーと決別してから、再び彼女に付いた。

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▲日本女子の五輪での順位(10位以内) 1968年の大川久美子は現姓佐藤⇒佐藤久美子コーチ

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新・冬季五輪の記憶(1) 5冠王エリック・ハイデン

 1976 Innsbruck

1980 LakePlacid

  1984 Sarajevo

五輪は時として、とんでもない怪物を生む。
5回の五輪に出て23個の競泳の金メダルを獲ったマイケル・フェルプス
生涯9個の金メダルを獲ったカール・ルイス
円盤投げ4連覇のアルフレッド・オーター

冬季五輪はその種目の少なさからか、夏季大会ほどのスーパースターは出ていない。
が、冬季五輪史上最高のスーパースターの一人がエリック・ハイデンであろう。
1980年2月、ソ連のアフガニスタン侵攻に対するモスクワ五輪のボイコット問題に揺れる中、レークプラシッド五輪が開幕した。

男子のスピードスケートは500m、1000m、1500m、5000m、そして10000mの5種目が行われている。
近年の五輪では、屋内のスケートリンクが会場となっているが、以前の五輪では屋外のリンクが当然であり、スピードスケートもスキーと同様に「自然と戦う」競技だった。

名門ウィスコンシン大学の医学生だったハイデンは、1977年、78年、79年と5種目の総合得点で争われる世界スピードスケート選手権で3連覇を果たし、レークプラシッド五輪では、「全ての種目に金メダルを狙う」と5種目全てにエントリーしてきた。
当時は現在ほど、スプリント専門、長距離専門と分かれておらず、オールラウンドに強い選手も多かった。
だが、5種目全てに金メダルなんて、誰もがそう思った。
 
最初の500mは辛勝だった。
この時代の500mは、1回のレースで全てが決まる。
当時の世界記録保持者クリコフ(ソ連=当時)をわずか0秒32差で振り切った。
そして、翌日の5000mは中間タイムで5秒遅れたが、後半ピッチを上げ、逆転で金メダルを手にすると1000m、1500mと金メダルを積み重ねていった。
ハイデンは、常に異彩を放つ金色ワンピーススーツを着ていた。
金色のハイデンが、常に同走者を置き去りにした。


5種目制覇のかかった10000mは、余裕たっぷりだった。
前日は、アイスホッケーの決勝。
「ミラクルオンアイス」と呼ばれたアイスホッケーの米ソの金メダルをかけた対決の応援に駆けつけ、スケートの代表仲間と大騒ぎした。
そして、10000mのレースでは2位と8秒差、世界記録を6秒も更新するタイムで5つ目の金メダルを手にした。

「モスクワでの2週間のために選手は人生をかけてきた。カーター大統領は再考をすべきだ。」
5冠王に輝いた後、インタビューでモスクワ五輪ボイコット問題に触れ、ハイデンは力説した。

米ソの冷戦華やかりし頃、五輪が政治の道具にされた。
ソ連の存在すら、良く思わないカーター大統領(当時)は、ソ連軍のアフガニスタン侵攻を理由に、1980年7月に開幕の予定されていたモスクワ五輪のボイコットを西側の友好国に呼びかけていたのだ。
しかし、ハイデンの訴えに、米国や日本の決定が覆ることはなかった。

▼エリック・ハイデン 当時21歳 184cm86kg それほど大きい訳ではない。
Embed from Getty Images

実は、最近までスピードスケートの全種目制覇は五輪史上ハイデンが唯一、と思っていたが、もう一人いた。
1964年のリディア・スコブリコーワ(ソ連)である。
この時代はの女子は5000mが未実施であったため、500m、1000m、1500m、3000mの4冠王ということになる。

スコブリコーワは、冬季五輪史上、女子のスピードスケートが最初に採用された1960年のスコーバレー五輪の1500mと3000mで金メダルを獲った。
このとき20歳。
元々は中長距離が得意だったようだ。

1964年のインスブルック五輪の前年、1963年に軽井沢で開催された世界選手権で500m、1000m、1500m、3000mの4種目制覇をやってのけると、インスブルックでの4冠の期待が膨らみ始めた。

五輪初日に苦手な500mで同僚のエゴロワに0.4秒差で圧勝すると、4冠達成はいとも簡単に成し遂げられた。
スコーバレー五輪での2個の金メダルと合わせ、冬季五輪6個の金メダルは今も女子選手としては、最多タイとして記録に残っている。

このインスブルック五輪3000mでHan Pil-Hwa(韓弼花)という選手が銀メダルを獲っている。
この選手は北朝鮮の選手で、五輪のスピードスケート史上アジアで最初にメダルを獲った選手でもある。

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December 04, 2017

世界歴代2位、3位、5位 小平奈緒、高木美帆W杯で連勝中

スピードスケートのW杯カルガリー大会が12月1~3日、カナダ・カルガリーであり、小平奈緒は女子500mで、高木美帆は、女子1500m、3000mでともに日本新記録を出し優勝した。

小平の500mは世界歴代2位、高木の1500mは歴代3位、3000mは歴代5位の好記録である。
カルガリーでは転倒したが、小平の1000mの持ちタイムも世界歴代3位。
女子のチームパシュートは、2戦連続世界新達成、おそらく史上最強チームで平昌五輪に向かうことになるだろう。

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小平のメダルを占う上でやはり気になるのが、韓国の李相愛。
ご存知、バンクーバー、ソチと500m2連覇中の女王だが、ここ数年は小平に及んでいなかった。
が、カルガリーの500mでは小平の36秒53に次いで36秒86を出し2位に入っている。

そろそろ本番モードに入ってきたか?
次週のW杯はソルトレークシティ。
また、好記録の出るリンクだ。
 
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December 02, 2017

高木美帆 日本人初3000mを制す スピードスケートW杯

スピードスケートのワールドカップ(W杯)第3戦は1日、カルガリーで開幕し、女子3000メートルで高木美帆(日体大助手)が3分57秒09の日本新記録をマーク、この種目の日本勢で初めてとなる優勝を果たした。
2002年に田畑真紀が出した日本記録を3秒92も塗り替えた。W杯は1000メートル、1500メートルと合わせて通算5勝目。

高木美帆の記録は、今季世界最高、世界歴代5位という凄い記録。
3000メートルも平昌ノメダルが見えてきた。

Takagi


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November 20, 2017

クラウディア・ペヒシュタイン45歳 7度目の五輪へ

山本宏美さんというスピードスケートの選手がいた。
1994年のリレハンメル五輪女子5000mで銅メダルを獲った選手だ。
男女を通じて日本人の長距離で唯一のメダリストだが、当時23歳。
このとき金メダルを獲ったのが、この2年前のアルベールビル五輪では銅メダルを獲ったドイツのクラウディア・ペヒシュタイン、当時21歳。

山本宏美さんが1995年に現役を引退したのとは対照的に、ペヒシュタインが凄かったのはここからだ。
25歳の長野五輪の5000mで金メダル、30歳のソルトレークシティ五輪5000mでも金メダルを獲得。

33歳で迎えたトリノ五輪では冬季五輪初の、そして女子選手初の同一種目4連覇がかかっていた。
ところが、2連覇を目指した12日の3000mは5位に終わっていた。16日新種目の女子パシュートでドイツの優勝に貢献し、5度目の五輪で4大会連続となる通算5個目の金メダルを獲得。
しかし、22日の1500mは気候変化で持病のぜん息が悪化し欠場を余儀なくされた。 

4連覇をかけた女子5000m 最終組でクララ・ヒューズと同走。
前半はリードしていたが徐々に詰められ、最後の2周で逆転され、2位に終わった。

37歳で迎えようとしていたバンクーバー五輪の前年、2009年2月のノルウェーで行われた世界選手権の後、ISU(国際スケート連盟)は、ペフシュタインにドーピング違反を認め、2年間すべての大会への出場停止処分を下した。

網状赤血球のレベルが異常な値を示していたため、薬物違反を疑われたもので、本人は先天的な問題でドーピングによるものではないと主張し、出場停止と断固として戦った。
このケースは、状況証拠のみに基づくドーピング違反の最初のケースであったが、その後の、彼女に対して行われたドーピング検査で、禁止された物質が見つかったことはない。

40歳を前にしての、出場停止処分であり、誰もがこのまま引退するものと思っていたが、2011年2月に競技へ復帰。
41歳で迎えた2014年ソチ五輪では、1500mに19位に終わったものの、3000m4位、5000m5位に入った。
1500mの19位は、6回目の五輪で初めての入賞圏外だった。

そして2017年11月19日、ノルウェーのスタバンゲルで行われたW杯の女子5000mを6分56秒60で制し、自身7回目の五輪となる45歳での平昌冬季五輪出場を確定させた。

ペヒシュタインは8位以内に入れば平昌出場の資格を得る状況だったが、優勝、W杯通算33勝目とした。
五輪出場が確定するには、ドイツオリンピックスポーツ連盟(DOSB)による推薦が必要だが、これはあくまで形式的なものとなっているという。

生年月日を調べると 1972年2月22日生まれ。
なんと、札幌五輪画が閉幕した直後に当時の東ベルリンで生まれている。
8回目の五輪を目指す葛西紀明は、1972年6月6日生まれで同い歳ということになる。

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November 06, 2017

1964年の東京オリンピックは1兆円をかけた

1964年東京五輪は、「1兆円オリンピック」と呼ばれた。
というのも、大会運営費、競技施設の整備費、インフラ整備という大きな3つの支出を合計する9873億6300 万円となり、1 兆円に近い費用がかかっているからだ。
もちろん、インフラ整備などは、五輪開催がたとえなかったとしても計画されていたものであり、たまたま五輪開催に間に合わせたに過ぎない。
こうした途上国型の五輪開催例は、ソウル大五輪、北京五輪でも見られた。

ちなみに東京五輪当時の国家予算はおよそ3兆2554億円。
インフラ整備は何年もかかって施されたものであるが、国家予算の約3分の1に近い巨額の事業費が五輪に投じられたことになる。

この当時の日本のGDPが29兆5000億円であり、GDP比で3.7%が東京五輪に費やされている。
以下の表では、東京、ソウル、シドニー、アテネ、北京、ロンドン、そして冬季五輪ながら最も史上最も経費を掛けたと言われるソチ、来年2月開幕の平昌五輪を表にしてみた。

Gdp2

アテネ五輪がギリシャの経済規模を超えたものであったことは明白だ。
五輪開催経費はGDP比1%が適当と言われている。
1964年の東京や、1988年のソウルは明らかに費用をかけ過ぎたが、高度経済成長期だったため問題なく通り過ぎた。
が、ソチ五輪を開催したロシア。
GDP比率は2.5%を超えた。
巨額の投資をしたソチと同じことはできない。
ソチ以降の冬季五輪開催に前向きだった欧州の都市を萎縮させ、2022年冬季五輪の開催地争いは北京とアルマトイの一騎打ちとなり、北京が勝利した。

平昌五輪のメイン会場は、平昌五輪スタジアム。
635億ウォン(約1200億ウォンという説もある)かけて、今年の9月末に竣工したが、仮設で、五輪の開会式、閉会式とパラリンピックの開会式、閉会式の4日間のためだけに使用される。
そのため「使用料が1日158億ウォン」と揶揄されている。
屋根も壁もないらしいが、平昌は雪が降らないから良いのだろうか?

●最近の冬季五輪メインスタジアム
2018年 平昌オリンピックスタジアム(仮設)
2014年 ソチオリンピックスタジアム(サッカーロシアW杯の会場)
2010年 BCプレイス(人工芝の球技場)
2006年 スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノ(サッカー場)
2002年 ライス・エクルズ・スタジアム(ユタ大学所有の球技場)
1998年 長野オリンピックスタジアム(野球場)

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October 26, 2017

平昌オリンピックまで100日余り スピードスケートの国内最高記録とはなんだ?

平昌冬季五輪を迎えるウィンタースポーツのシーズンが始まった。
スピードスケートの今季国内開幕戦の20~22日が長野市のエムウェーブであり、以下の3種目で国内最高記録が生まれた。

500m (1)小平奈緒(相沢病院) 37秒25=国内最高
1000m (1)高木美帆(日体大助手) 1分14秒89=国内最高
1500m (1)高木美帆(日体大助手) 1分55秒44=国内最高

陸上競技や競泳などタイムを競う競技はほかにもあるが、「国内最高記録」という分け方をするのは、スピードスケートだけではないか?
なぜ、そういった区分けがされるのだろうか。

今でこそ、スピードスケートは室内リンクで行うのが当たり前の競技になったが、五輪で室内リンクが初めて使われたのは1988年のカルガリー五輪だ。
それまで、天候に泣かされてきたスピードスケートにとって革命的なリンクであった。
好記録が出やすい点と、天候によるスケジュール変更があり得ない点が、テレビ放映に歓迎された。

例えば、1984年のサラエボ五輪。
男子500mの当日、リンクには吹雪が舞い、何と競技開始時間が6時間も遅れている。
日本のエースでメダル候補だった黒岩彰は、その6時間中多くのマスコミを引き連れ、すっかり精神状態を乱し、10位と惨敗した。

1988年のカルガリー五輪以降1992年を除いて、スピードスケートは、全て室内リンクで行われている。
が、ある要素によってタイムが大きく影響を受ける。

それは、標高。
高地にあるリンクの方が明らかに良い記録が出るのだ。

女子500mの世界歴代10傑を見てほしい。
カルガリーで出された記録が3。
ソルトレークシティで出された記録が7。

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陸上競技と同様に、スピードスケートも、高地であれば空気抵抗が少なく好記録が出やすい。
ソルトレークシティのリンクは標高1425m、カルガリーのリンクは1034m。
この30年近くの間、世界記録はほぼこのどちらかのリンクで生まれてきた。

小平奈緒の500mの自己ベストは、昨年カルガリーで出された36秒75。
世界歴代3位の堂々たる記録であり、今回エムウェーブで出された国内最高記録37秒25よりも0.50秒も早い。
37秒25の国内最高記録は、世界歴代67位。

長野五輪の会場だったエムウェーブは標高342m。
4年前のソチ五輪の室内リンクは標高5mでしかなかった。

●1988年以降のスピードスケートが行われたリンクと標高
1988年 Olympic Oval 1034m
1992年 Stade de Patinage Olympique 331m(屋外リンク)
1994年 Stampesletta Idrettsplass 237m
1998年 エムウェーブ 342m
2002年 Utah Olympic Oval 1423m
2006年 Oval Lingotto 205m
2010年 Richmond Olympic Oval 4m
2014年 Adler Arena 5m
2018年 江陵オーバル 41m

来年2月開催、平昌五輪のスピードスケートの会場である江陵オーバルの標高は41mしかない。

昨年テストイベントとして、世界距離別選手権が開催されたこのリンクは、8000人の収容能力を誇り、その建設費は1260億ウォン(117億円)に上る。

女子500mで日本人女子として同選手権初の優勝となった小平奈緒。
優勝タイムの37秒13は、当時の自身の日本記録を0秒16縮める日本新記録だった。

江陵オーバルは、カルガリーやソルトレークよりは標高は低い。
が、リンクに沿って風が舞い、常に追い風にあるという。
コーナーでもスピードが落ちずに選手にも好評であると聞く。

なかなか好条件のようだ。

平昌五輪からは男女のマススタートも正式種目になり、楽しみである。


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February 25, 2017

平昌オリンピックをめざす韓国のアイスホッケー

札幌市と帯広市で開催されている冬季アジア大会、男子のアイスホッケーの日韓戦は4-1で韓国が勝利した。
冬季アジア大会が1986年に始まって以来8回目の歴史の中で、アイスホッケー日本男子代表が韓国に負けたのはこれが初めてだ。

●冬季アジア大会における男子アイスホッケー日韓戦の結果
2017年札幌大会
日本1-4韓国

2011年アスタナ/アルマトイ大会
日本6-1韓国

2007長春大会
日本3-0韓国

2003青森大会
日本11-2韓国

1999江原道大会
日本13-1韓国

1996ハルビン大会
日本6 –1韓国

1993年札幌大会
日本11 –7韓国

1986年札幌大会
日本20 –1韓国

元々韓国でアイスホッケーは盛んではなく、五輪開催国でありながら出場出来ない可能性もあった。
アジア大会でも日本にとっては、好敵手というには程遠い存在だった。
ところが、特に男子は急速に実力を付け、男女ともに開催国枠での韓国の出場が決まった。

短期間にアイスホッケーの強化を図るにはどうしたら良いか。
彼等がモデルとするのはもちろん日本である。

1960年から6大会連続五輪出場を果たしてきた日本代表も、1980年を最後に五輪の舞台に立てなくなり、1991年に長野五輪開催が決定した当時、その競争力は落ちていた。
地元の五輪で恥ずかしくない成績を求める声に、日系カナダ人を呼び、帰化してもらい、代表チームを強化することを実践した。

ライアン•藤田、ダスティ妹尾、マシュー•樺山、ライアン•桑原、スティーブ辻占、クリス•ユールといった日本にルーツを持つカナダ人が日本代表に加わり、日本は長野五輪で1勝(オーストリア戦)を挙げ、14か国中13位となった。

韓国でも代表チームの強化のために、外国人選手の帰化を進めることを決めた。
韓国では最近、特別帰化制度とよばれる制度が始まっている。

◆特別帰化=特定分野で優秀な能力を保持しており韓国の国益に寄与するものと認められる場合、特に国籍を付与する制度。一般帰化とは違い、既存の国籍を放棄しなくても良い。

この制度により5人のカナダ人と1人の米国人のアイスホッケー選手が韓国籍を取得した。
元々の国籍を放棄することなく二重国籍。
以下の6名である。

エリック・リーガン(カナダ)
マイケル・スイフト(カナダ)
マット・ダルトン(カナダ)
ブライアン・ヤング(カナダ)
ブロック・ラダンスキー(カナダ)
マイク・テストウィード(米国)

現在開催中の札幌冬季アジア大会には、ブロック・ラダンスキーを除く5名が韓国代表に名を連ねている。

しかし、アイスホッケーは代表チーム同士の実力差があまりにも大きく、先述の長野五輪の日本以外にも、2006年トリノ五輪を開催したイタリアは、11人も帰化選手を獲得した。
1992年のアルベールビル五輪にもフランス系カナダ人がメンバーにいたはずだ。

平昌五輪を控える韓国代表が、少し違うのは、韓国系カナダ人ではない、「白人」のカナダ人をメンバーに入れていること。
来年、平昌五輪本番で初めてアイスホッケーを見る韓国人は、違和感を感じないだろうか。

欧米のメディアも「青い目の韓国代表」には興味があるらしく、ニューヨークタイムスはマイク・テストウィードにインタビューしている。

「今はまだ私は正しい選択をしたのか疑問を感じる時があるが、韓国選手としてプレーすることは、大きな責任感が続くことであり、巨大なプレッシャーを感じている。韓国人たちは、平昌で、私たちが戦う相手を知らない。彼らは、帰化選手を連れて来たので、カナダとも対等に戦えると思っている。」と話している。

ニューヨークタイムスの記事は、韓国の帰化選手たちはアイデンティティの混乱に加えてアイスホッケーへの無関心、またそれとは正反対の過度な期待と戦っていると付け加えている。


●参考記事
平昌の真実Ⅳ 韓国のアイスホッケーは地元開催のオリンピックに出場できるか?

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