平成のスポーツの記憶① サウジアラビアに勝って貴乃花に負けたサッカー日本代表
平成4年 1992年
サッカーのアジア杯は21日、アラブ首長国連邦(UAE)のシャルジャなどで決勝トーナメント1回戦を行い、2大会ぶりの優勝を目指す日本はサウジアラビアを1─0で下し、準々決勝進出を決めた。
アジア杯を4回制した日本に対し、3回の優勝経験のあるサウジアラビア。
決勝トーナメントで両者が当たるのはもったいない、そう思った人も多いだろう。
日本代表が、アジア杯に初めて優勝したのは1992年11月広島で開催された26年前のこと、相手はサウジアラビアだった。
舞台は広島ビッグアーチ、2年後(1994年)に開催予定の広島アジア大会のメインスタジアムとして新規に作られ、収容人数は50000人。
2002年のW杯のために日本各地に大競技場が揃ったが、この当時サッカーのできる大競技場は旧国立競技場(56000人収容=当時)、神戸ユニバ競技場(45000人)と広島ビッグアーチしかなかった。
当時、日本代表のアジア杯での最高成績は1988年の1次グループ敗退、アジア大会でも4強止まり。
アジアで大きな結果は残せていなかった。
が、この翌年1993年にJリーグの開幕を控え、1992年には最初のナビスコ杯が開かれるなど、Jリーグブームの兆しの中での大会だった。
監督は初の外国人監督であるハンス・オフト。
準決勝の中国戦を途中出場の中山雅史のゴールで3-2と競い勝ち、決勝では3連覇をめざしたサウジアラビアと対戦した。
立ち上がりから速いパス回しでサウジアラビア陣内に攻め込む日本代表。
前半36分、左サイドの三浦知良から出たボールを、ゴール前の高木卓也が胸で受けて落とし、そのまま左足でゴール。
1-0 サウジアラビアの3連覇を阻止し、初めてアジアを制した瞬間だった。
貴花田は、1992年9月場所に2回目の優勝を果たし、11月場所は大関昇進が懸かっていた。
ところが、股関節故障を抱え初日から4連敗、その後持ち直して10勝5敗でこの場所を終えた。
貴花田の大関取りが持ち越された、というだけの11月8日のNHKの相撲中継の視聴率はなんと43.4%。
アジア杯 日本対サウジアラビアの試合は大相撲の裏 NHK衛星第一で中継され、視聴率は残っていない。
●日本代表先発メンバー
前川 (広島)←松永出場停止のため
堀池 (清水)
柱谷 (川崎)
都並 (川崎)
井原 (横浜M)
福田 (浦和)
ラモス(川崎)
北沢 (川崎)
吉田 (ヤマハ)←中山ともどもJFLのヤマハから選出されていた
(勝矢 横浜M)
三浦 (川崎)←まだ現役
高木 (広島)