平成のスポーツの記憶④ 誰も知らないロン・カーノウのはなし
平成4年 1992年
1992年バルセロナ五輪
27年も前の五輪である。
この大会の開会式は、随分と芸術にあふれた印象に残る開会式だった。
Wikipediaにはこうある。
文化的特徴に富み、美術、芸術面で著名な人物を輩出し続けるスペインらしく、開会式、閉会式ともに音楽監督でカタルーニャ生まれで世界的に人気の高いテノール歌手のホセ・カレーラスや、モンセラート・カバリェをはじめとする多くのスペイン人歌手の他にも多くのアーティストが参画し、近年でもまれに見る芸術性の高い開会式、閉会式であると絶賛された。
音楽監督は、「三大テノール」の1人であるホセ・カレーラスがを務めた。
当初は、クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーが、カタルーニャ出身の女性歌手モンセラート・カバリェと「バルセロナ」をデュエットする予定だったが、前年の1991年HIV感染により死去、開会式では生前の歌声だけが響いた。
また、坂本龍一は地中海の神話をモチーフに作曲したマスゲームの音楽「El Mar Mediterrani」を作曲、指揮をした。
この真夏の世の夢とでもいうべき祭典の途中、予想しなかった事故が起きた。
アメリカのロン・カーノウは競泳200m個人メドレーの優勝候補だった。
自由形、背泳、平泳ぎ、バタフライの4種類の泳法に挑んでいるときこそ、彼の人生で最も充実した時間だった。
カーノウの父親のピーターは、息子の活躍を見るために大西洋を渡ってバルセロナに来ていた。
もちろん、お祭り好きなアメリカ人だから開会式に間に合うようにスペインに着いた。
開会式でスタジアムを歩く息子の写真を撮るために、スタジアムの階段を登ったときに、61歳のピーターの心臓は致命的な発作を受け、そして停まってしまった。
こんな悲劇にもかかわらず、カーノウは4日後の200m個人メドレーを棄権することはなかった。予選を全体の2位で突破、しかし決勝に進出するも6位に終わった。
優勝したのはハンガリーのタマス・ダルニュイ。
1988年ソウル・92年バルセロナ両五輪の200m・400mの個人メドレーをともに制した競泳史に残る大スイマーだ。
『なぜオリンピック中だったんだ、なぜ開会式の最中だったんだ』
ロン・カーノウは、偶然訪れた父の最期が、なぜ開会式の最中だったのか、自らに問いただしてみたが答えは得られなかった。
『父親が開会式で倒れ亡くならなかったら、俺はダルニュイに勝てたのか?』答えは出るはずがない。
薬剤師をしていたカーノウは、ニューヨーク・ヤンキースのジョージ・スタインブレナーオーナーからの奨学金を受け、ニュージャージー医科歯科大学に入学、そして1997年に卒業した。
ところが、彼はやり残したことがあると言い出し、整形外科の卒後研修を延期した。
そう、再び五輪の舞台に立とうとしていたのだ。
博士号を持った31歳が、今更プールに立つ?彼の周囲は、彼の決定を愚かだと言った。
1998年 オーストラリアのパースで行われた世界水泳選手権、イアン・ソープの15歳での世界デビューとなる大会にカーノウは出場した。
200m個人メドレーでは3位になった。が、カーノウが目指していた2000年のシドニー五輪は、全米代表選考会で敗れ、再びオーストラリアの地を踏むことは出来なかった。
この後、カーノウがどんな人生を歩んでいったかは、筆者もよくは知らない。が、水泳をやめることはなく、マスターズの大会などに出場し、そして医師としても活躍していると聞いている。