平成のスポーツの記憶⑧ 荻原健司最後の金メダル 1997年世界ノルディック
ノルディックスキーの世界選手権は、日本勢がなかなか波に乗れないうちに終わってしまった。
今大会は、ジャンプの小林陵侑に世界のスキー関係者が注目していたが、獲得できたのは団体の銅メダルのみ。
シーズンを通じて優勝者を決めるW杯とは異なる、一発勝負の世界選手権。
雪、雨、温度といった自然の中で競い合うというスキー競技の醍醐味が味わえた大会だったのではないか。
▲過去の世界ノルディックで日本チームが獲得したメダル
世界ノルディックは、2年に一度開催されているが、ほとんど欧州選手権に日本が招待されているかのような、参加国に偏りがある。
そんな中、長野五輪の前後は対等以上に欧州勢と渡り合ってきた。
1993年のファルン大会。
日本チームはノルディック複合個人の荻原健司、ノルディック複合団体(河野孝典・阿部雅司・荻原健司)、ジャンプNH原田雅彦と3つの金メダルを獲得している。
世界ノルディックというと荻原健司を思い出す。
1990年代 W杯個人19勝、五輪団体2連覇などジャンプを含む日本のスキー界に残した記録は他を圧倒する。
この荻原が最後に表彰台の真ん中に立ったのが1997年の世界ノルディック選手権トロンハイム大会であった。
ジャンプで先行して、距離で逃げ切るという常勝パターンが崩れ、なかなかW杯でも勝てなくなってきていた荻原。
早大の先輩で、リレハンメル五輪複合個人銀メダルの河野孝典が引退。
長野五輪を1年後に控え、トロンハイムの世界選手権を迎えた。
この個人戦でメダルをとの思いは強かったが、海外メディアにとって荻原は既に下馬評に挙がることはなく、ビャルテエンゲン・ビーク(ノルウェー)、サンパ・ラユネン(フィンランド)の一騎打ちと見られていた。
複合のピークは20歳と言い切るラユネンはこのとき17歳。怖いもの知らずの勢いで、ジャンプで首位に立つ。
荻原はそれまで苦しんでいたことを振り払うようにジャンプをまとめ、2位で距離を迎えることになる。
15秒差でスタートした荻原健はワックスが合い、1キロ過ぎで首位のサンパ・ラユネンに並ぶ。
その後、4位から追い上げてきたビャルテエンゲン・ビークとのマッチレースになる。
3周目に入ったばかりの10キロ過ぎ、一度は抜かれたビークに先頭を譲られる形で首位に立つ。
勝負どころは残り2キロの上り。距離の猛者ビークを、一気に突き放し、そのままゴールした。
このとき荻原健司27歳、ビャルテエンゲン・ビーク25歳、3位入ったアルベールビル五輪金メダルのギーは28歳。
「20歳がピーク」といわれたベテランが意地を見せた。
その後2002年まで競技生活を続けた荻原だったが、優勝はこれが最後。
W杯の勝利も19を超えることはなかった。
翌年の長野五輪の複合個人は、ビークが優勝、荻原は4位。
地元での金メダルをさらわれたビークが、逆に荻原を抑える形になった。
●世界ノルディック選手権 トロンハイム(ノルウェー)複合個人1997年2月23日
(1)荻原健司(北野建設)(ジャンプ(2)232・0、距離(12)43分43秒1)
(2)ビーク(ノルウェー)タイム差30秒8((4)227・0、(13)43分43秒9)
(3)ギー(フランス)1分19秒4((10)217・0、(9)43分32秒5)
(34)荻原次晴(北野建設)
(40)大竹太志(専大)
(55)上野隆(東京美装)
●荻原健司の戦績
1992年アルベールビル五輪
個人7位、団体1位
1994年リレハンメル五輪
個人4位、団体1位
1998年長野五輪
個人4位、団体5位
2002年ソルトレークシティ五輪
個人11位、団体8位、スプリント33位
世界選手権
93年個人1位、団体1位
95年個人5位、団体1位
97年個人1位、団体9位
99年個人6位、スプリント3位、団体5位
W杯92~93 7勝
93~94 5勝
94~95 6勝
95~96 1勝