硫黄島に散った、日本人オリンピックメダリスト
東京から南に1250キロの場所に浮かぶ、亜熱帯の島・硫黄島。ここを舞台に繰り広げられた硫黄島の戦いでは、日本軍約2万人、アメリカ軍約7000人が亡くなった。
日米双方の視点から描いた映画『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』といった映画の舞台でもある。つい先日もNHKBSで放送されたからご覧になった方もいるかもしれない。
この硫黄島の戦いで亡くなった日本人メダリストがいる。馬術のバロン西が、その人だ。
バロン西こと西竹一は、外交官の三男として生まれた。
「バロン」とは男爵のことを言う。
裕福で、外国製の乗用車やオートバイを乗り回していたという。
西は、栗毛の馬「ウラヌス」とイタリアで出会って、自身で購入した。気性が激しく、西以外は誰も乗りこなせなかったと言う。
西が出場した大賞典障害飛越は、「オリンピックの花」とされ、閉会式直前に開催される伝続になっている。
1932年 ロサンゼルスオリンピック大賞典障害飛越の観衆は10万人。
西は、愛馬ウラヌスと絶妙の呼吸で、全長1000メートルのコースの18の障害を越えた。外国勢が次々と失敗する中、西は減点を最少の8にとどめ、金メダルを獲得した。
勝利後、西はインタビューに英語で「We won」と答えている。We=私たち、つまり「西とウラヌスで」得た勝利というこの表現に、アメリカ人も敬意を表した。
それから13年、西は硫黄島で第26戦軍連隊長を務め、1945年3月にはアメリカ軍と歴史に残る激戦の中にいた。
最期の時には、アメリカ軍が西に、「オリンピックの英雄、バロン西。軍人として責任を果たした。あなたを失うことは耐えられない。出てきなさい」と、投降を呼びかけたが、西隊長は王砕を選んだ、などという話もある。
馬術選手としての西が、どれだけ世界的に著名であったか、大賞典障害飛越の金メダリストがどれだけ敬意を持たれているかが伺えるエピソードである。
一方の愛馬ウラヌスは、西の戦死を知っていたのだろうか、西の死から1週間後の3月28日に東京の馬事公苑で死んだ。
26歳だった。
一節には、西は戦地でもウラヌスのたてがみを肌身離さず持っていたと言われている。
実は、硫黄島で日本人メダリストがもう1人亡くなっている。
河石達吾陸軍大尉は、西と同じ1932年のロサンゼルスオリンピックに出場した競泳選手である。
出場当時は慶應大学の3年生、男子100メートル自由形で、銀メダルを獲得した。オリンピック翌年に一度徴兵された後、除隊、結婚後再び召集され、硫黄島で散った。