ディエゴ・マラドーナと1986年幻のW杯日本大会
ディエゴ・マラドーナが亡くなった。
1982年にフォークランド紛争が起きた。この当事者同士の イングランドとアルゼンチン は今なおスポーツの世界でも特別な争いになる。
1986年W杯メキシコ大会における 準々決勝 イングランド対アルゼンチン 異様な緊張感の中でのマラドーナの5人抜きドリブルは、彼の死後もW杯とともにこれからも語り継がれるだろう。
このとき、NHKの実況は山本浩氏。
「マラドーナ」の名前を4回連呼するだけで伝えた実況は今なお古くからのサッカーファンの記憶に残っている。
戦後W杯を2回開催した国は3カ国しかない。
ブラジルは1950年と前回2014年、この間64年。
ドイツは1974年に西ドイツとして、2006年にドイツとして開催し、この間32年。
メキシコは1970年と1986年に2度開催しており、この間は16年。
決勝トーナメントの常連とはいえ、なぜメキシコは短い間に2回のW杯が開催できたのか。
1986年のW杯はコロンビア開催で決まっていたのだが、開催返上が余儀なくされた。
開催が決まったのは開催から遡ること12年前の1974年のFIFA総会だった。
当時の本大会出場国は16カ国、ところが市場の拡大をめざすFIFAは1982年のスペイン大会から出場国を24カ国に拡大することを決めた。
政治的にも、経済的にも不安定なコロンビアに24か国の参加するこの地球規模のイベントは、負担が大きすぎた。
1982年11月「24カ国でのW杯開催は不可能」と声明を出し、返上してしまった。(FIFAが誘導したとの説もある)
同じ米大陸の中という条件から、カナダ、メキシコ、アメリカが再立候補し、最終的に1983年5月メキシコでの2度目の開催が決まった。
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▲2回のW杯の決勝の舞台となったアステカスタジアム
この1986年大会だが、実は、コロンビアでの開催が決まる前に、日本開催で動いていたことがあった。
1970年のメキシコ大会に視察に来ていた日本サッカー協会幹部に、スタンレー・ラウスFIFA会長(故人)が、16年後のW杯の日本開催を打診している。
1996年5月10日の朝日新聞に次のような記事がある。
「世界サッカー誘致を--16年先ねらい検討へ」。そんな文字が新聞各紙に躍ったのは、1970年8月2日のことだ。ワールドカップ(W杯)日本招致の構想は、今から26年も前に浮上した。同年のW杯メキシコ大会を訪れた当時の日本サッカー協会の野津謙会長が、国際サッカー連盟(FIFA)のスタンレー・ラウス会長(イギリス=イングランド)から打診を受けた。「日本は東京五輪を開いた。W杯を開催する気があるなら、86年にやってはどうか」それを受け、帰国した野津会長が日本体育協会で会見。「日本がもっと強くなければいけないし、資金などの難問がある。しかし目標をぐっと高く置き、86年のW杯を日本で開催したい」と語った。とはいえ、当時の日本にはW杯を開催する土壌は何もなかった。W杯の基準に見合う競技場はゼロ。練習場もない。サッカー人気も、実力も開催国にふさわしいとはいいがたかった。
野津謙は、1969年にFIFA理事に就任している。
2003年に小倉純二サッカー協会副会長がFIFA理事に当選するまで、長い空白があったことを考えれば、この時代にFIFAの要職に就いていた野津氏の政治力はかなりのものがあったと推測されよう。
しかし、1976年、同郷の長沼健氏(故人・のちの日本サッカー協会会長)らがクーデターを起こし野津は会長の座を追われてしまった。
1986年のW杯が日本で開催されていたら・・・
1986年メキシコW杯、6月22日、準々決勝のアルゼンチン対イングランド戦はW杯史上に残る試合だ。
マラドーナの「神の手ゴール」そしてその僅か4分後の「5人抜き」。
灼熱のアステカ・スタジアムの伝説は東京の国立競技場でも起こりえたのだろうか…。