東京2020

June 25, 2017

アメリカにおいて進むオリンピック離れ?

IOCの最高位スポンサー契約は「TOPプログラム」と呼ばれ、協賛金額は1社年間約100億円以上といわれている。

商業化路線が推進された1984年ロサンゼルス大会以降、五輪マークの独占的使用権など制度が整備され、企業からの協賛金は、各国・地域の国内オリンピック委員会や五輪組織委員会に分配されている。
日本ではパナソニックが1988年から務めていたが、長い間1社のみが続いていた。
ところが、2013年9月に東京五輪の開催が決まってから、ブリヂストン、トヨタが参入、特にトヨタは2024年までの総額1000億円にも上る大型契約と言われている。
これまでの長いTOPプログラムの歴史の中で、自動車会社の契約は初めて。
BMWや日産なども検討していたが、契約に至らなかったほど負担が大きい。
これだけでもIOCにしてみれば「東京を選んで良かった」になる。

一方、コカ・コーラと並んで、長い間五輪を支えてきたマクドナルドが、契約を3年残してTOPから撤退した。
民間企業だから、その理由は様々あるのだろうが、米国のメディアによるとリオ五輪の米国での視聴者は、4年前のロンドン五輪よりもかなり減らしたのが大きいという。

世界地図を見て頂くと判るが、米国とブラジルは経度がかなり重複している。
リオデジャネイロは、米国東部と時差が2時間(サマータイム時を除く)。
昼夜逆転していたロンドンや北京五輪と比べて、条件はかなり良かったはずだが、ロンドン五輪の米国内(NBCテレビ)の平均視聴率は17.5%、平均視聴者数3110万人だったが、リオ五輪の平均視聴率は14.4%、平均視聴者数2540万人は、ロンドンと比べてそれぞれ11%と8%下落した。

確かにグラフで見ると、リオ五輪が低かったのが判る。
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●夏季五輪開会式と閉会式/米国内での視聴者数 
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米国において、あるいは世界中どこでも、五輪離れが進んでいるという話がある。

東京五輪では、5競技が追加されて実施される。
野球・ソフトボールや空手はともかく、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィンを実施するのは、これまで五輪を見なかった層にアピールするための追加だ。
さらには、東京五輪で新たに16実施される新種目の中にある3×3バスケットボールは、見事にテレビを意識した新種目だ。

マクドナルドのTOP撤退よりも、ひょっとしたら衝撃的ではないかという話がある。
USOCという組織がある。
JOCと同格の米国五輪委員会のことだが、USOCがこれまで契約していた以下のような多くの米国内向けスポンサーが、この一年で一斉に契約を終了させているのだ。

AT&T(通信)
Budweiser(ビール)
Hilton(ホテル)
Citi(金融)
TD Ameritrade(証券)

いずれも米国を代表するブランドではないか。
(ただし、Budweiserは現在はベルギーの企業の傘下にある。)

AT&Tに代わって、ComcastがUSOCのスポンサーに名乗りを上げているが、この会社はNBC放送の子会社だ。
米NBC放送がIOCと契約した2014・16年五輪の米国向け放送権料は43億8000万ドル。
何とも莫大な金額だが、この金額の12・75%が、実はUSOCに配分されている。

USOCの2016年の税務申告を見てみると、総売上高7億5,600万ドルに対し7,850万ドルの黒字を計上している。
IOCからテレビ放映権の配分として1億7300万ドル、スポンサー契約の配分が1億2100万ドルとある。

USOCは、米国内のスポンサーの動向に関わらず、潤沢な資金が常にあるのだ。


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June 15, 2017

引き受け手のないオリンピック

パリとロサンゼルスの一騎打ちとなっている2024年五輪招致だが、今年9月にリマで開かれるIOC総会では、2024年だけでなく、2028年大会の開催都市も決めることになりそうだ。

費用負担の大きさから、五輪開催に立候補する都市は減っており、IOCとしては、パリ、ロサンゼルスといった開催実績のある2都市をともに確保したいとみられる。


実はIOCには痛いトラウマがあるのだ。

2011年7月6日 南アフリカのダーバンで開かれたIOC総会のこと。
2018年の冬季五輪の開催地が決まろうとしていた。
立候補していたのは平昌(韓国)、ミュンヘン(ドイツ)、アネシー(フランス)の3都市。
平昌は2010、2014年に続いて3回目の立候補、ミュンヘンは初の夏冬開催を目指していた。

1回目の投票で平昌が63票と過半数を超え開催地に決定。
ライバルと見られていたミュンヘンは25票、アネシーは7票に留まった。

この時点でIOCはまだ甘く考えていた。
ミュンヘンは2022年の冬季五輪立候補するだろうと。
なぜならば2022年は、1972年のミュンヘン夏季五輪からちょうど50周年にあたり、記念大会になると誰もが思っていたのだ。
ところが、ミュンヘンは2013年11月に行われた住民投票で立候補に賛同が得られず招致を断念。

ミュンヘン撤退後に2022年冬季五輪の本命と見られていたオスロも、2014年10月、ノルウェー政府の財政保証が得られないことを理由に冬季五輪招致から撤退した。

そして、2015年7月 クアラルンプールで行われたIOC総会。
中国・北京とカザフスタンのアルマトイの二都市で投票を行い、44-40で北京開催が決まった。

ご存知のように2018年平昌、2022年北京、さらにその間の2020年には東京五輪もある。
極東アジアで五輪が続くことは異常事態であり、IOCは焦っている。
せっかく手を挙げてくれたパリとロサンゼルスを、取り逃がしたくないと思っているのだ。

日本では、今朝、共謀罪が成立した。
我が国の首相は、東京五輪を開催するためには共謀罪が必要と言うが、私が共謀罪のない社会と、東京五輪のどちらを選ぶかと問われれば、間違いなく共謀罪のない社会を選ぶ。

今日の朝日新聞の投書欄に作家の赤川次郎氏の投書が載っている。
赤川さんも、共謀罪がなければ五輪が開けないのなら、中止にすればいいと言い切っている。

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●2024年夏季五輪招致

2015年9月 パリ、ロサンゼルス、ハンブルグ、ローマ、ブダペストの5都市が立候補
2015年11月 ハンブルクが辞退
2016年9月 ローマが辞退
2017年1月 ブダペストが辞退

2017年6月 IOC:
パリもロサンゼルスも五輪開催に相応しいので、2024年大会だけでなく、2028年大会も一緒に決めませんか?←今ここ

2017年9月 IOC総会(ペルー・リマ)


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May 30, 2017

男子体操の6種目の中で、日本チームが五輪において唯一金メダルを獲ったことのない種目は何でしょう?

男子の体操は6種目(床、跳馬、平行棒、吊り輪、あん馬、鉄棒)で行われるが、日本チームが五輪において唯一金メダルを獲ったことのない種目は何でしょう。

答え:あん馬

体操は長い間日本のお家芸として、メダル量産に貢献してきた。
一時期、世界から離されていたこともあったが、リオ五輪でも男子団体と個人総合で金。
種目別床で、白井健三が銅メダルを獲り、通算の獲得メダルの合計は金31、銀33、銅34の合計98個になる。
この数は旧ソ連、米国に次いで3位。ライバル中国は5位だ。

その体操ニッポンだが、男子の種目別で唯一金メダルを獲ったことのない種目があん馬だ。
あん馬は、脚が長い西洋人の方が見栄えが良いとされ、金メダルに届いていない。

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五輪同様に世界体操選手権でも、長い間金メダルに届かなかったが、足が長く、肩幅の狭い鹿島丈博が現われ、2003年のアナハイム大会で鉄棒とともにあん馬に優勝。

2013年のアントワープ大会でも亀山耕平が優勝した。

鹿島丈博には、日本初のあん馬金メダルの期待がかかったが、2004年のアテネ五輪は銅、北京五輪では団体予選(種目別予選も兼ねる)、ショーン(一腕上上向き全転向)の演技中にまさかの落下。33位に終わり8名の決勝進出を果たせなかった。

ちなみに体操競技では、2006年の世界選手権から従来の10点満点が廃止され、得点に上限がなくなっており、鹿島が世界選手権、五輪でメダルを獲ったのはいずれも10点満点の時代だ。

もう一人の世界王者亀山耕平は、リオ五輪を目指していたものの、昨年の全日本種目別では、得点が伸びず、もうひとりのあん馬のスペシャリスト、順天堂大の萱和磨とともに五輪代表に入れなかった。

日本は、12年ぶりの金メダルを獲るために、最もチーム得点を高くするために、日本が苦手なつり輪の得意な山室光史を選んだのだ。

五輪の場合、5-3-3(チーム構成5名、各種目演技3名、各種目のチーム得点は演技した3名の得点の合計)の競技方法だが、世界選手権は6-3-3。
五輪の代表に入る方が、より大変だ。

リオ五輪の男子団体の6種目の演技した選手と3人の合計の順位をまとめてみる。

床:内村・加藤・白井 ①日本②英国③ロシア
あん馬:内村・加藤・山室 ①英国②ロシア③中国④日本
吊り輪:内村・田中・山室 ①ロシア②中国③日本
跳馬:内村・加藤・白井 ①日本②ロシア③米国
平行棒:内村・加藤・田中 ①中国②日本③米国
鉄棒:内村・加藤・田中 ①日本②英国③中国

結果からいえば金メダルを獲る日本チームだが、あん馬で苦労していたことが判る。

亀山耕平は現在28歳。
2020年の東京五輪に、あん馬一本で勝負することを公言している。
内村航平、山室光史と同学年であり、3人ともに東京五輪は31歳で迎える。

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May 15, 2017

オリンピックの政治利用なんて冗談じゃない

毎日新聞には、シドニー五輪の頃まで、モスクワ五輪を振り返る特集が度々あった。
宗兄弟や高田裕司氏、あるいは津田真男氏の近況を伝える記事もあった。
それからすると、「モスクワ五輪の不参加は政府が決めた」なんて書くのは、ちょっと毎日らしくない。

モスクワ五輪ってカーター米大統領(当時)から圧力を受けて日本や西ドイツ(当時)や韓国はもちろん同調してボイコットしたが、実は西ヨーロッパの主要国は多くが参加している。

イギリス、フランス、イタリア、スペイン、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、オーストリア、オランダ、スイス、ベルギー、ギリシャ、アイルランド等ほかにもブラジル、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランドなども参加している。

各国のNOCがそれぞれ政府から圧力をかけられても、開閉会式・表彰式では国旗ではなく五輪旗を掲げるとか、五輪は平和運動のひとつとの考えでモスクワ五輪に参加したのだ。

▲モスクワ五輪開会式 イギリスはBOA役員のディック・パルマ―が五輪旗を掲げて入場した。 パルマ―の後ろに選手はゼロ。つまり、イギリス選手は開会式に一人も参加していない。 こんなことたぶん誰も知らないだろう。

一方、JOCは、政府から14億円の国庫補助金の打ち切りを示唆されて、あっさりとモスクワ五輪不参加を決めた。この当時の読売新聞の社説には『五輪より外交』などという文字が並んでいるが、米国追従は今も昔も変わらない。

「モスクワ五輪ボイコット」を突如カーター大統領がぶちまけたのは、80年の大統領選で、ジミー・カーターに負けそうだったからだ。
「モスクワ五輪ボイコット」を言い出せば、劣勢を挽回できると勘違いしたらしい。

当時のIOC委員は、選手出身の委員よりも、欧州の王族や経済的な成功者が多くを占めるブルジョアクラブのようなものだったため、スポーツの世界、あるいは社会全体の動きに疎い連中の集まりだった。

そのため、ジミー・カーターを説得するでもなく、打開案を見出すでもなく、みすみす五輪の崩壊を指をくわえて見ていただけだった。
五輪からすべての政治色を排除することは難しいが、カーターが五輪ボイコットをを呼びかけたことは誤りだった。
これが、モスクワ五輪ボイコットに対する現在の評価だ。

日本もJOCは不参加を決めたが、日本バレーボール協会や日本レスリング協会は個別に参加できる道を必死に探した。
が、IOCはついに動かなかった。


モスクワ五輪が閉幕し、新たにIOC会長になったばかりのアントニオ・サマランチは、銀行家から外交官になり、IOCに入った人物だ。
サマランチは、五輪の肥大化、商業化、オープン化に尽力した。

招致をめぐるスキャンダルで悪者のイメージも強いが、社会の変化と現状を示そうと、モスクワ五輪の翌年、1981年のオリンピックコングレス(五輪全体会議)に初めて、現役選手に発言の場を設けた。

選手がそれまで、公式の場でものが言えなかったのも驚きなのだが、このときIOCを舞台に、選手の立場から初めて演説をしたのがセバスチャン・コー。

世界に3人しかいないモスクワ・ロサンゼルスの両五輪で金メダルを獲った人物だ。
ロンドン五輪組織委員会会長を経て現在は、IAAF(国際陸連)会長を務める彼は、モスクワに選手を送らなかった国、送ることを妨げた国を痛烈に批判した。
五輪選手の負担は大きく、その犠牲は無視すべきでない。IOCには、選手への社会的配慮を保証する、道義的義務がある」と。

さて、3年後の東京五輪だが、文頭の毎日の記事はこう結んでいる。

首相は16年8月、リオデジャネイロ五輪の閉会式に「マリオ」に扮(ふん)して登場し、東京開催をアピールした。
五輪憲章は国家元首ですら開会式や閉会式で宣言する言葉を定め、政治色を排除している。
(中略)
スポーツ評論家の玉木正之さんは「計画した組織委も、それを許可したIOCも憲章違反と言わざるを得ない」と語る。
果たして五輪と政治の関係はどうあるべきか。
玉木さんは「アスリートを応援するのは当然で、五輪には反対しにくい。
五輪に絡めて憲法改正を持ち出すのは巧妙だ」と指摘。
「五輪はスポーツの祭典として独立しているべきだという感覚が全くない。
政治はスポーツをサポートする役割に徹するべきだ」。

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April 26, 2017

陸上100mのはなし① ボブ・ヘイズとジム・ハインズ

昨年のリオデジャネイロ五輪 陸上男子400mリレーの銀メダリストで、1走を務めた山縣亮太が、右足首周辺に痛みが出たことから今月29日に出場を予定していた織田幹雄記念国際大会を欠場するという。
広島出身の山縣にとって、織田記念は思い入れがあるだろうから残念な気もするが、次回に期待したい。

山縣といえばセイコーホールディングスの所属で、プロ契約ではない一般社員だ。

日本の時計メーカー・セイコーは、東京、札幌、長野の日本で開催された3回の五輪でいずれも公式計時を担った。
特に1964年の東京五輪での功績は高い。
日本政府は当時、国産技術による「科学の五輪」というスローガンを掲げた。
セイコーの技術者たちは各競技のルールを学ぶところから始め、高精度のストップウオッチや、スターターピストルと連動した写真判定装置などを開発した。
東京五輪でボブ・ヘイズ(米国)が、陸上男子100mで金メダルを獲った際の写真判定は目にした方も多いのではないか。
検索してみれば、すぐに出てくるだろう。

ところが、2020年の東京五輪で公式計時を担うのはスイスのオメガ社だ。
IOCにはTOPと呼ばれる公式スポンサー制度があり、1つの分野には1社としか契約することができない。
時計はスイスのオメガ社との契約が継続されている。
現在のIOCとオメガ社との契約は2009年に結ばれたもので、2014、16、18、20年までの4回の五輪に製品を提供するというもの。
その総額は8000万ドルという巨額のものだ。

若い人は知らないかもしれないが、陸上競技のタイムの計測には、現在行われている電気計時のほかに手動計時があった。
手動計時とは、簡単に言えば、10分の1秒までしか計測できないストップウオッチで記録を計るものだ。

オメガは1932年のロサンゼルス五輪で、10分の1秒まで計れるストップウオッチを開発し、30個を組織委員会に提供した。
以後、五輪と深くかかわっていく。
1952年のヘルシンキ五輪では、100分の1秒まで計測できるストップウオッチも導入されているが、正式記録は10分の1秒までの手動計時による記録という時代が長く続いた。

東京五輪の陸上競技の記録測定については、諸説ある。
①手動計時による記録が正式なものだが、試験的に使った写真判定装置の電気計時が100分の1秒まで正確に計れることを実証したため、東京以後の五輪では電気計時が正式タイムとなった。
②写真判定装置の電気計時が初めて導入され100分の1秒まで計測された。が、正式記録は10分の1秒までとされた。電気計時の故障に備え、3人の手動計時の記録員がこれまでの五輪同様準備されていた。

東京五輪の100mに優勝したボブ・ヘイズは、『黒い弾丸』という異名をとり、第1レーンを滑走する姿は日本人に強烈な印象を残した。
このときの記録は世界タイの10秒0。
100分の1秒まで計測できる電気計時では10秒06。

この当時、1970年まで陸上競技の全自動電気計時のタイムは、スターターのピストル発射後0.05秒で時計が始動する取り決めがあり、10秒06から0秒05を引き10秒01。
競技規則の換算表によって10秒0と発表された。

3人の記録員の手動で計ったタイムは9秒8、9秒9、9秒9。
限りなく9秒9に近い10秒0であったといえる。
上記の2説の内、①が正しいのであればヘイズの公式記録は9秒9=世界新とされたはずだ。
だが、10秒0となっていることから②が正しいと推測される。

  金 ボブ・ヘイズ 米国 10秒0 (10.06)
  銀 エンリク・フィゲロラ キューバ 10秒2 (10.25)
  銅 ハリー・ジェローム カナダ 10秒2 (10.27)

ちなみにヘイズは1次予選から決勝まで4回100mを走っているが
  1次予選 10秒4 (10.41)
  2次予選 10秒3 (10.37)
  準決勝 9秒9 (9.91) (追い風5.8m参考記録)
  決勝  10秒0 (10.06) (世界タイ記録)

という記録が残っている。

100mで初めて10秒の壁を破ったのは、メキシコ五輪の100mを制するジム・ハインズ。
メキシコ五輪開催の年1968年の6月開催された全米選手権の準決勝だった。
記録は手動計時である。

  準決勝第1組 ①ジム・ハインズ 9秒9 ②ロニー・スミス 9秒9 
  準決勝第2組 ①チャーリー・グリーン 9秒9 

この日ハインズ、スミス、グリーンの3人が手動計時で9秒9の世界新記録を出したとされている。
その年の10月に開催されたメキシコ五輪でもハインズは優勝している。

  金 ジム•ハインズ 米国 9秒9 (9.95)
  銀 レノックス•ミラー ジャマイカ 10秒0 (10.04)
  銅 チャーリー•グリーン 米国 10秒0 (10.07)

1970年になり、全自動電気計時をスタートのピストル発射から0.05秒遅れて始動させる調整は廃止される。
そして1975年1月1日以降、400m以下のレースの世界記録は電気計時と手動計時の2本立てで公認されることになった。このときにジム・ハインズの9秒95が世界記録として公認された。
さらに、1976年8月からは、400m以下の記録は100分の1秒単位の電気計時しか公認されないことになっている。

話をボブ・ヘイズに戻そう。
東京五輪陸上男子100mで金メダルを獲ったボブ・ヘイズは、日本人に強烈な印象を残した。
が、その後の人生は日本ではあまり知られていない。
五輪後ヘイズはNFLのダラス・カウボーイズに入団し、俊足のワイドレシーバーとして活躍した。
東京五輪から7年後1971年28歳の時には、スーパーボウル優勝も経験している。
長い五輪史の中で、金メダルとSB・リングを獲得したのはボブ・ヘイズひとりしかいない。

*1984年ロサンゼルス五輪砲丸投げで銀メダルを獲ったマイケル•カーターは、同じ年SFフォーティナイナーズに入団。なんとその年のスーパーボウルで優勝した。
ボブ・ヘイズには及ばないが、五輪メダルとスーパーボウル優勝を同一年に成し遂げた唯一の選手である。
なおNFLのドラフトはロス五輪の直前にあった。

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April 20, 2017

入江陵介 日本選手権11連覇ならず

先に終了した競泳の日本選手権だが、あまり大きく報道されなかったが実は大きな事件があった。
男子200m背泳ぎで10連覇中だった入江陵介が、萩野公介に敗れ2位、11連覇はならなかったのだ。

高校3年で200mに初めて優勝してから26歳まで10連覇とは、とにかく凄い。
30歳で迎える東京五輪までは競技を続けるのだろうか?

前回のエントリーで、内村航平が体操の全日本で10連覇達成と併せて各競技の全日本での連覇を紹介したが、改めて下記のように加筆する。

10連覇(2007~2016年)
入江陵介 200m背泳ぎ
ロンドン五輪200m背泳ぎ銀、100m背泳ぎ銅メダリスト

9連覇(1957~1965年)
田中聡子 200m背泳ぎ
ローマ五輪女子200m背泳ぎ銅メダリスト

8連覇(1980~1987年)
長崎宏子 200m平泳ぎ

7連覇(1929~1936年)
前畑秀子 200m平泳ぎ
ベルリン五輪200m金メダリスト

●入江陵介 日本選手権200m背泳ぎ10連覇の歩み
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○数字は優勝以外の順位。100m背泳ぎは今年も含めて4連覇中。

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April 10, 2017

内村航平 日本選手権個人総合10連覇、でも室伏広治はハンマー投げで20連覇だった

体操の全日本選手権が、東京体育館で行われ、男子個人総合は内村航平10連覇を飾り、自身の記録を更新した。

日本体操界初のプロとして、」リンガーハットの所属となった内村航平も28歳。
前人未到の10連覇だが、86・350点の得点は記憶にない。

5連覇を果たした2012年以降の全日本選手権での点数は以下のようになる。
リオ五輪での激闘からまだ回復し得ていないのだろう。

⑩2017年 内村航平(リンガーハット) 86・350
⑨2016年 内村航平(コナミスポーツ) 91・300
⑧2015年 内村航平(コナミスポーツ) 90・550
⑦2014年 内村航平(コナミスポーツ) 90・300
⑥2013年 内村航平(コナミスポーツ) 90・500
⑤2012年 内村航平(コナミスポーツ) 92・650

内村が、全日本選手権を初めて制したのは2008年の19歳のとき。
この年は北京五輪の開催されたあと11月に全日本が行われ、五輪銀メダリストの実力見せつけての勝利だった。
その後内村は、ロンドン、リオ五輪と6回の世界選手権の個人総合を制している。
体操競技における他の選手による全日本連覇は、アテネ五輪団体金メダルのメンバーである塚原直也が1996年~2000年まで5連覇、同じく冨田洋之が2001年~2007年までに4連覇を含む6回の優勝をしている。

体操以外の競技で、日本選手権を長い間連覇した選手には、どんな選手がいるのだろうか。

(陸上)
他の競技を見ると、何といっても陸上男子ハンマー投の室伏広治が際立っている。
1995年から2014年まで20連覇した。
室伏の妹である室伏由佳は、円盤投げで2002年から2011年まで10連覇、父である重信氏はハンマー投げで1974年~1983年まで10連覇を果たしている。
室伏由佳はハンマー投げでも5回の優勝があり、室伏親子としては実に49回目の日本選手権優勝(重信12回、広治20回、由佳17回)を誇る。
こういう陸上一家は、おそらく二度と出てこないだろう。

ほかには、2009年ベルリン世界陸上銅メダリストの村上幸史が、やり投げに2000年~2011年に12連覇を果たしている。 
現役の金丸祐三は、400mに2005年から2014年までに10連覇している。

(レスリング)
五輪3連覇した吉田沙保里は、女子55キロ級に2002年~11年に10連覇を達成。 
同一階級ではないが森山泰年は、グレコローマン82キロ級と90キロ級で、1982〜95年にかけて14年連続で優勝している。 

(柔道)
谷亮子は、女子48キロ級に1991年~2001年に11連覇をしている。 
ロス五輪無差別級金メダリストの山下康裕は、1977年~1985年にかけて9連覇を果たした。
アテネ五輪女子78キロ級金メダリストの阿武教子は、1993年~96年に72キロ超級で4連覇、1994年~2004年までは72キロで8連覇している。

(フィギュアスケート)
浅田真央や小塚崇彦のコーチとして知られる佐藤信夫は、男子シングルに1957年~66年にかけて10連覇した。

(スピードスケート)
現在参議院の橋本聖子は、500m、3000m、1500m、5000mの4種目総合で競う全日本選手権で、1982年~90年にかけて10連覇した。

(競泳)
ローマ五輪女子100m背泳ぎ銅メダリストの田中聡子は、200m背泳ぎで1957年~65年に9連覇した。
1980年に、小学校6年生で200m平泳ぎを制した長崎宏子は、1980~87年に8連覇をした。
1936年ベルリン五輪200m金メダリストの前畑秀子は、同種目で1929~36年に7連覇を果たした。


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March 29, 2017

派遣標準から見る池江璃花子

日本水連は、競泳の日本選手権(4月13~16日・名古屋市ガイシプラザ)のエントリーを公開した。
今年の日本選手権は、世界選手権(7月・ブダペスト)の代表選考会を兼ねているほか、萩野公介、瀬戸大也は大学を卒業し新たな所属で、東京五輪に向けてのスタートとなる。
また、高校2年になる池江璃花子の泳ぎも注目される。

池江璃花子を初めて見たのは2年前の日本選手権だった。
当時は14歳の中学3年生。
最初の種目の100mバタフライでは予選敗退。
200m自由形では、1分58秒77の中学新記録で3位だったが、4位までがリレーの派遣標準を切り、ロシアのカザンで行われた世界水泳の800mリレーの代表に選ばれた。

50m自由形は3位 25秒28=中学新
100m自由形も3位 54秒76=中学新
50mバタフライでは26秒49で優勝(予選で26秒41の中学新)するも、いずれも派遣標準を超えることはできず、世界水泳7大会ぶりの中学生代表はリレーのみだった。

昨年の日本選手権に池江は、
50m自由形、100m自由形、200m自由形
100mバラフライに出場。
100m自由形は内田美希に次いでの2位だったが、他の3種目は優勝する。
しかし、リオ五輪派遣標準を突破したのは100mバタフライのみだった。

昨年の日本選手権で、男女の自由形の50mから1500m(女子は800m)の5種目で、派遣標準記録を破ったのは、男子200mの萩野公介のただ一人。
日本水連が五輪に際し、派遣標準記録を設定するようになって以来、女子の自由形で一人も破れなかったのは初めてだった。

が、現実にはリオ五輪で50m、100m、200m自由形のいずれにも池江璃花子は出場した。
ところが、その3種目共に日本選手権で自らが出した記録を超えることなく敗退。
リオデジャネイロ五輪で、自己ベストを出したのは100mバタフライのみに終わった。
*下記グラフ参照

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ここから見えてくるのは、
派遣標準記録を突破していないにもかかわらず、自由形に出場させたのは間違っていた。
もしくは、特に自由形に関しては派遣標準記録が厳し過ぎたのではないのか。

現在、池江は50mバタフライを含めて、長水路で5種目の日本記録を持つ。
一度に5種目の日本記録を持つのは、先に亡くなった山中毅氏と緒方茂生氏についで史上3人目の快挙だ。
特に、リオ五輪で失敗した自由形3種目は、いずれも五輪後に書き換えた。
しかも、その記録は、リオ五輪でも決勝進出相当、悪くても準決勝進出相当の記録である。
これだけのポテンシャルのある選手は、なかなか出て来ないだろう。
東京五輪に向けて、派遣標準記録をどう考えるべきだろうか。

スポーツライターの生島淳氏が以下のようなことを言ったそうだ。
選考会で2位ながらオリンピックで金メダルを獲得した岩崎恭子は、もし当時、派遣標準記録が定められていたら代表に選ばれなかっただろう。中高校生は数か月で飛躍的に記録を伸ばす可能性がある為、派遣標準記録を重視する姿勢はそういった可能性の芽を摘んでしまっている。(中略)
競泳全体の強化という視点から見れば、完璧なシステムには思えない、もっと柔軟な対応をしてもいいのではないか。

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January 30, 2017

日本人スイマーが出した世界新記録

早大2年の渡辺一平(19)が29日、東京辰巳国際水泳場で行われた東京都選手権の200m平泳ぎで、2分6秒67の世界新記録を樹立した。2012年に山口観弘(東洋大)が高校生当時に岐阜国体で出した2分7秒01を更新し、初めて2分6秒台をマークした。
渡辺はリオ五輪にも出場。200m平泳ぎ決勝は6位だったが、準決勝では2分7秒22の五輪記録を出していた。

さて、東京五輪の金メダル候補が彗星のように現れたが、日本人が競泳で世界新を出したことは何回あるか?

戦前は、水泳NIPPONの名前を欲しいままにしていたが、戦後は一時期低迷していた時期もある。
また、五輪金メダリストが実は世界記録からは縁遠かったり、世界記録を何度も出した選手が、五輪メダルには縁がなかったり、様々なドラマがある。
第二次大戦後に競泳で世界記録を出した選手を追ってみた。

●自由形

200m 
山中毅 2分00秒4 (1961.8.20) 4回更新
山中はこの種目世界記録を4回更新したが、この種目ではメダルを獲っていない。

400m 
古橋広之進 4分33秒3 (1949.8.18) 2回更新 未公認記録3回
ご存知フジヤマのトビウオこと古橋広之進氏。
日本が招待されなかった1948年のロンドン五輪に対抗して行われた全日本水上選手権で、ロンドン五輪の金メダルタイムを大幅に上回っていた。
古橋が、障害唯一出場したヘルシンキ五輪では、400mで8位に終わっている。
未公認記録3回とは、日本が国際水泳連盟(FINA)を脱退中に日本人選手の出した記録は、世界記録として公認されなかったという不運もある。

山中毅  4分16秒6 (1959.7.26)
メルボルン、ローマ五輪のこの種目の銀メダリスト。
両大会共に金メダルはマレー・ローズ(豪州)。

1500m 
橋爪四郎 18分35秒7 (1949.8.16) 
古橋氏のよきライバルだった選手。ヘルシンキ五輪では400mで銀メダルを獲得した。

古橋広之進 18分19秒0 (1949.8.16) 2回更新 未公認1回

●平泳ぎ

100m 
古川勝 1分08秒2 (1955.10.1)

田口信教 1分04秒94 (1972.8.30)

北島康介 58秒91 (2008.8.11) 2回更新
田口氏、北島の両選手は五輪決勝で世界新記録を出して金メダルを獲得するという快挙を演じた。

200m
田中守 2分35秒2 (1954.9.17)

古川勝 2分31秒0 (1955.10.1) 4回更新
古川氏はメルボルン五輪で2分34秒7を出し金メダルを獲得した。
なお、この時代100m平泳ぎは五輪で実施されていない。(1968年から)

北島康介 2分07秒51 (2008.6.8) 3回更新
さすがの北島も北京五輪決勝では世界新記録には届かず、五輪新に留まった。

山口観弘 2分07秒01 (2012.9.15)
高校3年で世界新を出すも、大学の4年間で更新できなかった。

●バタフライ

100m 
石本隆 1分00秒1 (1958.6.29)

200m 
石本隆 2分20秒8 (1955.10.1)
長沢二郎 2分19秒3 (1956.4.14)

100m 
青木まゆみ 1分03秒34 (1972.9.1) 2回更新
田口さんと同じくミュンヘン五輪決勝で世界新記録を出して金メダルを獲得した。
なお、ミュンヘン五輪はマークスピッツが7冠を達成したが、リレー種目を含め全て世界記録というおまけが付いている。

●背泳ぎ

200m 
田中聡子 2分18秒2 (1963.8.4) 11回更新
11回もの世界記録を更新した田中だが、当時200mは五輪種目ではなく、100m背泳ぎでローマ五輪銅メダル、東京五輪4位に入った。

他にも男子100×4リレーでは日本代表チームが1回、男子200×4リレーでは日本代表チームが3回、東京クラブが2回世界記録を出している。
また男子メドレーリレーでも日本代表として3回、日大、早大の単独チームがそれぞれ1度世界記録を出している。

なお、意外と思われるかもしれないが、バルセロナ五輪200m平泳ぎ金メダリストの岩崎恭子、ソウル五輪100m背泳ぎ金メダリストの鈴木大地、アテネ五輪800m自由形金メダリストの柴田亜衣の3選手は、一度も世界記録を出したことはない。


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December 28, 2016

コンパクト五輪はどこへ 東京五輪は10競技で会場変更

二転三転していた2020年の東京五輪のバレーボール会場が、当初の予定通り有明アリーナに落ち着いた。
有明アリーナの収容人数は15000人(仮設席を含む)
延床面積は45,600m²
竣工は2019年12月
総工費は339億円となる。

前回の東京五輪と言えば、東洋の魔女の金メダルに全国が沸いたことよく知られている。
では会場はどこだったか?

駒沢オリンピック公園総合運動場体育館と横浜文化体育館である。

当時の駒沢の収容人数は3900人、横浜文化は3800人。
56年前と比較すると、有明アリーナの15000人は余りにも巨大だ。

「世界一コンパクトな五輪」。このアピールポイントはすっかり影を潜めた。

2020年の五輪招致レースに東京が勝利したのは、33競技場中28競技場を中央区晴海の選手村から半径8キロ圏内に集めるという公約が大きかった。

33の競技場のうち10カ所で変更するとは、公約違反と言われてもしょうがない。
競ったマドリードやイスタンブールに何と言い訳すればいいのだろうか。

2020t

が、過去に開催された五輪は、いずれも会場の変更などなかったのだろうか?

2012年に五輪を開催したロンドンには、メインスタジアムを始め、多くの競技場が集まるオリンピックパークと呼ばれていた地区がある。

ロンドンが2012年の五輪招致で、宿敵であるパリに勝って開催を決めたのは2005年7月6日、シンガポールで開かれた第117次IOC総会でのことだ。
このとき、オリンピックパークには4つのアリーナ(室内競技場)を作る計画があり、オリンピックパーク1から4として仮称が付けられ、下記のような競技の会場とされていた。

アリーナ1 バレーボール
アリーナ2 バスケットボール及び近代五種のフェンシング
アリーナ3  ハンドボール
アリーナ4 フェンシング・柔道 

ところが招致決定から1年後の2006年には、マスタープランが発表され、アリーナ1の建設は中止。
バレーボールは既存施設のアールズコート・エキシビジョン・センターで開催することが決まった
さらにアリーナ4の建設も中止となり、フェンシングと柔道は、エクセル展覧会センターで開催することになった。

アリーナ2は、仮設のバスケットボール・アリーナとして建設され、ノース・グリニッジ・アリーナ(通称O2アリーナ)とともにバスケットボールの会場になった。
アリーナ3は、恒久施設のカッパー・ボックスとしてハンドボールの会場になり、近代五種のフェンシングも行われた。なお、ハンドボールの準決勝以降はバスケットボール・アリーナが使われた。

さらに2009年11月には、バドミントン競技や新体操競技についても整備費削減のため、当初の仮設会場であるグリニッジ・アリーナから、既存施設のウェンブリー・アリーナに変更された。

もう一つ言うならば、ロンドンが招致段階で見積もっていた総コストは40億ポンド(現在のレートで約5800億円)。
実際のコストは89億ポンド(約1兆3000億円)かかった。

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