東京2020

July 23, 2020

市川崑監督の『東京オリンピック』を見る

先週、NHK-BSで市川崑監督の『東京オリンピック』1965年(昭和40年)が放送された。
本来であれば、今日が東京五輪開幕であった。
新型コロナの影響で1年延期になったが、中止になる可能性もかなり高いだろう。
東京五輪が昭和39年、この映画の公開は翌年の昭和40年、当時の興行記録を超えたとあるが、2時間50分の超大作である。

この映画は前にも見たことがあったが、開会式の様子からいくつか発見があった。

台湾の存在である。

1964年当時、中華人民共和国はIOCを脱退中で、台湾は正式メンバーだった。
中国は1979年にIOCに復帰するまで、戦後の五輪には参加していない。
一方の台湾が中華台北として五輪に参加するのは1984年の冬季五輪から。
なので、東京五輪は台湾として参加していることになっている。
が、開会式で台湾選手団が入場してくる映像を見ると

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プラカードには TAIWAN
その下に漢字で 中華民国
選手団の旗手は当時の陸上界のスター 楊伝広で掲げた国旗は 青天白日旗

これには少し驚いた。

この時代は、中国と台湾以外にも東西に分裂した国がいくつかあった。

西ドイツと東ドイツ

韓国と北朝鮮

北ベトナムと南ベトナム

だが、それぞれの参加状況は以下のようになる。

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ドイツが東西に分かれていた時代に、統一ドイツ選手団は、1956年のコルティナダンペッツォ冬季五輪から1964年の東京五輪までの6回の五輪で組まれている。
当時、日本は東ドイツと国交はなかった。

そして、もう今はないスポーツ大国ソビエトもアメリカのあとに堂々入場している。
旗手はジャボチンスキーだったはずだ。

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June 16, 2020

戦後唯一 オリンピックを返上したまち

オーストリアのインスプルックは、1964年と1976年に冬季オリンピックを開催したまちである。
これだけの短期間に2回オリンピックを開催したまちはない。
なぜこのようなことができたのだろうか

1964年と1976年のインスブルック冬季オリンピックの大会ロゴ ほとんど同じ Picture_pc_93798f59a0abcedc2e510026793cd

当初1976年の冬季オリンビック開催地に決定していたのは、アメリカ コロラド州のデンバーであった。
コロラド州はアメリカ独立から100年後の1876年に誕生した州で、州誕生100年目にあたる1976年に向けて、大々的なイベントを計画していた。
そこで持ち上がったのが、冬季オリンピック招致である。
他に立候補していたのは、シオン (スイス)、タンペレ (フィンランド)とバンクーバー(カナダ)。
デンバーとシオンのデッドヒートの結果、デンバーが開催地に決まった。

第69回IOC総会 オランダ アムステルダム 1970年12月5日

1976年冬季 デンバー 米国
シオン スイス
タンペレ フィンランド
バンクーバー-ガリバルディ カナダ
29
18
12

9
29
31

8
-
39
30
-
-

ところが、冬季オリンピックを開催するにあたり、地元コロラド州が負担する費用は500万ドル(当時)という莫大な金額。
そんな費用をかけてまで開催するべきかと、疑問の声が上がるようになった。
環境問題や観光への影響、直前のミュンヘン夏季オリンピック開催中に起こったテロの影響なども懸念され、市民グループによる開催返上運動が盛んになっていった。
そこで1972年11月、ニクソン対マクガバンの大統領選挙と同時にオリンピック返上が住民投票にかけられた。
開催派35万票に対して返上派は52万票、大会返上が決定した。
これを受けてIOCはインスブルックを代替開催地としたのである。

冬季オリンピックは夏季オリンピック以上に、施設を整備するのに時間がかかる。
デンバーが開催返上した時点で、新たな開催地を決めることは難しかった
そこで既に大会開催経験のあるグルノーブル(1968年開催 フランス)か、インスブルック(1964年開催 オーストリア)で行うのが妥当と判断し、オーストリア政府の後押しの強かったインスブルックに決まったというわけだ。

興味深いのはここからだ。
インスブルックでの2回目のオリンピック開催が決まると、1980年冬季才リンピック開催地にアメリカのレークプラシッド (ニューヨーク州)が正式に名乗りを上げた。
開催地決定の直前になって、対立候補のバンクーバーが立候補を取り下げたため、無投票で開催地に決定している。
商業主義が確立されていなかった1970年代は、最もオリンピックの開催が苦しかった時期である。
同じアメリカ人の都合で返上しておきながら、何ごともなかったようにまた手を挙げる。
こんなことができるのはアメリカだけだ。

 

 

 

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June 10, 2020

金メダルを12年ぶりに獲ったウルリケ・マイファルトと16年ぶりに獲ったアンソニー・アービン

ウルリケ・マイファルト(西ドイツ=当時)は陸上史に残る選手である。
(Ulrike Nasse-Meyfarth 英語であれば メイファース と読むのだろうが、日本では昔から マイファルト と読んでいる。)

というのも16歳と28歳で、オリンピックの同一種目に金メダルを獲ったからだ。
1968年のメキシコオリンピック、走り高跳びはアメリカのフォスベリーによって新しい時代を迎えた。
現在では、誰しもが跳ぶ背面跳びを最初に始めたのがフォスベリーである。
とはいうものの、4年後のミュンヘンオリンピックでも背面跳びをマスターしていた選手は少なく、自己ベストが1m85だったマイファルトはホームの熱狂的な応援を背に1m92を跳び優勝。16歳の金メダリストとなった。

●ウルリケ・マイファルトの主な戦績
1972年 ミュンヘン五輪 ①1.92m
1974年 欧州選手権 ⑦1.83m
1976年 モントリオール五輪 1.78m 予選22位敗退
1978年 欧州選手権 ⑤1.91m
1980年 モスクワ五輪 ボイコット
1982年 欧州選手権 ①2.02m
1983年 第1回世界陸上 ②1.99m 
1984年 ロス五輪 ①2.02m

岩崎恭子がバルセロナオリンピックで14歳で金メダルを獲った後、自分の泳ぎが出来なくなり、アトランタオリンピックには出場しているが、バルセロナ以後、金メダルタイムを更新することは一度もなく引退した。
洋の東西を問わず、若き金メダリストが壁にぶち当たるのは同じようだ。
マイファルトも、1976年のモントリオールオリンピックでは決勝に進むことが出来なかった。
このときの記録を調べてみると予選通過ラインは1m80、マイファルトは1m78しか跳べずに22位に終わった。
西ドイツは、1980年のモスクワオリンピックを、日本と同様アメリカに追随しボイコット、マイファルトはモスクワの地を踏むことが出来なかった。

が、この後徐々に復調していく。
1983年、ヘルシンキの世界陸上選手権では、ブルガリアのタマラ・ブイコワと壮絶な争いの末2位。
1984年、ロサンゼルスオリンピックはソ連、東ドイツなど東側諸国が報復ボイコットし、オリンピックでのブイコワとの対決は見ることはできなかったものの、マイファルトは12年ぶりに同一種目での金メダルを獲得。
優勝記録は2m02と好記録だった。

同一種目で、12年のブランクを経て再び金メダルを獲った例はマイファルトが唯一である と長い間言って来たが、2016年のリオデジャネイロオリンピックでこの記録を上回る金メダリストが現れた。

競泳男子50m自由形において、19歳と35歳で金メダルを獲ったのがアンソニー・アービン。
同一種目で16年のブランクを置いての金メダルは、ウルリケ・マイファルトの12年を超える。

19歳で迎えたシドニーオリンピック。
50m自由形で金メダルを獲ったアービンは、白人と黒人の両親を持つハーフだが、初の黒人系金メダリストとして注目された。
22歳で一度は現役を引退した。
その際に両腕に鮮やかな入れ墨をしたが、現在も彫ったままだ。
シドニーの金メダルはオークションにかけ、04年のスマトラ沖地震の被災者のために寄付したというが、その額は17000ドル。

その後、ロックバンドで活動するなどしたものの、酒におぼれ、自殺未遂をしたこともあるというが、どん底の時期をへて2010年にプールに戻ってきた。
大学院に入学し、水泳の動作解析などを研究するうちに泳ぐ意欲が沸いてきたと言う。
そして、リオデジャネイロオリンピック。
35歳5カ月での金メダルは競泳個人種目で最年長となる。

昨年9月 競泳金メダリストの「挫折」と「復活」と題してNHK BSでアンソニー・アービンの特集が放送された。

38歳になった金メダリストは東京オリンピックをめざすとしている。
が、東京オリンピックの開催延期が決まり、2021年に彼は40歳になる。
果たして、東京のプールで泳ぐことはできるだろうか。

●アンソニー・アービンの50m自由形
2000年 シドニー五輪 ①21.98(ゲイリー・ホールJrと同タイム)
2004年 アテネ五輪 出場なし
2008年 北京五輪 出場なし
2012年 ロンドン五輪 ⑤21.78
2016年 リオデジャネイロ五輪 ①21.40

 

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May 15, 2020

デーブ・スペクター「多くの競技で定期的に世界選手権がある。五輪にしかないものがあるか?」 →競技団体にとってはIOCからの分配金がなければ生き残れない

朝日新聞5月13日付で、デーブ・スペクター氏がこんなことを言っている。

「五輪の時にしか注目を浴びない競技があるなど、開催には一定の意義はあるかもしれませんが、もう規模を縮小すべきではないでしょうか。近代五輪が始まったころと異なり、多くの競技で定期的に世界選手権があります。五輪にしかないものってありますか?」https://digital.asahi.com/articles/DA3S14473756.html?iref=pc_ss_date

デーブ氏は日米のテレビ事情に相当精通した人物だが、そのデーブ氏でも、見えていない五輪の姿がある。

『競技団体にとってはIOCからの分配金がなければ生き残れない』と言っても過言ではない。

IOCは4年単位で動くが、例えば2013年から2016年までの収入は、約57億ドル(約6140億円)。
その内訳は、73%がテレビ放映権料、18%がTOPと呼ばれるスポンサー企業から得ている。
テレビ放映権料が収入の73%だから約41.6億ドル。
そのうち、米NBCネットワークの支払った額が21.9億ドル、NHKと民放の共同体であるジャパンコンソーシアムが支払った日本国内向けのテレビ放映権が660億円で、全体の15%程度にあたる。

一方、IOCはその収入の90%以上をNOC(各国のオリンピック委員会)や)IF(各競技の国際団体)、五輪の大会組織委員会に分配している。

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リオ五輪から各IFへ分配された額は合計5億4000万ドル(約577億円)。
その4年前のロンドン五輪の5億1960万ドルからやや増となっている。
IOCは五輪で行われている競技を観客動員数、テレビなどのメディアでの露出など複数の項目に基づいてランク付けをし、これに従って分配金も傾斜配分しているのだ。

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2012年のロンドン五輪当時の正式競技は、A~Dの4段階にランク分けされた。
最高のIAAF(当時、現在の世界陸連)が得た分配金は4700万ドル。以下、Bランクの競技が2200万ドル、Cが1600万ドル、Dは1400万ドルだった。
その後、リオデジャネイロ五輪に向けて新たに公表されたランクは、1つ増えてA~Eの5段階になり、最高のAランクは陸上に加えて体操と水泳がBランクから昇格し3競技となった。

日本人が好む競技であるサッカー、バレーボール、卓球、柔道はいずれもランキングの上位にある。

一方で、一度五輪正式種目から外されかけたレスリングや韓国発祥のテコンドーはD、リオ五輪から正式種目となったラグビー(7人制)、ゴルフはEランクにある。

陸上(WA)、サッカー(FIFA)など自己資金が潤沢な競技団体は少なく、IOCから資金分配は、プロのあるバスケットボールやテニスといえども競技の普及や発展のために貴重な金額であり、五輪の舞台から降りたい競技団体は存在しないのである。
五輪競技から外れるとこのカネが入らなくなり、マイナー競技のIFほど運営は苦しくなる。
IFが主催する世界選手権や国際大会のブランド価値も落ち、独自にスポンサーを集める力も衰え、競技人口の減少につながるなどダメージは計り知れない。

スイスの一非営利団体に過ぎないIOCが、世界のスポーツの生殺与奪の権を握る最大の理由がここにあるのだ。

 

●(参考)少し古い記事だけどUSOCの存在も特別だ。

米国オリンピック委員会の資金は なぜ潤沢なのか

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March 27, 2020

最高齢のオリンピック組織委員会会長

むかし、ピーター・ユベロスという人がいた。
商業五輪の礎を作り、2億ドル以上の黒字を生んだロサンゼルス五輪の組織委員会会長だった人物。
旅行会社経営から組織委員会に転じたユベロスのロサンゼルス五輪当時の年齢が46歳。

2014年 ソチ五輪で組織委員長を務めた実業家のドミトリー・チェルニシェンコは当時45歳。
ソビエトが崩壊して25年、ロシアにはこんな若き実業家がたくさんいるとは言え、45歳が五輪組織委員会のトップに立つとは世界が驚いた。

最近の五輪の組織委会長の年齢を調べてみると、40代後半から70代前半と幅広い。
ご存知のように2度目の東京五輪の組織委会長には元首相の森喜朗氏が就いている。
本来であれば東京五輪を83歳で迎えるはずだった。

80代の組織委会長というのはちょっと聞いたことがない。
健康不安についても耳にするが、開催が1年延期になって、果たして大丈夫か?
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私の知る限り、最高齢の組織委員長は、1964年の東京五輪の安川第五郎氏の78歳。
九州電力会長や九州経済連合会の会長を務めた人物だ。
なぜこの人物が組織委会長になったか、詳しいいきさつは判らないが、実は2020年東京五輪の組織委員会の理事を務める人物の中に、現在の九州経済連合会会長がいる。

なぜ東京五輪にまたしても九州経済連合会会長がいるのか?
その人物の名前は、麻生 泰氏。

そう、元首相で現在は財務大臣を務める麻生太郎氏の実弟である。

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March 06, 2020

リオ五輪の男子バスケットボール決勝は NBAファイナルの1/3の視聴者しかいなかった

3月4日(日本時間5日)。
NBAワシントン・ウィザーズは敵地モーダ・センターで、ポートランド・トレイルブレイザーズ戦に臨んだ。
八村塁は憧れの選手だというカーメロ・アンソニーとマッチアップをすることになった。

カーメロ・アンソニーは35歳。
20歳のときのアテネ五輪から前回のリオ五輪まで、4大会連続で全米代表に選ばれ、銅、金、金、金と4つのメダルを獲った選手だ。

先日急死したコービー・ブライアントやレブロン・ジェームスもご五輪の金メダルは2個。
3個の金メダルを含む4個のメダルを獲ったバスケット選手は、米国五輪史上男子では、カーメロ・アンソニーが唯一の存在だ。

NBAのドリームチームが五輪に出場するようになって、米国が金メダルを獲れなかったのはアテネ五輪の1回のみ。
さぞかし米国のバスケットファンは、五輪のバスケットを楽しみにしている…と思うだろう。

 

興味深いデータがある。
2016年の米国で最も視聴者があったバスケットボールの試合ベスト10だ。
キャバリアーズ とウォリアーズによって争われたNBAファイナルが上位に来ているが、キャバリアーズが優勝を決めた7戦目は、なんと3100万人もの米国人が視聴している。

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ベスト10には、NCAA(学生)の試合が2つランクインしているが、五輪の決勝 米国 対 セルビア はそれよりも下10位でしかない。
1170万人が視聴しているが、NBAファイナルの1/3でしかない。

ご存知のようにIOCの最大の収入源はテレビ放映権料だ。
NBCテレビは、2014年ソチ五輪から夏冬10大会の米国向け五輪放映権を計120億ドル(約1兆3000億円)で取得している。
夏冬含めた一大会平均は12億ドル

では、米国のテレビは、米国内のバスケットボール中継にはいくら支払っているのか。

NBA 27億ドル (ABCテレビ)
NCAA 7.7憶ドル (ターナー)

この金額は1シーズンの全ての試合を含んでいるのだが、NBAの方が、五輪一大会よりもずっと高いのだ。

なぜ、東京五輪が、前回1964年のように10月に開催できないのか、真夏の東京を危惧する声が聞こえるたびに「米国のプロスポーツと日程がぶつかるから」とその理由が言われてきた。
正確には「米国のプロスポーツと日程がぶつかり、そちらの方が放映権も高額で、多くの視聴者が見込めるから」となる。

もっとも、地球には中国という国があって、彼らはバスケットボールが大好きで、米国よりもはるかに多くの人が、NBAも五輪のバスケットも見ている。

 

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February 19, 2020

オリンピックのバスケットボールを振り返る アメリカのライバルはリトアニアかスペインか?

東京五輪の注目の競技に男子のバスケットボールがある。
何と言っても1976年のモントリオール五輪以来の五輪出場である。

1964年の東京五輪当時、五輪で行われていた球技は、男子のバスケットボール、男子のホッケー、男子の水球、男子のサッカーと当初は、東京大会のみの実施ということで行われた男女のバレーボールのみだ。

バスケットボールは、16か国が参加し代々木第二競技場で行われた。
日本はカナダ、ハンガリー、イタリア、フィンランドに勝利し10位に入った。

代々木第二の収容人数はわずかに3202人。

一方、2020年の東京五輪のバスケットボール会場は、江東区に新たに作る 夢の島ユースプラザアリーナを予定していた。
バドミントン会場を夢の島ユースプラザアリーナA、バスケットボール会場の夢の島ユースプラザアリーナBとし、その建設費約364億円と計画。
建設予定地は東京メトロ有楽町線 新木場駅から徒歩15分とあった。

というのも、東京五輪招致委員会は、建設費の高騰などにより、競技会場の計画見直しを決め、バスケットボール会場は、さいたまスーパーアリーナに変更になった。

さいたまスーパーアリーナは、2006年の世界バスケットボール選手権の会場になったところだが、所在地は埼玉県さいたま市。
選手村から8キロ圏内にほとんどの競技施設を揃えるという招致プランは、早々に崩れていた。

それでも収容人数は約20000人。
過去の五輪バスケット会場と比べても見劣りしない。
参考までに、五輪バスケットボールの最高観客試合は34064人。
アトランタ五輪の男子決勝の 米国95-69ユーゴスラビア戦だ。
会場はジョージアドーム、2017年に解体されていて、今はない。

東京五輪のバスケットボールのチケットはプレミアチケットだ。
NBAのスターで固めたドリームチームを間近に見ることは、生涯まずない。

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1936年ベルリン五輪でバスケットが五輪正式種目採用されてから、2016年のリオ五輪までに、アメリカは132勝5敗、勝率96%、金メダル獲得14回。
だが、4回金メダルが獲れなかったことがある。

バスケット王国アメリカにとって、五輪の金メダルなど、大学生の良い選手を集めれば金メダルは十分に獲れるという競技だった。
かつて五輪は、厳格なアマチュアリズムの規定にも縛られ、当然プロ選手に門戸は開放されていなかった。

1972年ミュンヘン五輪、このときのアメリカチームは学生界のセカンドチーム的なメンバーだった。それでも全く他チームの相手になることなく、決勝まで駒を進めた。
対する相手は、ソビエト式選手育成法がピークに達する直前のソ連。冷戦華やかなりし時代に当然のように米ソが激突したのである。
アメリカは劣勢の試合に終始するも終了3秒前にフリースローでソ連を1点差で逆転、ここで試合終了かと思われた。

が、フリースローの前にソ連がタイムアウトを要求していたとして時計は3秒前に戻される。ソ連のインバウンズパスは失敗、アメリカは再び勝利に沸くが、FIBA(国際バスケットボール連盟)会長のW・ジョーンズの指示でなぜか時計は再び3秒前に。ソ連のロングパスからゴールが決まり、アメリカが五輪史上初めて敗戦を味わうことになった。

この2回のタイムリセットは不当だとして、アメリカは銀メダルの表彰台をボイコット。銀メダルは現在でもミュンヘン市の銀行の倉庫に保管され、当時のアメリカ関係者は今も優勝はアメリカであると信じている。

4年後、モントリオール五輪に万全に合わせてきたアメリカに対し、ソ連は準決勝でユーゴスラビアに不覚、アメリカはソ連と対戦することなく金メダルを獲得。
さらに4年後、モスクワ五輪にアメリカは現れず、金メダルはイタリアを下したユーゴスラビアが獲得。
その4年後のロサンゼルス五輪にソ連は現れず、金メダルはスペインを下したアメリカが獲得。
ミュンヘン以来の、五輪での米ソ対決は1988年のソウル五輪まで、16年待つことになる。

その頃、ヨーロッパはバスケットボールの第2のメッカになり、ヨーロッパ出身の選手がアメリカの大学からNBAに入るケースも目立つようになってきた。
ソウル五輪、アメリカの準決勝の相手はソ連。
ソ連にとっても8年振りの五輪の舞台、またソ連にはサボニス、トカチェンコという210㎝級のセンターや後にNBAでも活躍する選手も含まれていた。

そして76-82。
アメリカは16年前に続いてソ連に敗れたのである。

ソウルでの敗戦により学生選抜チームの限界を悟ったこと、ちょうどオープン化を図り、最高のスポーツ選手の集う祭典へと変貌を遂げつつある五輪の変革期にぶつかったこともあり、さらに4年後のバルセロナ五輪にはドリームチームが登場してくる。

アメリカとヨーロッパ勢やアルゼンチンとの力の差は縮まっている。
アテネ五輪のバスケットボール男子は、アルゼンチンがイタリアを下して優勝した。
3位決定戦でアメリカに敗れたリトアニアが4位、5位ギリシア、7位スペイン、11位にセルビアモンテネグロが入り、欧州勢の活躍が目立った。

大会直後のスポーツイラストレーテド誌は、次のように書いている。

70年代に自己満足していたアメリカ自動車産業に、日本メーカーが突如目覚ましコールを持ってやって来た。アメリカのバスケットボール界が、今そうしなければならないように、海外との競争から多くを学ばなければならなかった。

バスケットボールは、1992年のバルセロナ五輪にNBAのドリームチームが出場し、圧倒的な強さを示すとともに、世界中のバスケットボール界を変えた。

バルセロナ五輪に出場できなかったアルゼンチンが、バルセロナをきっかけに一貫教育を始め、アテネで金メダルを獲った。
一方、組織作りの上手い欧州は、NBAやNCAAにも負けない強力なリーグを作った。
欧州バスケットボールリーグ運合(ULEB)はスペインフランス、イタリアのプロリーグが中心となって1991年にバルセロナを本部に設立された。

アマチュアや女子も統括する国際バスケットボール違盟(FIBA)とは全く異なる組織で、男子プロバスケットの発展を目指している。

さて、1991年のソ連解体のあと、その後継であるロシアはバスケットボールでは振るわず、米露戦は、2000年のシドニーオ五輪の準々決勝で85-70でアメリカが勝利して以降ない。
ロシアはロンドン五輪で、ソ連時代のソウル五輪以来のメダル(銅)を獲ったが、リオデジャネイロ五輪の出場権は得られなかった。

筆者は、ソ連の後継はむしろリトアニアではないかと思っている。
ソ連時代もバスケットチームの主力は、リトアニア人だったことはよく知られていることで、ソ連から独立した1992年以降の8回の五輪にすべて出場し、銅メダル3回を含め、5大会で4強以上になっている。
 

男子の五輪最終予選は6月23日から4会場に分かれて競うが、リトアニアはホームに韓国、ベネズエラ、ポーランド、スロベニア、アンゴラを招き、1チームのみが東京へのチケットを手にする。

 

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February 14, 2020

金メダリストであるギリシア国王に聖火が採火された東京五輪

映像の世紀プレミアム 第15集「東京 夢と幻想の1964年」(1月3日にNHK BSで放送)を見た。

1964年の東京五輪の前後が東京の様子が発掘映像で描かれている。
聖火リレーも当然出て来る。
東京五輪の聖火リレーは以下のように始まる。

ギリシャ国王コンスタンチノス2世が立ち会う

炉の女神ヘスティアーを祀る11人の巫女で採火される。
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映像の世紀プレミアムの映像はここで終わるが、聖火は第1走者のマルセロス選手に手渡され、マルセロス選手は聖火台に点火した後走り出した。
Apikyodo

この写真のみ共同通信

私が気になったのは、ギリシャ国王コンスタンチノス2世のことだ。
ギリシアでは、1967年4月21日に軍事クーデターが生じ、同年12月にコンスタンチノスは家族を連れてローマに脱出した。

その後も国王不在のまま、形だけの君主制が続いていたが、1973年に軍事政権は君主制を廃止、コンスタンチノスは亡命し、現在もロンドンに住む。

この元国王の凄いところは、五輪金メダリストであること。
東京五輪の4年前、ローマ五輪のヨット・ドラゴン級で金メダルを獲得している。

即位前だったとはいえ、王様の金メダルは五輪史上2例しかない。

「映像の世紀プレミアム」の中に五輪に詳しい人がいなかったのだろう。

残念ながら金メダリストである国王に触れていない。
東京五輪の聖火は、金メダリストの国王の立ち合いのもと採火された唯一の聖火である。

ちなみに、もう一人金メダルを獲った国王とは、ノルウェーの前国王、オーラヴ5世。
まだ皇太子だった1928年のアムステルダム五輪でセーリング(ヨット)6メートル級で金メダルを獲っている。
この場合は、4人のノルウェーチームでの金メダルであり、個人種目で金メダルを獲ったのはコンスタンチノス2世が唯一となる。

 

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January 31, 2020

BBC放送の 1964年の東京オリンピック テーマ曲『東京メロディー』

英国BBC放送が、1964年の東京五輪を中継した番組のテーマ曲『東京メロディー』を偶然見つけた。
こんな曲があったとは、全く知らなかった。

歌詞はなく、ヘルムート・ザカリアス(Helmut Zacharias=ドイツ人)の演奏のみだが、この時代の日本をテーマにした楽曲は「中華風」のものが多いが、東京メロディーはそれほどでもない。
10月24日の東京五輪閉幕後の11月21日付けの全英シングルチャートで9位まで行ったと言う。

YouTubeのコメント欄を見ると、少年時代にテレビで東京五輪の中継を見ていた人が(おそらくもう高齢なのだろう)懐かしがっている。
例えばこんな風に。

I remember watching these Olympics when I was 12years old in 1964 glad I found this brilliant thank you.

日本人だけでなく、英国人のなかにも東京五輪の思い出が生きているかと思うとすこしうれしい気がする。

昨年のラグビーW杯に、イングランドを始め英国から30万人近くの人が来日したが、日本滞在中のことを時々思い出してくれればいいと思う。

 

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January 29, 2020

続・陸上競技の短距離は、なぜ第1レーンを使わないのか

新しくなった国立競技場、旧国立競技場と大きく異なる点がある。
陸上競技用のレーンが9レーンあるのだ。
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▲左が現在の国立競技場 右が旧国立競技場

旧国立競技場は、1964年の東京五輪だけでなく、1991年には世界陸上を開催した。
1964年の東京五輪当時、約7万人を収容できたが、改修とともに観客席は少なくなって最後は約5万席、レーンは五輪当時の8のままだった。

ワールドアスレティックス(世界陸連・旧IAAF)は、2002年から五輪、世界選手権のメイン競技場は観客席が7万人以上、陸上競技用のレーンは9レーンを必要としている。

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▲五輪の開催された競技場 近年は曲走路、直走路ともに9レーン

何故9レーンが必要なのか?
中・長距離走の場合、トラックの内側が有利なので、1レーンの使用頻度が必然的に高くなる。
10000mでは1人が25周、5000mでも12.5周、主に第1レーンを走ることになる。
そのため短距離種目では、第1レーンを避け、2~9レーンを使用している。
この方が環境にもよく、競技場維持費も負担が少ないのだ。
であるから旧国立競技場はメイン競技場として不適格となり、新競技場が必要だった。

8レーンで行われた1964年の東京五輪の男子100m。
金メダルのボブ・ヘイズは1レーンを走った。
手動計測の世界タイ記録である10秒0、電気計時で10秒06(ただしこの時代は非公式)であったが、これが他のレーンであれば、更に驚くべき記録が出ていたかもしれない。

1936年から2004年までの五輪で1レーンを走って金メダルを獲った選手が3人いた。いずれも記憶に残る選手だ。

1936年 ジェシー・オーエンス(米国)10秒3
1964年 ボブ・ヘイズ(米国)10秒0
1976年 ヘイズリー・クロフォード(トリニダード・トバゴ)10秒06

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