小林陵侑 ジャンプ週間総合優勝
ジャンプ週間というスキージャンプのシリーズをご存知だろうか。
年末年始の1週間にドイツとオーストリアで4戦して「世界最強のジャンパー」を決めるシリーズである。
W杯創設前から開催されている伝統を誇る大会で、既に半世紀以上に渡って行われている。
欧州の選手、観客にとってはシーズン最高のイベントであり、1週間で20万人を超える観客を集め、五輪とはまた別の「最高のステータス」を持つ。
この最高のステータスを掴んだのが25歳の小林陵侑。
オーベルストドルフ、ガルミッシュパルテンキルヘン、インスブルックとジャンプ週間で4戦3勝。
2度目の総合優勝を果たした。
ジャンプ週間は、1953年1月、ドイツとオーストリアの対抗戦から始まり、第2回大会(53~54年)から、年末年始を挟んで行うようになり、79 ~80年大会からは、各4戦がW杯を兼ねるようになった。
4戦4勝した選手が過去に3人いる。
2001–02年 スヴェン・ハンナワルド(ドイツ)
2017–18年 カミル・ストッフ(ポーランド)
2018-19年 小林陵侑(日本)
ジャンプの五輪金メダリストは、4年ごとに確実に現れるが、ジャンプ週間の4勝は今後出ないかもしれないくらいの価値がある。
特にカミル・ストッフは、ソチ五輪でNH,LHの2冠。
平昌五輪でもLH金、団体で銅メダルを獲った、歴代最高のジャンパーの一人だ。
間もなく北京冬季五輪。
4戦の内3勝して冬季五輪を迎えた日本人が2人いる。
一人は札幌五輪の金メダリスト笠谷幸生氏である。
札幌五輪を28歳という円熟期に迎えた笠谷は、1971年~72年のジャンプ週間に3勝を挙げるという離れ業をやってのけた。
史上初の4戦4勝に欧州中が期待する中、笠谷は、「札幌五輪のための調整」を理由に帰国。
4戦目のビショフスホーフェンを飛ばなかった。
3戦のみでの帰国は当初の予定通りだったそうだが、SAJ(全日本スキー連盟)や笠谷自身のジャンプ週間に対する認識は、現在とはかなり異なっていたと思われる。
笠谷帰国後のジャンプ週間は、ノルウェーのモルクが総合優勝となるが、モルクは札幌五輪でメダルに届くことはなかった。
札幌五輪での笠谷は、70m級(現NH)で金メダル。日本勢日の丸飛行隊によるメダル独占はあまりにも有名だが、90m級は7位に終わっている。
2人目は、97~98年のシーズン、そう長野五輪直前の船木和喜だ。
1997-98年 ジャンプ週間
第1戦 12/29 オーベルストドルフ(ドイツ)
①船木和喜
②斎藤浩哉
③A・ニッコラ(フィンランド)
第2戦 1/1 ガルミッシュ・パルテンキルヘン(ドイツ)
①船木和喜
②原田雅彦
③斎藤浩哉
第3戦 1/4 インスブルック(オーストリア)
①船木和喜
②S・ハンナバルト(ドイツ)
③J・アホネン(フィンランド)
第4戦 1/ 6 ビショフスホーフェン(オーストリア)
①S・ハンナバルト(ドイツ)
②H・イェックル(ドイツ)
③J・アホネン(フィンランド)
⑧船木和喜
◆総合成績
①船木和喜
②スベン・ハンナバルト(ドイツ)
③ヤンネ・アホネン(フィンランド)
地元の五輪開催年のジャンプ週間で3戦3勝と、笠谷幸生と同じ結果を出してきた船木だったが、4戦目、ビショフスホーフェンでは、緩やかでダラダラと続くアプローチにスピードに乗れず8位に終わった。
笠谷氏が、4戦目のビショフスホーフェンを飛ばずに帰国したことは前述の通りだが、このことに腹を立てたジャンプの神様が、以後日本人選手をこのジャンプ台で勝てなくしたという話が、小林が4戦4勝するまでは、まことしやかにされていた。
しかし、4戦の総合成績では、ハンナバルト、ゴルトベルガーを抑え、圧倒的な勝利だった。
この時点で長野では船木には勝てないと誰しもが思った。
長野五輪での日本勢は、NHで船木が銀メダル。LHで船木が金、原田が銅、団体で日本チーム(岡部、斎藤、原田、船木)が金メダルを獲っている。
冬季五輪の年のジャンプ週間に、ビショッフスホーフェンを除く3戦に勝った3人目の男。
五輪金メダルの最右翼にいる。