オリンピックの記憶

May 08, 2017

陸上100mのはなし② レースに遅刻したアメリカ選手たち

2007年11月。元陸上選手のロバート・テイラーが59歳という若さで亡くなった。
このテイラーが出場したミュンヘンオリンピックの100メートルは、歴史に残る迷レースであった。
なんと、優勝候補と目されていたアメリカの2選手が、召集時間に遅刻をしたのだ。
一体彼らに何があったのか。事の顛末はこうだ。

100メートルの2次予選は、8月21日午後4時15分に始まる予定だった。ところが、競技時間が近づいても、アメリカチームはスタジアムにやってこない。
エントリーしていた選手は、ロバート・テイラー、エドワード・ハート、レイナード・ロビンソンの3人。
彼らのコーチ・スタンライトは、オリンピックの18ヵ月も前に作られたスケジュール表に書かれていた「2次予選・午後7時スタート」を選手に伝えていた。
その後、時間が変吏になったことなどつゆ知らず、4人はスタジアム行きのバスを、ABCテレビの本部の中で待っていたというわけである。
本部の中では、100メートルの競技会場の映橡が流れていた。これが彼らがこれから走るスタジアムだ。スタートラインには続々と選手たちがついていく。
彼らは4人とも、この様子を1次予選の録画だと思っていた。
ところが映像は録画ではなく、2次予選の生中継だとABCのスタッフから伝えられると、選手たちの顔が一斉に青ざめた。
1組目で走るレイナード・ロビンソンはまさに今、この映像の中でスタートラインについていなくてはならなかったのだ。
4人は大慌てでスタジアムに向かうものの、到着した時には、既に2組目のレースまで終わってしまっていた。
1組のロビンソンと2組のハートは、遅刻で失格となってしまった。
3組目のテイラーは急いで準備をし、スタートラインになんとか滑り込むことができた。
2次予選、準決勝をなんとか勝ち抜いたテイラーは、決勝で10秒24というタイムで銀メダルを獲得した。

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▲このレースの途中で走るのをやめた3コースのクロフォードは、4年後のモントリオール五輪でボルゾフに勝って金メダルを獲るのだが、詳しくは別の機会に。

この時優勝したのは、ソ連のヴァレリー・ボルゾフ。タイムは10秒14。
平凡なタイムのボルソフの金メダルは[タナボタ]などとアメリカのマスコミに郷楡された。
ところが、ボルソフは、続く200メートルで当時のシーズンベストである20秒00という好タイムで優勝し、マスコミを黙らせた。
さらに4年後の1976年モントリオールオリンピックでも100メートルで銅メダルを獲得し、「ソビエト最高の精密機械」、「研究室から生まれた金メダリスト」などと呼ばれた、陸上史に残る名ランナーだ。

PHOTO:上は 100m決勝の様子。
下は、夫人であるミュンヘン五輪女子体操個人総合金メダリストリュドミラ・ツリシュチョワと子供と写った写真。
夫妻はともにウクライナ人。
ボルゾフは初代ウクライナ五輪委員会の会長を務めた。
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September 09, 2016

プロで王座をめざすボクシング五輪メダリスト

ボクシングのロンドン五輪バンタム級銅メダリストの清水聡が9月4日、神奈川・スカイアリーナ座間で韓国フェザー級王者李寅圭に5回KO勝ちし、プロデビューを果たした。

五輪のボクシング(男子)は1904年セントルイス五輪から実施されている。
現在はライトフライ級からスーパーヘビー級までの10階級に分かれているほか、17歳から34歳までという年齢制限も存在する。

1928年以来75人の日本人選手が五輪に参加しているが、メダルを獲ったのは5人。
ローマ五輪でフライ級の田辺清氏が銅メダル、東京五輪の桜井孝雄さん(故人)がバンタム級で金メダル、さらにメキシコ五輪の森岡栄治さん(故人 バンタム級)銅メダルの3選手以降随分間があったが、前回のロンドン五輪でミドル級 村田諒太が金メダル、バンタム級の清水聡が銅メダルを獲った。

村田はロンドン後プロ入りし、清水はアマでリオ五輪を目指していたが、参加の道を断たれこの夏プロ入りした。

五輪に出場したボクサーが、プロ転向後世界王者になった選手が3人いるが、メダリストで世界王者になった選手はまだいない。

Boxing


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June 09, 2016

オリンピックのサッカーの影を薄くするEURO

面白い資料がある。
AP通信による2004年のスポーツ10大ニュースだ。

オリンピックイヤーのこの年、1位になったのは「サッカーEURO2004 ギリシャ初制覇」である。
もちろん、アテネオリンピック関連も2位、5位、6位、8位と4項目が入っているのだが、1位はEUROだった。
EUROとは、サッカーの欧州選手権のことで、4年に一度夏季オリンピックと同じ年に開催されている。
いわば、サッカーW杯のヨーロッパ版で、1960年に第1回大会がフランスで開かれた。
当初参加国は4カ国だったが、8カ国さらには16カ国と拡大し、今年から24か国に拡大される。

その注目度もW杯に劣らず、内容はW杯をも凌ぐとも言われている。
1984年頃までは、日本ではサッカー専門誌では取り上げられるものの、一般紙にはほとんど登場しなかったが、徐々に注目を集めるようになり、2004年からは地上波での放送も開始され、すっかりおなじみになった。

2004年はポルトガルで開催され、決勝はギリシャが地元ポルトガルを下し、初制覇を遂げた。
大会前ギリシャの優勝なんて誰も想像しなかった。これが、6月のこと。
ギリシャはすっかり盛り上がってしまった。
言わばギリシャ国民は満腹状態で8月のオリンピックを迎えることになった。
そのためオリンピックを上の空で見ていた人も多かった。

特にサッカーはガラガラ、最終日を前に、平均1万人強の観客しか集まらず「すべてのギリシャのサッカーファンは、これから行われる試合を見に来ないといけない」
ギリシャサッカー協会のガガツィス会長が3位決定戦と決勝戦を前に、こんな異例の呼びかけをしたほどだ。

ヨーロッパの人は、オリンピックのサッカーにはあまり関心がない。
最近6大会のサッカー1試合当たりの平均観客数は以下のようになる。

1992年 バルセロナ五輪 14571人
1996年 アトランタ五輪 38242人
2000年 シドニー五輪 32018人
2004年 アテネ五輪 12544人
2008年 北京五輪 43883人
2012年 ロンドン五輪 48785人

ヨーロッパで開催されたバルセロナ、アテネ大会はアトランタやシドニー大会の半分から3分の1程度でしかない。
ただし、バルセロナオリンピックは地元スペインが3-2でポーランドを下し優勝した。
舞台はカンプノウスタジアム、ファンカルロス国王、ソフィア女王、アントニオ・サマランチIOC会長も詰め掛け95,000人の大観衆とともに金メダルに酔った。

 ●AP通信(米)による10大ニュース●

① サッカーEURO2004:ギリシャ初制覇
② アテネオリンピック開催
③ ツール・ド・フランス:アームストロング(米)が史上初の6連覇。
④ F1シューマッハー(独)が圧倒的な強さで年間総合優勝
⑤ アテネオリンピック過去最多のドーピング違反
⑥ アテネオリンピック水泳のフェルプス(米)が金6個を含む8メダル
⑦ 女子テニス全仏はミスキナ、全英はシャラポワ、 全米はクズネツォワとロシア勢が3勝
⑧ アテネオリンピック 中国が米国に次ぐ32個の金メダルを獲得する躍進
⑨ 男子テニスフェデラー(スイス)が四大大会のうち3大会を制覇
⑩ サッカー英プレミアリーグアーセナルが無敗でリーグ制覇

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June 06, 2016

モハメド・アリとその時代に見る、人種差別とオリンピック

オリンピックの開会式は、スポーツを通じて平和などの理想を訴える唯一の場所であり、大会ごとに聞催国からは全世界に向けたメっセージが発信されている。
例えば1964年の東京大会では、原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれた坂井義則さんが最終聖火ランナーを務め、「戦禍から立ち上がり、平和日本を象徴する若い力」を世界に披露した。
2000年のシドニー大会では、オーストラリアの先住民アボリジニの現役女子陸上選手、キャシー・フリーマンが聖火台に点火している。
そして、1996年7月のアトランタ大会では、最終聖火ランナーとしてボクシングの元世界ヘビー級王者モハメド・アリがパーキンソン氏病を患い震える手を押さえながら聖火台に点火をし、世界中の感動を誘った。
アリが選ばれたのは、病気を克服しようとする姿をアピールするためだけではない。アメリカ南部のアトランタで開催されたオリンピックにおいて、人種差別を振り返り、人類の平等や平和を願うという大きな意昧を、アリを通して訴えたのである。

モハメド・アリという名は、生まれながらの名前ではない。元々の名前はカシアス・クレイ。
1960年ローマオリンピックで金メダルを獲得した時の名前でもある。
18歳のクレイがオリンピックで金メダルという快挙を成し遂げて故郷・アメリカに婦国した際、待ち構えていたのは賞賛や尊敬ではなく差別だった。
友人とレストランに入り、店員に金メダルを見せて名乗っても、
「ここは白人専用、黒人の来るところではない」
と追い出される。
帰り道、アリは通りかかったオハイオ川に金メダルを投げ捨てた。
その後プロ人りして世界王者を目指す。
一方、黒人指導者マルコム・エックスが率いる急進的な黒人組織ネーション・オブ・イスラムの一員になり、白人が付けた奴隷の名前=カシアス・クレイを捨て、モハメド・アリ「高貴な神」になると宣言をした。

アリが、カシアス・クレイとして金メダルを獲得してから8年後の1968年・メキシコオリンピックの陸上競技では、当時のアメリカ社会を象徴する出来事が起きた。
ボブ・ビーモンが走り幅跳びで8メートル90の驚異的な世界記録を出すなど、アメリカの黒人選手による「ブラック・パワー」が吹き荒れたこの大会の、男子200メートルの表彰式でそれは起こった。

19秒83の世界記録で優勝したトミー・スミスと、3位のジョン・カルロスが、メインポールに揚がる星条旗を無視、黒い手袋をはめたこぶしを突き上げたのである。
この年は黒人解放運動の指導者、キング牧師が暗殺され、アメリカにおける黒人差別への不満と不安がオリンピックの場で爆発したのだった。
同時期のアリは、露骨な黒人差別を温存するアメリカ杜会に批刊的な占動を繰り返し、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、チャンピオンペルトを剥奪される。
徴兵拒否で懲役5年、罰金1万ドルの刑を受けたが、1970年に最高裁で無罪となった。

1971年にリングヘ復婦するが、ジョー・フレーザーとの対戦で初めての敗北を経験する。が、1974年、アリのルーツであるアフリカ、ザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサで、ジョージ・フォアマンと歴史的対戦を行い、奇跡の王座奪還を果たした。
このとき32歳。
ところがパーキンソン病を発病、1981年、61戦56勝5敗37KOという記録を残し、引退した。

ボクシングからは引退したアリだったが、それ以外の行動を止めることはなかった。
人種差別に挑む一方、1990年の湾岸戦争では、サダムフセインを訪問。
10人のアメリカ軍の捕虜をアメリカに送還することに成功した。
さらに1998年にはキューバを訪問し、アメリカ政府に対して経済封鎖の緩和を訴える声明を発表した。
9・11同時多発テロの時には、救援コンサートでイスラム教徒を代表して平和を呼びかけた。
そして1996年のアトランタオリンピックで、最終聖火ランナーを努めたアリは、IOCからローマオリンピックの金メダルのレプリカを渡された。
黒人差別に憤り、川ヘ投げ捨てた金メダルが再び彼の手に戻ったのだ。

●アリ、フレーザーそしてフォアマンの金メダル
1960年 ローマ大会ライトヘビー級
 金メダル カシアス・クレイ(アメリカ)
      のちのモハメド・アリ
1964年 東京大会ヘビー級
 金メダル ジョー・フレーザー(アメリカ)
1968年 メキシコ大会ヘビー級
 金メダル ジョージ・フォアマン(アメリカ)

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May 11, 2016

28年間に7個の金メダルを獲った選手と24年間に13個のメダルを獲った選手

リオデジャネイロ五輪の見どころのひとつに3人の選手の五輪個人4連覇への挑戦がある。
これまでの120年間の五輪史で4連覇を成し遂げたのは、アル・オーター 陸上円盤投げ56・60・64・68年とカール・ルイス 陸上走り幅跳び84・88・92・96年の2人しかいない。

リオ五輪で4連覇に挑むのは女子レスリングの伊調馨、吉田沙保里と競泳マイケル・フェルプス(100mバタフライ・200m個人メドレー)の3人だ。
(但し、マイケル・フェルプスはまだ五輪代表に決まってはいない。)


4連覇というと足かけ12年を要するが、団体種目では6連覇を達成した選手がいる。
フェンシングの史上最高の選手と言われているアラダール・ゲレビッチ。
フェンシング・サーブル団体で1932年のロサンゼルスから1936年ベルリン、1948年ロンドン、1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマと6大会連続で金メダルを獲得している。

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よく見てほしいのはその開催年だ。28年間に渡っている。
第二次世界大戦のため、五輪は1940年と44年の大会が中止になっている。
その2大会分の空白がありながらの6連覇なのだ。
最初の金メダルの時は22歳だったが、最後の金メダルはなんと50歳である。

実はほぼ同時期に、イタリアにはエドアルド・マンジャロッティというフェンシングの選手がいた。
この選手もアラダール・ゲレビッチに劣らない超人で、1936年から1960年にかけての五輪で、金メダル6、銀メダル5、銅メダル2個の合計13個のメダルを獲った。
出場した種目の中でメダルが獲れなかったのは、1956年メルボルン五輪のフルーレ個人の1回だけ。

五輪とは超人たちの祭典であると思うが、時として信じられないような超超人が現れる。


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May 10, 2016

オリンピックで100mと110mハードルの両方を制したハリソン・ディラード

1990年代の陸上女子短距離界にゲイル・ディバース(米国)という選手がいた。
非常に珍しい100mと100mハードルの両方で成功した選手だ。
1991年に東京で開催された世界陸上の女子100mハードルで、リュドミラ・エンクイスト(当時ソビエトのちにスウェーデン)に次いで2位に入ったのと、バセドウ病の治療をしていたことが印象深い。

1992年のバルセロナオリンピックでは100m、100mハードルともに金メダルを獲るのではないかとの下馬評だった。
100 mの決勝では5位までが100分の6秒差という僅差の中で競い勝ち優勝。
より得意とされた100mハードルでは、ゴール直前まで2位以下を大きく突き放していたが、最終10台目のハードルに足を引っ掛けて、5位に終わった。

1996年アトランタオリンピックの100mは、マリーン・オッティとディバースが10秒94の同タイムで駆け抜けたが、写真判定の結果ディバースが金メダルを獲得。
しかし、100mハードルは4位に終わった。

とは言うものの、100mのオリンピック2連覇は、東京・メキシコを連覇したワイオミア・タイアスとゲイル・ディバースの二人しかいない快挙である。


一方男子には、100mと110mハードルの両方に金メダルを獲った選手が一人だけいる
少年時代にベルリンオリンピックの4冠王ジェシー・オーエンスに憧れていたというハリソン・ディラード(米国)だ。

元々はハードルの選手だったが、1948年のロンドンオリンピック選考会では110mハードルの出場を逃してしまう。
が、100mでは3位となり米国代表に滑り込んだ。
ロンドンオリンピックの100m決勝では、同じ米国のバーニー・ユーウェルと10秒3の同タイムでゴールするが、オリンピック史上初となる写真判定に持ち込まれ、1つめの金メダルを獲得した。
ロンドンオリンピックでは4×100mリレーでも3走を走り、40秒6で2つ目の金メダルを獲得した。

4年後のヘルシンキオリンピック、110mハードルでアメリカ代表の座を得たディラードは、13秒7のタイムで3つ目の金メダルを獲得。
さらに、4×100mリレーでは2走を走り4つめの金メダルを獲得した。

同一大会ではないが、100mと110mハードルに金メダルを獲った唯一の選手であり、今後も絶対に出ないだろう。
今年93歳になるが健在だという。

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May 06, 2016

6回もある 日本人選手の金銀銅メダル独占

札幌オリンピック70m級ジャンプ(現NH)の金銀銅メダル独占は、戦後史に残る名場面だ。
44年も前のできごとであるが、当時生まれていなくても、ビデオなどで知っているという人も多いのではないか。

オリンピックで1カ国が、金銀銅のメダルを独占するなんて極めて珍しい、と思われるかもしれないが、時々ある。
実は日本だけでも過去に6回、この偉業を成し遂げている。

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最初は、1932年ロサンゼルスオリンピックの100m背泳ぎでのこと。清川正二、入江稔夫、河津憲太郎の3人が最初のメダル独占を果たした。
清川さんは、オリンピック金メダリストにして東京商科大学(現一橋大学)卒業、兼松江商(現兼松)社長、IOC副会長を歴任された凄い経歴の人物だ。
自らの金メダルから56年、ソウルオリンピックで鈴木大地が同じ100m背泳ぎで、金メダルを獲ったときにIOC委員として金メダルを授与した人物でもある。
1999年に亡くなられたが、オリンピックの肥大化をいつも心配されていた。

オリンピック5連覇をするなど、体操王国の名を欲しいままにしていた日本。
特に1968年メキシコオリンピックから1972年ミュンヘンオリンピックにかけて、4回のメダル独占を果たした。
中でも、1968年メキシコオリンピックの床、金メダル加藤沢男、銀メダル中山彰規、銅メダル加藤武司、4位塚原光男、6位監物永三と上位6選手の内5人が日本人。
1972年ミュンヘンオリンピックの鉄棒では、金メダル塚原光男、銀メダル加藤沢男、銅メダル笠松茂、4位監物永三、5位中山彰規と上位5人まで独占している。
このあまりの日本の強さに、4年後のモントリオールオリンピックから1ヵ国個人総合3人、種目別2人までしか決勝進出出来ない様にルールが改正されたほどだ。
だから、アテネでは28年ぶりに団体金メダルを奪回した日本も、今後はメダル独占を果たすことは制度上できない。
同様に、現在では競泳も国別エントリーは1カ国2名となり、どんな水泳王国もメダル独占はない。
ところが、ひとつの国で圧倒的にメダルを独占している競技がある。
韓国のアーチェリーだ。
特に女子においてはこんな状況だ。

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1984年以降個人、団体合わせてメダル機会31回の内、韓国が実に74%を独占し続けている。
こんな競技はほかにない。仮に、日本がこうした状況だったら欧米は、たちまちルール改正で対抗するだろうに。韓国にはルールよりも強い何かがあるのか?


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April 15, 2016

ベルリン五輪以来!日本サッカー80年ぶりスウェーデンと対戦

リオデジャネイロ五輪の男子サッカー日本代表は、1次リーグでナイジェリア、コロンビア、スウェーデンと対戦する。五輪でスェーデンとの対戦するのは1936年のベルリン五輪以来80年ぶりだ。
日本とスウェーデンの間にはこんな因縁がある。


まだ戦争が終わったばかりの1949年、日本初のノーベル賞が湯川秀樹博士に贈られた。
受賞のためストックホルムを訪れた湯川秀樹博士の記者会見の際、スウェーデンの記者が博士にサッカーのボールを手渡した。
博士はそれをヘディングする格好をして拍手を浴びたという。
スウェーデン人にとって、日本についての最も鮮明な記憶は、1936年のベルリン五輪でのサッカーの試合であることのエピソードである。

 
「ヤパネー、ヤパネー、ヤパネー、日本人が飛んでくる…」

スウェーデンでは、「日本」の国名を3度重ねた言葉が生きている。

日本人のニュースを伝える時や、予想もしなかった出来事が起きた時に語られる言葉だという。
1936年のベルリン五輪で生まれた言葉だ。


1ベルリン五輪は、ナチス政権下でドイツの国威発揚に利用された大会として、今尚ヨーロッパの人に語り継がれている大会だが、スウェーデン人にとっては、忘れられない思い出もあるようだ。

1912年にストックホルム五輪を開催し、北欧のスポーツ大国を自認していたスウェーデン。
1924年のパリ五輪のサッカーでは銅メダルを獲得し、ベルリン五輪でも優勝候補の一角に挙げられていた。
まさか、極東からシベリア鉄道で2週間かけて渡欧して来た日本人に負けるとは、誰も思わなかったのだ。

前半、圧倒的にスウェーデンに攻められる日本。24分、37分に、ゴールを許し、前半終了。
後半、2点のリードに安心したかのようなスウェーデンから日本は3点を挙げ、歴史に残る逆転劇を演じてみせた。
(まるでリオ五輪予選の日韓戦のような内容だ)

当時、ベルリンの新聞には

「日本はこの試合でサッカーの醍醐味を味わわせてくれた。高い技術的プレーを知っているはずのベルリン市民も、日本チームが示した極めて細かいプレーに感嘆した。
加茂兄弟は見事な左翼を形成し、CF川本の技巧は惚れ惚れするほどだった。スウェーデンと日本の攻撃を比べると、遥かに日本の方が近代的で優勢だった」

と評された。

日本のサッカーの恩人といわれるデットマル・クラマー氏(故人)も1960年の初来日のとき、少年のときに、ベルリン五輪の逆転劇を聞いたのが日本への強い興味を持つきっかけだと語ったこともある。
スウェーデンではこの敗戦は語り継がれているようで、若い人にも随分むかし、日本に負けたことがあるという事実は多く知られている。

2002年のW杯開催前に、テストマッチが日本・スウェーデン間で行なわれ、スウェーデンが先制するも、中田のゴールで日本が追いつき引き分けた。
W杯の本番、決勝トーナメント1回戦で日本がトルコに敗れず、スウェーデンがセネガルに敗れなければ、日本対スウェーデンの対決が66年振りに実現するはずだった。

五輪におけるスウェーデン代表は過去に9回出場し、金メダル1(1948年)、銅メダル2(1924・52年)の実績を持つ強豪だが、1992年のバルセロナ五輪を最後に五輪出場は遠ざかっていた。
しかし、昨年開催されたU-21欧州選手権で優勝し五輪の舞台に戻って来た。
 
80年ぶりの日本対スウェーデンは、アジア王者対欧州王者の対決でもある。


●1936年ベルリン五輪 ベスト8

日本 3-2 スウェーデン
日本 0―8 イタリア
日本代表GK:佐野理平、FB:堀江忠男、竹内悌三、HB:立原元夫、種田孝一、金容植、FW:松永行、右近徳太郎、川本泰三、加茂健、加茂正五

FBの堀江忠男さんは当時早大在学中、卒業後は朝日新聞勤務ののち早稲田大学政治経済学部の教授に就任。早稲田大学サッカー部監督を務め、釜本邦茂氏、森孝慈氏(政経学部卒)、西野朗氏、岡田武史氏(政経学部卒)らを育てた。

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March 24, 2016

東京五輪の走り高跳び金メダリスト ヨランダ・バラシュ 3月11日に逝く

先日、下記のような記事が朝日デジタルに載った。

ルーマニア陸上連盟は11日、女子走り高跳びで1960年ローマ、64年東京両五輪を連覇した同国のヨランダ・バラシュさんが死去したと発表した。79歳だった。
バラシュさんは世界記録を14度マーク。61年に出した1メートル91の世界記録は10年間破られなかった。67年に引退した後はルーマニア陸連の会長も務めた。(AFP時事)

朝日の紙面を確認したが、出ていない。
どうやらWEBのみの記事のようだ。
ヨランダ・バラシュ、陸上史に残る大選手なのに・・・。

男子の走り高跳びは第1回近代五輪の1896年から、女子も1928年から続いている種目だ。
この長い歴史の中で、五輪2連覇を果たした選手は一人しかいない。
それがヨランダ・バラシュである。
今は更地になってしまった東京の旧国立競技場の表彰台の真ん中に立った一人でもある。

この当時、多くの走り高跳びの選手は正面跳び(ロールオーバー)が多かった。
斜めから走ってバーに近い方の脚で踏み切り、身体をバーの上で横にして回転しながら越えるフォームだ。
正面跳びから派生したのがベリーロール。ロールオーバーのように踏み切った後、バーの上で腹を下にしてバーを越える。
今では、誰もがやっている背面跳びは、東京五輪の4年後、メキシコ五輪でディック・フォスベリーが初めて披露しており、東京五輪当時はだれも思いついていない。

ヨランダ・バラシュは長身で、185センチあった。
東京五輪当時、東洋の魔女の女子バレーチームの最長身が、葛西昌枝さんの173センチであることを考えれば、ヨランダ・バラシュの並外れた長身ぶりが判るだろう。

19歳で出場した1956年メルボルン五輪では1m75の世界記録保持者だったが、1m67で5位に終わった。
が、翌1957年から1967年にかけて五輪2連覇を含め150連勝、世界記録は1m75から1m91まで14回更新した。
ローマ五輪の翌年の1961年に出した1m91の世界記録は、その後10年間破られなかったという。

YOUTUBEにヨランダ・バラシュの動画あるので探してみてほしい。
ここまで完璧な正面跳びは見たことがない。
東京五輪で金メダルを決めた跳躍の動画もあるのだが、成功した瞬間、日本人の審判が皆うれしそうに笑みを浮かべる。

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ルーマニア五輪史上初めての女子金メダリストだった彼女は、引退後ルーマニア陸上競技の会長を1988年から2005年までの長きに渡って務めた。
1991年に開催された世界陸上東京大会にももちろん来日し、国立競技場の思い出の土を踏んでいる。

2013年9月、2020年の五輪が東京に決まったことを受けてのインタビューを見つけた。
但し、ルーマニア語だ。


五輪が欧州、南米を経てアジアに来ることは自然な流れだけど、日本にとって地震と津波のあとの手助けとなる決定だ。
日本は今の沈んだ気持ちを再び持ち上げるだけの国であると思う、とエールを送っている。
震災の日、3月11日に亡くなったのも縁かもしれない。

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March 22, 2016

政治に翻弄されたレスリング選手

1984年は五輪イヤーだった。
ユーゴスラビアは、サラエボで冬季五輪を開いた。
初の社会主義国家による冬季五輪だったが、ユーゴはアルペン男子大回転での銀メダル1個しか獲得できなかった。
サラエボ五輪が閉幕し、関心がロサンゼルス五輪に向き始めたところ、ソビエトが4年前のモスクワ五輪の西側諸国のボイコットに報復すべく、ロサンゼルス五輪のボイコットを発表、他の社会主義諸国にも同調を求めた。
しかし、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とは、ソ連と一線を画すもので、ルーマニアとともにロサンゼルス五輪参加を決めた。

この当時、レスリングはソ連が圧倒的に強く、第2グループとしてブルガリア、アメリカ、日本、韓国、イランなどが続いていた。
ソ連、ブルガリア、イランなどがロサンゼルスに来なかったため、フリースタイル52キロ級は、日本の高田裕司が金メダルの最右翼、誰もその優勝を疑わなかった。
高田裕司は1976年のモントリオール五輪のこのクラスを21歳で制した。
が、2連覇を目指したモスクワ五輪は、日本が不参加を決定、出場を訴え、涙を流した高田の顔は電波に乗って日本中に流れた。
モスクワのあと競技を引退し、群馬県の高校教員をしていた高田は、五輪イヤーの1984年になって現役に復帰した。
ロス五輪代表確実と言われていた後輩の佐藤満に代表選考会で勝ち、8年ぶりに五輪のマットに上がることになった。
29歳になっていた高田は、表彰式であるパフォーマンスを考えていた。
自分が金メダルをもらったら、メダルにキスをして客席に投げ込もう。

実力は誰も五輪参加選手中で一番であると認めたが、衰えかけたスタミナを温存しながらの試合運びは、ユーゴスラビアの19歳の新鋭に一瞬の隙を突かれ、銅メダルに終わった。
五輪に翻弄された高田が、どうしてメダルを投げ込むつもりだったか、他人にはわからない部分もある。
結局銅メダルに終わり、パフォーマンスは幻となった。
高田が立つはずだった表彰台の真ん中に立った19歳のユーゴスラビアの新鋭がセバン・トルステナである。
銅メダルの高田はこうコメントした。

「佐藤がロスに来ていれば、勝てていたのに、佐藤に申し訳ない」

自分が現役復帰したばかりに、結果として佐藤満なら獲れた金メダルを獲ることができなかったというのだ。

1988年 12年ぶりに東西両陣営が顔を揃えたソウル五輪。
この年の春、高田は高校教員を休職して、日本五輪代表チームの合宿にコーチとして参加した。
合宿所の代々木青少年センターに泊まり込み、「佐藤に金メダルを取らせるために」、自分の技術や、これまで対戦した世界の強豪の特徴をすべて教え込んだ。
佐藤満は、世界選手権では毎度金メダル候補と言われていたが、いつも期待を裏切っていたのだ。
ソウル五輪が開幕した。
高田の指導の所為だろう。
目に見えて試合運びがうまくなっている。
決勝の相手は4年前の覇者セバン・トルステナだ。
セコンドには高田裕司が付いた。
偉大な先輩が築いた伝統を引き継ぎ、マットに姿を現した時からセバン・トルステナを飲んでいた。
マットの上で、両足を屈伸させて、二度、三度と跳ね、セバンを挑発する。
敢えて声を発し、動きを止めずに攻めまくる。
13-2と大差のポイントでの圧勝し、金メダルを手にした。

ロス五輪をもって引退していた高田は、1990年東京で開催された世界レスリング選手権に合わせて2度目の現役復帰を果たす。
5回目の世界王者をめざしたが、36歳という年齢と、勝負勘を取り戻せなかったのか、8位に終わった。
一方、ソウル五輪の金メダリスト佐藤満は1989・90年と競技から離れていたが、1991年に復帰、1992年のバルセロナ五輪フリースタイル52㎏級6位をもって現役を終えた。

高田に勝って、佐藤に敗れたセバン・トルステナはどうなっただろうか。
1991年の8月までは、旧ユーゴスラビア代表として競技会に参加していたが、この年の9月に彼の母国マケドニアが、旧ユーゴスラビアから独立を宣言した。
ところがマケドニア共和国が独立を宣言すると、その呼称問題から国際社会は独立を承認しなかった。
旧ユーゴのマケドニアからギリシャ、ブルガリアにかかる広い一帯を元々マケドニアと呼ぶ。
「マケドニア共和国」の人々は、固有のマケドニア民族・言語が存在するとし、その「民族」としての自立をその隣国の同胞にも求めていた。
これに対してギリシャは国内に「マケドニア人はいない」と主張。
ブルガリアは「マケドニアなる民族は、民族も言語も、ブルガリア人と同じ」とした。
そのため「マケドニア共和国」が存在してしまうことに両国が反発した。
こうして国際社会はマケドニアの独立を認めず、マケドニアのスポーツ界は中釣り状態となった。
IOCは新ユーゴスラビア(後のセルビア・モンテネグロ)、ボスニアヘルツェゴビナ、マケドニアの国家としての五輪参加を認めなかった。
そのため、セバン・トルステナはバルセロナ五輪に現われることはなかった。

そして1996年のアトランタ五輪、セバン・トルステナは国際社会から認知されたマケドニア代表として参加、57㎏級に5位という結果を残した。

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