December 15, 2009

旧ソ連書記長の急死とサラエボ五輪スピードスケート500m

1984年2月10日夜。
サラエボ冬季五輪 スピードスケート男子500mの競技開始時間はとっくに過ぎていたが、現地は朝から大雪。
レースの開始時間は、いつになるか全く判らなかった。
サラエボ五輪に参加した日本選手は僅かに39名。
この当時は、同一年に冬・夏の両五輪が開催され、冬季五輪の規模は現在よりもはるかに小さかった。

その少数の日本選手団の目玉の選手は、黒岩彰。
サラエボの前年に行われたスピードスケートの世界スプリント選手権で日本人初優勝を遂げ、一気にサラエボの星になった男だ。
近年の五輪のスピードスケートは屋内リンクで実施されているが、サラエボの頃は屋外。
競技開始時間がはっきりしない間、黒岩が移動するたびに日本のマスコミもぞろぞろ付いてくるという状況で、22歳の青年は次第に自分を見失っていった。

結局、500mの競技開始は予定より5時間以上も遅れた。
この間黒岩は、大勢の記者を引き連れたまま、選手村には戻らず、雪の中にいた。
日本時間で2月11日になり、間もなく遅れていた競技開始時間になる、というとき、ビッグニュースが飛び込んできた。
朝からクラシック音楽を流していたソ連国営タス通信が、「アンドロポフ書記長死去」と報じたのだ。
超大国の国家元首の突然の訃報。
各紙の朝刊の締め切りは急きょ延長されることになった。

「アンドロポフ書記長死去」がこの日でなければ、朝刊に「日本スケート日本初メダル」の見出しが一面を飾ることはなかった。
ただし、初メダルは黒岩彰ではなく、法政大学の学生 北沢欣浩だった。

当時、500mは1回のレースのみで順位が決めており、最後のコーナーで外側を滑ることのできるインスタートが有
利といわれていた。
4組のアウトスタートを引いた黒岩は、最悪のリンク・コンディション、さらにはプレッシャーにつぶれ、世界一と言われたコーナーワークのテクニックを生かせずに10位に終わった。
が、その直後5組に出場したノーーマークの北沢欣浩が会心のレースを見せ、見事銀メダルを獲得。
日本スケート界初の五輪メダリストとなった。

黒岩の故郷 嬬恋村には数十台のテレビカメラが用意されていた一方、北沢の故郷釧路にはもちろんカメラは来ていなかった。
北沢はその年のシーズン前に、初めて五輪強化選手になった選手で、降雪のためレース開始が遅れている間にも選手村で身体を横たえ、休めていたという。
大学卒業後も、「通勤ラッシュがきつい」と実業団に入ることなく釧路市役所に勤務。
その後、五輪の舞台を踏むことはなかった。

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November 02, 2009

東京オリンピックの開会式の日に行われていた日本シリーズ

プロ野球日本シリーズの真っ最中である。
東京五輪の開催された1964年は、五輪開催に合わせてプロ野球のシーズンは日程が繰り上げられた。
つまり通常のシーズンよりも早く終了したわけだ。

当初、9月29日に日本シリーズが開幕する予定だったが、阪神が優勝目前にもたもたし、9月30日に優勝が決まり、2日遅れて10月1日に開幕となった。
さらに7戦までもつれたシリーズの6戦目の予定されていた10月8日が雨天中止となり、第7戦はなんと東京五輪開会式の当日 10月10日に行われた。
パリーグの覇者は南海ホークス。
福岡ソフトバンクホークスの前身であり、大阪難波にあった大阪球場を本拠地にしていた。

1・2・6・7戦が甲子園、3・4・5戦が大阪球場での試合となったが、東京五輪を考えての編成だろう、全試合ナイターで行われた。
10月10日の夜、NHKを始めとするテレビ各局は昼間の開会式の再放送をし、日本シリーズの中継はよみうりテレビでしか行われていない。
日本一が決まる甲子園の試合であるにも関わらず有料入場者は15,172人。
結局4勝3敗で南海が日本一になった。
最優秀選手は南海の投手だったスタンカ(3勝1敗)。
一方の阪神のエースだった村山実氏(故人)は0勝3敗。
南海の4番は先ごろ楽天監督を退いた野村克也氏。
南海の選手の中には大沢啓二氏の名前も見える。

この年のペナントレースでは、前ソフトバンク監督の王貞治氏が55本のシーズン最多ホームランを打っているが、巨人は早々に優勝争いから外れ、王さんは、長嶋茂雄氏と報知新聞の「ON五輪を行く」という取材で、様々な競技会場に取材に出かけた。

長嶋氏の亡くなった亜希子夫人は、東京五輪のコンパニオンを務めており、この取材がなければ二人は出会わなかったことになる。

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October 26, 2009

浅田真央とナディア・コマネチ

GPファイナル進出が絶望的となった浅田真央は「照準を全日本選手権に合わせる」と決意表明した。
ショートプログラム、フリーとも曲は変えないという。

4年前、浅田真央がGPファイナルに優勝しても、年齢制限で五輪出場が適わなかった。
大人になり切っていない体のジュニア選手は、高難度のジャンプやスピンをこなすのに有利になる場合があり、シニアの選手と同じ土俵で勝負させるのは不公平である、という見方があった。
迫力や表現力に若さの残る選手が、高難度技で五輪の金メダルを獲ってしまうのは、フィギュアの真の面白さを損なうのではないか、という考え方だ。

調べてみると、浅田の中学2年頃(2004年)の身長は153㎝、2005年のGPファイナル優勝の頃が158㎝、現在は164㎝といわれている。
身長が伸びることによって、微妙にジャンプの感覚がずれていくだろうことは素人にも判る。
今の浅田の滑りを見て、一人の天才と呼ばれた選手を思い出した。

彼女の名前はナディア・コマネチ。

コマネチが世に出たのは、1976年のモントリオール五輪。
ルーマニアの白い妖精と呼ばれ、段違い平行棒と平均台で7回の10点を出した。
当時、コマネチの身長は154㎝だった。

コマネチを指導していたコーチは、ハンドボールの選手だったベラ・カロリー氏。
1977年の欧州選手権を境にカロリーは、ナショナルチームを離れることになり、コマネチの練習環境は一変した。
ちょうどその頃、コマネチの両親が離婚、彼女のストレスはピークに達した。
さらに悪いことに、コマネチはまだ成長期にあったのだ。

1978年 フランス・ストラスブールで開かれた世界体操選手権に姿を見せたコマネチに、メディアは仰天した。
身長が8cm伸び、体重も増え、白い妖精の面影が消えていたからだ。

ルーマニアのライバルであるこの当時のソビエト代表チームは、2年後のモスクワ五輪を控え、精鋭が揃っていた。
個人総合の上位は
エレナ・ムヒナ
②ネリー・キム
③ナタリア・シャポシニコワ
とソビエト勢が独占する。
コマネチは、あろうことか、自らの代名詞でもある段違い平行棒で落下(写真)、4位に終わった。

9

10

だが、コマネチの凄いところは、ここからモスクワ五輪に向けて建て直しを果たすところだ。
恩人であるカロリーコーチとの二人三脚が復活し、身体を絞り込んでモスクワ五輪を迎えた。

モスクワ五輪の女子体操は、ソ連びいきの不透明な採点が出て、後味の良くない大会であるのだが、コマネチは予想以上に気を吐いた。
個人総合ではエレナ・ダビドワ(ソ連)に次いで銀メダルに終わったが、平行棒と床で金メダルを獲り、生涯獲得金メダルを5個とした。

この頃思ったのは、やはりコマネチはオリンピックの申し子だ、ということ。
世界には、五輪のない年は全く不調であっても、五輪になると調子を合わせ、活躍する選手がいる。
日本でいえば、体操の加藤沢男さん、平泳ぎの北島康介。コマネチもそうだ。

逆に自他共に認める世界の第一人者でありながら、五輪ではついに勝てない選手もいる。
鈴木恵一さんとか古橋広之進さんとか。

浅田真央は、後者になってしまう予感がする。

●参考記事
オリンピックの記憶(9) ナディア・コマネチの伝説

さすがオリンピックの申し子コマネチ 44歳にて第一子を妊娠 トリノオリンピック開幕直前に発表


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August 02, 2009

フジヤマのトビウオ ローマで逝く

日本オリンピック委員会(JOC)元会長、日本水泳連盟元会長の古橋広之進さんが2日、世界水泳選手権が開かれているローマ市内のホテルで亡くなった。80歳だった。

アテネ五輪の競泳女子800mで柴田亜衣が金メダルを獲ったときに、メダルを授与したのが古橋広之進さんだった。
自由形の古橋さんが、自由形で日本人選手に金メダルを授与する、FINAも粋な計らいをした。

古橋さんは、戦後間もない時期の水泳界のスターであった。
1948年のロンドン五輪に戦争責任国として招待されなかった日本は、五輪の日程に合わせて競泳の競技会を開き、古橋さんの記録は五輪優勝タイムを上回った。
さらにその年の日本選手権、1949年のアメリカ遠征で400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録を出し、日本復興のシンボル的存在だった。

合掌

ワンダースイマーは型破り 古橋さんの活躍を伝える1949年にシドニーで発行された新聞
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1948年 古橋さんの世界新記録を伝える新聞 “JAP”と書かれている 
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May 11, 2009

入江陵介 背泳ぎとしては81年ぶりの世界新記録

オーストラリアのキャンベラで行われていた競泳の第1回日豪対抗男子200m背泳ぎで、昨年の北京五輪5位の入江陵介が、1分52秒86の世界新記録で1位となった。
日本選手による世界新樹立は、北京五輪100m平泳ぎ決勝の北島康介以来で、背泳ぎ種目で日本人男子が世界新を樹立するのは、1928年の入江稔夫(200m、2分37秒8)以来81年ぶりの快挙となる。

入江は近畿大学在学中の19歳、身長は177センチと競泳選手としては小柄だが、ロンドン五輪金メダルの最有力候補現るといったところだろう。

さて、日本人が競泳で世界新を出したことは何回あるか?
戦前は、水泳NIPPONの名前を欲しいままにしていたが、戦後は一時期低迷していた時期もある。
また、五輪金メダリストが実は世界記録からは縁遠かったり、世界記録を何度も出した選手が、五輪メダルには縁がなかったり、様々なドラマがある。
戦後に競泳で世界記録を出した選手を追ってみた。

●自由形

200m 山中毅 2分00秒4 (1961.8.20) 4回更新
山中はこの種目世界記録を4回更新したが、この種目ではメダルを獲っていない。

400m 古橋広之進 4分33秒3 (1949.8.18) 2回更新 未公認3回
ご存知フジヤマのトビウオこと古橋広之進氏。
日本が招待されなかったロンドン五輪に対抗し、ロンドンの金メダルタイムを大幅に破って見せたが、唯一出場したヘルシンキ五輪では400m8位に終わった。
また、日本が国際水泳連盟FINAを脱退中の記録は世界記録として公認されなかったという不運もある。

同 山中毅  4分16秒6 (1959.7.26)
メルボルン、ローマ五輪とこの種目の銀メダリスト。

1500m 橋爪四郎 18分35秒7 (1949.8.16 9 
古橋氏のよきライバルだった選手。ヘルシンキ五輪では400mで銀メダルを獲得した。
同 古橋広之進 4分19秒0 (1949.8.16 ) 2回更新 未公認1回

●平泳ぎ

100m 古川勝 1分08秒2 (1955.10.1)
同 田口信教 1分04秒94 (1972.8.30)
同 北島康介 58秒91 (2008.8.11) 2回更新
田口氏、北島の両選手は五輪決勝で世界記録を出して金メダルを獲得するという快挙を演じている。

200m 田中守 2分35秒2 (1954.9.17)
同 古川勝 2分31秒0 (1955.10.1) 4回更新
古川氏はメルボルン五輪で2分34秒7を出し金メダルを獲得した。
なお、この時代100m平泳ぎは五輪で実施されていない。(1968年から)
同 北島康介 2分07秒51 (2008.6.8) 3回更新
さすがの北島も北京五輪決勝では世界新記録には届かず、五輪新に留まった。

●バタフライ

100m 石本隆 1分00秒1 (1958.6.29)
200m 石本隆 2分20秒8 (1955.10.1)
同 長沢二郎2分19秒3 (1956.4.14)

100m 青木まゆみ 1分3秒34 (1972.9.1) 2回更新
田口さんと同じくミュンヘン五輪決勝で世界新記録を出して金メダルを獲得した。
なお、ミュンヘン五輪はマークスピッツが7冠を達成したが、リレー種目を含め全て世界記録というおまけが付いている。

●背泳ぎ

200m 田中聡子 2分28秒2 1963.8.4 11回更新
11回もの世界記録を更新した田中だが、当時200mは五輪種目ではなく、100m背泳ぎでローマ五輪銅メダル、東京五輪4位に入った。

他にも男子100×4リレーでは日本代表チームが1回、男子200×4リレーでは日本代表チームが3回、東京クラブが2回世界記録を出している。
また男子メドレーリレーでも日本代表として3回、日大、早大の単独チームがそれぞれ1度世界記録を出している。

なお、意外と思われるかもしれないが、バルセロナ五輪200m平泳ぎ金メダリストの岩崎恭子、ソウル五輪100m背泳ぎ金メダリストの鈴木大地、アテネ五輪800m自由形金メダリストの柴田亜衣の3選手は、一度も世界記録を出したことはない。

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April 24, 2009

人類初の46秒台 100m自由形

昨年の北京五輪男子100m自由形で金メダルを獲ったアラン・ベルナール(フランス)が、人類初の46秒台を出した。ベルナールは、モンペリエで行われているフランス選手権同種目の準決勝で、46秒94の世界新記録をマークした。
従来の世界記録はサリバン(AUS)が北京五輪準決勝で出した47秒05だった。 
なおベルナールは、現時点では国際水泳連盟(FINA)の認可が下りていないアリーナ社製の新型水着を着用したため記録の公認されない可能性もある。

100m自由形には常にタイムの壁があった。
初めて1分の壁を破ったのは、後にターザン俳優として活躍するジョニー・ワイズミュラー。
初めて55秒を切ったのはディック・クリーブランド。
そして夢の49秒台を最初に突破したのはジム・モンゴメリー。
以降、初の48秒台はローディ・ゲインズ、初の47秒台はピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド、初の46秒台が今回のベルナールとなる。

初めて1分を切った
58秒6 ジョニー・ワイズミュラー(米) 1922年

初の55秒台
54秒8 ディック・クリーブランド(米) 1954年

初の49秒台
49秒99 ジム・モンゴメリー(米) 1976年

初の48秒台
48秒95 ローディ・ゲインズ(米) 1981年

初の47秒台
47秒84 ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド(米) 2000年

初の46秒台
46秒96 アラン・ベルナール(仏) 2009年

因みに五輪優勝タイムは下記の通り。最後の㎝は身長。

1972年 マーク・スピッツ (米) 51.22 183㎝
1976年 ジム・モンゴメリー  (米) 49.99 196㎝
1980年 ヨルグ・ボイテ  (東独)  50.40 不明
1984年 ローディ・ゲインズ (米) 49.80 186㎝
1988年 マット・ビオンディ (米) 48.63 200㎝
1992年 アレキサンドル・ポポフ (EUN) 49.02 200㎝
1996年 アレキサンドル・ポポフ (ロシア) 48.74 200㎝
2000年 ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド (オランダ) 48.30 193㎝
2004年 ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド (オランダ) 48.17 193㎝
2008年 アラン・ベルナール (仏) 47.82 196㎝

*日本記録は、先日の日本選手権で藤井拓郎が出した48秒73。
藤井はバタフライと個人メドレーを中心とした選手で、北京五輪では100mバタフライ6位、銅メダルを獲ったメドレーリレーでもバタフライを泳いだ。

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October 27, 2008

NHKスポーツ大陸 高田裕司・佐藤満そしてセバン・トルステナ

25日の夜 NHK BS1のドキュメンタリー 「スポーツ大陸 受け継がれた天才の技 外無双 ~レスリング 高田裕司から佐藤満へ~」
を途中から見た。
ちょっと補足させていただく。

高田裕司さんは、レスリングフリースタイル52kg級のモントリオール五輪の金メダリストで、80年モスクワ五輪でも金メダルを有力視されていた。
が、日本はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するアメリカに追従し、ボイコット。
無念の高田は一度はマットを去った。

ところが、高田は4年後のロサンゼルス五輪を前にして、突然の現役復帰を果たすも、ソ連を始めとする東側諸国がロサンゼルス五輪を報復ボイコットし、五輪の舞台はまたも片肺となった。
それでも、8年ぶりの金メダルを狙った高田だったが、セバン・トルステナ(ユーゴスラビア=当時)戦で一瞬のすきをにつかれ、銅メダルに終わった。

4年後のソウル五輪、高田は同階級のライバルだった佐藤満に自身の得意技・外無双を教え、佐藤は決勝でトルステナを圧倒、高田はコーチとして夢をかなえた。

というのがNHKの番組の概要だ。

ところが、放送にはなかったが、高田裕司、トルステナにはこの後のあまり知られていないエピソードがある。

高田裕司が2個目の金メダルを目指していたロサンゼルス五輪、金メダルを獲ったら、表彰式でメダルにキスをして客席に投げ込むつもりでいた。
五輪に翻弄された高田が、どうしてメダルを投げ込むつもりだったか、他人にはわからない部分もある。が、結局銅メダルに終わり、幻のパフォーマンスとなった。

ロス五輪をもって引退していた高田は、1990年東京で開催された世界レスリング選手権に合わせてまたも現役復帰を果たす。
5回目の世界王者をめざしたが、36歳という年齢と、勝負勘を取り戻せなかったのか、8位に終わった。
一方、ソウル五輪の金メダリスト佐藤満は1989・90年と競技から離れていたが、1991年に復帰、92年のバルセロナ五輪フリースタイル52㎏級6位をもって現役を退いた。

高田に勝って、佐藤に敗れたセバン・トルステナ(旧ユーゴスラビア)も少し変わった競技人生を歩む。
1991年の8月までは、旧ユーゴスラビア代表として競技会に参加していたが、この年の9月に彼の母国マケドニアが、旧ユーゴスラビアから独立を宣言する。
ところが国際社会はこの独立を認めず、マケドニアのスポーツ界は中釣り状態となった。そのため、セバン・トルステナはバルセロナ五輪には現われなかった。

そして1996年のアトランタ五輪、トルステナは国際社会から認知されたマケドニア代表として参加、57㎏級5位。
1997年の世界選手権には58㎏級に出場して17位という記録が残っている。
このとき32歳だった。

*バルセロナ五輪には個人参加という形で、マケドニアから参加した選手も一部いるが、所属区分は「IOP」(個人参加)とされ、書類上マケドニアの名前は一切出てこない。

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August 15, 2008

日の丸飛行隊 青地清二氏死去

1972年札幌冬季五輪のスキー70m級ジャンプ(当時)でメダルを独占した日本選手の一人で、銅メダリストの青地清二氏が14日亡くなった。
小樽市出身、明大を経て雪印乳業入り。68年グルノーブル大会で五輪に初出場。
札幌五輪では金メダルの笠谷幸生、銀メダルの金野昭次に続いて3位に入り、メダルを独占。「日の丸飛行隊」と呼ばれた。

●1972年札幌オリンピック 70㍍級 K=86 2月6日 得点(1回目の飛距離,2回目の飛距離)
1.笠谷幸生 244.2(84.0,79.0)
2.金野昭次 234.8(82.5,79.0)
3.青地清二 229.5(83.5, 77.5)
23.藤沢 隆 207.8(81.0,68.0)

●参考記事
たくぎん ニッカウヰスキー・・・ ジャンプ選手の所属企業の栄枯盛衰

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July 20, 2008

個人最多金メダルは9個

北京五輪の注目のひとつが、マイケル・フェルプス(競泳・アメリカ)の通産獲得金メダルの記録更新がなるかだ。
アテネ五輪で6個の金メダルを獲得したマイケル・フェルプスは、北京では8冠をめざす。
金メダル3個以上で、タイ記録になるのだ。

これまでの近代五輪での個人最多金メダルは9個で、4人いる。
まずはフィンランドのパーボ・ヌルミ。陸上の中長距離選手で、1920年のアントワープ五輪の10000m、個人クロスカントリー、団体クロスカントリーの3種目で優勝。次の1924年のパリ五輪では1500m、5000m、個人クロスカントリー、団体クロスカントリー、3000m団体レースの5種目を制覇。さらに1928年のアムステルダム五輪の10000mでも金メダルを獲った超人だ。

次に旧ソ連の体操選手、ラリッサ・ラチニナは1956年のメルボルン、1960年のローマ、1964年の東京の3大会に出場し、団体で3個、個人総合で2個、種目別の床で3個、跳馬で1個の合計9個の金メダルを獲っている。さらに、銀を5個、銅を3個も獲っており、通算のメダル数17個は史上最多である。
水泳のマーク・スピッツ(アメリカ)は、1968年のメキシコ五輪で4×100mリレー、4×200mリレーの2種目、1972年のミュンヘン五輪の100、200m自由形、100、200mバタフライ、4×100mリレー、4×200mリレー、4×100mメドレーリレーの出場7種目すべてで、金メダル及び世界記録という偉業を成し遂げた。

最後に陸上のカール・ルイス(アメリカ)。1984年のロサンゼルス、1988年のソウル、1992年のバルセロナ、1996年のアトランタの走り幅跳びで4連覇。100mはロサンゼルスとソウルで2個、200mはロサンゼルスで1個、4×100mリレーはロサンゼルスとバルセロナで2個、さらにソウルの200mでは銀メダルを獲っている。

以上4人が、最多9個の金メダルを獲得した選手なのだが、実はこれを1個上回る、10個金メダルを獲得した選手が1人だけいる。1900年から1908年の五輪で活躍した、レイ・ユーリーというアメリカの陸上選手がその人だ。
ユーリーは、3度の五輪で8個の金メダルを獲得、さらに1906年に行われた中間大会で2個の金メダルを獲得、合計10個の金メダルを獲得している。
ただしこの10個は、いずれも現在のオリンピックでは実施されていない、「立ち幅跳び」「立ち高跳び」「立ち三段跳び」での金メダルである。さらに、このうちの2個を獲得した1906年の中間大会は、第1回オリンピックに気を良くしたギリシャが、強引に開いた大会で、公式の大会とは見られない向きもある。そのため、ユーリーが史上最多金メダル獲得者であるか否かは、研究者の間でも意見の分かれるところだ。
ちなみに、先述のパーボ・ヌルミが金メダルを獲得したクロスカントリーも、現在のオリンピックでは行われていない。これを差し引くと、ヌルミが獲得した金メダル数は4となる。
とはいうものの、当時行われていた種目の中でナンバーワンだったことに変わりはない。

選手名

国籍

競技

大会

ラリッサ・ラチニナ

ソ連

体操

1956–1964

9

5

4

18

パーボ・ヌルミ

フィンランド

陸上

1920–1928

9

3

0

12

マーク・スピッツ

アメリカ

競泳

1968–1972

9

1

1

11

カール・ルイス

アメリカ

陸上

1984–1996

9

1

0

10

ビヨルン・ダーリ

ノルウェー

距離スキー

1992–1998

8

4

0

12

ブライト・フィッシャー

ドイツ

カヌー

1980–2004

8

4

0

12

加藤沢男

日本

体操

1968–1976

8

3

1

12

ジェニー・トンプソン

アメリカ

競泳

1992–2004

8

3

1

12

マット・ビオンディ

アメリカ

競泳

1984–1992

8

2

1

11

ニコライ・アンドリアノフ

ソ連

体操

1972–1980

7

5

3

15

べラ・チャスラフスカ

チェコスロバキア

体操

1960–1968

7

4

0

11

レイ・ユーリー

アメリカ

陸上

1900–1908

10

0

0

8

筆者の新刊発売中

Oly3_4

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July 06, 2008

ライバルは泳法規則 日本人スイマーの軌跡

2004年アテネ五輪の平泳ぎ男子100mで、優勝した北島康介に対し、「ターン時に、ドルフィンキックが入った」と指摘が出された。米国チームからの公式抗議はなかったにもかかわらず、新聞等には大きく取り上げられた。
このときは、またか、と思った。
日本人が水泳やスキーで活躍すると、ルール改正で対抗されるのが常だからだ。
結局2005年になって国際水泳連盟(FINA)は、平泳ぎのスタートとターン時に、ドルフィンキックを1回のみ容認する競泳規則の改訂を決め、北島の件は事なきを得た。

▼古川勝 メルボルン五輪で200平泳ぎ金
1956年メルボルン五輪男子200m平泳ぎの決勝。
古川勝と吉村昌弘が出場した。当時、平泳ぎは「潜水泳法」が主流で、決勝を泳いだ8人中7人が潜水だった。古川は一番長く潜り、43mで顔を上げた。
150mまでは、2位だったが、ターンで勝り、残り20mでソ連の選手に勝った。吉村昌弘も2位に入った。
古川は、もともとは普通の平泳ぎをしていたが、7000ccの肺活量を生かし潜水に転向、「潜水の王者」と呼ばれた。だが、潜水泳法はメルボルン五輪を持って禁止となった。

▼田口信教 ミュンヘン五輪男子100m平泳ぎ金
1968年17歳で迎えたメキシコ五輪。田口信教は100m準決勝で1分7秒1を出すも、ターンの時にドルフィンキックになった、という泳法審判員の指摘で失格となった。金メダルのマッケンジー(米)のタイムは1分7秒7。決勝に出ていれば田口が優勝したかもしれない。
左ひざの関節炎を持ち、やむなくしての俗にいう田口キックだったが、記録を更新する日本人に対するねたみもあってか、厳しい指摘だった。
田口は4年間かけてキックを直し、外国の関係者に写真まで送りつけてアピールした。
1972年ミュンヘン五輪100m平泳ぎ 準決勝では1分5秒1の世界新記録、決勝では50mを7位で折り返すも、60mを過ぎたあたりから、ピッチ泳法でトップに出た。
泳法違反はなし。史上初めて1分5秒の壁を破る1分4秒9の世界新記録での金メダルだった。

▼モスクワの星 高橋繁浩
モスクワ五輪を1年後に控え、日本の競泳会は平泳ぎの新星に沸いた。
高校3年生の高橋繁浩が100、200m平泳ぎの日本新記録を出し、モスクワ五輪の星といわれた。
ひとかきで他の選手よりグンと前へ進むフォームは、「芸術品」と言われた。が、水をかく間、頭が水中に沈む泳法違反で失格をとられた。
高橋は、頭を浮かすことに神経をすり減らし、泳ぎが小さくなった。
モスクワ五輪の幻の日本代表にも選ばれることはなかった。
5年余のブランクを経て、1984年のロサンゼルス五輪に挑戦するも、100m10位、200mは12位に終わり、現役引退を表明した。
ところが、母校で指導者をしていた1986年、競泳規則が改正され、平泳ぎの頭部水没が違反でなくなった。
27歳にして4年ぶりに現役復帰。
ソウル五輪平泳ぎ200m、予選のタイムは2分17秒69。決勝進出はならなかったが、17歳のときの自身が持つ日本記録を10年ぶりに更新した。
取材陣からは「金メダルに匹敵する泳ぎ」と称賛された。

▼鈴木大地 1988年ソウル五輪100m背泳ぎ金
この当時の背泳ぎは、潜水して両手を頭の先に伸ばしたまま進むバサロスタートが主流だった。
が、呼吸しないため体力の消耗が激しい。鈴木大地は通常21回のキックで25mまで潜っていた。
予選では、35m近くまで潜ったアメリカのバーコフが54秒51の世界記録を出した。
鈴木大地は、55秒90の3位。金メダルを獲るにはバサロの距離を伸ばすしかない。
決勝が始まった。5コースのポリャンスキー(ソ連)が25m過ぎで水面に出る。続いて3コースの鈴木大地が30mで、その5m先で4コースのバーコフが顔を出した。
50mのラップはバーコフ25秒47、鈴木大地25秒97、ポリャンスキー26秒06。
3人は残り5mで横一線。鈴木は右手で絶妙なタッチを決め、金メダルを掴む。
世界記録はならなかったものの、自らの日本記録を0秒27縮める55秒05だった。
ソウル五輪後、ルールが変更され、制限の無かった背泳ぎのスタートとターン直後の潜水は10m以内とされ、1991年からは逆に5m延ばされ15m以内となった。

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