オリンピックの記憶

January 18, 2019

1981年バーデンバーデン オリンピック史に残る日

ドイツ南部にバーデンバーデンという温泉地がある。
人口5万人ほどの小さなまちだが、観光と保養で欧州中に名前が通っている。
そのため、年に数回はテレビを観ているとその地名を聞くことがある。
その度にぼくはこの日のことを思い出す。
この日をきっかけに五輪は排他的エリート意識の産物から、プロ解禁による普遍的なスポーツの祭典へと変わっていくのだ。

今から38年前の1981年9月29日。
当時は西ドイツとよばれていた国のバーデンバーデンでIOCの会議、五輪コングレスが開催された。
五輪コングレスとは、IOC総会よりも規模が大きく、この先の五輪運動の根本からを話し合うための会議である。

実はバーデンバーデンでは、1988年冬季・夏季五輪開催地を決めるIOC総会も行われた。
「名古屋 ソウルに敗れる!」
というやつだが、今回は敢えて触れないこととする。

この当時、世はまさに東西冷戦下。
この前年に開催されたモスクワ五輪は、アメリカ、カナダ、西ドイツ、日本などの主要国がボイコットし、片肺に終わっていた。
(勘違いをしている人が多いが、イギリス、フランス、イタリアなど欧州の主要国は抗議こそすれど、モスクワ五輪に参加している。)

当時のIOC委員は現在のように、選手出身の委員よりも、欧州の王族や経済的な成功者が多くを占めるブルジョアクラブのようになっており、スポーツの世界、あるいは社会全体の動きに疎い連中の集まりだった。
そのため、IOCは、「モスクワ五輪ボイコット」を突如ぶちまけたジミー・カーター米国大統領(当時)を説得するでもなく、打開案を見出すでもなく、みすみす五輪の崩壊を指をくわえて見ていただけだった。

1980年にIOC会長になったばかりのアントニオ・サマランチは、銀行家から外交官になり、IOCに入った人物だが、社会の変化と現状を示そうと、五輪コングレスで初めて、現役選手に発言の場を与えたのだ。
このときIOCを舞台に、選手の立場から初めて演説をしたのがセバスチャン・コー。
世界に3人しかいないモスクワ・ロサンゼルスの両五輪で金メダルを獲ったコー。
ラミーヌ・ディアクの後の国際陸連会長を務める彼は、モスクワに選手を送らなかった国、送ることをじゃました国を痛烈に批判し、

「現代の五輪選手の負担は大きく、その犠牲は無視すべきでない。IOCには、選手への社会的配慮を保証する、道義的義務がある」

と訴えた。
さらには、近代五輪が誕生したときからの最大の課題、スポーツを通じて報酬を得る選手(いうなればプロ)の五輪参加を認めるかどうかのアマチュア問題を一刀両断していった。

そしてコーのスピーチは、IOC内部に選手委員会の創設をももたらし、コー自身が初代委員長になった。
選手には、現場で何が起きているかを一番良く知っている。
だから、現在は選手が互選した者が、IOCの委員にもなり、選手委員長はIOCの理事も務めている。

バーデンバーデンのIOCコングレスで選出されたIOC選手委員の初代メンバーがこの5人である。

キプチョゲ・ケイノ(ケニヤ)陸上競技金・銀メダリスト
スベトラーナ・オツェトバ(ブルガリア)ボート金メダリスト
トーマス・バッハ(ドイツ)フェンシング金メダリスト 現IOC会長
セバスチャン・コー(イギリス)陸上競技金・銀メダリスト 
ピーター・タルバーグ(フィンランド)ヨット選手

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January 03, 2019

大河ドラマ「いだてん」主人公 日本初の五輪選手金栗四三

今年の箱根駅伝は東海大が優勝し、最優秀選手の小松陽平(3年)に金栗四三杯が贈呈された。
金栗四三は、NHK大河ドラマいだてんの主人公のひとりで、日本初の五輪選手として知られているが、箱根駅伝の誕生に尽力し、2004年から最優秀選手に金栗の名を冠した賞が贈られている。
 
近代五輪の第1回が行われたのが1896年。
日本が初めて五輪に参加したのは、その16年後の1912年、第5回ストックホルム五輪である。
最初の日本選手団はたったの4名だった。
柔道の創始者として知られる嘉納治五郎・大日本体育協会(日本体協の前身)会長、大森兵蔵同総務理事を役員に、選手は陸上短距離の三島弥彦(東大)とマラソンの金栗四三(東京高師=現筑波大)の2人だけだった。
ストックホルムと言えばスウェーデンの首都。
仮に今年ストックホルムで五輪開催となれば、日本選手団はチャーター便でひとっ飛び…となるところだが、1912年当時、彼ら選手団はどうやって移動したのだろうか。
ちなみに、ライト兄弟の世界初の動力飛行成功が1903年のことである。
そのわずか9年後となれば、当然、日本からヨーロッパへの移動に飛行機が浸透しているわけもなく、鉄道か船を利用するしかなかった。

三島・金栗の両選手は、自腹でストックホルムに向かっている。
まず5月16日に新橋駅を出発し、敦賀から船でウラジオストクへ向かう。そしてシベリア鉄道でサンクトペテルブルクまで行き、さらに船に乗ってようやくストックホルムに到着。かかった時間、実に18日間。
短距離選手の三島はまず100m予選に出場し、最下位で落選。
続く200m予選も敗退した。
3種目目の400m予選では、3人が棄権したため、2位で準決勝に進出を果たしたが、疲労のため結局棄権した。

一方、マラソン代表の金栗は、当時のマラソン世界記録保持者だったが、32キロ地点で日射病のために倒れ、民家で一晩介抱された。
当時は極東から来た選手が行方不明になったと話題になり、時の人にもなっている。

ちなみに金栗には、後日こんなエピソードがある。五輪開催から55年後の1967年、ストックホルム市は五輪開催55周年記念祭を開き、「消えた日本人」こと金栗老人を招待した。
76歳になっていた金栗は、かつてのゴール地点に案内されて10m手前から走ってゴールする。
そこに場内放送が流れた。
「第5回ストックホルム五輪マラソン競技は完全に終了しました」
タイムは、54年と8ヶ月6日5時間37分20秒3
その後の会見で、金栗老人はこんな素晴らしいスピーチを披露した。

「長い道中でした。途中で孫が5人もできました。」

Stockholmphoto

▲旗手は三島弥彦。金栗四三は「NIPPON」と書かれたプラカードを持つが、日章旗に隠れてしまっている。

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December 25, 2018

8年後に五輪復帰した銀盤の女王カタリーナ・ビット

全日本フィギュアで2位に入った高橋大輔が世界選手権を辞退するそうだ。
32歳になった高橋の姿を見たいファンも世界中にいるだろうと思うと残念な気もする。

かつての五輪金メダリストがアマチュアを引退後、時を経て復帰、再び五輪の舞台に戻ってきたケースもある。

2018年の冬季五輪の開催地を平昌と争ったのがドイツのミュンヘン。
韓国は、平昌の顔に金妍児を前面に押し出したのに対し、ミュンヘンはカタリーナ・ビットで対抗。
招致争いは、新旧フィギュアの女王対決と呼ばれた。

カタリーナ・ビットは、1965年12月3日 旧東ドイツ・シュターケン生まれのフィギュアスケート選手である。
五輪2連覇、世界選手権4回優勝など、史上最も成功したスケーターの一人だ。

●カタリーナ・ビットの主な戦績
1984年サラエボ五輪   フィギュアスケート女子 金メダル
1988年カルガリー五輪  フィギュアスケート女子 金メダル
1994年リレハンメル五輪 フィギュアスケート女子 7位
世界選手権金メダル   1984・85・87・88年
世界選手権銀メダル   1982・86年

冬季五輪の女子フィギュアは、五輪の全ての競技の中でも、最も注目を集める種目といっても過言ではない。
 
五輪のフィギュアスケートは、1908年から正式種目に加えられている。
といっても、冬季五輪の第1回・シャモニー大会は1924年であり、初期は、夏季五輪の種目だった。
この長い歴史の中で、女子で連続優勝したのは、ビット以外には1928年から3連覇したノルウェーのソニア・へニーしかいない。
連覇が難しいのは、この競技の特殊性にある。
五輪の金メダルは、プロ入りのまたとない格付けになるからである。
五輪2連覇を果たし、プロ転向後再び五輪の銀盤に現れた、それがビットであった。

1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊するまで、カタリーナ・ビットは東ドイツの「顔」だった。
ミスのない演技。
サイボーグのように鍛え上げられた肉体。
端正な顔に浮かべられた勝つことを疑わない笑み。
西側のメディアはビットを「社会主義の最も美しい顔」と呼んだ。

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1998年 PlayBoy誌に登場したときのカタリーナ・ビット

カルガリー五輪金メダルの後、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長は、祖国功労大勲章でビットを迎え、彼女は東ドイツ選手として初の「プロ」になった。
サラエボ、カルガリーと五輪2連覇の実績、妖艶にして聡明さもうかがわせる容姿。
東ドイツのスポーツ界だけでなく、ホーネッカー議長に気に入られ、プロパガンダとして政治の舞台に上がることも多くなっていった。

東ドイツは五輪を、社会主義国家の優位性を示す国際舞台と位置付けていたのはご存知の通りだ。
金メダルを獲得した者には、報奨金などの多くの恩恵が与えられていた。
事実、ビットもいくつかの特別待遇を受けた。
月々の手当に、勝てばボーナスが加わった。
18歳で運転免許をとると、すぐに車が購入できた。 
国際大会は食物持参で参加をした。
競技会の主催者から支給される食費をため、東ベルリンの外貨用高級デパートで買い物をした。
ささやかではあるが、物々交換が当たり前の庶民には、民主化によって批判の対象となっていったのである。

1990年、東西ドイツが統一された。
スパイ疑惑、ドーピング(禁止薬物使用)疑惑、大衆紙による男性関係の話題。
気がつけば、元「特権階級」のビットはスキャンダルとゴシップにおぼれそうだった。
自らの真情を繰り返し訴えるしか、対する道はないと思われた。
そんな中「プロ転向後も1回だけ、五輪出場を許可する」というISUの決定が、ビットを五輪に戻した。
 
1994年リレハンメル五輪、金メダルはウクライナの16歳、オクサナ・バイウルに決まっていた中、ビットはフリー最後の選手として銀盤に立った。
鮮やかな赤いコスチュームは血の色を表す。
曲は「花はどこへいった」。ヒトラーを嫌って米国へ逃れたドイツ女優マルレーネ・ディートリヒが歌った反戦歌である。
3回転ジャンプは2回しかない。
代わりに、舞う指先の1本1本へ、戦禍に苦しむサラエボへ平和の祈りを込めた。
この1994年当時は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っ只中であった。
ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力が、丘の上に陣取ってサラエボを包囲していたのだ。
1984年 サラエボで最初の金メダルを獲ったビットにとって、思いでの地が血にそまっていることに耐えられなかったのだろう。

7位

順位を示す得点表示板へ、ハーマル円形競技場を埋めた6,000人の観客席からブーイングが飛んだ。
銀盤を渦巻いたファンの声はそのまま、ビットの演技をたたえる声に変わった。
この瞬間は、サラエボの犠牲者に対する祈りによる開会式で始まったリレハンメル五輪の、ハイライトだったと記憶している。

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October 31, 2018

東京オリンピックの開会式の日に行われていた日本シリーズ

1964 Tokyo

2020年の東京五輪は、7月24日から8月9日まで開催される。
その間、プロ野球の公式戦は行われない。
しかも横浜スタジアムは五輪正式種目に復帰する野球の競技場になっているほか、神宮球場は組織委員会が70日間に渡って借り上げることが決まっている。

これだけ大規模なペナントレースの中断は初めてと言われている。

では、1964年の東京五輪の際に、プロ野球はどうしたのか。

1964年、五輪開催に合わせてプロ野球のシーズンは日程が繰り上げられた。
つまり通常のシーズンよりも早く終了したわけだ。

当初、9月29日に日本シリーズが開幕する予定だったが、阪神が優勝目前にもたもたし、9月30日に優勝が決まり、2日遅れて10月1日に日本シリーズ開幕となった。
さらに、7戦までもつれたシリーズの6戦目の予定されていた10月8日が雨天中止となり、第7戦はなんと東京五輪開会式の当日 10月10日に行われている。

パリーグの覇者は南海ホークス。
福岡ソフトバンクホークスの前身であり、大阪難波にあった大阪球場を本拠地にしていた。

1・2・6・7戦が甲子園、3・4・5戦が大阪球場での試合となったが、東京五輪を考えての編成だろうか、全試合ナイターで行われた。

10月10日の夜、興奮冷めやらぬNHKを始めとするテレビ各局は、昼間の東京五輪開会式の再放送をし、日本シリーズの中継は関西ローカルの読売テレビでしか行われていない。

日本一が決まる甲子園の試合であるにも関わらず有料入場者は15,172人。
結局4勝3敗で南海が日本一になった。

最優秀選手は南海の投手だったスタンカ(3勝1敗)。
一方の阪神のエースだった村山実氏は0勝3敗。
南海の4番は野村克也氏。
南海の選手の中には大沢啓二氏の名前も見える。

この年のペナントレースでは、巨人の王貞治氏が55本のシーズン最多ホームランを打っているが、巨人は早々に優勝争いから脱落した。
王さんは、長嶋茂雄氏と報知新聞の「ON五輪を行く」という取材で、様々な競技会場に取材に出かけた。

長嶋氏の亡くなった亜希子夫人は、東京五輪のコンパニオンを務めており、この取材がなければ二人は出会わなかったことになる。

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November 23, 2017

ジンバブエのムガベ大統領が辞任 思い出すのはやっぱりこの金メダル

ジンバブエのロバート・ムガベ大統領が21日、辞任した。37年間にわたり政権の座にあった同氏の退陣を受けて、喜びをあらわにする国民の姿が各地で見られた。

ジンバブエと言えばカースティ・コベントリー
16歳(シドニー)から32歳(リオデジャネイロ)まで5回の五輪に出場し、金メダル2、銀メダル4、銅メダル1個を獲った大選手だ。

1964年の東京五輪を調べていくと、知られざることがいくつも出て来る。
例えば、イギリス領北ローデシアは、閉会式の日にあたる1964年10月24日(日本時間では同日午前7時)にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。
選手村の国旗なども、同日をもって新国旗に付け替えられたという。

北ローデシアの隣国、イギリス領南ローデシアは、東京五輪にはローデシアとして参加し、ホッケー(当時は男子のみ)などに選手を送ってきている。
南ローデシアは、1965年に白人政権によるローデシア共和国として、イギリスから一方的に独立するが、国際社会からは認められずに、1968年から1976年までの五輪には参加していない。
このあたりは、1964年から1988年まで五輪から締め出されていた南アフリカと同様だ。

ローデシアは、1980年にジンバブエとして独立し、国際舞台に復帰するのだが、ローデシア政府によって投獄されていて、ジンバブエ独立後の選挙で勝利したのが、今回、大統領を辞したロバート・ムガベ氏。
1980年当時、南アフリカにおけるネルソン・マンデラ氏のような、新国家の象徴としてもてはやされていた。
このムガベ氏が、37年間に渡り政権の座にあり独裁政権を継続してきたということだ。

1980年のモスクワ五輪 ご存知のように日本、米国、西ドイツ、韓国などがボイコットした大会だが、この大会から正式種目として女子のホッケーが採用された。

女子ホッケーは6か国で争われる予定だったが、豪州やオランダは五輪には参加したが、女子ホッケーは不参加を決め、五輪開幕35日前、1980年6月14日にジンバブエ女子代表が急遽出場することになる。
ホッケーの競技は、モスクワのディナモ・マイナー・アリーナ。
現在では、当たり前の人工芝の競技場もジンバブエ代表にとっては初めての体験であり、相応しいシューズも持っていなかった。

ところが、
初戦のポーランドに4-0で勝つと、2戦目のチェコスロバキアには2-2で引き分け。
地元ソ連を2-0で下すと、インドには1-1。
最終戦に4-1で勝利し金メダルを獲得した。

わずか6か国しか参加していなかったとはいえ、総当たりで1度も負けていない。

勝利したホッケー選手はすぐにジンバブエの記者たちによって「ゴールデン・ガールズ」と呼ばれた。
日本でも、ジンバブエという耳になじみのない国の金メダルは興味を持って報じられ、朝日新聞の社会面の見出しを飾った。
その内容は、白人主導の国が倒れ、新たな国が生まれ、その年の五輪で金メダルを獲ったことを絶賛する内容だった。

チームのジンバブエへの帰国時には、大勢の人々に出迎えられ、国家的有名人になった。
当時首相になったばかりのロバート・モガブは自宅に招いて彼女らを歓迎した。
首相の妻サリーは、選手には牛を贈る約束をしたが、実際にはポリスチレンに包装された肉を贈った。

モスクワ五輪でのジンバブエ・ホッケーチームの金メダルを、スポーツの歴史研究科は、「おとぎ話」や「魅力のない妖精物語」と呼び、ボイコット騒動によって、競技のレベルが下がり、思いがけない国がメダルを手にした象徴と評価している。
イギリスの高級紙The Sunday Timesは、「1980年のモスクワの多くの選手と同様に、彼女らはチャンスをつかんだ」と結論づけている。

ジンバブエがこれまでの五輪で獲得したメダルは8個
1980年の女子ホッケーの金メダルのほかは、先述のカースティ・コベントリーが競泳で獲った7個のみ。
モガブ大統領の独裁は、スポーツに予算を回さなかったのだ。

▼全員白人のジンバブエ代表
https://www.youtube.com/watch?

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November 06, 2017

1964年の東京オリンピックは1兆円をかけた

1964年東京五輪は、「1兆円オリンピック」と呼ばれた。
というのも、大会運営費、競技施設の整備費、インフラ整備という大きな3つの支出を合計する9873億6300 万円となり、1 兆円に近い費用がかかっているからだ。
もちろん、インフラ整備などは、五輪開催がたとえなかったとしても計画されていたものであり、たまたま五輪開催に間に合わせたに過ぎない。
こうした途上国型の五輪開催例は、ソウル大五輪、北京五輪でも見られた。

ちなみに東京五輪当時の国家予算はおよそ3兆2554億円。
インフラ整備は何年もかかって施されたものであるが、国家予算の約3分の1に近い巨額の事業費が五輪に投じられたことになる。

この当時の日本のGDPが29兆5000億円であり、GDP比で3.7%が東京五輪に費やされている。
以下の表では、東京、ソウル、シドニー、アテネ、北京、ロンドン、そして冬季五輪ながら最も史上最も経費を掛けたと言われるソチ、来年2月開幕の平昌五輪を表にしてみた。

Gdp2

アテネ五輪がギリシャの経済規模を超えたものであったことは明白だ。
五輪開催経費はGDP比1%が適当と言われている。
1964年の東京や、1988年のソウルは明らかに費用をかけ過ぎたが、高度経済成長期だったため問題なく通り過ぎた。
が、ソチ五輪を開催したロシア。
GDP比率は2.5%を超えた。
巨額の投資をしたソチと同じことはできない。
ソチ以降の冬季五輪開催に前向きだった欧州の都市を萎縮させ、2022年冬季五輪の開催地争いは北京とアルマトイの一騎打ちとなり、北京が勝利した。

平昌五輪のメイン会場は、平昌五輪スタジアム。
635億ウォン(約1200億ウォンという説もある)かけて、今年の9月末に竣工したが、仮設で、五輪の開会式、閉会式とパラリンピックの開会式、閉会式の4日間のためだけに使用される。
そのため「使用料が1日158億ウォン」と揶揄されている。
屋根も壁もないらしいが、平昌は雪が降らないから良いのだろうか?

●最近の冬季五輪メインスタジアム
2018年 平昌オリンピックスタジアム(仮設)
2014年 ソチオリンピックスタジアム(サッカーロシアW杯の会場)
2010年 BCプレイス(人工芝の球技場)
2006年 スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノ(サッカー場)
2002年 ライス・エクルズ・スタジアム(ユタ大学所有の球技場)
1998年 長野オリンピックスタジアム(野球場)

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October 23, 2017

村田諒太 日本人初 五輪金メダリストからプロ世界王者

世界ボクシング協会(WBA)ミドル級では2012年ロンドン五輪金メダルの村田諒太(帝拳)が王者アッサン・エンダム(フランス)に7回終了TKO勝ちし、新王者となった。日本選手初の五輪メダリストのプロ世界王者と、2人目のミドル級王座獲得を果たした。


五輪のボクシング(男子)は1904年セントルイス五輪から実施されている。
現在はライトフライ級からスーパーヘビー級までの10階級に分かれているほか、19歳から40歳までという年齢制限も存在する。

1928年以来77人の日本人選手が五輪に参加しているが、メダルを獲ったのは5人。
ローマ五輪でフライ級の田辺清氏が銅メダル、東京五輪の桜井孝雄さん(故人)がバンタム級で金メダル、さらにメキシコ五輪の森岡栄治さん(故人 バンタム級)銅メダルの3選手以降随分間があったが、前回のロンドン五輪でミドル級 村田諒太が金メダル、バンタム級の清水聡が銅メダルを獲った。

村田はロンドン後プロ入りし、清水はアマでリオ五輪を目指していたが、参加の道を断たれこの2016年にプロ入りした。

五輪に出場したボクサーが、プロ転向後世界王者になった選手は村田で4人目、金メダリストでは初の世界王者だ。

●五輪に出場後プロ入りした主なボクサー
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October 22, 2017

大谷翔平よりも凄い?二刀流①

1964年の東京五輪陸上男子100m金メダルのボブ・ヘイズは、五輪後NFLのダラス・カウボーイズに入り、1971年にスーパーボウルで優勝した。
長い五輪史の中で、金メダルとSB・リングを獲得したのはヘイズひとり。
東京五輪金メダルタイムは10秒0だが、電子計時で10秒06、準決勝は追い風ながら9.91で走っている。

1984年のロス五輪井苦情男子砲丸投げで銀メダルを獲ったマイケル•カーターは、同じ年NFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズに入団。
なんとその年のスーパーボウルで優勝している。ボブ・ヘイズには及ばないが、五輪メダルとスーパーボウル優勝を同一年に成し遂げた唯一の選手。
なおNFLのドラフトはロス五輪の直前にあった。

ディオン・サンダースは野球のマイナーリーグにいた89年6月にNFLファルコンズから一巡目指名、その後MLB昇格し、本塁打を打った週にファルコンズに入団、開幕戦でタッチダウンを記録した。
同じ週に本塁打とTDを記録した唯一の選手。さらにワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手。

1988年カルガリー五輪のスピードスケートで500m銀、1000mで金メダルを獲ったC・ローテンブルガー(東独)は、同じ1988年のソウル五輪 自転車女子スプリントで銀メダルを獲得した。
現在、夏季・冬季五輪は異なる年に開催されており、同年の冬夏両五輪でのメダル獲得はあり得ない。

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August 23, 2017

アトランタ五輪の日本記録から21年、かつては世界に近かったマイルリレー

是非見て頂きたい動画がある。
2014年仁川アジア大会の陸上男子1600m(マイル)リレーだ。
日本チームは4大会ぶりの金メダルだったが、タイムは3分1秒88。

このときのメンバーが( 金丸祐三、藤光謙司、飯塚翔太、加藤修也)の4名。
先のロンドン世界陸上の4継銅メダルのメンバーのうち藤光、飯塚が入っているのだ。

200mのスペシャリストとして知られる飯塚は、この仁川のレースの40分前に4継の決勝も走った。
こちらは38秒49で、中国に次いで2位に入っている。

●2014年仁川アジア大会
マイルリレー
予選(金丸、藤光、高平、加藤)3分5秒53
決勝1位(金丸、藤光、飯塚、加藤)3分1秒88
4継リレー
予選(山県、飯塚、高平、原)39秒18
決勝2位(山県、飯塚、高平、高瀬)38秒49

このマイルリレーの3分1秒88だが、日本歴代9位の記録でしかない。
日本記録は21年前のアトランタ五輪5位入賞の際の3分00秒76。
歴代2位は、2004年アテネ五輪4位入賞の際の3分00秒99。
この時代は、4継よりもマイルの方が世界に近かったのだ。

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まだ記憶にも新しいロンドン世界陸上のマイルリレーは歴史的惨敗といってもいいだろう。
準決勝2組で3分07秒29。
1人平均46秒8
転倒したボツワナにも負けただけでなく、金丸祐三が持つ日本高校記録45秒47からも遠い。

アトランタ五輪のメンバーの本来の専門は
苅部俊二 400ハードル
伊東浩司 100、200m
小坂田淳 400m
大森盛一 400m
であり、400mが本職だったのは2名のみ。
ちなみに大森盛一さんというのは、サニブラウンの少年時代のコーチをされていた方だ。
サニブラウンも飯塚翔太も400mに向いていると思うのだが、マイルリレーも走って欲しい。

日本歴代3分01秒26は、1991年の東京世界陸上の予選で出したもの。
予選1組4位、全体でも9位で決勝には進めなかった。
この記録がマイルリレーの国内最高記録として現在も残っている。
破る可能性があるのは2020年の東京五輪だろうが、果たして誰がメンバーだろうか。

(追記)
もう随分昔の話だが、1984年のロサンゼルス五輪での日本チームのマイルリレーはこんなメンバーだった。

大森重宜、高野進、不破弘樹、吉田良一

本職の400mの選手は高野さんのみ。
大森、吉田は400ハードル、不破は100mの選手だ。

当時は予選、準決勝、決勝と3回走ったのだ。
それでも日本チームは準決勝までいった。が、3分10秒73という歴史に残る記録を作った。
不破弘樹は50秒かかって走り、「運動会みたいだ」といわれた。

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May 08, 2017

陸上100mのはなし② レースに遅刻したアメリカ選手たち

2007年11月。元陸上選手のロバート・テイラーが59歳という若さで亡くなった。
このテイラーが出場したミュンヘンオリンピックの100メートルは、歴史に残る迷レースであった。
なんと、優勝候補と目されていたアメリカの2選手が、召集時間に遅刻をしたのだ。
一体彼らに何があったのか。事の顛末はこうだ。

100メートルの2次予選は、8月21日午後4時15分に始まる予定だった。ところが、競技時間が近づいても、アメリカチームはスタジアムにやってこない。
エントリーしていた選手は、ロバート・テイラー、エドワード・ハート、レイナード・ロビンソンの3人。
彼らのコーチ・スタンライトは、オリンピックの18ヵ月も前に作られたスケジュール表に書かれていた「2次予選・午後7時スタート」を選手に伝えていた。
その後、時間が変吏になったことなどつゆ知らず、4人はスタジアム行きのバスを、ABCテレビの本部の中で待っていたというわけである。
本部の中では、100メートルの競技会場の映橡が流れていた。これが彼らがこれから走るスタジアムだ。スタートラインには続々と選手たちがついていく。
彼らは4人とも、この様子を1次予選の録画だと思っていた。
ところが映像は録画ではなく、2次予選の生中継だとABCのスタッフから伝えられると、選手たちの顔が一斉に青ざめた。
1組目で走るレイナード・ロビンソンはまさに今、この映像の中でスタートラインについていなくてはならなかったのだ。
4人は大慌てでスタジアムに向かうものの、到着した時には、既に2組目のレースまで終わってしまっていた。
1組のロビンソンと2組のハートは、遅刻で失格となってしまった。
3組目のテイラーは急いで準備をし、スタートラインになんとか滑り込むことができた。
2次予選、準決勝をなんとか勝ち抜いたテイラーは、決勝で10秒24というタイムで銀メダルを獲得した。

1972
▲このレースの途中で走るのをやめた3コースのクロフォードは、4年後のモントリオール五輪でボルゾフに勝って金メダルを獲るのだが、詳しくは別の機会に。

この時優勝したのは、ソ連のヴァレリー・ボルゾフ。タイムは10秒14。
平凡なタイムのボルソフの金メダルは[タナボタ]などとアメリカのマスコミに郷楡された。
ところが、ボルソフは、続く200メートルで当時のシーズンベストである20秒00という好タイムで優勝し、マスコミを黙らせた。
さらに4年後の1976年モントリオールオリンピックでも100メートルで銅メダルを獲得し、「ソビエト最高の精密機械」、「研究室から生まれた金メダリスト」などと呼ばれた、陸上史に残る名ランナーだ。

PHOTO:上は 100m決勝の様子。
下は、夫人であるミュンヘン五輪女子体操個人総合金メダリストリュドミラ・ツリシュチョワと子供と写った写真。
夫妻はともにウクライナ人。
ボルゾフは初代ウクライナ五輪委員会の会長を務めた。
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