オリンピックの記憶

November 06, 2017

1964年の東京オリンピックは1兆円をかけた

1964年東京五輪は、「1兆円オリンピック」と呼ばれた。
というのも、大会運営費、競技施設の整備費、インフラ整備という大きな3つの支出を合計する9873億6300 万円となり、1 兆円に近い費用がかかっているからだ。
もちろん、インフラ整備などは、五輪開催がたとえなかったとしても計画されていたものであり、たまたま五輪開催に間に合わせたに過ぎない。
こうした途上国型の五輪開催例は、ソウル大五輪、北京五輪でも見られた。

ちなみに東京五輪当時の国家予算はおよそ3兆2554億円。
インフラ整備は何年もかかって施されたものであるが、国家予算の約3分の1に近い巨額の事業費が五輪に投じられたことになる。

この当時の日本のGDPが29兆5000億円であり、GDP比で3.7%が東京五輪に費やされている。
以下の表では、東京、ソウル、シドニー、アテネ、北京、ロンドン、そして冬季五輪ながら最も史上最も経費を掛けたと言われるソチ、来年2月開幕の平昌五輪を表にしてみた。

Gdp2

アテネ五輪がギリシャの経済規模を超えたものであったことは明白だ。
五輪開催経費はGDP比1%が適当と言われている。
1964年の東京や、1988年のソウルは明らかに費用をかけ過ぎたが、高度経済成長期だったため問題なく通り過ぎた。
が、ソチ五輪を開催したロシア。
GDP比率は2.5%を超えた。
巨額の投資をしたソチと同じことはできない。
ソチ以降の冬季五輪開催に前向きだった欧州の都市を萎縮させ、2022年冬季五輪の開催地争いは北京とアルマトイの一騎打ちとなり、北京が勝利した。

平昌五輪のメイン会場は、平昌五輪スタジアム。
635億ウォン(約1200億ウォンという説もある)かけて、今年の9月末に竣工したが、仮設で、五輪の開会式、閉会式とパラリンピックの開会式、閉会式の4日間のためだけに使用される。
そのため「使用料が1日158億ウォン」と揶揄されている。
屋根も壁もないらしいが、平昌は雪が降らないから良いのだろうか?

●最近の冬季五輪メインスタジアム
2018年 平昌オリンピックスタジアム(仮設)
2014年 ソチオリンピックスタジアム(サッカーロシアW杯の会場)
2010年 BCプレイス(人工芝の球技場)
2006年 スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノ(サッカー場)
2002年 ライス・エクルズ・スタジアム(ユタ大学所有の球技場)
1998年 長野オリンピックスタジアム(野球場)

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November 01, 2017

東京オリンピックの開会式の日に行われていた日本シリーズ

1964 Tokyo

2020年の東京五輪は、7月24日から8月9日まで開催される。
その間、プロ野球の公式戦は行われない。
しかも横浜スタジアムは五輪正式種目に復帰する野球の競技場になっているほか、神宮球場は組織委員会が70日間に渡って借り上げることが決まっている。

これだけ大規模なペナントレースの中断は初めてと言われている。

では、1964年の東京五輪の際に、プロ野球はどうしたのか。

1964年、五輪開催に合わせてプロ野球のシーズンは日程が繰り上げられた。
つまり通常のシーズンよりも早く終了したわけだ。

当初、9月29日に日本シリーズが開幕する予定だったが、阪神が優勝目前にもたもたし、9月30日に優勝が決まり、2日遅れて10月1日に日本シリーズ開幕となった。
さらに、7戦までもつれたシリーズの6戦目の予定されていた10月8日が雨天中止となり、第7戦はなんと東京五輪開会式の当日 10月10日に行われている。

パリーグの覇者は南海ホークス。
福岡ソフトバンクホークスの前身であり、大阪難波にあった大阪球場を本拠地にしていた。

1・2・6・7戦が甲子園、3・4・5戦が大阪球場での試合となったが、東京五輪を考えての編成だろうか、全試合ナイターで行われた。

10月10日の夜、興奮冷めやらぬNHKを始めとするテレビ各局は、昼間の東京五輪開会式の再放送をし、日本シリーズの中継は関西ローカルの読売テレビでしか行われていない。

日本一が決まる甲子園の試合であるにも関わらず有料入場者は15,172人。
結局4勝3敗で南海が日本一になった。

最優秀選手は南海の投手だったスタンカ(3勝1敗)。
一方の阪神のエースだった村山実氏は0勝3敗。
南海の4番は野村克也氏。
南海の選手の中には大沢啓二氏の名前も見える。

この年のペナントレースでは、巨人の王貞治氏が55本のシーズン最多ホームランを打っているが、巨人は早々に優勝争いから脱落した。
王さんは、長嶋茂雄氏と報知新聞の「ON五輪を行く」という取材で、様々な競技会場に取材に出かけた。

長嶋氏の亡くなった亜希子夫人は、東京五輪のコンパニオンを務めており、この取材がなければ二人は出会わなかったことになる。

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October 23, 2017

村田諒太 日本人初 五輪金メダリストからプロ世界王者

世界ボクシング協会(WBA)ミドル級では2012年ロンドン五輪金メダルの村田諒太(帝拳)が王者アッサン・エンダム(フランス)に7回終了TKO勝ちし、新王者となった。日本選手初の五輪メダリストのプロ世界王者と、2人目のミドル級王座獲得を果たした。


五輪のボクシング(男子)は1904年セントルイス五輪から実施されている。
現在はライトフライ級からスーパーヘビー級までの10階級に分かれているほか、19歳から40歳までという年齢制限も存在する。

1928年以来77人の日本人選手が五輪に参加しているが、メダルを獲ったのは5人。
ローマ五輪でフライ級の田辺清氏が銅メダル、東京五輪の桜井孝雄さん(故人)がバンタム級で金メダル、さらにメキシコ五輪の森岡栄治さん(故人 バンタム級)銅メダルの3選手以降随分間があったが、前回のロンドン五輪でミドル級 村田諒太が金メダル、バンタム級の清水聡が銅メダルを獲った。

村田はロンドン後プロ入りし、清水はアマでリオ五輪を目指していたが、参加の道を断たれこの2016年にプロ入りした。

五輪に出場したボクサーが、プロ転向後世界王者になった選手は村田で4人目、金メダリストでは初の世界王者だ。

●五輪に出場後プロ入りした主なボクサー
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October 22, 2017

大谷翔平よりも凄い?二刀流①

1964年の東京五輪陸上男子100m金メダルのボブ・ヘイズは、五輪後NFLのダラス・カウボーイズに入り、1971年にスーパーボウルで優勝した。
長い五輪史の中で、金メダルとSB・リングを獲得したのはヘイズひとり。
東京五輪金メダルタイムは10秒0だが、電子計時で10秒06、準決勝は追い風ながら9.91で走っている。

1984年のロス五輪井苦情男子砲丸投げで銀メダルを獲ったマイケル•カーターは、同じ年NFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズに入団。
なんとその年のスーパーボウルで優勝している。ボブ・ヘイズには及ばないが、五輪メダルとスーパーボウル優勝を同一年に成し遂げた唯一の選手。
なおNFLのドラフトはロス五輪の直前にあった。

ディオン・サンダースは野球のマイナーリーグにいた89年6月にNFLファルコンズから一巡目指名、その後MLB昇格し、本塁打を打った週にファルコンズに入団、開幕戦でタッチダウンを記録した。
同じ週に本塁打とTDを記録した唯一の選手。さらにワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手。

1988年カルガリー五輪のスピードスケートで500m銀、1000mで金メダルを獲ったC・ローテンブルガー(東独)は、同じ1988年のソウル五輪 自転車女子スプリントで銀メダルを獲得した。
現在、夏季・冬季五輪は異なる年に開催されており、同年の冬夏両五輪でのメダル獲得はあり得ない。

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August 23, 2017

アトランタ五輪の日本記録から21年、かつては世界に近かったマイルリレー

是非見て頂きたい動画がある。
2014年仁川アジア大会の陸上男子1600m(マイル)リレーだ。
日本チームは4大会ぶりの金メダルだったが、タイムは3分1秒88。

このときのメンバーが( 金丸祐三、藤光謙司、飯塚翔太、加藤修也)の4名。
先のロンドン世界陸上の4継銅メダルのメンバーのうち藤光、飯塚が入っているのだ。

200mのスペシャリストとして知られる飯塚は、この仁川のレースの40分前に4継の決勝も走った。
こちらは38秒49で、中国に次いで2位に入っている。

●2014年仁川アジア大会
マイルリレー
予選(金丸、藤光、高平、加藤)3分5秒53
決勝1位(金丸、藤光、飯塚、加藤)3分1秒88
4継リレー
予選(山県、飯塚、高平、原)39秒18
決勝2位(山県、飯塚、高平、高瀬)38秒49

このマイルリレーの3分1秒88だが、日本歴代9位の記録でしかない。
日本記録は21年前のアトランタ五輪5位入賞の際の3分00秒76。
歴代2位は、2004年アテネ五輪4位入賞の際の3分00秒99。
この時代は、4継よりもマイルの方が世界に近かったのだ。

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まだ記憶にも新しいロンドン世界陸上のマイルリレーは歴史的惨敗といってもいいだろう。
準決勝2組で3分07秒29。
1人平均46秒8
転倒したボツワナにも負けただけでなく、金丸祐三が持つ日本高校記録45秒47からも遠い。

アトランタ五輪のメンバーの本来の専門は
苅部俊二 400ハードル
伊東浩司 100、200m
小坂田淳 400m
大森盛一 400m
であり、400mが本職だったのは2名のみ。
ちなみに大森盛一さんというのは、サニブラウンの少年時代のコーチをされていた方だ。
サニブラウンも飯塚翔太も400mに向いていると思うのだが、マイルリレーも走って欲しい。

日本歴代3分01秒26は、1991年の東京世界陸上の予選で出したもの。
予選1組4位、全体でも9位で決勝には進めなかった。
この記録がマイルリレーの国内最高記録として現在も残っている。
破る可能性があるのは2020年の東京五輪だろうが、果たして誰がメンバーだろうか。

(追記)
もう随分昔の話だが、1984年のロサンゼルス五輪での日本チームのマイルリレーはこんなメンバーだった。

大森重宜、高野進、不破弘樹、吉田良一

本職の400mの選手は高野さんのみ。
大森、吉田は400ハードル、不破は100mの選手だ。

当時は予選、準決勝、決勝と3回走ったのだ。
それでも日本チームは準決勝までいった。が、3分10秒73という歴史に残る記録を作った。
不破弘樹は50秒かかって走り、「運動会みたいだ」といわれた。

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May 08, 2017

陸上100mのはなし② レースに遅刻したアメリカ選手たち

2007年11月。元陸上選手のロバート・テイラーが59歳という若さで亡くなった。
このテイラーが出場したミュンヘンオリンピックの100メートルは、歴史に残る迷レースであった。
なんと、優勝候補と目されていたアメリカの2選手が、召集時間に遅刻をしたのだ。
一体彼らに何があったのか。事の顛末はこうだ。

100メートルの2次予選は、8月21日午後4時15分に始まる予定だった。ところが、競技時間が近づいても、アメリカチームはスタジアムにやってこない。
エントリーしていた選手は、ロバート・テイラー、エドワード・ハート、レイナード・ロビンソンの3人。
彼らのコーチ・スタンライトは、オリンピックの18ヵ月も前に作られたスケジュール表に書かれていた「2次予選・午後7時スタート」を選手に伝えていた。
その後、時間が変吏になったことなどつゆ知らず、4人はスタジアム行きのバスを、ABCテレビの本部の中で待っていたというわけである。
本部の中では、100メートルの競技会場の映橡が流れていた。これが彼らがこれから走るスタジアムだ。スタートラインには続々と選手たちがついていく。
彼らは4人とも、この様子を1次予選の録画だと思っていた。
ところが映像は録画ではなく、2次予選の生中継だとABCのスタッフから伝えられると、選手たちの顔が一斉に青ざめた。
1組目で走るレイナード・ロビンソンはまさに今、この映像の中でスタートラインについていなくてはならなかったのだ。
4人は大慌てでスタジアムに向かうものの、到着した時には、既に2組目のレースまで終わってしまっていた。
1組のロビンソンと2組のハートは、遅刻で失格となってしまった。
3組目のテイラーは急いで準備をし、スタートラインになんとか滑り込むことができた。
2次予選、準決勝をなんとか勝ち抜いたテイラーは、決勝で10秒24というタイムで銀メダルを獲得した。

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▲このレースの途中で走るのをやめた3コースのクロフォードは、4年後のモントリオール五輪でボルゾフに勝って金メダルを獲るのだが、詳しくは別の機会に。

この時優勝したのは、ソ連のヴァレリー・ボルゾフ。タイムは10秒14。
平凡なタイムのボルソフの金メダルは[タナボタ]などとアメリカのマスコミに郷楡された。
ところが、ボルソフは、続く200メートルで当時のシーズンベストである20秒00という好タイムで優勝し、マスコミを黙らせた。
さらに4年後の1976年モントリオールオリンピックでも100メートルで銅メダルを獲得し、「ソビエト最高の精密機械」、「研究室から生まれた金メダリスト」などと呼ばれた、陸上史に残る名ランナーだ。

PHOTO:上は 100m決勝の様子。
下は、夫人であるミュンヘン五輪女子体操個人総合金メダリストリュドミラ・ツリシュチョワと子供と写った写真。
夫妻はともにウクライナ人。
ボルゾフは初代ウクライナ五輪委員会の会長を務めた。
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June 09, 2016

オリンピックのサッカーの影を薄くするEURO

面白い資料がある。
AP通信による2004年のスポーツ10大ニュースだ。

オリンピックイヤーのこの年、1位になったのは「サッカーEURO2004 ギリシャ初制覇」である。
もちろん、アテネオリンピック関連も2位、5位、6位、8位と4項目が入っているのだが、1位はEUROだった。
EUROとは、サッカーの欧州選手権のことで、4年に一度夏季オリンピックと同じ年に開催されている。
いわば、サッカーW杯のヨーロッパ版で、1960年に第1回大会がフランスで開かれた。
当初参加国は4カ国だったが、8カ国さらには16カ国と拡大し、今年から24か国に拡大される。

その注目度もW杯に劣らず、内容はW杯をも凌ぐとも言われている。
1984年頃までは、日本ではサッカー専門誌では取り上げられるものの、一般紙にはほとんど登場しなかったが、徐々に注目を集めるようになり、2004年からは地上波での放送も開始され、すっかりおなじみになった。

2004年はポルトガルで開催され、決勝はギリシャが地元ポルトガルを下し、初制覇を遂げた。
大会前ギリシャの優勝なんて誰も想像しなかった。これが、6月のこと。
ギリシャはすっかり盛り上がってしまった。
言わばギリシャ国民は満腹状態で8月のオリンピックを迎えることになった。
そのためオリンピックを上の空で見ていた人も多かった。

特にサッカーはガラガラ、最終日を前に、平均1万人強の観客しか集まらず「すべてのギリシャのサッカーファンは、これから行われる試合を見に来ないといけない」
ギリシャサッカー協会のガガツィス会長が3位決定戦と決勝戦を前に、こんな異例の呼びかけをしたほどだ。

ヨーロッパの人は、オリンピックのサッカーにはあまり関心がない。
最近6大会のサッカー1試合当たりの平均観客数は以下のようになる。

1992年 バルセロナ五輪 14571人
1996年 アトランタ五輪 38242人
2000年 シドニー五輪 32018人
2004年 アテネ五輪 12544人
2008年 北京五輪 43883人
2012年 ロンドン五輪 48785人

ヨーロッパで開催されたバルセロナ、アテネ大会はアトランタやシドニー大会の半分から3分の1程度でしかない。
ただし、バルセロナオリンピックは地元スペインが3-2でポーランドを下し優勝した。
舞台はカンプノウスタジアム、ファンカルロス国王、ソフィア女王、アントニオ・サマランチIOC会長も詰め掛け95,000人の大観衆とともに金メダルに酔った。

 ●AP通信(米)による10大ニュース●

① サッカーEURO2004:ギリシャ初制覇
② アテネオリンピック開催
③ ツール・ド・フランス:アームストロング(米)が史上初の6連覇。
④ F1シューマッハー(独)が圧倒的な強さで年間総合優勝
⑤ アテネオリンピック過去最多のドーピング違反
⑥ アテネオリンピック水泳のフェルプス(米)が金6個を含む8メダル
⑦ 女子テニス全仏はミスキナ、全英はシャラポワ、 全米はクズネツォワとロシア勢が3勝
⑧ アテネオリンピック 中国が米国に次ぐ32個の金メダルを獲得する躍進
⑨ 男子テニスフェデラー(スイス)が四大大会のうち3大会を制覇
⑩ サッカー英プレミアリーグアーセナルが無敗でリーグ制覇

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June 06, 2016

モハメド・アリとその時代に見る、人種差別とオリンピック

オリンピックの開会式は、スポーツを通じて平和などの理想を訴える唯一の場所であり、大会ごとに聞催国からは全世界に向けたメっセージが発信されている。
例えば1964年の東京大会では、原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれた坂井義則さんが最終聖火ランナーを務め、「戦禍から立ち上がり、平和日本を象徴する若い力」を世界に披露した。
2000年のシドニー大会では、オーストラリアの先住民アボリジニの現役女子陸上選手、キャシー・フリーマンが聖火台に点火している。
そして、1996年7月のアトランタ大会では、最終聖火ランナーとしてボクシングの元世界ヘビー級王者モハメド・アリがパーキンソン氏病を患い震える手を押さえながら聖火台に点火をし、世界中の感動を誘った。
アリが選ばれたのは、病気を克服しようとする姿をアピールするためだけではない。アメリカ南部のアトランタで開催されたオリンピックにおいて、人種差別を振り返り、人類の平等や平和を願うという大きな意昧を、アリを通して訴えたのである。

モハメド・アリという名は、生まれながらの名前ではない。元々の名前はカシアス・クレイ。
1960年ローマオリンピックで金メダルを獲得した時の名前でもある。
18歳のクレイがオリンピックで金メダルという快挙を成し遂げて故郷・アメリカに婦国した際、待ち構えていたのは賞賛や尊敬ではなく差別だった。
友人とレストランに入り、店員に金メダルを見せて名乗っても、
「ここは白人専用、黒人の来るところではない」
と追い出される。
帰り道、アリは通りかかったオハイオ川に金メダルを投げ捨てた。
その後プロ人りして世界王者を目指す。
一方、黒人指導者マルコム・エックスが率いる急進的な黒人組織ネーション・オブ・イスラムの一員になり、白人が付けた奴隷の名前=カシアス・クレイを捨て、モハメド・アリ「高貴な神」になると宣言をした。

アリが、カシアス・クレイとして金メダルを獲得してから8年後の1968年・メキシコオリンピックの陸上競技では、当時のアメリカ社会を象徴する出来事が起きた。
ボブ・ビーモンが走り幅跳びで8メートル90の驚異的な世界記録を出すなど、アメリカの黒人選手による「ブラック・パワー」が吹き荒れたこの大会の、男子200メートルの表彰式でそれは起こった。

19秒83の世界記録で優勝したトミー・スミスと、3位のジョン・カルロスが、メインポールに揚がる星条旗を無視、黒い手袋をはめたこぶしを突き上げたのである。
この年は黒人解放運動の指導者、キング牧師が暗殺され、アメリカにおける黒人差別への不満と不安がオリンピックの場で爆発したのだった。
同時期のアリは、露骨な黒人差別を温存するアメリカ杜会に批刊的な占動を繰り返し、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、チャンピオンペルトを剥奪される。
徴兵拒否で懲役5年、罰金1万ドルの刑を受けたが、1970年に最高裁で無罪となった。

1971年にリングヘ復婦するが、ジョー・フレーザーとの対戦で初めての敗北を経験する。が、1974年、アリのルーツであるアフリカ、ザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサで、ジョージ・フォアマンと歴史的対戦を行い、奇跡の王座奪還を果たした。
このとき32歳。
ところがパーキンソン病を発病、1981年、61戦56勝5敗37KOという記録を残し、引退した。

ボクシングからは引退したアリだったが、それ以外の行動を止めることはなかった。
人種差別に挑む一方、1990年の湾岸戦争では、サダムフセインを訪問。
10人のアメリカ軍の捕虜をアメリカに送還することに成功した。
さらに1998年にはキューバを訪問し、アメリカ政府に対して経済封鎖の緩和を訴える声明を発表した。
9・11同時多発テロの時には、救援コンサートでイスラム教徒を代表して平和を呼びかけた。
そして1996年のアトランタオリンピックで、最終聖火ランナーを努めたアリは、IOCからローマオリンピックの金メダルのレプリカを渡された。
黒人差別に憤り、川ヘ投げ捨てた金メダルが再び彼の手に戻ったのだ。

●アリ、フレーザーそしてフォアマンの金メダル
1960年 ローマ大会ライトヘビー級
 金メダル カシアス・クレイ(アメリカ)
      のちのモハメド・アリ
1964年 東京大会ヘビー級
 金メダル ジョー・フレーザー(アメリカ)
1968年 メキシコ大会ヘビー級
 金メダル ジョージ・フォアマン(アメリカ)

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May 11, 2016

28年間に7個の金メダルを獲った選手と24年間に13個のメダルを獲った選手

リオデジャネイロ五輪の見どころのひとつに3人の選手の五輪個人4連覇への挑戦がある。
これまでの120年間の五輪史で4連覇を成し遂げたのは、アル・オーター 陸上円盤投げ56・60・64・68年とカール・ルイス 陸上走り幅跳び84・88・92・96年の2人しかいない。

リオ五輪で4連覇に挑むのは女子レスリングの伊調馨、吉田沙保里と競泳マイケル・フェルプス(100mバタフライ・200m個人メドレー)の3人だ。
(但し、マイケル・フェルプスはまだ五輪代表に決まってはいない。)


4連覇というと足かけ12年を要するが、団体種目では6連覇を達成した選手がいる。
フェンシングの史上最高の選手と言われているアラダール・ゲレビッチ。
フェンシング・サーブル団体で1932年のロサンゼルスから1936年ベルリン、1948年ロンドン、1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマと6大会連続で金メダルを獲得している。

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よく見てほしいのはその開催年だ。28年間に渡っている。
第二次世界大戦のため、五輪は1940年と44年の大会が中止になっている。
その2大会分の空白がありながらの6連覇なのだ。
最初の金メダルの時は22歳だったが、最後の金メダルはなんと50歳である。

実はほぼ同時期に、イタリアにはエドアルド・マンジャロッティというフェンシングの選手がいた。
この選手もアラダール・ゲレビッチに劣らない超人で、1936年から1960年にかけての五輪で、金メダル6、銀メダル5、銅メダル2個の合計13個のメダルを獲った。
出場した種目の中でメダルが獲れなかったのは、1956年メルボルン五輪のフルーレ個人の1回だけ。

五輪とは超人たちの祭典であると思うが、時として信じられないような超超人が現れる。


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May 10, 2016

オリンピックで100mと110mハードルの両方を制したハリソン・ディラード

1990年代の陸上女子短距離界にゲイル・ディバース(米国)という選手がいた。
非常に珍しい100mと100mハードルの両方で成功した選手だ。
1991年に東京で開催された世界陸上の女子100mハードルで、リュドミラ・エンクイスト(当時ソビエトのちにスウェーデン)に次いで2位に入ったのと、バセドウ病の治療をしていたことが印象深い。

1992年のバルセロナオリンピックでは100m、100mハードルともに金メダルを獲るのではないかとの下馬評だった。
100 mの決勝では5位までが100分の6秒差という僅差の中で競い勝ち優勝。
より得意とされた100mハードルでは、ゴール直前まで2位以下を大きく突き放していたが、最終10台目のハードルに足を引っ掛けて、5位に終わった。

1996年アトランタオリンピックの100mは、マリーン・オッティとディバースが10秒94の同タイムで駆け抜けたが、写真判定の結果ディバースが金メダルを獲得。
しかし、100mハードルは4位に終わった。

とは言うものの、100mのオリンピック2連覇は、東京・メキシコを連覇したワイオミア・タイアスとゲイル・ディバースの二人しかいない快挙である。


一方男子には、100mと110mハードルの両方に金メダルを獲った選手が一人だけいる
少年時代にベルリンオリンピックの4冠王ジェシー・オーエンスに憧れていたというハリソン・ディラード(米国)だ。

元々はハードルの選手だったが、1948年のロンドンオリンピック選考会では110mハードルの出場を逃してしまう。
が、100mでは3位となり米国代表に滑り込んだ。
ロンドンオリンピックの100m決勝では、同じ米国のバーニー・ユーウェルと10秒3の同タイムでゴールするが、オリンピック史上初となる写真判定に持ち込まれ、1つめの金メダルを獲得した。
ロンドンオリンピックでは4×100mリレーでも3走を走り、40秒6で2つ目の金メダルを獲得した。

4年後のヘルシンキオリンピック、110mハードルでアメリカ代表の座を得たディラードは、13秒7のタイムで3つ目の金メダルを獲得。
さらに、4×100mリレーでは2走を走り4つめの金メダルを獲得した。

同一大会ではないが、100mと110mハードルに金メダルを獲った唯一の選手であり、今後も絶対に出ないだろう。
今年93歳になるが健在だという。

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