オリンピックの記憶

February 13, 2019

ファイトだ 池江!19歳で白血病を発症、27歳で五輪競泳金メダリストになった男のはなし

マーテン・ファンデルバイデンは、2008年のオランダのスポーツマンオブザイヤーに選ばれた。
それは、2008年に開催された北京五輪のOWS(オープンウォータースイミング)で金メダルを獲得した最初の選手になっただけでなく、急性白血病に打ち勝ったひとりの人間であったからだ。

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▲表彰台の真ん中にいるのが白血病発症発症から8年目のマーテン・ファンデルバイデン

2mを超える長身。大男ぞろいのオランダでもなかなか2mの競泳選手ははいない。
この時期、世界の自由形の短距離の中心にいたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドが193㎝。
3歳年下のファンデルバイデンの方が、10㎝近く高かった。

アテネ五輪の3年前、19歳の時にファンデルバイデンは複視と息切れを訴えた。
ただならぬ症状に病院に行くと急性白血病と診断された、2001年のことだ。

闘病は2年間に及んだ。その間に4回の化学療法と1回の幹細胞移植が施された。

発病する前、既に自由形の長距離と、OWSで名の知れた選手であったファンデルバイデンは、徐々にレースに復帰していく。
最初は筋肉の落ちた体の回復から始めたが、2005年にはいくつかの国際大会で勝てるようになり、2008年北京五輪のOWSオランダ代表に選ばれた。

先述のように、当時のオランダには男子にはピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド、女子にはインヘ・デブルーインという競泳界の大スターがいた。
闘病するファンデルバイデンにとって、母国のスターの2004年のアテネ五輪での活躍は大いに刺激になっていたのだろう。

特に30歳のピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドは、シドニー、アテネと100m自由形を制し、北京五輪での競泳同一種目3連覇が掛かっていた。
女子には下記の2人の選手が3連覇を達成していたが、男子にはいなかったのだ。
 1956-1964ドーン・フレーザー(豪洲) 競泳100m自由形
 1988-1996 クリスティーナ・エゲルセギ(ハンガリー) 競泳100m背泳ぎ

北京五輪では個人種目は100mの一種目に絞っていたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド。
8月14日の100m自由形決勝、47.75秒のピーターは5位に終わり、3連覇の夢は絶たれた。
が、この47.75秒の記録は、彼のシドニー、アテネ両五輪の同種目の金メダルタイムを超える快記録でもあった。

OWSは競泳の最終日に行われる。
この日まで、オランダ水泳チームは、女子の4継リレーで金メダルを獲ってはいたが、男子はゼロ。
ファンデルバイデンに金メダルの期待が大きくのしかかっていた。
8月21日 北京郊外の順義オリンピック水上公園、カヌーやボートの競技会場だった施設だがこの日はOWSが行われる。
選手としての引退を決めていたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドはオランダのテレビ局にゲストとして呼ばれていた。

OWSはいわば、外海を10㎞泳いで勝者を決める過酷な競技。
強靭な肉体とタフな精神が求められる。
出場したのは選りすぐりの25名。
どうぞ下記の動画をご覧ください。

金メダルはマーテン・ファンデルバイデン。
オランダの競泳ファンは、彼の勝利だけでなく、レースの終盤、コメンテーターから一人のファンになったピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドのことも今も忘れていない。


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February 05, 2019

平成のスポーツの記憶④ 誰も知らないロン・カーノウのはなし

平成1992

1992年バルセロナ五輪
27年も前の五輪である。
この大会の開会式は、随分と芸術にあふれた印象に残る開会式だった。

Wikipediaにはこうある。
文化的特徴に富み、美術、芸術面で著名な人物を輩出し続けるスペインらしく、開会式、閉会式ともに音楽監督でカタルーニャ生まれで世界的に人気の高いテノール歌手のホセ・カレーラスや、モンセラート・カバリェをはじめとする多くのスペイン人歌手の他にも多くのアーティストが参画し、近年でもまれに見る芸術性の高い開会式、閉会式であると絶賛された。

音楽監督は、「三大テノール」の1人であるホセ・カレーラスがを務めた。
当初は、クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーが、カタルーニャ出身の女性歌手モンセラート・カバリェと「バルセロナ」をデュエットする予定だったが、前年の1991年HIV感染により死去、開会式では生前の歌声だけが響いた。

Barcerona

また、坂本龍一は地中海の神話をモチーフに作曲したマスゲームの音楽「El Mar Mediterrani」を作曲、指揮をした。

この真夏の世の夢とでもいうべき祭典の途中、予想しなかった事故が起きた。

アメリカのロン・カーノウは競泳200m個人メドレーの優勝候補だった。
自由形、背泳、平泳ぎ、バタフライの4種類の泳法に挑んでいるときこそ、彼の人生で最も充実した時間だった。
カーノウの父親のピーターは、息子の活躍を見るために大西洋を渡ってバルセロナに来ていた。
もちろん、お祭り好きなアメリカ人だから開会式に間に合うようにスペインに着いた。
開会式でスタジアムを歩く息子の写真を撮るために、スタジアムの階段を登ったときに、61歳のピーターの心臓は致命的な発作を受け、そして停まってしまった。

こんな悲劇にもかかわらず、カーノウは4日後の200m個人メドレーを棄権することはなかった。予選を全体の2位で突破、しかし決勝に進出するも6位に終わった。
優勝したのはハンガリーのタマス・ダルニュイ。
1988年ソウル・92年バルセロナ両五輪の200m・400mの個人メドレーをともに制した競泳史に残る大スイマーだ。

『なぜオリンピック中だったんだ、なぜ開会式の最中だったんだ』
ロン・カーノウは、偶然訪れた父の最期が、なぜ開会式の最中だったのか、自らに問いただしてみたが答えは得られなかった。

『父親が開会式で倒れ亡くならなかったら、俺はダルニュイに勝てたのか?』答えは出るはずがない。

薬剤師をしていたカーノウは、ニューヨーク・ヤンキースのジョージ・スタインブレナーオーナーからの奨学金を受け、ニュージャージー医科歯科大学に入学、そして1997年に卒業した。

ところが、彼はやり残したことがあると言い出し、整形外科の卒後研修を延期した。
そう、再び五輪の舞台に立とうとしていたのだ。
博士号を持った31歳が、今更プールに立つ?彼の周囲は、彼の決定を愚かだと言った。
1998年 オーストラリアのパースで行われた世界水泳選手権、イアン・ソープの15歳での世界デビューとなる大会にカーノウは出場した。

200m個人メドレーでは3位になった。が、カーノウが目指していた2000年のシドニー五輪は、全米代表選考会で敗れ、再びオーストラリアの地を踏むことは出来なかった。

この後、カーノウがどんな人生を歩んでいったかは、筆者もよくは知らない。が、水泳をやめることはなく、マスターズの大会などに出場し、そして医師としても活躍していると聞いている。

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January 18, 2019

1981年バーデンバーデン オリンピック史に残る日

ドイツ南部にバーデンバーデンという温泉地がある。
人口5万人ほどの小さなまちだが、観光と保養で欧州中に名前が通っている。
そのため、年に数回はテレビを観ているとその地名を聞くことがある。
その度にぼくはこの日のことを思い出す。
この日をきっかけに五輪は排他的エリート意識の産物から、プロ解禁による普遍的なスポーツの祭典へと変わっていくのだ。

今から38年前の1981年9月29日。
当時は西ドイツとよばれていた国のバーデンバーデンでIOCの会議、五輪コングレスが開催された。
五輪コングレスとは、IOC総会よりも規模が大きく、この先の五輪運動の根本からを話し合うための会議である。

実はバーデンバーデンでは、1988年冬季・夏季五輪開催地を決めるIOC総会も行われた。
「名古屋 ソウルに敗れる!」
というやつだが、今回は敢えて触れないこととする。

この当時、世はまさに東西冷戦下。
この前年に開催されたモスクワ五輪は、アメリカ、カナダ、西ドイツ、日本などの主要国がボイコットし、片肺に終わっていた。
(勘違いをしている人が多いが、イギリス、フランス、イタリアなど欧州の主要国は抗議こそすれど、モスクワ五輪に参加している。)

当時のIOC委員は現在のように、選手出身の委員よりも、欧州の王族や経済的な成功者が多くを占めるブルジョアクラブのようになっており、スポーツの世界、あるいは社会全体の動きに疎い連中の集まりだった。
そのため、IOCは、「モスクワ五輪ボイコット」を突如ぶちまけたジミー・カーター米国大統領(当時)を説得するでもなく、打開案を見出すでもなく、みすみす五輪の崩壊を指をくわえて見ていただけだった。

1980年にIOC会長になったばかりのアントニオ・サマランチは、銀行家から外交官になり、IOCに入った人物だが、社会の変化と現状を示そうと、五輪コングレスで初めて、現役選手に発言の場を与えたのだ。
このときIOCを舞台に、選手の立場から初めて演説をしたのがセバスチャン・コー。
世界に3人しかいないモスクワ・ロサンゼルスの両五輪で金メダルを獲ったコー。
ラミーヌ・ディアクの後の国際陸連会長を務める彼は、モスクワに選手を送らなかった国、送ることをじゃました国を痛烈に批判し、

「現代の五輪選手の負担は大きく、その犠牲は無視すべきでない。IOCには、選手への社会的配慮を保証する、道義的義務がある」

と訴えた。
さらには、近代五輪が誕生したときからの最大の課題、スポーツを通じて報酬を得る選手(いうなればプロ)の五輪参加を認めるかどうかのアマチュア問題を一刀両断していった。

そしてコーのスピーチは、IOC内部に選手委員会の創設をももたらし、コー自身が初代委員長になった。
選手には、現場で何が起きているかを一番良く知っている。
だから、現在は選手が互選した者が、IOCの委員にもなり、選手委員長はIOCの理事も務めている。

バーデンバーデンのIOCコングレスで選出されたIOC選手委員の初代メンバーがこの5人である。

キプチョゲ・ケイノ(ケニヤ)陸上競技金・銀メダリスト
スベトラーナ・オツェトバ(ブルガリア)ボート金メダリスト
トーマス・バッハ(ドイツ)フェンシング金メダリスト 現IOC会長
セバスチャン・コー(イギリス)陸上競技金・銀メダリスト 
ピーター・タルバーグ(フィンランド)ヨット選手

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January 03, 2019

金栗四三 大河ドラマ「いだてん」主人公 日本初のオリンピック選手

今年の箱根駅伝は東海大が優勝し、最優秀選手の小松陽平(3年)に金栗四三杯が贈呈された。
金栗四三は、NHK大河ドラマいだてんの主人公のひとりで、日本初の五輪選手として知られているが、箱根駅伝の誕生に尽力し、2004年から最優秀選手に金栗の名を冠した賞が贈られている。
 
近代五輪の第1回が行われたのが1896年。
日本が初めて五輪に参加したのは、その16年後の1912年、第5回ストックホルム五輪である。
最初の日本選手団はたったの4名だった。
柔道の創始者として知られる嘉納治五郎・大日本体育協会(日本体協の前身)会長、大森兵蔵同総務理事を役員に、選手は陸上短距離の三島弥彦(東大)とマラソンの金栗四三(東京高師=現筑波大)の2人だけだった。
ストックホルムと言えばスウェーデンの首都。
仮に今年ストックホルムで五輪開催となれば、日本選手団はチャーター便でひとっ飛び…となるところだが、1912年当時、彼ら選手団はどうやって移動したのだろうか。
ちなみに、ライト兄弟の世界初の動力飛行成功が1903年のことである。
そのわずか9年後となれば、当然、日本からヨーロッパへの移動に飛行機が浸透しているわけもなく、鉄道か船を利用するしかなかった。

三島・金栗の両選手は、自腹でストックホルムに向かっている。
まず5月16日に新橋駅を出発し、敦賀から船でウラジオストクへ向かう。そしてシベリア鉄道でサンクトペテルブルクまで行き、さらに船に乗ってようやくストックホルムに到着。かかった時間、実に18日間。
短距離選手の三島はまず100m予選に出場し、最下位で落選。
続く200m予選も敗退した。
3種目目の400m予選では、3人が棄権したため、2位で準決勝に進出を果たしたが、疲労のため結局棄権した。

一方、マラソン代表の金栗は、当時のマラソン世界記録保持者だったが、32キロ地点で日射病のために倒れ、民家で一晩介抱された。
当時は極東から来た選手が行方不明になったと話題になり、時の人にもなっている。

ちなみに金栗には、後日こんなエピソードがある。五輪開催から55年後の1967年、ストックホルム市は五輪開催55周年記念祭を開き、「消えた日本人」こと金栗老人を招待した。
76歳になっていた金栗は、かつてのゴール地点に案内されて10m手前から走ってゴールする。
そこに場内放送が流れた。
「第5回ストックホルム五輪マラソン競技は完全に終了しました」
タイムは、54年と8ヶ月6日5時間37分20秒3
その後の会見で、金栗老人はこんな素晴らしいスピーチを披露した。

「長い道中でした。途中で孫が5人もできました。」

Stockholmphoto

▲旗手は三島弥彦。金栗四三は「NIPPON」と書かれたプラカードを持つが、日章旗に隠れてしまっている。

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December 25, 2018

8年後に五輪復帰した銀盤の女王カタリーナ・ビット

全日本フィギュアで2位に入った高橋大輔が世界選手権を辞退するそうだ。
32歳になった高橋の姿を見たいファンも世界中にいるだろうと思うと残念な気もする。

かつての五輪金メダリストがアマチュアを引退後、時を経て復帰、再び五輪の舞台に戻ってきたケースもある。

2018年の冬季五輪の開催地を平昌と争ったのがドイツのミュンヘン。
韓国は、平昌の顔に金妍児を前面に押し出したのに対し、ミュンヘンはカタリーナ・ビットで対抗。
招致争いは、新旧フィギュアの女王対決と呼ばれた。

カタリーナ・ビットは、1965年12月3日 旧東ドイツ・シュターケン生まれのフィギュアスケート選手である。
五輪2連覇、世界選手権4回優勝など、史上最も成功したスケーターの一人だ。

●カタリーナ・ビットの主な戦績
1984年サラエボ五輪   フィギュアスケート女子 金メダル
1988年カルガリー五輪  フィギュアスケート女子 金メダル
1994年リレハンメル五輪 フィギュアスケート女子 7位
世界選手権金メダル   1984・85・87・88年
世界選手権銀メダル   1982・86年

冬季五輪の女子フィギュアは、五輪の全ての競技の中でも、最も注目を集める種目といっても過言ではない。
 
五輪のフィギュアスケートは、1908年から正式種目に加えられている。
といっても、冬季五輪の第1回・シャモニー大会は1924年であり、初期は、夏季五輪の種目だった。
この長い歴史の中で、女子で連続優勝したのは、ビット以外には1928年から3連覇したノルウェーのソニア・へニーしかいない。
連覇が難しいのは、この競技の特殊性にある。
五輪の金メダルは、プロ入りのまたとない格付けになるからである。
五輪2連覇を果たし、プロ転向後再び五輪の銀盤に現れた、それがビットであった。

1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊するまで、カタリーナ・ビットは東ドイツの「顔」だった。
ミスのない演技。
サイボーグのように鍛え上げられた肉体。
端正な顔に浮かべられた勝つことを疑わない笑み。
西側のメディアはビットを「社会主義の最も美しい顔」と呼んだ。

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1998年 PlayBoy誌に登場したときのカタリーナ・ビット

カルガリー五輪金メダルの後、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長は、祖国功労大勲章でビットを迎え、彼女は東ドイツ選手として初の「プロ」になった。
サラエボ、カルガリーと五輪2連覇の実績、妖艶にして聡明さもうかがわせる容姿。
東ドイツのスポーツ界だけでなく、ホーネッカー議長に気に入られ、プロパガンダとして政治の舞台に上がることも多くなっていった。

東ドイツは五輪を、社会主義国家の優位性を示す国際舞台と位置付けていたのはご存知の通りだ。
金メダルを獲得した者には、報奨金などの多くの恩恵が与えられていた。
事実、ビットもいくつかの特別待遇を受けた。
月々の手当に、勝てばボーナスが加わった。
18歳で運転免許をとると、すぐに車が購入できた。 
国際大会は食物持参で参加をした。
競技会の主催者から支給される食費をため、東ベルリンの外貨用高級デパートで買い物をした。
ささやかではあるが、物々交換が当たり前の庶民には、民主化によって批判の対象となっていったのである。

1990年、東西ドイツが統一された。
スパイ疑惑、ドーピング(禁止薬物使用)疑惑、大衆紙による男性関係の話題。
気がつけば、元「特権階級」のビットはスキャンダルとゴシップにおぼれそうだった。
自らの真情を繰り返し訴えるしか、対する道はないと思われた。
そんな中「プロ転向後も1回だけ、五輪出場を許可する」というISUの決定が、ビットを五輪に戻した。
 
1994年リレハンメル五輪、金メダルはウクライナの16歳、オクサナ・バイウルに決まっていた中、ビットはフリー最後の選手として銀盤に立った。
鮮やかな赤いコスチュームは血の色を表す。
曲は「花はどこへいった」。ヒトラーを嫌って米国へ逃れたドイツ女優マルレーネ・ディートリヒが歌った反戦歌である。
3回転ジャンプは2回しかない。
代わりに、舞う指先の1本1本へ、戦禍に苦しむサラエボへ平和の祈りを込めた。
この1994年当時は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っ只中であった。
ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力が、丘の上に陣取ってサラエボを包囲していたのだ。
1984年 サラエボで最初の金メダルを獲ったビットにとって、思いでの地が血にそまっていることに耐えられなかったのだろう。

7位

順位を示す得点表示板へ、ハーマル円形競技場を埋めた6,000人の観客席からブーイングが飛んだ。
銀盤を渦巻いたファンの声はそのまま、ビットの演技をたたえる声に変わった。
この瞬間は、サラエボの犠牲者に対する祈りによる開会式で始まったリレハンメル五輪の、ハイライトだったと記憶している。

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October 31, 2018

東京オリンピックの開会式の日に行われていた日本シリーズ

1964 Tokyo

2020年の東京五輪は、7月24日から8月9日まで開催される。
その間、プロ野球の公式戦は行われない。
しかも横浜スタジアムは五輪正式種目に復帰する野球の競技場になっているほか、神宮球場は組織委員会が70日間に渡って借り上げることが決まっている。

これだけ大規模なペナントレースの中断は初めてと言われている。

では、1964年の東京五輪の際に、プロ野球はどうしたのか。

1964年、五輪開催に合わせてプロ野球のシーズンは日程が繰り上げられた。
つまり通常のシーズンよりも早く終了したわけだ。

当初、9月29日に日本シリーズが開幕する予定だったが、阪神が優勝目前にもたもたし、9月30日に優勝が決まり、2日遅れて10月1日に日本シリーズ開幕となった。
さらに、7戦までもつれたシリーズの6戦目の予定されていた10月8日が雨天中止となり、第7戦はなんと東京五輪開会式の当日 10月10日に行われている。

パリーグの覇者は南海ホークス。
福岡ソフトバンクホークスの前身であり、大阪難波にあった大阪球場を本拠地にしていた。

1・2・6・7戦が甲子園、3・4・5戦が大阪球場での試合となったが、東京五輪を考えての編成だろうか、全試合ナイターで行われた。

10月10日の夜、興奮冷めやらぬNHKを始めとするテレビ各局は、昼間の東京五輪開会式の再放送をし、日本シリーズの中継は関西ローカルの読売テレビでしか行われていない。

日本一が決まる甲子園の試合であるにも関わらず有料入場者は15,172人。
結局4勝3敗で南海が日本一になった。

最優秀選手は南海の投手だったスタンカ(3勝1敗)。
一方の阪神のエースだった村山実氏は0勝3敗。
南海の4番は野村克也氏。
南海の選手の中には大沢啓二氏の名前も見える。

この年のペナントレースでは、巨人の王貞治氏が55本のシーズン最多ホームランを打っているが、巨人は早々に優勝争いから脱落した。
王さんは、長嶋茂雄氏と報知新聞の「ON五輪を行く」という取材で、様々な競技会場に取材に出かけた。

長嶋氏の亡くなった亜希子夫人は、東京五輪のコンパニオンを務めており、この取材がなければ二人は出会わなかったことになる。

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November 23, 2017

ジンバブエのムガベ大統領が辞任 思い出すのはやっぱりこの金メダル

ジンバブエのロバート・ムガベ大統領が21日、辞任した。37年間にわたり政権の座にあった同氏の退陣を受けて、喜びをあらわにする国民の姿が各地で見られた。

ジンバブエと言えばカースティ・コベントリー
16歳(シドニー)から32歳(リオデジャネイロ)まで5回の五輪に出場し、金メダル2、銀メダル4、銅メダル1個を獲った大選手だ。

1964年の東京五輪を調べていくと、知られざることがいくつも出て来る。
例えば、イギリス領北ローデシアは、閉会式の日にあたる1964年10月24日(日本時間では同日午前7時)にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。
選手村の国旗なども、同日をもって新国旗に付け替えられたという。

北ローデシアの隣国、イギリス領南ローデシアは、東京五輪にはローデシアとして参加し、ホッケー(当時は男子のみ)などに選手を送ってきている。
南ローデシアは、1965年に白人政権によるローデシア共和国として、イギリスから一方的に独立するが、国際社会からは認められずに、1968年から1976年までの五輪には参加していない。
このあたりは、1964年から1988年まで五輪から締め出されていた南アフリカと同様だ。

ローデシアは、1980年にジンバブエとして独立し、国際舞台に復帰するのだが、ローデシア政府によって投獄されていて、ジンバブエ独立後の選挙で勝利したのが、今回、大統領を辞したロバート・ムガベ氏。
1980年当時、南アフリカにおけるネルソン・マンデラ氏のような、新国家の象徴としてもてはやされていた。
このムガベ氏が、37年間に渡り政権の座にあり独裁政権を継続してきたということだ。

1980年のモスクワ五輪 ご存知のように日本、米国、西ドイツ、韓国などがボイコットした大会だが、この大会から正式種目として女子のホッケーが採用された。

女子ホッケーは6か国で争われる予定だったが、豪州やオランダは五輪には参加したが、女子ホッケーは不参加を決め、五輪開幕35日前、1980年6月14日にジンバブエ女子代表が急遽出場することになる。
ホッケーの競技は、モスクワのディナモ・マイナー・アリーナ。
現在では、当たり前の人工芝の競技場もジンバブエ代表にとっては初めての体験であり、相応しいシューズも持っていなかった。

ところが、
初戦のポーランドに4-0で勝つと、2戦目のチェコスロバキアには2-2で引き分け。
地元ソ連を2-0で下すと、インドには1-1。
最終戦に4-1で勝利し金メダルを獲得した。

わずか6か国しか参加していなかったとはいえ、総当たりで1度も負けていない。

勝利したホッケー選手はすぐにジンバブエの記者たちによって「ゴールデン・ガールズ」と呼ばれた。
日本でも、ジンバブエという耳になじみのない国の金メダルは興味を持って報じられ、朝日新聞の社会面の見出しを飾った。
その内容は、白人主導の国が倒れ、新たな国が生まれ、その年の五輪で金メダルを獲ったことを絶賛する内容だった。

チームのジンバブエへの帰国時には、大勢の人々に出迎えられ、国家的有名人になった。
当時首相になったばかりのロバート・モガブは自宅に招いて彼女らを歓迎した。
首相の妻サリーは、選手には牛を贈る約束をしたが、実際にはポリスチレンに包装された肉を贈った。

モスクワ五輪でのジンバブエ・ホッケーチームの金メダルを、スポーツの歴史研究科は、「おとぎ話」や「魅力のない妖精物語」と呼び、ボイコット騒動によって、競技のレベルが下がり、思いがけない国がメダルを手にした象徴と評価している。
イギリスの高級紙The Sunday Timesは、「1980年のモスクワの多くの選手と同様に、彼女らはチャンスをつかんだ」と結論づけている。

ジンバブエがこれまでの五輪で獲得したメダルは8個
1980年の女子ホッケーの金メダルのほかは、先述のカースティ・コベントリーが競泳で獲った7個のみ。
モガブ大統領の独裁は、スポーツに予算を回さなかったのだ。

▼全員白人のジンバブエ代表
https://www.youtube.com/watch?

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November 06, 2017

1964年の東京オリンピックは1兆円をかけた

1964年東京五輪は、「1兆円オリンピック」と呼ばれた。
というのも、大会運営費、競技施設の整備費、インフラ整備という大きな3つの支出を合計する9873億6300 万円となり、1 兆円に近い費用がかかっているからだ。
もちろん、インフラ整備などは、五輪開催がたとえなかったとしても計画されていたものであり、たまたま五輪開催に間に合わせたに過ぎない。
こうした途上国型の五輪開催例は、ソウル大五輪、北京五輪でも見られた。

ちなみに東京五輪当時の国家予算はおよそ3兆2554億円。
インフラ整備は何年もかかって施されたものであるが、国家予算の約3分の1に近い巨額の事業費が五輪に投じられたことになる。

この当時の日本のGDPが29兆5000億円であり、GDP比で3.7%が東京五輪に費やされている。
以下の表では、東京、ソウル、シドニー、アテネ、北京、ロンドン、そして冬季五輪ながら最も史上最も経費を掛けたと言われるソチ、来年2月開幕の平昌五輪を表にしてみた。

Gdp2

アテネ五輪がギリシャの経済規模を超えたものであったことは明白だ。
五輪開催経費はGDP比1%が適当と言われている。
1964年の東京や、1988年のソウルは明らかに費用をかけ過ぎたが、高度経済成長期だったため問題なく通り過ぎた。
が、ソチ五輪を開催したロシア。
GDP比率は2.5%を超えた。
巨額の投資をしたソチと同じことはできない。
ソチ以降の冬季五輪開催に前向きだった欧州の都市を萎縮させ、2022年冬季五輪の開催地争いは北京とアルマトイの一騎打ちとなり、北京が勝利した。

平昌五輪のメイン会場は、平昌五輪スタジアム。
635億ウォン(約1200億ウォンという説もある)かけて、今年の9月末に竣工したが、仮設で、五輪の開会式、閉会式とパラリンピックの開会式、閉会式の4日間のためだけに使用される。
そのため「使用料が1日158億ウォン」と揶揄されている。
屋根も壁もないらしいが、平昌は雪が降らないから良いのだろうか?

●最近の冬季五輪メインスタジアム
2018年 平昌オリンピックスタジアム(仮設)
2014年 ソチオリンピックスタジアム(サッカーロシアW杯の会場)
2010年 BCプレイス(人工芝の球技場)
2006年 スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノ(サッカー場)
2002年 ライス・エクルズ・スタジアム(ユタ大学所有の球技場)
1998年 長野オリンピックスタジアム(野球場)

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October 23, 2017

村田諒太 日本人初 五輪金メダリストからプロ世界王者

世界ボクシング協会(WBA)ミドル級では2012年ロンドン五輪金メダルの村田諒太(帝拳)が王者アッサン・エンダム(フランス)に7回終了TKO勝ちし、新王者となった。日本選手初の五輪メダリストのプロ世界王者と、2人目のミドル級王座獲得を果たした。


五輪のボクシング(男子)は1904年セントルイス五輪から実施されている。
現在はライトフライ級からスーパーヘビー級までの10階級に分かれているほか、19歳から40歳までという年齢制限も存在する。

1928年以来77人の日本人選手が五輪に参加しているが、メダルを獲ったのは5人。
ローマ五輪でフライ級の田辺清氏が銅メダル、東京五輪の桜井孝雄さん(故人)がバンタム級で金メダル、さらにメキシコ五輪の森岡栄治さん(故人 バンタム級)銅メダルの3選手以降随分間があったが、前回のロンドン五輪でミドル級 村田諒太が金メダル、バンタム級の清水聡が銅メダルを獲った。

村田はロンドン後プロ入りし、清水はアマでリオ五輪を目指していたが、参加の道を断たれこの2016年にプロ入りした。

五輪に出場したボクサーが、プロ転向後世界王者になった選手は村田で4人目、金メダリストでは初の世界王者だ。

●五輪に出場後プロ入りした主なボクサー
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October 22, 2017

大谷翔平よりも凄い?二刀流①

1964年の東京五輪陸上男子100m金メダルのボブ・ヘイズは、五輪後NFLのダラス・カウボーイズに入り、1971年にスーパーボウルで優勝した。
長い五輪史の中で、金メダルとSB・リングを獲得したのはヘイズひとり。
東京五輪金メダルタイムは10秒0だが、電子計時で10秒06、準決勝は追い風ながら9.91で走っている。

1984年のロス五輪井苦情男子砲丸投げで銀メダルを獲ったマイケル•カーターは、同じ年NFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズに入団。
なんとその年のスーパーボウルで優勝している。ボブ・ヘイズには及ばないが、五輪メダルとスーパーボウル優勝を同一年に成し遂げた唯一の選手。
なおNFLのドラフトはロス五輪の直前にあった。

ディオン・サンダースは野球のマイナーリーグにいた89年6月にNFLファルコンズから一巡目指名、その後MLB昇格し、本塁打を打った週にファルコンズに入団、開幕戦でタッチダウンを記録した。
同じ週に本塁打とTDを記録した唯一の選手。さらにワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手。

1988年カルガリー五輪のスピードスケートで500m銀、1000mで金メダルを獲ったC・ローテンブルガー(東独)は、同じ1988年のソウル五輪 自転車女子スプリントで銀メダルを獲得した。
現在、夏季・冬季五輪は異なる年に開催されており、同年の冬夏両五輪でのメダル獲得はあり得ない。

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