November 02, 2009

東京オリンピックの開会式の日に行われていた日本シリーズ

プロ野球日本シリーズの真っ最中である。
東京五輪の開催された1964年は、五輪開催に合わせてプロ野球のシーズンは日程が繰り上げられた。
つまり通常のシーズンよりも早く終了したわけだ。

当初、9月29日に日本シリーズが開幕する予定だったが、阪神が優勝目前にもたもたし、9月30日に優勝が決まり、2日遅れて10月1日に開幕となった。
さらに7戦までもつれたシリーズの6戦目の予定されていた10月8日が雨天中止となり、第7戦はなんと東京五輪開会式の当日 10月10日に行われた。
パリーグの覇者は南海ホークス。
福岡ソフトバンクホークスの前身であり、大阪難波にあった大阪球場を本拠地にしていた。

1・2・6・7戦が甲子園、3・4・5戦が大阪球場での試合となったが、東京五輪を考えての編成だろう、全試合ナイターで行われた。
10月10日の夜、NHKを始めとするテレビ各局は昼間の開会式の再放送をし、日本シリーズの中継はよみうりテレビでしか行われていない。
日本一が決まる甲子園の試合であるにも関わらず有料入場者は15,172人。
結局4勝3敗で南海が日本一になった。
最優秀選手は南海の投手だったスタンカ(3勝1敗)。
一方の阪神のエースだった村山実氏(故人)は0勝3敗。
南海の4番は先ごろ楽天監督を退いた野村克也氏。
南海の選手の中には大沢啓二氏の名前も見える。

この年のペナントレースでは、前ソフトバンク監督の王貞治氏が55本のシーズン最多ホームランを打っているが、巨人は早々に優勝争いから外れ、王さんは、長嶋茂雄氏と報知新聞の「ON五輪を行く」という取材で、様々な競技会場に取材に出かけた。

長嶋氏の亡くなった亜希子夫人は、東京五輪のコンパニオンを務めており、この取材がなければ二人は出会わなかったことになる。

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October 26, 2009

浅田真央とナディア・コマネチ

GPファイナル進出が絶望的となった浅田真央は「照準を全日本選手権に合わせる」と決意表明した。
ショートプログラム、フリーとも曲は変えないという。

4年前、浅田真央がGPファイナルに優勝しても、年齢制限で五輪出場が適わなかった。
大人になり切っていない体のジュニア選手は、高難度のジャンプやスピンをこなすのに有利になる場合があり、シニアの選手と同じ土俵で勝負させるのは不公平である、という見方があった。
迫力や表現力に若さの残る選手が、高難度技で五輪の金メダルを獲ってしまうのは、フィギュアの真の面白さを損なうのではないか、という考え方だ。

調べてみると、浅田の中学2年頃(2004年)の身長は153㎝、2005年のGPファイナル優勝の頃が158㎝、現在は164㎝といわれている。
身長が伸びることによって、微妙にジャンプの感覚がずれていくだろうことは素人にも判る。
今の浅田の滑りを見て、一人の天才と呼ばれた選手を思い出した。

彼女の名前はナディア・コマネチ。

コマネチが世に出たのは、1976年のモントリオール五輪。
ルーマニアの白い妖精と呼ばれ、段違い平行棒と平均台で7回の10点を出した。
当時、コマネチの身長は154㎝だった。

コマネチを指導していたコーチは、ハンドボールの選手だったベラ・カロリー氏。
1977年の欧州選手権を境にカロリーは、ナショナルチームを離れることになり、コマネチの練習環境は一変した。
ちょうどその頃、コマネチの両親が離婚、彼女のストレスはピークに達した。
さらに悪いことに、コマネチはまだ成長期にあったのだ。

1978年 フランス・ストラスブールで開かれた世界体操選手権に姿を見せたコマネチに、メディアは仰天した。
身長が8cm伸び、体重も増え、白い妖精の面影が消えていたからだ。

ルーマニアのライバルであるこの当時のソビエト代表チームは、2年後のモスクワ五輪を控え、精鋭が揃っていた。
個人総合の上位は
エレナ・ムヒナ
②ネリー・キム
③ナタリア・シャポシニコワ
とソビエト勢が独占する。
コマネチは、あろうことか、自らの代名詞でもある段違い平行棒で落下(写真)、4位に終わった。

9

10

だが、コマネチの凄いところは、ここからモスクワ五輪に向けて建て直しを果たすところだ。
恩人であるカロリーコーチとの二人三脚が復活し、身体を絞り込んでモスクワ五輪を迎えた。

モスクワ五輪の女子体操は、ソ連びいきの不透明な採点が出て、後味の良くない大会であるのだが、コマネチは予想以上に気を吐いた。
個人総合ではエレナ・ダビドワ(ソ連)に次いで銀メダルに終わったが、平行棒と床で金メダルを獲り、生涯獲得金メダルを5個とした。

この頃思ったのは、やはりコマネチはオリンピックの申し子だ、ということ。
世界には、五輪のない年は全く不調であっても、五輪になると調子を合わせ、活躍する選手がいる。
日本でいえば、体操の加藤沢男さん、平泳ぎの北島康介。コマネチもそうだ。

逆に自他共に認める世界の第一人者でありながら、五輪ではついに勝てない選手もいる。
鈴木恵一さんとか古橋広之進さんとか。

浅田真央は、後者になってしまう予感がする。

●参考記事
オリンピックの記憶(9) ナディア・コマネチの伝説

さすがオリンピックの申し子コマネチ 44歳にて第一子を妊娠 トリノオリンピック開幕直前に発表


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August 02, 2009

フジヤマのトビウオ ローマで逝く

日本オリンピック委員会(JOC)元会長、日本水泳連盟元会長の古橋広之進さんが2日、世界水泳選手権が開かれているローマ市内のホテルで亡くなった。80歳だった。

アテネ五輪の競泳女子800mで柴田亜衣が金メダルを獲ったときに、メダルを授与したのが古橋広之進さんだった。
自由形の古橋さんが、自由形で日本人選手に金メダルを授与する、FINAも粋な計らいをした。

古橋さんは、戦後間もない時期の水泳界のスターであった。
1948年のロンドン五輪に戦争責任国として招待されなかった日本は、五輪の日程に合わせて競泳の競技会を開き、古橋さんの記録は五輪優勝タイムを上回った。
さらにその年の日本選手権、1949年のアメリカ遠征で400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録を出し、日本復興のシンボル的存在だった。

合掌

ワンダースイマーは型破り 古橋さんの活躍を伝える1949年にシドニーで発行された新聞
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1948年 古橋さんの世界新記録を伝える新聞 “JAP”と書かれている 
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May 11, 2009

入江陵介 背泳ぎとしては81年ぶりの世界新記録

オーストラリアのキャンベラで行われていた競泳の第1回日豪対抗男子200m背泳ぎで、昨年の北京五輪5位の入江陵介が、1分52秒86の世界新記録で1位となった。
日本選手による世界新樹立は、北京五輪100m平泳ぎ決勝の北島康介以来で、背泳ぎ種目で日本人男子が世界新を樹立するのは、1928年の入江稔夫(200m、2分37秒8)以来81年ぶりの快挙となる。

入江は近畿大学在学中の19歳、身長は177センチと競泳選手としては小柄だが、ロンドン五輪金メダルの最有力候補現るといったところだろう。

さて、日本人が競泳で世界新を出したことは何回あるか?
戦前は、水泳NIPPONの名前を欲しいままにしていたが、戦後は一時期低迷していた時期もある。
また、五輪金メダリストが実は世界記録からは縁遠かったり、世界記録を何度も出した選手が、五輪メダルには縁がなかったり、様々なドラマがある。
戦後に競泳で世界記録を出した選手を追ってみた。

●自由形

200m 山中毅 2分00秒4 (1961.8.20) 4回更新
山中はこの種目世界記録を4回更新したが、この種目ではメダルを獲っていない。

400m 古橋広之進 4分33秒3 (1949.8.18) 2回更新 未公認3回
ご存知フジヤマのトビウオこと古橋広之進氏。
日本が招待されなかったロンドン五輪に対抗し、ロンドンの金メダルタイムを大幅に破って見せたが、唯一出場したヘルシンキ五輪では400m8位に終わった。
また、日本が国際水泳連盟FINAを脱退中の記録は世界記録として公認されなかったという不運もある。

同 山中毅  4分16秒6 (1959.7.26)
メルボルン、ローマ五輪とこの種目の銀メダリスト。

1500m 橋爪四郎 18分35秒7 (1949.8.16 9 
古橋氏のよきライバルだった選手。ヘルシンキ五輪では400mで銀メダルを獲得した。
同 古橋広之進 4分19秒0 (1949.8.16 ) 2回更新 未公認1回

●平泳ぎ

100m 古川勝 1分08秒2 (1955.10.1)
同 田口信教 1分04秒94 (1972.8.30)
同 北島康介 58秒91 (2008.8.11) 2回更新
田口氏、北島の両選手は五輪決勝で世界記録を出して金メダルを獲得するという快挙を演じている。

200m 田中守 2分35秒2 (1954.9.17)
同 古川勝 2分31秒0 (1955.10.1) 4回更新
古川氏はメルボルン五輪で2分34秒7を出し金メダルを獲得した。
なお、この時代100m平泳ぎは五輪で実施されていない。(1968年から)
同 北島康介 2分07秒51 (2008.6.8) 3回更新
さすがの北島も北京五輪決勝では世界新記録には届かず、五輪新に留まった。

●バタフライ

100m 石本隆 1分00秒1 (1958.6.29)
200m 石本隆 2分20秒8 (1955.10.1)
同 長沢二郎2分19秒3 (1956.4.14)

100m 青木まゆみ 1分3秒34 (1972.9.1) 2回更新
田口さんと同じくミュンヘン五輪決勝で世界新記録を出して金メダルを獲得した。
なお、ミュンヘン五輪はマークスピッツが7冠を達成したが、リレー種目を含め全て世界記録というおまけが付いている。

●背泳ぎ

200m 田中聡子 2分28秒2 1963.8.4 11回更新
11回もの世界記録を更新した田中だが、当時200mは五輪種目ではなく、100m背泳ぎでローマ五輪銅メダル、東京五輪4位に入った。

他にも男子100×4リレーでは日本代表チームが1回、男子200×4リレーでは日本代表チームが3回、東京クラブが2回世界記録を出している。
また男子メドレーリレーでも日本代表として3回、日大、早大の単独チームがそれぞれ1度世界記録を出している。

なお、意外と思われるかもしれないが、バルセロナ五輪200m平泳ぎ金メダリストの岩崎恭子、ソウル五輪100m背泳ぎ金メダリストの鈴木大地、アテネ五輪800m自由形金メダリストの柴田亜衣の3選手は、一度も世界記録を出したことはない。

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April 24, 2009

人類初の46秒台 100m自由形

昨年の北京五輪男子100m自由形で金メダルを獲ったアラン・ベルナール(フランス)が、人類初の46秒台を出した。ベルナールは、モンペリエで行われているフランス選手権同種目の準決勝で、46秒94の世界新記録をマークした。
従来の世界記録はサリバン(AUS)が北京五輪準決勝で出した47秒05だった。 
なおベルナールは、現時点では国際水泳連盟(FINA)の認可が下りていないアリーナ社製の新型水着を着用したため記録の公認されない可能性もある。

100m自由形には常にタイムの壁があった。
初めて1分の壁を破ったのは、後にターザン俳優として活躍するジョニー・ワイズミュラー。
初めて55秒を切ったのはディック・クリーブランド。
そして夢の49秒台を最初に突破したのはジム・モンゴメリー。
以降、初の48秒台はローディ・ゲインズ、初の47秒台はピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド、初の46秒台が今回のベルナールとなる。

初めて1分を切った
58秒6 ジョニー・ワイズミュラー(米) 1922年

初の55秒台
54秒8 ディック・クリーブランド(米) 1954年

初の49秒台
49秒99 ジム・モンゴメリー(米) 1976年

初の48秒台
48秒95 ローディ・ゲインズ(米) 1981年

初の47秒台
47秒84 ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド(米) 2000年

初の46秒台
46秒96 アラン・ベルナール(仏) 2009年

因みに五輪優勝タイムは下記の通り。最後の㎝は身長。

1972年 マーク・スピッツ (米) 51.22 183㎝
1976年 ジム・モンゴメリー  (米) 49.99 196㎝
1980年 ヨルグ・ボイテ  (東独)  50.40 不明
1984年 ローディ・ゲインズ (米) 49.80 186㎝
1988年 マット・ビオンディ (米) 48.63 200㎝
1992年 アレキサンドル・ポポフ (EUN) 49.02 200㎝
1996年 アレキサンドル・ポポフ (ロシア) 48.74 200㎝
2000年 ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド (オランダ) 48.30 193㎝
2004年 ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド (オランダ) 48.17 193㎝
2008年 アラン・ベルナール (仏) 47.82 196㎝

*日本記録は、先日の日本選手権で藤井拓郎が出した48秒73。
藤井はバタフライと個人メドレーを中心とした選手で、北京五輪では100mバタフライ6位、銅メダルを獲ったメドレーリレーでもバタフライを泳いだ。

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October 27, 2008

NHKスポーツ大陸 高田裕司・佐藤満そしてセバン・トルステナ

25日の夜 NHK BS1のドキュメンタリー 「スポーツ大陸 受け継がれた天才の技 外無双 ~レスリング 高田裕司から佐藤満へ~」
を途中から見た。
ちょっと補足させていただく。

高田裕司さんは、レスリングフリースタイル52kg級のモントリオール五輪の金メダリストで、80年モスクワ五輪でも金メダルを有力視されていた。
が、日本はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するアメリカに追従し、ボイコット。
無念の高田は一度はマットを去った。

ところが、高田は4年後のロサンゼルス五輪を前にして、突然の現役復帰を果たすも、ソ連を始めとする東側諸国がロサンゼルス五輪を報復ボイコットし、五輪の舞台はまたも片肺となった。
それでも、8年ぶりの金メダルを狙った高田だったが、セバン・トルステナ(ユーゴスラビア=当時)戦で一瞬のすきをにつかれ、銅メダルに終わった。

4年後のソウル五輪、高田は同階級のライバルだった佐藤満に自身の得意技・外無双を教え、佐藤は決勝でトルステナを圧倒、高田はコーチとして夢をかなえた。

というのがNHKの番組の概要だ。

ところが、放送にはなかったが、高田裕司、トルステナにはこの後のあまり知られていないエピソードがある。

高田裕司が2個目の金メダルを目指していたロサンゼルス五輪、金メダルを獲ったら、表彰式でメダルにキスをして客席に投げ込むつもりでいた。
五輪に翻弄された高田が、どうしてメダルを投げ込むつもりだったか、他人にはわからない部分もある。が、結局銅メダルに終わり、幻のパフォーマンスとなった。

ロス五輪をもって引退していた高田は、1990年東京で開催された世界レスリング選手権に合わせてまたも現役復帰を果たす。
5回目の世界王者をめざしたが、36歳という年齢と、勝負勘を取り戻せなかったのか、8位に終わった。
一方、ソウル五輪の金メダリスト佐藤満は1989・90年と競技から離れていたが、1991年に復帰、92年のバルセロナ五輪フリースタイル52㎏級6位をもって現役を退いた。

高田に勝って、佐藤に敗れたセバン・トルステナ(旧ユーゴスラビア)も少し変わった競技人生を歩む。
1991年の8月までは、旧ユーゴスラビア代表として競技会に参加していたが、この年の9月に彼の母国マケドニアが、旧ユーゴスラビアから独立を宣言する。
ところが国際社会はこの独立を認めず、マケドニアのスポーツ界は中釣り状態となった。そのため、セバン・トルステナはバルセロナ五輪には現われなかった。

そして1996年のアトランタ五輪、トルステナは国際社会から認知されたマケドニア代表として参加、57㎏級5位。
1997年の世界選手権には58㎏級に出場して17位という記録が残っている。
このとき32歳だった。

*バルセロナ五輪には個人参加という形で、マケドニアから参加した選手も一部いるが、所属区分は「IOP」(個人参加)とされ、書類上マケドニアの名前は一切出てこない。

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August 15, 2008

日の丸飛行隊 青地清二氏死去

1972年札幌冬季五輪のスキー70m級ジャンプ(当時)でメダルを独占した日本選手の一人で、銅メダリストの青地清二氏が14日亡くなった。
小樽市出身、明大を経て雪印乳業入り。68年グルノーブル大会で五輪に初出場。
札幌五輪では金メダルの笠谷幸生、銀メダルの金野昭次に続いて3位に入り、メダルを独占。「日の丸飛行隊」と呼ばれた。

●1972年札幌オリンピック 70㍍級 K=86 2月6日 得点(1回目の飛距離,2回目の飛距離)
1.笠谷幸生 244.2(84.0,79.0)
2.金野昭次 234.8(82.5,79.0)
3.青地清二 229.5(83.5, 77.5)
23.藤沢 隆 207.8(81.0,68.0)

●参考記事
たくぎん ニッカウヰスキー・・・ ジャンプ選手の所属企業の栄枯盛衰

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July 20, 2008

個人最多金メダルは9個

北京五輪の注目のひとつが、マイケル・フェルプス(競泳・アメリカ)の通産獲得金メダルの記録更新がなるかだ。
アテネ五輪で6個の金メダルを獲得したマイケル・フェルプスは、北京では8冠をめざす。
金メダル3個以上で、タイ記録になるのだ。

これまでの近代五輪での個人最多金メダルは9個で、4人いる。
まずはフィンランドのパーボ・ヌルミ。陸上の中長距離選手で、1920年のアントワープ五輪の10000m、個人クロスカントリー、団体クロスカントリーの3種目で優勝。次の1924年のパリ五輪では1500m、5000m、個人クロスカントリー、団体クロスカントリー、3000m団体レースの5種目を制覇。さらに1928年のアムステルダム五輪の10000mでも金メダルを獲った超人だ。

次に旧ソ連の体操選手、ラリッサ・ラチニナは1956年のメルボルン、1960年のローマ、1964年の東京の3大会に出場し、団体で3個、個人総合で2個、種目別の床で3個、跳馬で1個の合計9個の金メダルを獲っている。さらに、銀を5個、銅を3個も獲っており、通算のメダル数17個は史上最多である。
水泳のマーク・スピッツ(アメリカ)は、1968年のメキシコ五輪で4×100mリレー、4×200mリレーの2種目、1972年のミュンヘン五輪の100、200m自由形、100、200mバタフライ、4×100mリレー、4×200mリレー、4×100mメドレーリレーの出場7種目すべてで、金メダル及び世界記録という偉業を成し遂げた。

最後に陸上のカール・ルイス(アメリカ)。1984年のロサンゼルス、1988年のソウル、1992年のバルセロナ、1996年のアトランタの走り幅跳びで4連覇。100mはロサンゼルスとソウルで2個、200mはロサンゼルスで1個、4×100mリレーはロサンゼルスとバルセロナで2個、さらにソウルの200mでは銀メダルを獲っている。

以上4人が、最多9個の金メダルを獲得した選手なのだが、実はこれを1個上回る、10個金メダルを獲得した選手が1人だけいる。1900年から1908年の五輪で活躍した、レイ・ユーリーというアメリカの陸上選手がその人だ。
ユーリーは、3度の五輪で8個の金メダルを獲得、さらに1906年に行われた中間大会で2個の金メダルを獲得、合計10個の金メダルを獲得している。
ただしこの10個は、いずれも現在のオリンピックでは実施されていない、「立ち幅跳び」「立ち高跳び」「立ち三段跳び」での金メダルである。さらに、このうちの2個を獲得した1906年の中間大会は、第1回オリンピックに気を良くしたギリシャが、強引に開いた大会で、公式の大会とは見られない向きもある。そのため、ユーリーが史上最多金メダル獲得者であるか否かは、研究者の間でも意見の分かれるところだ。
ちなみに、先述のパーボ・ヌルミが金メダルを獲得したクロスカントリーも、現在のオリンピックでは行われていない。これを差し引くと、ヌルミが獲得した金メダル数は4となる。
とはいうものの、当時行われていた種目の中でナンバーワンだったことに変わりはない。

選手名

国籍

競技

大会

ラリッサ・ラチニナ

ソ連

体操

1956–1964

9

5

4

18

パーボ・ヌルミ

フィンランド

陸上

1920–1928

9

3

0

12

マーク・スピッツ

アメリカ

競泳

1968–1972

9

1

1

11

カール・ルイス

アメリカ

陸上

1984–1996

9

1

0

10

ビヨルン・ダーリ

ノルウェー

距離スキー

1992–1998

8

4

0

12

ブライト・フィッシャー

ドイツ

カヌー

1980–2004

8

4

0

12

加藤沢男

日本

体操

1968–1976

8

3

1

12

ジェニー・トンプソン

アメリカ

競泳

1992–2004

8

3

1

12

マット・ビオンディ

アメリカ

競泳

1984–1992

8

2

1

11

ニコライ・アンドリアノフ

ソ連

体操

1972–1980

7

5

3

15

べラ・チャスラフスカ

チェコスロバキア

体操

1960–1968

7

4

0

11

レイ・ユーリー

アメリカ

陸上

1900–1908

10

0

0

8

筆者の新刊発売中

Oly3_4

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July 06, 2008

ライバルは泳法規則 日本人スイマーの軌跡

2004年アテネ五輪の平泳ぎ男子100mで、優勝した北島康介に対し、「ターン時に、ドルフィンキックが入った」と指摘が出された。米国チームからの公式抗議はなかったにもかかわらず、新聞等には大きく取り上げられた。
このときは、またか、と思った。
日本人が水泳やスキーで活躍すると、ルール改正で対抗されるのが常だからだ。
結局2005年になって国際水泳連盟(FINA)は、平泳ぎのスタートとターン時に、ドルフィンキックを1回のみ容認する競泳規則の改訂を決め、北島の件は事なきを得た。

▼古川勝 メルボルン五輪で200平泳ぎ金
1956年メルボルン五輪男子200m平泳ぎの決勝。
古川勝と吉村昌弘が出場した。当時、平泳ぎは「潜水泳法」が主流で、決勝を泳いだ8人中7人が潜水だった。古川は一番長く潜り、43mで顔を上げた。
150mまでは、2位だったが、ターンで勝り、残り20mでソ連の選手に勝った。吉村昌弘も2位に入った。
古川は、もともとは普通の平泳ぎをしていたが、7000ccの肺活量を生かし潜水に転向、「潜水の王者」と呼ばれた。だが、潜水泳法はメルボルン五輪を持って禁止となった。

▼田口信教 ミュンヘン五輪男子100m平泳ぎ金
1968年17歳で迎えたメキシコ五輪。田口信教は100m準決勝で1分7秒1を出すも、ターンの時にドルフィンキックになった、という泳法審判員の指摘で失格となった。金メダルのマッケンジー(米)のタイムは1分7秒7。決勝に出ていれば田口が優勝したかもしれない。
左ひざの関節炎を持ち、やむなくしての俗にいう田口キックだったが、記録を更新する日本人に対するねたみもあってか、厳しい指摘だった。
田口は4年間かけてキックを直し、外国の関係者に写真まで送りつけてアピールした。
1972年ミュンヘン五輪100m平泳ぎ 準決勝では1分5秒1の世界新記録、決勝では50mを7位で折り返すも、60mを過ぎたあたりから、ピッチ泳法でトップに出た。
泳法違反はなし。史上初めて1分5秒の壁を破る1分4秒9の世界新記録での金メダルだった。

▼モスクワの星 高橋繁浩
モスクワ五輪を1年後に控え、日本の競泳会は平泳ぎの新星に沸いた。
高校3年生の高橋繁浩が100、200m平泳ぎの日本新記録を出し、モスクワ五輪の星といわれた。
ひとかきで他の選手よりグンと前へ進むフォームは、「芸術品」と言われた。が、水をかく間、頭が水中に沈む泳法違反で失格をとられた。
高橋は、頭を浮かすことに神経をすり減らし、泳ぎが小さくなった。
モスクワ五輪の幻の日本代表にも選ばれることはなかった。
5年余のブランクを経て、1984年のロサンゼルス五輪に挑戦するも、100m10位、200mは12位に終わり、現役引退を表明した。
ところが、母校で指導者をしていた1986年、競泳規則が改正され、平泳ぎの頭部水没が違反でなくなった。
27歳にして4年ぶりに現役復帰。
ソウル五輪平泳ぎ200m、予選のタイムは2分17秒69。決勝進出はならなかったが、17歳のときの自身が持つ日本記録を10年ぶりに更新した。
取材陣からは「金メダルに匹敵する泳ぎ」と称賛された。

▼鈴木大地 1988年ソウル五輪100m背泳ぎ金
この当時の背泳ぎは、潜水して両手を頭の先に伸ばしたまま進むバサロスタートが主流だった。
が、呼吸しないため体力の消耗が激しい。鈴木大地は通常21回のキックで25mまで潜っていた。
予選では、35m近くまで潜ったアメリカのバーコフが54秒51の世界記録を出した。
鈴木大地は、55秒90の3位。金メダルを獲るにはバサロの距離を伸ばすしかない。
決勝が始まった。5コースのポリャンスキー(ソ連)が25m過ぎで水面に出る。続いて3コースの鈴木大地が30mで、その5m先で4コースのバーコフが顔を出した。
50mのラップはバーコフ25秒47、鈴木大地25秒97、ポリャンスキー26秒06。
3人は残り5mで横一線。鈴木は右手で絶妙なタッチを決め、金メダルを掴む。
世界記録はならなかったものの、自らの日本記録を0秒27縮める55秒05だった。
ソウル五輪後、ルールが変更され、制限の無かった背泳ぎのスタートとターン直後の潜水は10m以内とされ、1991年からは逆に5m延ばされ15m以内となった。

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June 09, 2008

1992年バルセロナ五輪男子バレーの結果

バルセロナ五輪(1992年)の男子バレーの結果を検索される方が多いので、簡単だがまとめた。
当然、この時代はサイドアウト制の15点マッチだ。
また、日本対アメリカの試合には、こういったこともあった。

●グループリーグ
日本3(8-15, 15-11, 15-10, 17-16)1アメリカ
フランス3(15-8, 9-15, 15-11, 10-15, 15-9)2日本
イタリア3(15-13, 15-7, 17-15)0日本
日本3(11-15, 15-17, 15-11, 15-13, 15-10)2カナダ
日本2(8-15, 15-5, 17-15, 7-15, 13-15)3スペイン

●A組順位
1.イタリア
2.アメリカ
3.スペイン
4.日本
5.カナダ
6.フランス

●準々決勝 日本はB組1位のブラジルと対戦
ブラジル3(15-12, 15-6, 15-12)0日本
5-8決定戦予備戦
日本3(15-8, 9-15, 15-13, 12-15, 17-16)2EUN
5・6位決定戦
イタリア3(15-2, 15-7, 15-13)0日本

●最終順位
1.ブラジル
2.オランダ
3.アメリカ
4.キューバ
5.イタリア
6.日本
7.EUN
8.スペイン
9.韓国
10.カナダ
11.フランス
12.アルジェリア

全日本男子 所属・身長・体重は当時のもの 
出身都道府県まで書かれているのは、五輪ならではのものだ。

監督 大古誠司(サントリー)
コーチ 辻合真一郎(新日鉄)
選手 
松田明彦 京都府出身 日新製鋼 1m80 72kg 26歳 
成田貴志 北海道出身 富士フイルム 1m85 75kg 22歳 
植田辰哉 香川県出身 新日鉄 1m94 92kg 27歳 →現監督
南克幸 宮崎県出身 法政大4年 2m 84kg 21歳 
大竹秀之 東京都出身 日本電気 2m8 86kg 24歳 →現コーチ
荻野正二 福井県出身 サントリー 1m97 93kg 22歳 →現主将
泉川正幸 東京都出身 日体大4年 1m96 85kg 21歳 
中垣内祐一 福井県出身 新日鉄 1m93 90kg 24歳 
大浦正文 長崎県出身 サントリー 1m87 83kg 22歳 
青山繁 愛知県出身 富士フイルム 1m87 71kg 23歳 
河野克巳 大分県出身 サントリー 1m88 78kg 26歳 
栗生沢淳一 岩手県出身 JT 1m90 75kg 27歳 
 
ついでに女子 5位入賞
監督 米田一典(協会)
コーチ 達川実(ユニチカ)
選手 
佐藤伊知子 宮城県出身 日本電気 1m69 66kg 27歳 
中田久美 東京都出身 日立 1m75 62kg 26歳 
大林素子 東京都出身 日立 1m82 67kg 24歳 
石掛美知代 兵庫県出身 イトーヨーカドー 1m77 67kg 26歳 
中西千枝子 福岡県出身 ユニチカ 1m63 53kg 25歳 
高橋有紀子 神奈川県出身 小田急 1m67 56kg 24歳 
山内美加 秋田県出身 ダイエー 1m81 69kg 22歳 
吉原知子 北海道出身 日立 1m79 65kg 22歳 
福田記代子 埼玉県出身 日立 1m78 68kg 21歳 
中村和美 石川県出身 ユニチカ 1m70 69kg 21歳 
多治見麻子 東京都出身 日立 1m80 69kg 19歳 →現役全日本
苗村郁代 兵庫県出身 イトーヨーカドー 1m66 60kg 22歳 

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May 16, 2008

陸上五輪選手からプロ野球に転身した飯島秀雄

かつて飯島秀雄というスプリンターがいた。
1964年 西ベルリン(当時)の国際陸上競技会で手動計時の100m10秒1を記録し、吉岡隆徳の持っていた日本記録10秒3を29年ぶりに更新し、一躍東京五輪の星になった。
そして東京五輪 飯島は第一次予選を10秒3の同予選最高タイムで通過。第二次予選も10秒5でクリアしたが、ゴール直後に転倒。この影響か、準決勝では10秒6に終わり、決勝進出はならなかった。
1968年のメキシコ五輪でも準決勝敗退、このときの10秒34は日本人最高記録であったが、なぜか長らく公認されなかった。

飯島の人生が大きく変わるのはこの後だ。
1968年暮のプロ野球ドラフト会議で、東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が9位で指名。
契約金は一千万円、元陸上五輪選手の前代未聞のプロ野球入りはこうして始まった。
日本記録保持者だった飯島だが、野球は素人の代走専門。元五輪選手がどのくらいの盗塁を決められるか、大きな話題になった。チームは東京からロッテに代わり、3年間在籍、117試合に出場。盗塁はわずか23個(失敗17個、牽制死5)に終わった。が、飯島が走者にいた時の打者の打率は、4割2分4厘の高率だった。投手が、飯島が塁にいると神経が打者から削がれたのだろう。
また、飯島の話題性は高く、ロッテの観客動員にも大きく貢献した。

1983年、飯島は5歳の女児を車ではねて死亡させる事故を起こした。1年2ヶ月の実刑判決を受け千葉県市原市の交通刑務所で8か月過ごした。
所内の運動会、作業場対抗リレーのアンカーに選ばれ、バトンを受け走り出した時、右足首に衝撃を受けアキレス腱断裂。これが最後のレースとなった。
なお、飯島の10秒34は、服役中に日本記録として公認された。メキシコ五輪から16年が経っていた。

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April 24, 2008

オリンピック史上最高のヒール ベン・ジョンソンのその後

五輪史上最大のスキャンダルといえば何か、ベン・ジョンソン事件は3本の指に入る大スキャンダルだろう。
1988年ソウル五輪の陸上男子100m決勝。
スタートから飛び出したべン・ジョンソンは、一気に走り抜け、9秒79の驚異的な世界新記録で優勝した。
ところが、その3日後、IOCは、ジョンソンのドーピングテストで禁止薬物が検出されたため、金メダルをはく奪すると発表。五輪史上最大級のスキャンダルはこうして幕を開けた。
ジョンソンから検出されたのは、アナボリック・ステロイド(筋肉増強剤)の一種で、同年のカルガリー冬季五輪までは登場していなかった最新型だった。

ベン・ジョンソンは1976年にジャマイカからカナダに移民してきた。
ロサンゼルス五輪は10秒22で銅メダルを獲った。だが、あまり記憶にない。
1987年の陸上ワールドカップに10秒00で優勝、同年のローマの世界陸上で、9秒83という驚異的な世界新を出して優勝し、ソウル五輪の金メダルの本命に挙げられていた。

100m決勝から3日後、国際陸上競技連盟(IAAF)はベン・ジョンソンの2年間競技者資格停止と、9秒79の世界記録取り消しを決めた。
するとジョンソンは27日午前中の内に、ソウルの金浦国際空港から追われるようにニューヨークへ逃げていった。

当時、ベン・ジョンソンは日本でも有名選手で、共同石油(現ジャパンエナジー=JOMO)のCMにも出演していた。共同石油は27日、ベン・ジョンソンのCMを別のものに差しかえるよう各放送局に連絡、ジョンソンのCMはこの日を境にオンエアされていない。
ジョンソンは、ローマの世界陸上を機に、多額のスポンサーがつくようになっていた。
ディアドラ社のシューズの契約金は5年で2億円強、共同石油も億単位の契約金だったといわれている。

筋肉増強剤であるアナボリック・ステロイドは1981年秋から使用していたと証言しているから、ロサンゼルス五輪の銅メダルの時には、既にクスリに犯されていたことになる。が、メダル剥奪処分にはなっていない。

この後のベン・ジョンソンについてあまり知られていないが、2年間の競技者資格停止が解け、1991年陸上界に復帰。東京で行われたこの年の世界陸上にやって来た。
とはいうものの、100mの世界陸上B標準しか突破できていなかったジョンソンはカナダチームのリレー要員だった。3走を任されるも、コーナーが下手、カナダは何とか8位に入るのがやっとだった。

そして1992年バルセロナ五輪、ベン・ジョンソンは100mのカナダ代表として3度目の五輪出場を果たした。
スタジアムで名前が紹介されると、人気は意外にも高く、大きな拍手と歓声が沸いた。
1次予選は10秒55と、32人残った中で20番目。2次予選は4位で辛くも準決勝に進んだ。
準決勝1組に出場したジョンソンは、スタートと同時にこけて、10秒70。最下位で決勝に進めなかった。
「陸上の神様がこけさせた」世界中が思ったに違いない。

そして、1993年3月.ベン・ジョンソンの、同年1月に行われた尿検査でテストテロン(筋肉増強剤)を服用が判明。国際陸連(IAAF)は永久追放処分を発表、カナダ政府もこれを受けてスポーツ基金受給資格を取り消し、さらにすべてのスポーツ競技から、ジョンソンを永久に締め出すとした。

その後ベン・ジョンソンは馬などと慈善レースをしていたが、1999年にまた薬物陽性反応があったとされる。(詳細不明)
2007年になって、選手としては永久追放処分を受けているが、コーチとしてのチャンスは与えられるべきだとの関係者のコメントとともに、20歳のカナダ人選手のコーチを務めることになったとAFP通信が伝えている。

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April 22, 2008

女子の世界記録に負けていた男子の1500m日本記録

アテネ五輪の競泳女子800mで柴田亜衣が金メダルを獲ったときに、メダルを授与したのが古橋広之進元JOC会長である。
自由形の古橋が、自由形で日本人選手に金メダルを授与する、FINAも粋な計らいをした。

古橋は、戦後間もない時期の水泳界のスターであった。
1948年のロンドン五輪に戦争責任国として招待されなかった日本は、五輪の日程に合わせて競泳の競技会を開き、古橋の記録は五輪優勝タイムを上回った。
さらにその年の日本選手権、1949年のアメリカ遠征で400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録を出し、日本復興のシンボル的存在だった。

ヘルシンキ五輪男子1500m自由形で銀メダルを獲得した橋爪四郎、メルボルン五輪で同種目に銀メダルを獲った山中毅など 1500mは日本のお家芸の一つであった。
ところが、1970年代から低迷期に入り、女子の世界記録にも負けるようになる。
1971年にオーストラリアのシェ―ン・グールドが17分0秒6の世界記録を出したときに、男子の日本記録は17分7秒1(高瀬悦二郎)。
女子の1500mは当時も今も五輪種目ではない。にも拘らず、世界の女子に届かなかった。
その後、オーストラリアの早熟の天才ジェニファー・ターレル、同じくトレーシー・ウィッカムが現われ、記録を縮めて行った。

1978年 ベルリンで開催された世界水泳選手権で、塚崎修治が400m、800m、1500mの3種目で日本新記録を出し、やっと女子の世界記録を上回った。
7年近く、暗黒の時代が続いていたことになる。
なお、塚崎はその後某民放キー局に勤め、日本の水泳を側面から支えている。

●1500m自由形
古橋広之進ベスト 18分19秒0 1949年
サルニコフ ベスト 14分54秒76 1983年
世界記録 14分34秒56 グラント・ハケット(豪州)2001年
日本記録 15分06秒28 松田丈志 2007年
アジア記録 14分55秒03 朴泰桓(韓国) 2006年
女子世界記録 15分42秒54 ケイト・ジーグラ-(米) 2007年
女子日本記録 15分58秒55 柴田亜衣 2007年
 

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April 03, 2008

陸上競技で優勝を争う2人が同じ記録でゴールしたらどうなるか?

昨年大阪で行われた世界陸上大阪大会。
女子100m決勝は、2人が11秒01の同タイムとなる大接戦となったが、ベロニカ・キャンベル(ジャマイカ)が小差でローリン・ウィリアムズ(米)を制し優勝。0秒01差で3位にカーメリタ・ジーター(米)が入り、5位までが0秒04差内という壮絶なレースだった。同タイムで写真判定となった金と銀の差は、わずか数センチだった。

①V・キャンベル JAM 11.01
②L・ウィリアムズ USA 11.01
③C・ジーター USA 11.02
④T・エドワーズ USA 11.05
⑤Kim Gevaert BEL 11.05

陸上競技では1/100秒まで表示することは、競泳と同じだが、同着は認めず、写真判定で順位を決める。

五輪でも

1980年モスクワ五輪 男子100m
1.アラン・ウェルズ(英)10.25
2.シルビオ・レオナルド(キューバ)10.25

1996年アトランタ五輪 女子100m
1.ゲイル・ディバース(米)10.94
2.マリン・オッテイ(ジャマイカ)10.94

などのケースがある。
モスクワ五輪は、ご存知のように陸上王国アメリカが参加しなかった大会だ。
アメリカには、当時の世界ジュニア記録10.07を持っていたフロイト、ベストは10.07だったが、追い風参考で9.88を出したエースのサンフォードがいた。
が、モスクワ五輪に出ていてもウェルズに勝てたかは?だと思う。

当時28歳のウェルズは、このレース最後尾から一気に全員抜いて金メダルを獲る。
イギリスの新聞でも「Crazy」と書かれた。
まだ、カールルイスの登場前だが、200mはイタリアのピエトロ・メンネアが優勝したし、面白い五輪だった。

▼モスクワ五輪 男子100m

●参考記事
競泳で優勝を争う2人が同じ記録でタッチしたらどうなるか?

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競泳で優勝を争う2人が同じ記録でタッチしたらどうなるか?

1972年のミュンヘン五輪の400m個人メドレーは、スウェーデンのグンナール・ラーションが金メダルを獲得。200m個人メドレーと合わせて2冠を達成した。
ラーションは、4種目の自由形になってアメリカのティム・マッキーと壮絶なデットヒートを続け、場内の観衆にも、テレビで見ていた人にも同時にタッチしたかに見えた。
記録の表示される会場の電光掲示板に視線が集まった。4分31秒98 ラーション、マッキー2人とも同じ数字が並ぶ。しばらく止まったままだった。
そして、ラーション4分31秒981、マッキー4分31秒983。
場内は一瞬おいて、ハチの巣をつついたような騒ぎとなった。
わずか2/1000秒差。
ラーションの金メダル、マッキーの銀メダルが確定した。

ミュンヘン五輪から、本格的に電気計時が導入された。
電気計時に大会運営側が慣れていなく、1/1000秒台で勝負が決まることを想定していなかったのだ。
果たして0.002秒差に順位をつけることにどこまで意味があるのか。
400m個人メドレーの場合、2/1000秒差というとわずか3ミリ位の差でしかない。
このレースが契機となってルールは改正され、1/100秒まで同タイムの場合は、同着とされた。

その後五輪の水泳決勝で金メダルが同着となったことが2回ある。

2000年シドニー五輪 男子50m自由形
1.アンソニー・アービン(米) 21.98
1.ゲイリー・ホールjr(米) 21.98

1984年ロサンゼルス五輪 100m自由形
1.ナンシー・ホグスヘッド (米)55.92
1.キャリー・スタインサイファー (米)55.92

どちらも両者金メダルとなった。

●参考記事
陸上競技で優勝を争う2人が同じ記録でゴールしたらどうなるか?

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March 23, 2008

プロ選手の参加しないフィギュアスケート ~五輪のオープン化

日本人初の世界選手権優勝を目指した高橋大輔が4位に終わり、イエテボリでの世界フィギュアも閉幕した。
五輪は、この20年余りで急速にオープン化し、プロ選手が参加するようになった中、唯一プロ選手の参加しないのがフィギュアスケートだ。
ところが、一度だけプロ選手のアマチュア復帰を認めたことがある。

1994年のリレハンメル五輪。
1992年に国際スケート連盟(ISU)は、プロ選手にも一度に限り、アマチュア復帰を認める参加資格規定の変更を決めた。
「世界のトップが出場できる大会に、とのIOCの意向に沿ったもの」と説明された。

この試みによって、サラエボ、カルガリー両五輪女王のビット(独)、カルガリー五輪王者ボイタノ(米)、アルベールビル五輪を制したペトレンコ(ウクライナ)等プロで活躍している歴代の金メダリストが五輪の舞台に戻って来た。
この特例が認められたのは、「アメリカのテレビ局の意向」だ。
リレハンメル五輪のテレビ放映権料は3億3500万ドル、この内3億ドルを米CBS放送が負担した。
米国のスポーツ中継で、断トツのスーパーボールに次ぐ視聴率を稼ぐ競技がフィギュアスケート。
CBS放送は、視聴率のためにプロのオールスターを五輪に連れ戻したかったのだ。
 
ところが、プロ選手は総じて高齢(?)だったこともあるだろう。
現役のアマチュア選手の最新のスケート技術に適うことはなく、ビットが7位、ペトレンコ4位、ボイタノ6位、サラエボのアイスダンスで満点演技を披露したトービル&ディーン組が、なんとか銅メダルを確保した。(注:カタリーナ・ビット


「重要なことは勝つことでなく、参加すること」「より速く、より高く、より強く」
五輪精神として広く知られているこの言葉通り、近代五輪の目指したものは「教育」だった。
1980年まで、五輪参加資格は「厳格にアマチュアに限る」とされていた。

「ミスター・アマチュア」と言われた、ブランデージ氏のIOC会長時代には札幌五輪でのシュランツ事件(注:カール・シュランツ)なども起きている。
が、ブランデージ氏が1972年に退任すると、次のIOC会長のキラニン氏が、1974年にそ五輪憲章の参加資格から「アマチュア」という文言を削除し、オープン化への道を開く。
そして1980年に就任したサマランチ前会長により、五輪は大きくオープン化に舵取りされていくのだ。

1984年 テニスの公開競技とサッカーの一部にプロ参加(注:ロサンゼルス五輪
1986年 アイスホッケー、サッカー、馬術、陸上にプロ選手の参加が認められる。
1988年 正式競技に復帰したテニスで本格的にトッププロが参加。 
1990年 五輪参加資格は、「各国際競技連盟(IF)と各国五輪委員会(NOC)が認めれば、アマ、プロ問わず参加できる」と五輪憲章が改正され、事実上の完全オープン化に踏み切った。
1992年 NBAのドリームチームの五輪参加、卓球・レスリングもプロ参加。
1996年 自転車競技にプロの競輪選手参加
1998年 長野五輪にNHLのトップ選手参加
2000年 野球プロ選手参加
 
●競技ごとの五輪へのプロの参加状況
陸上競技  登録にプロ、アマの区別はない。トップ選手は多額の賞金を受け取り、事実上のプロ
水泳     北島康介等スポンサーがつき、広告にも出演するプロ選手も多数。
サッカー   23歳以下(+オーバーエイジ)でオープン化
テニス    完全オープン化
バレーボール 欧州リーグのトッププロが多数参加(注:全日本にもプロ数人
バスケットボール 完全オープン化
レスリング   参加できる(但しプロレス選手は皆無)
ヨット      元プロは出場可能
ハンドボール 欧州リーグのプロが多数参加
自転車    日欧ともプロが多数
卓球      欧州はプロが多数
馬術      欧州はプロが多数
バドミントン  欧州はプロが多数
野球      完全オープン化(但しMLBは出場していない)

*オープン化とプロ化は同義ではない。
オープン化された五輪だから、アマチュアでも優れた選手は五輪に出場している。

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March 18, 2008

8大会32年に渡って五輪出場を果たした馬術選手

五輪は4年に一度の開催だから、なかなか複数回出場することは難しい。
それでも、近年選手寿命が伸びているため、昔に比べて連続出場は随分増えた。
北京五輪出場を果たせば、谷亮子は5回目となる。
ほかにも下記の選手が、1996年アトランタ五輪から連続4回目の五輪をめざしている。

野村忠宏 柔道
朝原宣治 陸上短距離
山本貴司 競泳バタフライ
塚原直也 体操

ところが、世界は広い。
過去の五輪で最多連続出場は、イタリアの男子馬術代表、ライモンド・ディンゼオの連続8回。
1948年のロンドン五輪から1976年のモントリオール五輪まで32年間に渡って出場し、1個の金メダルを含めて6個のメダルを獲った超人だ。
ライモンド・ディンゼオ以外にも、連続出場ではないが、40年かけて8回の五輪出場を果たしたヨットの選手が2人いる。

日本人では、ロサンゼルス五輪ラピッドファイアーピストル金メダルの蒲池猛夫氏が、モスクワ五輪を含む5回連続代表という記録がある。
アーチェリーのアテネ五輪銀メダリスト山本博氏、同じく松下和幹氏が連続ではないが5回出場(代表)している。
北京の出場権を失った山本だが、ロンドン五輪に意欲的であり、6回目もあるかも知れない。

アルベールビル五輪銅メダリストで、現参議院議員の橋本聖子氏は冬4回、夏3回の合計7回の日本人最多五輪出場記録を持つ。

冬季五輪は、アルベールビル五輪(1992年)と、リレハンメル五輪(1994年)の間が2年だったため、原田雅彦、葛西紀明のジャンプの2選手が5回五輪出場をしている。
葛西はまだ現役であるため、山本同様6回目があるかもしれない。

●4回以上五輪に出場した選手

(夏季五輪)

選手

48

52

56

60

64

68

72

76

80

84

88

92

96

00

04

08

ディンゼオ

銀銀

金銅

小野喬

三宅義信

菅原武男

猫田勝敏

蒲池猛夫

松下和幹

山本博*

谷亮子

橋本聖子

小野喬氏の獲得メダルは52年銅156年金13160年金31264年金1の合計13

(冬季五輪)

選手

64

68

72

76

80

84

88

92

94

98

02

06

笠谷幸生

橋本聖子

荻原健司

原田雅彦

金銅

葛西紀明*

清水宏保*

金銅

岡崎朋美*

里谷多英*

*は現役選手

 

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March 17, 2008

1回のオリンピックで、2階級制したレスリング選手がいる

現在は総合格闘技で活躍している吉田秀彦。
言わずと知れた1992年のバルセロナ五輪の柔道金メダリストだが、このときは78㎏級での出場だった。
4年後のアトランタ五輪では86kg級で5位、最後の五輪出場となった2000年シドニー五輪には90kg級(敗者復活戦不戦敗)で出場している。
そして、現在は105㎏というから、16年前のバルセロナ五輪時よりも27㎏の体重増となる。

ところが長い五輪の歴史を見ると、とんでもない選手がいる。
1932年のロサンゼルス五輪のことだ。 
スウェーデンのイバール・ヨハンソンは、レスリング・フリースタイル・ミドル級(79㎏)に出場。3日間での4試合を勝ち抜いて金メダル獲った。
そして空いた翌日に断食とサウナにより必死の減量をし、次の日からグレコローマン・ウエルター級(72㎏)に出場し、こちらも金メダルを獲得するという大快挙を達成した。

ところが、もう一人いた。

アメリカのオリバー・カークは、1904年のセントルイス五輪のボクシングで、バンタム級とフェザー級の2階級で金メダルを獲っている。
当時、ヨーロッパから大西洋を渡ってセントルイスまで行った選手は少なく、そのためこの快挙が生まれたのではないだろうか。

もし、これを上回る快挙を達成しようとするならば、柔道とレスリングの両方の金メダルを獲ることしかないだろう。

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March 07, 2008

カタリーナ・ビット42歳が プロ引退

Witt98gフィギュアスケート女子で1984年サラエボ、88年カルガリー両冬季五輪と2連覇したカタリナ・ビット(42)が4日夜にドイツのハノーバーで行われたアイスショーで、代名詞ともいわれた「カルメン」を舞い、プロスケーターを引退した。
ビットについては過去にも書いているのでそちらを参照ください。
←写真は1998年にプレイボーイ誌に出たときのもの。
米タイム誌に「社会主義最高の美貌」と評された容姿だ。


YOUTUBEにあった動画がこれだ。
1988年のカルガリー五輪の金メダル演技。
サラエボのもリレハンメルのもある。

 

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January 25, 2008

オリンピック4連覇

「4.pdf」オリンピック4連覇

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December 27, 2007

長嶋 VS 星野の裏で行われた五輪予選

昨日に続いて視聴率のはなしをしよう。
今月台中で行われた野球の北京五輪アジア予選は記憶に新しいところだが、韓国戦の27.4%という視聴率はプロ、アマ、高校野球を通じても最も高い数字だった。
この予選が仮にアメリカのようにシーズン中に実施されていたらどういった結果になったろうか。

1999年 翌年のシドニー五輪野球のアジア予選は9月に行われた。
シドニーからプロの選手が参加するようになり、日本もパリーグの選手を中心に選ばれた。
9月14~16日、セリーグの優勝を争う巨人と中日のこのシーズン最後の直接対決と、アジア予選の日程が丁度重なった。

15日は祝日、巨人対中日は中盤まで接戦の試合展開、中継はNHKの全国ネットということもあり、29.0%の高視聴率を出した。
一方、同じ日にソウルの蚕室競技場で行われた五輪予選の日本対台湾 はフジテレビの中継で17.8%を記録。
先発したのは19歳の松坂大輔だった。

単純に2試合の視聴率を合計すると、46.8%という高い数字になる。
NHKがスポーツ中継をすると普段その競技に関心のない人も視聴することがある。
また、五輪予選のような特別な試合になると、普段プロ野球を見ない人もチャンネルを合わせる。
そのためこうした数字が出てくる。

結局1999年のセリーグは中日が優勝 監督は星野仙一氏、2000年のセリーグは巨人が優勝(監督は長嶋茂雄氏)するのだが、巨人の優勝の決まった9月24日はシドニー五輪で高橋尚子が女子マラソンで金メダルを獲った日でもある。

シドニー五輪女子マラソンの視聴率は40.6%、高橋尚子のゴール直後の午前9時29分には、59.5%の瞬間最高視聴率を記録した。
巨人がリーグ優勝を決めた同日の中日戦は21.9%。

とはいうものの、翌日のスポーツ紙の一面には長嶋氏の胴上げの写真が並び、高橋尚子はウラ一面に追われた。
高橋の金メダルは午前9時半のはなしで、翌日の朝刊としては鮮度がやや落ちる、そして戦後日本のスポーツ界を引っ張った長嶋氏最後になるかもしれない優勝にスポーツ紙が敬意を表したと筆者は見た。

ビデオリサーチ社によると1999年の巨人戦の平均視聴率は20.3% 2000年は18.5%。今季の2倍である。
今年の五輪予選がシドニーの時と同じような日程だったら、どういった視聴率になっていただろうか。

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December 06, 2007

ロサンゼルス五輪の出場権をかけた野球アジア予選のとんでもないはなし

日本代表が野球で金メダルを獲ったのは1984年のロサンゼルス五輪。
当時野球は公開競技だったが、日本代表の団体球技の最後の五輪金メダルでもある。

もう随分と昔の話なので記憶違いや、詳細不明の部分もあるが、この五輪のアジア予選はとんでもない大会であった。

ロサンゼルス五輪を前年に控えた1983年9月、韓国ソウルの蚕室競技場で野球のアジア選手権が始まった。アジアからの五輪出場枠は2カ国、日本は韓国か台湾のいずれかに勝たなければならないはずだった。

当時台湾には後に西武で117勝を挙げる郭泰源(現台湾代表監督)、ロッテで70勝挙げる荘勝雄、日本には後にヤクルト入りする青島健太や阪神入りする池田親興などがいた。

9/03 韓国 vs. 豪洲  6:2   日本 vs.フィリピン 11:2
9/04 台湾 vs. 日本  3:1   豪洲 vs.フィリピン 4:1
9/05 雨天のため一日順延
9/06 台湾 vs. 韓国  1:2   日本 vs. 豪洲  8:4
9/07 韓国 vs. フィリピン 11:1   豪洲 vs. 台湾  1:5
9/08 台湾 vs. フィリピン 5:2   日本 vs. 韓国  2:2(10回再試合)
9/09 日本 vs. 韓国  2:3
          ~~上位4カ国による決勝ラウンド~~
9/10 豪洲 vs. 韓国  2:5   台湾 vs. 日本  4:5
9/11 雨天のため一日順延
9/12 台湾 vs. 豪洲  10:0   韓国 vs. 日本  1:4
9/13 豪洲 vs. 日本  0:10   韓国 vs. 台湾  2:3(延長11回)
    日本 vs. 台湾  0:1

●Result
1.韓国  予選4勝0敗,決勝1勝2敗(合計5勝2敗)
1.台湾  予選3勝1敗,決勝2勝1敗(合計5勝2敗)
1.日本  予選2勝2敗,決勝3勝0敗(合計5勝2敗)
4.豪洲  予選1勝3敗,決勝0勝3敗(合計1勝6敗)

予選と決勝リーグの勝敗が合計されたため、韓国、台湾、日本の3カ国が同じ勝ち星になり、3カ国が優勝を分け合うことになった。

が、肝心の五輪出場権については、
雨天順延となった9月11日に韓国がこんなことを言い出した。
「我々は昨年の世界選手権で優勝しているのでロサンゼルス五輪に推薦出場すべきである」と。
このあたりの詳細については記憶にない部分もある。
が、これが通ってしまったのだ。

アジアに2枚割り振られていた出場権の一枚は韓国へ。
そして日本は台湾とプレイオフによってもう1枚を争うことになった。

郭泰源と池田親興の投手戦になった。
この当時の郭泰源はMAX154キロ、158キロ出ていたという話もある。
日本、台湾ともにゼロが続く中、9回ウラ趙士強のサヨナラホームランが飛び出し、五輪出場権は台湾に渡った。

ご存知のようにロサンゼルス五輪は、モスクワ五輪の報復として東側諸国がボイコットをする。
野球に出場するはずだったキューバも同調した。
そしてキューバの代替には日本が選ばれた。

日本は、急な五輪出場に大学生を主体とした若手で編成することにした。
そのため青島健太等社会人野球を支えてきた選手が外れた。

そして金メダル獲得。

東芝のエリート社員でもあった青島はここままアマチュアで野球を続けていても金メダルを獲った五輪代表よりも評価されることはない、としてドラフト外でヤクルトに入団するのだ。

●1983年日本代表
投手:鈴木政明、黒紙義弘、西村基史、池田親興、池尻康晴、藤高俊彦、岡田邦彦
捕手:佐竹政和、島田宗彦
内野手:武智勇治、武居邦生、中屋惠久男、宮崎剛、正田耕三、望月伸一、青島健太
外野手:中本竜兒、福本勝幸、鶴岡昌宏、小林貢

●参考記事
デドー監督逝く

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November 21, 2007

競技として成立し損ねる可能性のあった東洋の魔女

フジテレビと国際バレーボール連盟の関係が話題になっているが、こうした話は叩けば結構ある。

1964年の東京五輪で"東洋の魔女"と呼ばれた全日本女子チームが、宿敵ソ連を3対0でくだし、初代金メダリストになったことは多くの人が知っていると思う。
日本対ソ連のバレーボール決勝戦の視聴率はW杯サッカーを凌ぐ歴代1位の66.8%で、NHK・民放合わせると85%に達したとも言われている。

東洋の魔女の金メダルにはこんな裏話がある。
東京五輪開幕間近になり、北朝鮮の大会ボイコットが決まった。
当初、女子バレーに出場を予定していた北朝鮮の不参加により、「6ヶ国出場」という正式種目の規定が満たせなくなった。
すると東京五輪組織委員会は韓国に100万円を送り、急遽出場をお願いした。
当時、バレーボールは東京五輪に限って正式種目として実施することになっており、日本女子が金メダルを獲れる唯一の種目を何としても実施したかったのだ。
実は、東京五輪以前に日本の女子選手が獲得した金メダルは1936年ベルリン五輪200m平泳ぎの前畑秀子さんが唯一であり、地元開催で2個目の金メダルが欲しかったのだ。
そして急遽来日し、準備不足だった韓国バレーチームは全敗している。

当時 女子の球技は、世界的にみても、バレーボール以外もほとんど普及していなかった。
バスケットボール、ハンドボールも女子は実施されておらず、ホッケー、サッカー、水球の女子の採用はほんの最近なのだ。

●東京五輪女子バレー
1.日本
2.ソビエト
3.ポーランド
4.ルーマニア
5.アメリカ
6.韓国

●球技の五輪初実施大会
サッカー男子     1900年
サッカー女子     1996年
水球男子       1900年
水球女子       2000年
バスケットボール男子 1904年
バスケットボール女子 1976年
ホッケー男子     1908年
ホッケー女子     1980年
ハンドボール男子   1936年
ハンドボール女子   1976年
バレーボール男子  1964年
バレーボール女子  1964年
野球          1992年
ソフトボール      1996年

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November 20, 2007

サッカーソウル五輪アジア最終予選 日本対中国 国立競技場

11月17日 サッカー日本五輪代表は4-0でベトナムに勝利、一方サウジアラビアが2-1でカタールに勝ち、カタールの予選敗退が決定、21日の日本対サウジアラビアで、日本は勝つか引き分けるかで北京五輪出場権を得る。

ホームの国立競技場で勝つか引き分けで五輪出場が決まる、同じようなことが昔あった。
もう20年も前のことになる。

翌年のソウル五輪を控えた1987年、メキシコ五輪以来20年ぶりの五輪出場を日本代表は目指していた。
1986年のW杯出場を争った韓国が五輪開催国として出場権を持っていたため、これまでの五輪予選に比べ比較的楽に予選突破が可能ではないかと見られていた。
事実日本は最終戦を前に4勝1引き分けで、勝ち点9、最終戦の相手の中国は3勝1敗で勝ち点7。

特に10月4日に広州で行われたアウェーの中国戦は1-0で日本が辛勝。
シュートの数は日本3に対し中国は20。フリーキックを得た水沼(日産)が時間を置かずにすぐセンタリング、これを原(三菱)がヘディングで挙げた貴重な1点を守って先勝している。

試合が始まった。
勝った方が五輪出場権を手にする激しい試合。ともにディフェンシブな立ち上がりたが、ディフェンスが素早く攻め上がる中国が、左右からの速い展開を仕掛ける。
中国の2トップは、前半15分から一方的に日本ゴールを脅かし、37分 左からの大きなセンタリングを長身FWが頭に合わせ0-1。日本はこの予選初の失点だった。
1点を獲り引き分けに持ち込みたい日本は、守りを固めた中国守備陣を崩し切れず得点できず、逆に82分、だめ押しの2点目を奪われてしまう。

これでソウル五輪出場権は中国が獲得、中国は五輪サッカー初出場。一方の日本は5大会連続の予選敗退となった。
 
日本代表には木村和司も奥寺康彦もいた。が、大半は終身雇用制の中の大企業の社員選手だった。
数字上は日本有利だったがが、捨て身で攻めれば良い中国と、20年ぶりの五輪と大合唱するマスコミ、国立競技場を埋めた大歓衆の前で負けられない日本代表のプレッシャーは想像に難くない。
今から思えば負けるべくして負けたと思う。

▼アマからプロへ 
当時はJリーグ発足前の日本リーグ時代 プロの選手はいなかったのか?
1969年に設立されたサッカーの読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)の出現は、企業アマの形態を崩す一助となった。
試合の結果に対して選手に報酬を出したのである。読売クラブの選手は原則社業がない。彼らがサッカーを職業とし、その対価として給与をもらっていた。
すると1972年設立の日産自動車(現横浜Fマリノス)をはじめ、新興チーム、老舗のチームにも事実上のプロ選手が現れる。

こうした形態を日本サッカーリーグ事務局、又日本サッカー協会が追認する形で認めたのが1986年から始められた実質的なプロ契約である「スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度」である。
当初西ドイツのブンデスリーガでプレーし、日本に帰国し古河電工に復帰した奥寺康彦のために用意した制度だったが日産自動車の木村和司も自ら手を挙げた。
そして日立、古河電工などでアマチュアとして登録していたものの実態は何らかの手当てを受け取っていた選手を、「ノン・アマチュア」、全く社員のままの選手を「アマチュア」と区分した。
翌年「スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度」と「ノン・アマチュア」を統合、プロ選手は57人に増えた。

▼Jリーグ誕生
プロリーグへの待望論は、読売や日産、全日空、ヤマハといった後発チームの方が積極的であり、古河、三菱、日立といった老舗チームは消極的であった。
しかし後発チームに古河、三菱からのスタッフを加えたプロジェクトチームがプロリーグ構想を推し進め、1991年に日本プロサッカーリーグの構想を発表、1993年にJリーグが開幕した。
開幕後 日本は1996年のアトランタ五輪から3大会連続五輪出場を果たしている。

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November 16, 2007

ロバート・テイラー逝く

ロバート・テイラーが亡くなった。59歳だった。
1972年のミュンヘン五輪陸上で400リレー金メダルと100mで銀メダルを獲得したアメリカの選手だ。

ミュンヘンの100mは歴史に残るレースである。
というのも優勝候補と目されていたアメリカの2選手が召集時間に遅刻するという失態があったからだ。

ミュンヘン五輪の100mにエントリーしていたアメリカ選手は
ロバート・テイラー
エドワードハート
レイナード・ロビンソン

の3人
100mの準々決勝は、1972年8月21日の午後4時15分に始まる予定だった。
競技時間が近づいてもアメリカチームは、スタジアムにやって来なかった。
彼らは準々決勝は午後7時からだと思い込んでいたのだ。

コーチのスタンライトは、五輪の18ヵ月前に作られたスケジュール表を信じ込んでいた。
スタジアムへのバスを待っている間、4人はABCテレビの本部の中で、100mの準々決勝の中継を見ていた。

1次予選の録画であると思った中継が、生の映像だとABCのスタッフから伝えられると、1組で走ることになっていたロビンソンは、自分が走る予定だったまにそのレースを見ていることに驚いた。
ハートは2組、テイラーは3組だ。
4人は慌ててオリンピックスタジアムに行くことになるが、ハートが競技場に着くと、もう2組もレースは終わっていた。
テイラーは、スウェットをさっと脱いで、靴をはいて、2・3回屈伸運動をしてスタートラインに間に合った。

決勝ではソビエトのバレリー・ボルゾフが優勝、タイムは10.14。
ロバート・テイラーは10.24で2位に入った。

ボルゾフの優勝タイムが10秒14と平凡な記録であったため、アメリカのマスコミからタナボタ優勝と揶揄された。
ところがボルゾフは200mでも当時のシーズンベストである20秒00の好タイムで優勝し、マスコミを黙らせた。
さらに4年後の1976年モントリオール五輪でも100mで銅メダルを獲得し、ソビエト最高の精密機械とか、研究室から生まれた金メダリストとか呼ばれた。

陸上100mの金メダリストはアフリカ系アメリカ人が多い。
いわゆる白人選手の金メダリストには

1960年ローマ五輪 アルミン・ハリー(西独) 10.0(10.32)
1972年ミュンヘン五輪 バレリー・ボルゾフ(ソ連) 10.14
1980年モスクワ五輪 アラン・ウェルズ(イギリス) 10.25

などがいる。

●参考記事
PUMA買収される
陸上100mのはなし カール・ルイスからガトリンまで

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November 09, 2007

ソウル五輪の日本対ペルーの激戦を思い出した

かつて金メダルを獲った男子バレーが、凋落の道をたどり始めたのはきっかけはモントリオール五輪の準決勝、ポーランド戦だ。
田中幹保とヴォイトビッチが壮絶な打ち合いをし、田中が打ち負けた。
続くキューバとの3位決定戦に日本は主力を温存し、キューバに敗れた。
3位決定戦で日本のセッターだったのが柳本晶一氏。
普段は金メダルセッター猫田勝敏氏(故人)の控えだった。
以後男子バレーが、五輪の表彰台に昇ることはない。

女子にも同じような試合がある。
ソウル五輪の準決勝ペルー戦だ。

ロス五輪で日本は3位、ペルーは4位。
80年代は本当にペルーにかき回された。
日本は1、2セットを落とし、ペルーに先行を許したが、よく粘り3、4セットを奪い、フルセットに持ち込んだ。
そして最終セットも12-9とリードしながら、勝負をあせって逆転された。

もうひとつの準決勝はソ連が中国に勝ち、銅メダルをかけた中国との一番で日本は完敗する。
以後、五輪で日本が準決勝にすら進むことはない。

ペルー3(15-9 15-6 6-15 10-15 15-13)2日本

ペルーは地元開催の1982年の世界選手権で準優勝(日本4位)、86年3位、そしてソウル五輪では決勝でソ連に敗れたが銀メダルを獲得した。
1960年~70年代には加藤明氏(故人)、80年代には韓国人の朴万福氏が監督を務めた影響が大きく、南米には珍しく拾ってつなぐバレーをした。

それにしてもソウル五輪の女子バレーは凄かった。

予選リーグ
日本○3-2●ソ連
東独○3-2●日本
日本○3-1●韓国
準決勝
ペルー○3-2●日本
3位決定戦
中国○3-0日本

最終順位
①ソ連②ペルー③中国④日本

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October 23, 2007

東大加藤投手 リーグデビュー

東京六大学野球(神宮球場)で、生まれつき左手が親指と小指だけで、左足も甲から先がなく義足の東大・加藤善之投手(2年、神奈川・栄光学園)が21日、立大2回戦でリーグ戦デビューを果たした。
加藤投手は右投げだが、左利き用のグラブを使う。球を投げ終えると、左手のグラブを外して左脇に挟み、素早く右手にはめ直して捕手からの返球を受ける。高校時代は軟式野球を経験し、03年夏はエースとして全国大会にも出場した。 (asahi.com)

加藤選手のことは高校生の頃から新聞等で知っている。
神宮で頑張って欲しいのはもちろんだが、マスコミの「身障者なのに凄い」的な論調は気になるところだ。
本人も特別視されて報道されることは、嬉しいとは思ってないのではないか?

MLBのエンジェルスなどで活躍した投手にジム・アボットがいた。
隻腕投手と呼ばれた。生まれつき右手首から先がなかったのだ。
右利き用のグラブを右手の手首の上に乗せ、左手での投球直後にそのグラブを左手にはめ直す「アボット・スイッチ」と呼ばれる投げ方をした。それでも平均以上のフィールディングをした。

ミシガン大在学時にソウル五輪の米国代表として金メダルを獲得(当時は公開競技)。
決勝戦の相手 日本のピッチャーは野茂英雄、キャッチャーは古田敦也、さらには野村謙二郎といった後の球界を代表する選手が参加していた。
ドラフト一巡目でエンジェルス入団。1991年には18勝、ヤンキース時代の1993年にはノーヒットノーランも記録した。

隻腕投手にとっては、バントが泣きどころだ。一試合で連続9人のバント攻撃を受けたこともあるが、アボットは8人までアウトにした。
障害の有無に関わらず、ゲーム中に遠慮はない。それをはね返すアボットも凄い。
アボットの不屈の精神を育てたのは両親と、コーチや選手の分け隔てしない友情、と米国のスポーツ環境だろう。

野茂英雄の同僚だったブリューワーズで引退。
MLB通算87勝108敗。
「僕の野球人生は終わりにきたと思う。やるべきことはやったし、満足はしている。僕のキャリアは偉大ではないけど、素晴らしかった」
と言い残している。

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October 12, 2007

ソウルオリンピックのボクシングも酷かった

昨日の「プロボクシングWBC世界フライ級タイトルマッチ・内藤大助×亀田大毅」戦の平均視聴率は、28.0%だった。
瞬間最高視聴率は判定を伝えた時点の37.5%(いずれも関東地区=ビデオリサーチ調べ)と高かった。
中継したTBSには、試合終了後に「実況や解説が亀田寄りではないか」などのクレームが、電話やメールで約1500件寄せられたという。

五輪でもボクシングのトラブルは多い。
なんといっても1988年 ソウル五輪のボクシングの後味の悪さは五輪史に残る。
その一端を紹介しよう。

ソウル五輪ボクシングバンタム級2回戦、韓国の辺丁一とアレクサンダー・クリストフ(ブルガリア)の試合は4-1でクリストフの判定勝ちとなった。
ところが、韓国コーチがリング内にかけ上がり、ニュージーランド人のレフェリーに激しく抗議し、ついには殴りかかった。
すると他のコーチもこれに加わり、トレーナー、審判を含め約20人でのもみ合いになった。
エキサイトしたリングサイドからはいすも投げ入れられた。

審判氏は警官たちに守られて控室に戻ったが、興奮した韓国人はここまでも追いかけてきた。
騒ぎを大きくしようとしたのか、静めようとしたのか、会場責任者が照明をいきなり消す。
これでこの試合のあとに予定されていた2試合が延期となった。

騒動のあと、審判氏の母国ニュージーランド大使館には抗議電話が殺到。
審判氏は「身の危険を感じた」と、急ぎ金浦空港から帰国してしまった。

韓国の有力二紙はこの騒ぎを社説に取り上げ、「韓国スポーツは惨めなKO負けを喫した。五輪主催国の体面は地に落ちた」(朝鮮日報)、「メダルより重要なものを失う」(韓国日報)と論評した。

なおこの辺丁一はプロ入り後WBC世界バンタム級の王座に就くが、薬師寺保栄に敗れ王座を失っている。


ついでにもうひとつ。
ボクシングのライトミドル級決勝では、プロ転向後にミドル級出身でヘビー級の王座を獲得した史上2人目の選手となる米国のロイ・ジョーンズ・ジュニアと韓国の朴時憲が対戦した。

2度のダウンを奪うなどジョーンズが圧倒し、誰もがジョーンズの勝利を疑わなかったにもかかわらず判定(3-2)で敗れ、五輪史に残る判定疑惑事件となった。

この事件をきっかけとして、アマチュアボクシングのジャッジシステムが完全に変更されるようになるのだが、翌年この試合の審判5人のうち3人が韓国に買収されていたことが、国際アマチュアボクシング連盟(AIBA)が開いた会議で暴露されている。

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October 02, 2007

訃報 アル・オーター氏 オリンピック4連覇

訃報:アル・オーター氏71歳=男子円盤投げ五輪4連覇

陸上の男子円盤投げで1956年のメルボルン五輪から4連覇を達成したアル・オーター氏(米国)が1日、心不全のため死去した。71歳だった。同氏の夫人によると高血圧と心臓病に苦しんでいたという。

身長193センチで一時は体重が136キロもあった巨漢の同氏は、いずれの大会でも五輪記録を更新した。五輪の陸上での同一種目4連覇は同氏と男子走り幅跳びのカール・ルイス氏(米国)の2人だけ。(共同)


陸上競技史上5本の指に入る大選手です。
ご冥福をお祈りします。

●参考記事
オリンピック4連覇から抜粋

最後にアルフレッド・オーター。
陸上円盤投げでメルボルン、ローマ、東京、メキシコで4連覇を果たした後、幼かった娘二人と一緒にいてやりたいといって引退。
娘も大きくなり、2大会ブランクの後モスクワ五輪にカンバックしようとした。
1980年の全米陸上では2位に入り、幻のモスクワ代表にも選ばれた。
ロサンゼルス五輪の開会式で五輪旗を掲げた一人だったと記憶している。

1980年に創刊されたNUMBER誌にボイコット騒動の渦中のオーターのインタビュー記事が出ていた。
黙々と練習する中「(カーター)大統領は間違っていない」と語っていたのを今なお思い出す。

円盤投げやハンマー投げは、築き上げた技術という財産が長く維持できる種目なのだろう。
それにしても、メルボルン(1956年)から24年後に、その水準を保ったというのは、奇跡的である。

●円盤投げ アル・オーター
1956年メルボルン大会
金 56.36m
 
1960年ローマ大会
金 59.18m

1964年東京大会
金 61.00m

1968年メキシコ大会
金 63.78m


○円盤投げの世界記録
ユルゲン・シュルト 74m08 東ドイツ=当時 1986年6月6日

日本記録
川崎清貴 60m22 1979年4月22日

ちなみに男子の円盤は2キロの重さがある。

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July 25, 2007

ミュンヘン2018年冬季五輪招致へ

ドイツ五輪委員会(DOSB)はフランクフルトで理事会を開き、ミュンヘンの2018年冬季五輪開催地立候補を支持する方針を固めた。
ミュンヘンは1972年に夏季五輪を開催しており、開催地となれば同一都市での夏、冬両五輪の開催は初めてとなる。

ハンブルグとベルリンが2016年夏季五輪招致に関心があるといわれて来たが、2012年の夏季五輪が同じヨーロッパのロンドンに決まったため、夏季五輪招致を回避、ミュンヘンでの冬季五輪招致を決めたようだ。

ミュンヘン市のあるドイツ南部、オーストリアと国境を接するバイエルン地方はアルプスの一角をなし、多くのスキー場が点在している。
ジャンプ週間でお馴染みのオーベルストドルフ、ガルミッシュ・パルテンキルヘンも近い。
このあたりは、ドイツ最大のスキー場としてだけでなく、ドイツ有数の高級保養地として国際的にも名高い。
そのガルミッシュ・パルテンキルヘンは、1936年の冬季五輪開催都市としても知られる。
当時は、夏季五輪開催国が、冬季大会も併催することになっていた。
そのため、1940年の幻の東京五輪の半年前にはやはり幻の札幌五輪が予定されていたのである。

ドイツでは1936年にベルリン、1972年にミュンヘンで夏季五輪を開催しているが、東西ドイツの統一後は一度も五輪開催はない。
ベルリンは2000年夏季五輪に立候補したものの、シドニーに敗れ、2012年の夏季五輪招致に立候補したライプツィヒは予備選考(1次選考)で落選している。

2018年の冬季五輪には、フランスのアネシー、ノルウェーのトロムソー等が立候補する予定だ。
2014年冬季五輪招致でソチに敗れたザルツブルクは招致断念、平昌は態度を表明していない。

ミュンヘンといえばやはり思い出すのはテロだ。
ナチス ヒットラーの政治宣伝に利用されたベルリン五輪から36年経過した1972年、民主主義が成熟した新生ドイツをアピールすべく、西ドイツ(当時)は、ミュンヘンで五輪を開催した。
西ドイツは、ミュンヘン五輪の成功でベルリン五輪の暗い影を払拭するはずだった。
だが、西ドイツ政府の思いとは裏腹に、ミュンヘンは近代五輪史上最大の悲劇の舞台と化してしまったのである。

9月5日、イスラエル選手宿舎に侵入したテロリスト“黒い9月”の7名は、イスラエル選手団のレスリングコーチとウェイトリフティングの選手2名を射殺し、選手とコーチ9名を人質として拘束した。
彼らは、人質にしたイスラエル選手とコーチと交換に、イスラエルの刑務所に拘留されている256名のパレスチナ人の釈放を要求。
西ドイツ警察は、テロリストが人質を連れて五輪村を出てヘリコプターに乗り移る際、テロリストを狙撃しようとするも失敗。
彼らは、手榴弾を2機のヘリコプターに投げ込み、人質のイスラエル人9名とドイツ人のヘリコプター・パイロット全員が殺害されたのである。

この事件により、競技は中断、翌日メインスタジアムで追悼式典が行われた。
ブランデージIOC会長は、テロに屈しないオリンピックを主張、競技は再開された。
しかし、ミュンヘン五輪は血の塗られた大会として記憶されている。

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June 28, 2007

今なお残るメキシコ五輪の怪記録

先日エントリーした91年世界陸上の男子走り幅跳びについて補足する。
カール・ルイスの2位になった記録は4回目の8m91。
だが、ルイス自身のベスト記録は5回目の8m87になる。
これは200mまでの短距離と走り幅跳び、三段跳びは追い風が2m以上になると参考記録となるためだ。

陸上競技界においてはもうひとつ高地で出された記録が参考記録に準ずる扱いになっている。
とはいえ、明文化された高度に対する規制はない。
メキシコシティーとかセストリエールのような高地は空気が薄く、空気抵抗が少なく、短距離や跳躍競技に有利なことは明らかだ。

そのため、国際陸連IAAFは高地において出された記録には「A」(altitudeの頭文字)を付けて平地で出された記録と区別している。
高地とは何m以上かという明確なものはないが2000mくらいか?
また、日本では一切の区別はない。

1968年に夏季五輪を開催したメキシコシティーは海抜2240m。高地開催の影響が危惧された大会だ。
酸素量が平地の4分の3、加えて低圧低温の環境。大会前に専門家の中には「死者が出る」と真顔で指摘した人もいた。 
高地での開催は、特に陸上の短距離、跳躍での快記録続出につながった。陸上の男子100mではアメリカのジム・ハインズが史上初めて10秒の壁を破る、9.95の世界記録で優勝。
今でこそ100mの9秒台は普通のことだが、ハインズの記録は1983年にカルビン・スミスがやはり高地のコロラドスプリングスで9.93を出すまで15年間破られなかった大記録だ。

ところが200m、400mなどには今なおメキシコ五輪の怪記録が、世界歴代ランキングの上位にある。
既に39年が経つのにである。

●男子200m世界歴代記録
①19.32 マイケル・ジョンソン アメリカ アトランタ五輪 01 08 1996
②19.62 タイソン・ゲイ アメリカ インディアナポリス全米陸上 24 06 2007
③19.63 ザビエル・カーター アメリカ ローザンヌ 11 07 2006
④19.65 Wallace Spearmon アメリカ 大邱ユニバ 28 09 2006
⑤19.68 F・フレデリクス ナミビア アトランタ五輪 01 08 1996
⑥19.69 W・ディクス アメリカ ゲインズビル 26 05 2007
⑦19.72 ピエトロ・メンネア イタリア メキシコユニバ 12 09 1979←高地
⑧19.73 マイケル・マーシュ アメリカ バルセロナ五輪 05 08 1992
⑨19.75 カール・ルイス アメリカ インディアナポリス 19 06 1983
⑩19.75 ジョー・デローチ アメリカ ソウル五輪 28 09 1988
⑪19.77 アト・ボルドン TRI シュツットガルト世界陸上 13 07 1997
⑫19.79 ショーン・クロフォード アメリカ アテネ五輪 26 08 2004
⑬19.83 トミー・スミス アメリカ メキシコ五輪 16 10 1968

*このトミー・スミスは別の意味でも五輪史に残るランナーである。
アリとその時代をご参照ください。

●男子400m世界歴代記録
①43.18 マイケル・ジョンソン アメリカ セビリア世界陸上 26 08 1999
②43.29 ハリー・レイノルズ アメリカ チューリッヒ 17 08 1988
③43.50 クインシー・ワッツ アメリカ バルセロナ五輪 05 08 1992
④43.62 ジェレミー・ワリナー アメリカ ローマ 14 07 2006
⑤43.81 ダニー・エバレット アメリカ ニューオーリンズ 26 06 1992
⑥43.86 リー・エバンス アメリカ メキシコ五輪 18 10 1968

●男子1600mリレー
①2:54.20 アメリカ ユニオンデール北中米選手権22 07 1998
②2:54.29 アメリカ シュツットガルト世界陸上 22 08 1993
③2:55.74 アメリカ バルセロナ五輪 08 08 1992
④2:55.91 アメリカ アテネ五輪 28 08 2004
⑤2:55.99 アメリカ アトランタ五輪 03 08 1996
⑥2:56.16 アメリカ メキシコ五輪 20 10 1968

●男子走り幅跳び
①8m95 マイク・パウエル アメリカ 東京世界陸上 30 08 1991
②8m90 ボブ・ビーモン アメリカ メキシコ五輪 18 10 1968
③8m87 カール・ルイス アメリカ 東京世界陸上 30 08 1991

●参考記事
陸上女子の永遠に破ることのできない世界記録

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May 29, 2007

蒲池猛夫選手の思い出

人気ユニット「ZARD」の坂井泉水さんが亡くなった。
2000年のシングル「Get U're Dream」はNHKのシドニー五輪テーマ曲になり、今でも口ずさめる。

坂井さんの本名は蒲池幸子さんという。
蒲池さんといえば鎌倉時代から続く福岡県の名門の一族だ。
坂井さんとは遠い親戚にあたるという松田聖子氏の本名は蒲池法子、さらにロサンゼルス五輪射撃ラピッドファイアピストルで金メダルを獲った選手に蒲池猛夫氏も一族にいる。

蒲池猛夫さんはその当時48歳。五輪出場は4回目だったが、モスクワ五輪を含めれば5回目の日本代表だった。
当時の日本最高出場記録である。 
日本の場合、射撃選手は警察官か自衛隊等に限られるため、非常にマイナーな競技とされるが、蒲池は3回出場した五輪で毎回「優勝候補」と騒がれていた。
1967年の全日本選手権では当時世界最高となる598点を記録、メキシコ五輪で「メダルは確実」といわれていながら12位。ミュンヘン五輪は33位。モントリオール五輪も12位に終わっていた。

●蒲池猛夫 ラビッドファイアピストル
・1968年メキシコ五輪
12位(586点) 金メダル:593点
・1972年ミュンヘン五輪
33位(580点) 金メダル:595点
・1976年モントリオール五輪
12位(591点) 金メダル:597点
・1980年モスクワ五輪
日本不参加 金メダル:596点
・1984年ロサンゼルス五輪
金メダル(595点) 

ロサンゼルス五輪は、その4年前のモスクワ五輪をボイコットされた報復に東側諸国が大量にボイコットをした大会である。射撃は東側が強く、このラピッドファイアピストルもポーランド、東ドイツ、ルーマニアといった国が金メダルを獲っていた。
そのため、蒲池氏の金メダルも「棚からボタモチ」的な金メダルと指摘する人もある。
が、この日の蒲池の得点595点はそれ以前の金メダルの得点と比べてもそん色ないし、蒲池に次いで銀メダルを獲ったルーマニアのイオンはモスクワ五輪の金メダリストでもある。

ロス五輪の2年前、草刈り中に右手中指を切り、ピストルが握れなくなって一度は引退した。しかし、若手の伸び悩みから復帰の声がかかり、一年間のブランクを乗り越えてのロス五輪であり、日本選手最年長、孫もいた。

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April 11, 2007

PUMA買収される

フランス小売り業大手のPPR社は10日、ドイツのスポーツ用品プーマ社(PUMA)を買収すると発表した。
買収総額は53億ユーロ(約8450億円)。
PPRは、高級ブランドのグッチ、イヴサンローランなどを傘下に持ち、世界的に知名度の高いプーマをグループに加え、ブランド戦略を欧州、アジアなどで幅広く国際展開する模様。
プーマの世界売上高は約23億7000ユーロ(3800億円)で、米ナイキ、独アディダスに次ぐスポーツ用品世界3位。

よく知られていることだが、ドイツの二大スポーツメーカー アディダスとプーマの両社はともにダスラー兄弟によって設立されている。
もともと兄弟で靴つくりをしていたが、兄弟の確執から別れ、兄のアディがアディダス、弟のルドルフがプーマを作った。

先述のように世界的な売り上げではアディダスがプーマを上回るが、昨年のドイツW杯出場国における契約数をみるとプーマがアフリカ代表5か国を含む12か国に代表チームのユニフォームを提供し、ナイキの8か国、アディダスの6か国を押さえていた。

PUMA 12カ国
イタリア、チェコ、スイス、ポーランド、コートジボワール、アンゴラ、チュニジア、ガーナ、トーゴ、サウジアラビア、イラン、パラグアイ

adidas 6カ国
日本、フランス、スペイン、ドイツ、トリニダード・トバゴ、アルゼンチン

NIKE 8カ国
ブラジル、アメリカ、メキシコ、クロアチア、ポルトガル、オランダ、オーストラリア、韓国

アルミン・ハリー
プーマと契約し、初めて五輪で金メダルを獲ったのは1960年ローマ五輪陸上男子100mのアルミン・ハリー(西ドイツ=当時)。
ベルリン五輪4冠王のジェシー・オーエンス、後年のカール・ルイスと並び陸上短距離史に名を残す大ランナーである。

とにかく反応時間~スタートの合図を知覚して実際に走り出すまで~が早く、史上最短ではないかといわれている。
100mのベストは手動計時による10秒0だったが、ハリーが活躍していたのは今から50年近く前。
現在のシューズ、ウエア、トレーニング法がハリーの時代にあったら、9秒7台が出たという人もいる。

このアルミン・ハリー、元々アディダスを使っていたのだが、ローマ五輪決勝前にアディダスに金銭を要求した。
アディダスに断られるとプーマに話を持って行き優勝。
表彰式を前に再びアディダスのシューズを履くからと、アディダス側にも金銭を要求。
アマチュアリズムの徹底していたこの時代に驚くべき商才を発揮した。
ローマ五輪から20年目の1980年には、320万マルクの詐欺を働き、18ヶ月の執行猶予を受けたという記録も残っている。

ローマ五輪100m決勝のビデオはここで見ることができる。
確かに速い。

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January 29, 2007

アジアの鉄人 楊伝広氏死去 

台湾の中央通信によると27日、台湾に初めてオリンピックの銀メダルをもたらした楊伝広(ようでんこう)氏が脳卒中のため米カリフォルニア州の自宅で死去した。73歳。

米カリフォルニア州の大学で大会前に練習を重ね、1959年に全米陸上十種競技で優勝。翌60年のローマ五輪の陸上十種競技で銀メダルを獲得する快挙を達成した。ローマ大会の陸上競技分野でのメダル獲得はアジアでもただ1人だった。同競技は「キング・オブ・スポーツ」と呼ばれ、人気の高い欧州のジャーナリストから「アジアの鉄人」と称賛された。64年の東京五輪でもメダルが期待されたが、体調不良により5位に終わった。63年に出した十種競技の総合得点8009点は、アジア最高記録として30年以上破られなかった(現在の最高記録は8725点)。最近、肝臓がんの治療のため、カリフォルニア州に滞在していた。(産経新聞)

楊伝広氏、全く見たこともないが、伝説のアスリートとしては知っていた。
1960年代 中国のいない世界の陸上界で台湾の選手が五輪で2個のメダルを獲っている。
一人が楊氏、もうひとりがメキシコ五輪女子80m障害銅メダルの紀政氏だ。
(女子の障害走が100mになったのは1972年のミュンヘン五輪以降)

昨年行われた世界バレー女子で、全日本がいきなり初戦で台湾=チャイニーズタイペイに敗れた。
五輪を始めとする国際競技大会でのチャイニーズタイペイの呼称は既に定着していると思っていたが、意外とこの呼称を使う理由が知られていないことに驚いた。

チャイニーズタイペイ=中華台北は、中華民国である台湾が国際社会に参加する上で、妥協として用いている名称である。五輪以外の国際総合競技大会や、国際的な民間組織でも、中華台北の名称で参加している事例が多くなっている。

IOCの少数の委員が「二つの中国」の政策を堅持していたため、中国五輪組織委員会は1958年8月に、IOCから脱退した。
1979年10月にIOCに復帰し、1980年レークプラシッド冬季五輪に参加するも、同年のモスクワ五輪には不参加。夏季五輪への復帰は1984年のロサンゼルス五輪となった。
中国のIOC復帰に伴い代わりに脱退した台湾は1981年にIOCに復帰し、中国・台湾の双方がIOCのメンバーとなった。

台湾の呼称について長らくまとまらなかったが、1989年4月、当時の中国の五輪委員会会長何振梁と中華民国五輪委員会事務局長の李慶華の両者が協議し、1992年のアルベールビル冬季五輪以降、英文表記でチャイニーズタイペイ、漢字表記で中国台北、IOCコードのTPEへの変更を決定した。
その後台湾は、なし崩し的に中華台北を使用、中国もこれを黙認し、現在に至っている。

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December 27, 2006

エレナ・ムヒナ死去

時事通信などによると、かつてのソ連の女子体操選手エレナ・ムヒナが亡くなったそうだ。
46歳、死因は公表されていない。
ムヒナを知っている人はもうほとんどいないだろう。

Yelena1978年のフランス・ストラスブールの世界選手権の個人総合でナディア・コマネチ、ネリー・キムを敗り個人総合に優勝した選手だ。
ルーマニアのコマネチが10点満点を連発したのが76年のモントリオール五輪。
旧ソ連が国家威信を懸けていた80年モスクワ五輪の個人総合で金メダルを獲るために秘密兵器として育てられ、1978年に衝撃のデビューを遂げた。
そのインパクトはコマネチの登場をも上回るほどだった。

ところが1979年に骨折をする。が、このケガが完治しない内にトーマス(という後ろとびから1回半ひねり、前方宙返り転をする技)を床運動でするための練習を続けた。
モスクワ五輪開幕の2週間前に、練習中に失敗頭から落ち、あごと背骨を折ってしまった。
ムヒナは四肢麻痺患者となった。

ところが、当時のソ連は情報公開をせず、「ムヒナは死んだ」「いや生きているが再起不能だ」などと噂が飛んだものの、その真相は語られることはなかった。

後に旧ソ連政府は、ムヒナにレーニン勲章を与え、1983年にはフアン・サマランチIOC会長(当時)が、五輪勲章の銀メダルを与えた。

体操ファンの友人はこんなことをいう。
ストラスブールの世界選手権個人総合のムヒナの段違い平行棒と床の演技は自分にとって最高だった。
自分はあれを超えるものを探して体操を見続けているような気もする。

●1978年世界体操選手権ストラスブール大会 
女子個人総合①エレナムヒナ②ネリーキム③シャポシニコワ
跳馬①ネリーキム②コマネチ③Kräker
段違い平行棒①Frederick②エレナムヒナ③Eberle
平均台①コマネチ②エレナムヒナ③Eberle
床①エレナムヒナ、ネリーキム③Eberle、Johnson(1位と3位が2人ずつ)

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October 03, 2006

ニューヨークヤンキースの王建民

紐約洋基 とは何だかご存知だろうか。
紐約はニューヨーク、洋基はヤンキースを表す中国語だ。
台湾紙には連日 紐約洋基の文字が躍っている。
というのもヤンキースに所属する台湾人右腕、王建民が活躍中だからだ。

AP通信は27日、すでにア・リーグ東地区を制したニューヨーク・ヤンキースが、10月3日に予定されている地区シリーズ初戦に王建民を抜擢すると報じた。
王建民は今季19勝6敗、ツインズのサンタナと並び、アメリカンリーグの最多勝を獲った。2000年に韓国人の朴贊浩(当時ドジャース、現パドレス)がマークした18勝を抜いてアジア人最多記録をも更新した。
MLB2年目、今季の年俸は約4000万円というから驚いた。

アテネ五輪の野球を覚えているだろう。
アテネ五輪の野球はアメリカ、韓国が大陸予選で敗退するという当初から波乱含みだった。
札幌ドームでのアジア予選、決勝リーグで韓国が台湾に延長の末、敗れた試合で先発したのが当時ヤンキース傘下の2Aに所属していた王建民だった。

アテネ五輪の本番、日本が勝てば決勝トーナメント進出が決まるという台湾戦、日本の前に立ちはだかったのも王建民だった。
対する日本の先発は上原浩治、2回まで台湾打線を0点に抑えていたが、3回レフト前ヒット、四球で2人の走者を出したあと、陳金鋒に左中間へスタンドへの3点本塁打を浴びて0-3。

追う日本は、7回1死1、3塁から宮本慎也のスクイズで藤本敦士が生還してまず1点。
さらに2死2塁、高橋由伸が、2ストライク1ボールからの4球目、外角のスライダーをレフトスタンドへ飛び込む同点の2点本塁打で同点に追いついた。

延長で迎えた10回裏日本の攻撃 1死満塁で打者は小笠原道大。
1ストライク1ボールからの3球目、外角低めのスライダーを打つと、打球はレフトへフライが上がる。3走の高橋由伸がヘッドスライディングでホームに還り、日本 サヨナラ勝ち
5勝1敗で決勝トーナメント進出を決めた。

とはいうものの、日本は準決勝の豪州戦にやぶれ3位決定戦に。
カナダを下し何とか銅メダルを死守する。優勝はキューバ。
日本がそのキューバを下して世界一の称号を得るのは今年のWBCのことになる。

なお、王建民はWBC台湾代表をケガのため辞退、アジア代表は日本と韓国だった。

王建民ヤンキースでの記録

年度

所屬

等級

試合

投球回數

勝利

敗戦

救援成功

完投

完封

四死

三振

責失

勝率

防御率

2000

ヤンキース

A

14

87 0/3

4

4

0

2

1

21

75

24

0.500

2.48

2002

ヤンキース

A

13

78 1/3

6

1

0

0

0

14

64

15

0.857

1.72

2002

ヤンキース

AA

21