陸上

August 27, 2015

47年経っても今なお残るメキシコオリンピックの怪記録

昨日の男子400m決勝は、凄いレースだった。
メダルを獲った3人ウェイド・バンニーキルク、ラショーン・メリット、キラニ・ジェームスの3人が43秒台。
バンニーキルクの43.48、メリットの43.78は、それぞれ自己ベストで世界歴代4位と6位。
ジェームスの43.78はセカンドベストで、世界歴代9位相当(自己ベストは世界歴代8位の43.74)という大変なものだ。

昨日の結果を含めて、男子400mの歴代ランキングを作ると以下のようになる。
多くが、世界陸上や五輪の決勝で出された記録だが、10位に注目してほしい。

●男子400m世界歴代記録
①43.18 マイケル・ジョンソン 米国 セビリア世界陸上 1999.8.26
②43.29 ハリー・レイノルズ 米国 チューリッヒ 1988.8.17
③43.45 ジェレミーウォリナー 米国 大阪世界陸上 2007.8.31
④43.48 ウェイド・バンニーキルク 南ア 北京世界陸上 2015.8.26
⑤43.50 クインシー・ワッツ 米国 バルセロナ五輪 1992.8.5
⑥43.65 ラショーン・メリット 米国 北京世界陸上 2015.8.26
⑦43.72 アイザック・マクワラ ボツワナ ラ・ショードフォン 2015.7.5
⑧43.74 キラニ・ジェームス グレナダ ローザンヌ 2014.7.3
⑨43.81 ダニー・エベレット 米国 ニューオーリンズ 1992.6.26
⑩43.86 リー・エバンス 米国 メキシコ五輪 1968.10.18


43.86 リー・エバンス (米国) ここだけを見ると特に他と変わらないが、
競技会場は、メキシコシティのエスタディオ・オリンピコ。
日時は1968年10月18日とある。

そう、この記録は今から47年前のメキシコ五輪で出された記録なのだ。
陸上競技以外にも競泳や、スピードスケートなどタイムを争う競技がいくつかある。が、他の競技も含めて47年も昔の記録が今なお歴代10傑に入っていることは、常識的には考えられない。

1968年に夏季五輪を開催したメキシコシティは海抜2240m。
開催前に高地開催の影響が危惧された大会だった。
メキシコシティの酸素量は、平地の4分の3。
加えて低圧低温の環境で、大会前に専門家の中には「死者が出る」と真顔で指摘した人もいたという。 

が、高地での五輪開催は、特に陸上の短距離、跳躍での快記録続出につながった。
陸上の男子100mではアメリカのジム・ハインズが史上初めて10秒の壁を破る、9.95の世界記録で優勝。
走り幅跳びは、ボブ・ビーモン(アメリカ)が8m90を跳び、解説をしていた川本信正さんに「これは21世紀の記録ですよ」と言わせしめた。
メキシコ五輪以前の世界記録は8m35、銀メダルの選手は8m19だったというから、いかに大ジャンプであったか判るだろう。
この記録は、21世紀までは持たなかったが、1991年の東京世界陸上でマイク・パウエルが、8m95を跳び破られるまで不倒の世界記録として君臨した。

ほかにも200m、4×400mリレーなどが今なお世界歴代ランキングの上位にある。
●男子4×400mリレー世界歴代記録
①2:54.29 アメリカ シュツットガルト世界陸上 22 08 1993
②2:55.39 アメリカ 北京五輪 2008.8.23
③2:55.56 アメリカ 大阪世界陸上 2007.9.2
④2:55.74 アメリカ バルセロナ五輪 1992.8.8
⑤2:55.91 アメリカ アテネ五輪 2004.8.28
⑥2:55.99 アメリカ アトランタ五輪 1996.8.3
⑦2:56.16 アメリカ メキシコ五輪 1968.10.20

●男子走り幅跳び世界歴代記録
①8m95 マイク・パウエル アメリカ 東京世界陸上 1991.8.30
②8m90 ボブ・ビーモン アメリカ メキシコ五輪 1968.10.18
③8m87 カール・ルイス アメリカ 東京世界陸上 1991.8.30
④8m86 ロバート・エミアン ソ連 Tsakhkadzor 1987.5.22
⑤8m74 ラリー・マイリックス アメリカ インディアナポリス 1988.7.18

では、メキシコ五輪で出された記録が、北京世界陸上決勝の何位に相当するか、47年前という事を考えると凄いことだ。

  100m ジム・ハインズ 9.95 6位相当
  200m トミー・スミス 19.83 3位相当
  400m リー・エバンス 43.86 4位相当
  走り幅跳び ボブ・ビーモン 8m90 1位相当
  4×400mリレー アメリカ 2分56.16 (30日)


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August 26, 2015

棒高跳びで5人が表彰台に登る珍事 北京世界陸上

世界陸上北京大会の棒高跳びで5人が表彰台に登るという珍事が起きた。
15回を数える長い世界陸上の歴史の中で、表彰台に5人が登ると言うのは初めてだ。

Boutaka2015

上位6選手の内、5m90が2人、5m80が4人。
この6人の順位はどうやって決められたのか。
棒高跳びにはこういったルールがある。

1.同記録になった高さでの試技数が少ない方を上位とする。
 ・最後に跳んだ高さを何回目に成功したか。1回目に成功した選手が上位になる。
2.複数の選手の記録が同じになった場合は、その高さまでの失敗(無効試技数)が少ない方が上位となる。
 ・最後に跳んだ高さ以降の数は数えない。

5m90を成功したのは2人。
バーバーは5m90まで1度も失敗しない。
ホルツデッペは、5m90は3度目の試技で成功、5m80も1回失敗している。
よって優勝はバーバー、2位がホルツデッペ。

5m80を成功したのは4人。
ヴォイチエコフスキー、ラビレニ リセクの3人は跳び始めた高さは異なるが、5m80を1回目に成功。
3人とも5m80に至るまで一度も失敗していない。
一方、メナルドは5m80は3回目に成功した。
よって、ラビレニ、リセク、ヴォイチエコフスキーは3位タイ。メナルドは6位。


過去の五輪や世界陸上の棒高跳びの記録を調べていて面白いものを見つけた。
1976年のモントリオール五輪だ。

タデウス・スルシャルスキー(ポーランド)、アンティ・カリオマキ(フィンランド)、デーブ・ロバーツ(アメリカ)の3人が5m50を1回目に成功させた。
スルシャルスキーとカリオマキは5m55を3回失敗し競技終了。
ロバーツは5m50をパスし、一人だけ5m60に挑むも3回失敗し全競技が終了した。

Boutaka1976

では、順位はどうなったか。
ロバーツが5m35の1回目を失敗しているので3位。
スルシャルスキーとカリオマキは5m50まですべて1回目に成功している。
現在のルールであれば両者金メダルとなるはずだが、スルシャルスキーが金メダル、カリオマキの銀メダルとなった。
なぜか?

この当時、同じ記録ならば総試技数の少ない方が上位になるというルールがあった。

そのため、5m50を含めて3回の試技だったスルシャルスキーが上位、5回の試技だったカリオマキが下位となった。
この時代の棒高跳びは、試技数を如何に少なく競技を終えるかの駆け引きが重要だったのだ。
銅メダルに終わったロバーツは、5m50に成功した時点で試技数ではスルシャルスキーと並んでいたが、5m35で思わぬ失敗をしており、他の二人と同じように5m55に挑んでいては金メダルを獲れないと判断し、5m60に挑んだのだ。

アメリカは、近代五輪の第1回大会(1896年)から第19回(1968年)まで、棒高跳びに19連覇を続けていたが、モントリオール五輪の4年前、ミュンヘン五輪で初めて金メダルが獲れなかった。
金メダル奪回のプレッシャーが、想像以上にロバーツを固くしたと言われている。



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August 24, 2015

世界陸上100m なぜブロメルとドグラスは同着3位になり、ゲイ、パウエル、ビコは同タイムながら6、7、8位になったか

昨日の北京世界陸上の男子100mは、ジャスティン・ガトリンを1/100秒かわしたウサイン·ボルトが9.79で優勝した。
興味深いのはブロメルとドグラスが9.92で同着3位になったことと、タイソンゲイ、アサファ・パウエル、ジミー・ビコがタイムは同じ10.00ながら6、7、8位と順位がついたことだ。

①ボルト 9.79
②ガトリン9.80
③ドグラス9.92
③ブロメル9.92
⑤ロジャース9.94
⑥ゲイ10.00
⑦パウエル10.00
⑧ビコ10.00
⑨蘇炳添10.06
IAAFのスポンサーであるSEIKOがゴールの際の写真を配信しているのでこれをみると判りやすい。

100metresphotofinish3

写真判定装置では通常1/1000秒単位で画像を記録している。
1/1000秒でも差がない場合は同着となる。
1/1000秒だけの差がある場合も、機械のノイズによる誤差もあり得るとして同着となる。

よって、ブロメルとドグラスは1/1000秒以内の差。
ゲイ、パウエル、ビコは同じ10.00であっても、それぞれ2/1000秒以上の差があったということだ。




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August 20, 2015

国際陸上連盟新会長は セバスチャン・コー

この週末から世界陸上が始まるのに先駆けて、IAAFの新会長を決める選挙があった。
立候補していたのはセバスチャン・コー(英国)とセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)。
どちらも五輪金メダリストであり、陸上史に残るアスリートである。

結果は115-92でコーが勝った。

このブログでもセバスチャン・コーのことは何度も書いているが、陸上界でコーよりも影響力のある人間はいないだろう。
「非常に光栄だ。私がこれほどまでに希望し、また打ち込める仕事はほかにない」
と新会長になったコーの談話が発表された。

IAAFは現在、危機にあると言っても過言ではないだろう。
大きなドーピング疑惑に直面している。
英紙サンデー・タイムズと独公共放送ARDが8月初め、2001~12年に選手5000人を対象に実施された血液検査1万2000余りのデータを入手し、中・長距離種目で150人近い五輪、世界陸上のメダリストについて、ドーピングが疑われる結果が出ていたと伝えている。
この報道は、北京世界陸上を直前にしたIAAFへの挑戦状である。

これに対し、IAAFは不正を全面的に否定する声明を発表。
コーもAP通信とのインタビューで、
「選手たち並びに競技そのものの名誉を傷つける報道だ。まさに宣戦布告だ」
と怒りをあらわにしている。
が、新会長決定後には
「禁止薬物への寛容さはゼロだ。監視を最高レベルに高める」
とも語っており、その手腕が楽しみでもある。

陸上競技はサッカーを除けば、世界的にも最も人気の高い競技だ。
だが、その財政を支えているのは日本企業だ。
TBSがIAAFの各選手権の独占放送権を持っているほか、IAAF公式スポンサー7社の内4社が日本企業だ。
1社の支払うスポンサー料は年間200万ドル。
しかし

  キャノンは2016年まで
  セイコーは2019年まで
  TDKは2019年まで
  トヨタは2017年までの契約に留まっている。

日本は2020年に東京五輪を控え、広告効果を再確認している状況にある。
IOCのTOPスポンサーにも決まったトヨタが、トヨタカップ時代から長年協賛してきた、クラブW杯のスポンサーを降りたのもその一環だ。

(*スポンサーの内、中国のSINOPEC、ロシアのVTBは今年で契約切れになり、大会中にも更新するかの交渉がもたれる)

セバスチャン・コーは過去に歴史的なスピーチをしている。
その一端を紹介しよう。

◆第117回国際オリンピック委員会総会 2005年7月6日 (シンガポール) 
2012年夏季五輪開催地決定に際してのロンドンのプレゼンテーション。

45分のプレゼンのほとんどは、セバスチャン・コーが話している。
 
私が今日ここに立っているのは、自分自身が、オリンピックムーブメントによって感激させられたからです。
メキシコ五輪当時、私が12歳の時、私は学校の集会所にクラスメートとともに行きました。
私たちは古い白黒テレビの前に座り、五輪の映像を見ました。
その日が、私を新しい世界に連れて行ってくれる窓となったのです。

そしてコーは、14歳のロンドンの二ューハム地区に住むバスケットボール選手Amber Charlesを紹介した。
その風貌はいかにも移民といった様子だ。

なぜ彼女がロンドン招放団の一員なのか、私たちの目的は、若者たちに活気を与えることです。
ロンドン東部に住む彼女らは、最も直接的に五輪に触れることが出来るでしょう。
ロンドンに住む人の出身国は、200カ国にも及び、彼女らの家族は各大陸出身者です。
ロンドンの文化の融和は、彼らの存在は、世界のお手本になるでしょう。
彼女らのスポーツを愛する心、そして私たちのロンドンに五輪を招くことは、心からの夢なのです。

通常、各立候補都市の最後のプレゼンテーションでは、施設の充実をアピールに終始する。
が、ロンドン招致委委員会会長のセバスチャン・コーは、五輪選手出身者らしい締め方をした。

◆第84回国際オリンピック委員会総会 1981年9月29日 (西ドイツバーデンバーデン)
当時は西ドイツとよばれていた国のバーデンバーデンで、IOC総会と、五輪コングレスが開催された。
五輪コングレスとは、IOC総会よりも規模が大きく、この先の五輪運動の根本からを話し合うための会議である。

この当時、世はまさに東西冷戦下。
この前年に開催されたモスクワ五輪は、アメリカ、カナダ、西ドイツ、日本などの主要国がボイコットし、片肺に終わっていた。
当時のIOC委員は現在のように、選手出身の委員よりも、欧州の王族や経済的な成功者が多くを占めるブルジョアクラブのようになっており、スポーツの世界、あるいは社会全体の動きに疎い連中の集まりだった。

そのため、IOCは、「モスクワ五輪ボイコット」を突如ぶちまけたジミー・カーター米国大統領(当時)を説得するでもなく、打開案を見出すでもなく、みすみす五輪の崩壊を指をくわえて見ていただけだった。

1980年にIOC会長になったばかりのアントニオ・サマランチは、銀行家から外交官になり、IOCに入った人物だが、社会の変化と現状を示そうと、五輪コングレスで初めて、現役選手に発言の場を与えた。

このときIOCを舞台に、選手の立場から初めて演説をしたのがセバスチャン・コー。
後に、ロンドン五輪組織委員会会長を務める彼は、モスクワに選手を送らなかった国、送ることをじゃました国を痛烈に批判し、

現代の五輪選手の負担は大きく、その犠牲は無視すべきでない。IOCには、選手への社会的配慮を保証する、道義的義務がある

と訴えた。
さらには、近代五輪が誕生したときからの最大の課題、スポーツを通じて報酬を得る選手(いうなればプロ)の五輪参加を認めるかどうかのアマチュア問題を一刀両断したのだ。

このコーのスピーチをきっかけとして、五輪は排他的エリート意識の産物から、プロ解禁による普遍的なスポーツの祭典へと変わって行った。



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August 19, 2015

胸と背中に輝くTDK 世界陸上

今週末から北京で世界陸上が始まる。
舞台は「鳥の巣」2008年の北京五輪のメイン会場だった北京国家体育場だ。

現在ではスポーツの大会に出場する選手のゼッケンに企業ロゴが入ることは当たり前のことだ。
ロゴの企業はつまりはスポンサー企業。
スポンサーからの協賛金が、主催者に支払われている。
世界陸上では、第1回のヘルシンキ大会からこの制度が取られれている。
スポーツとビジネスとが蜜月になっていく分岐点が1984年のロサンゼルス五輪といわれるが、その1年前のことになる。

そのゼッケンスポンサーに名乗りを挙げたのはTDK。
当時からカセットテープ、ビデオテープの日本におけるトップ企業だったが、世界的知名度は、現在と比較すると低く、ヨーロッパで人気の高い陸上競技に目を付けた。
以後、世界陸上は今年の北京大会で15回目となるが、男子選手の胸と背中にはTDKのロゴが必ずある。

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▲三田工業がスポンサー時代の世界陸上の様子

一方、女子は第1回大会こそTDKだったが2回目以降は様々な企業が、(といっても日本企業がほとんどなのだが、)務めてきた。
中でも異色なのは87年・97年・99年にゼッケンスポンサーを務めた三田工業。
業務用の複写機、印刷機の製造販売を手掛け、日本国内よりも海外で高いシェアを誇っていた企業だが、粉飾決算事件の影響で1998年に会社更生法を申請し倒産した。

IAAFとの契約は別法人の海外子会社を通じて結んでおり、倒産後は債権者への配慮もあり、打ち切る方針を一度は決めた。
が、契約を途中で打ち切っても残金の支払い義務があることや、社員の士気を高める効果などを考慮し、99年大会までゼッケンスポンサーを続けたという経緯がある。
三田工業は2000年に京セラグループ入りし、現在は、京セラミタと社名を変更している。

また、余談だが『僕って何』で芥川賞を受賞した三田誠広氏は旧三田工業の経営陣の親戚にあたる。

Iaafwc


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August 19, 2013

世界陸上男子4×100mリレーの記録(1983~2013)

昨日まで開催されていた世界陸上モスクワ大会。日本勢は、女子マラソンの福士加代子が銅メダルを獲得。女子マラソンの木崎良子(4位)、女子10000mの新谷仁美(5位)、男子20km競歩の西塔拓己(6位)、男子棒高跳の山本聖途(6位)、男子ハンマー投の室伏広治(6位)、男子マラソンの中本健太郎(5位)、男子4×100mリレー(6位)が入賞した。日本チームの入賞数8つは01年・03年・05年に並び最多タイとなる。

*世界陸上男子4×100mリレーの記録(1983~2013)

●2013年 決勝6位 38.39
桐生、藤光、高瀬、飯塚
予選 38.23
桐生、藤光、高瀬、飯塚

●2011年 予選 9位 
小林、江里口、高平、斎藤

●2009年 決勝4位
江里口、塚原、高平、藤光
予選 38.53
江里口、塚原、高平、藤光

●2007年決勝5位 38.03(日本記録)
塚原、末続、高平、朝原
準決勝 38秒21
塚原、末続、高平、朝原

●2005年 決勝8位 38.77
末續慎吾、高平慎士、吉野達郎、朝原宣治
準決勝 38.46 
朝原宣治、高平慎士、吉野達郎、末續慎吾

●2003年 決勝6位 39.05
土江、宮崎、松田、朝原
準決勝 38.58
土江、宮崎、松田、朝原

●2001年 決勝5位 38.96
松田、末続、藤本、朝原
準決勝 38.54
松田、末続、藤本、朝原

●1999年 朝原の故障のためエントリーせず

●1997年 5位 38.31(準決勝敗退 当時の日本記録)
井上 悟、伊東浩司、土江寛裕、朝原宣治

●1995年 決勝5位 39.33
鈴木、伊東、井上、伊藤
準決勝 38.67
鈴木、伊東、井上、伊藤

●1993年 7位 39.01(準決勝)
小野原、杉本、井上、伊東

●1991年 6位 39.19(準決勝)
井上、杉本、奥山、山下

●1987年 5位 39.71(準決勝)
松原、大田、名倉、不破

●1983年 エントリーせず
*1991年までは4年に一度の開催

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August 12, 2013

張培萌 日本記録10秒00に並ぶ 男子100m

世界陸上モスクワ大会第2日目 男子100m決勝で、世界記録保持者のウサイン・ボルト(ジャマイカ)が今季自己最高の9秒77のタイムで2大会ぶり2度目の優勝を果たした。

ボルトが勝ったことに特に感慨はないが、ショックだったのは中国の張培萌が準決勝で10秒00の中国新記録を出し、決勝進出を逃したものの(5位)、日本記録に並んだことだ。

伊東浩司さんがアジア大会の準決勝で10秒00を出したのは1998年のこと。
伊東さんの後も朝原、末続、塚原。そして山縣、桐生と9秒台を伺う選手が次々に現れるが、今回山縣、桐生は準決勝に進めなかった。
一方中国は、26歳の張培萌が、予選で4月に自身がマークした中国記録に並ぶ10秒04を出し、4組1着。
23歳の蘇炳添は10秒16で6組4着だったが、4着以下の選手では最も速いタイムで予選を通過した。
 
アジアの国籍を持つ唯一の9秒台の選手は、アフリカ生まれのカタール人 サミュエル・フランシス。
今大会でも予選は、10秒21ながら準決勝までは駒を進めている。
ただ、フランシスの自己ベスト9秒99でも、その記録は世界歴代80位にしかならないのだ。

100mのアジア記録のベスト12を作ってみた。
12人の内日本人選手が7。
数の上では日本人が圧倒している。

面白いのはカザフスタンのヴィタリー・サビン。
1991年にソ連が崩壊した後は、カザフスタン代表で10秒06を出した選手だが、なんと1988年のソウル五輪ではソ連代表として4×100mリレーに出場、金メダルを獲っている。
この時代、リレーといえばジャマイカでなく米国の独壇場。
予選4組に出場した米国は、第三走者とアンカーのバトンパスが、オーバーゾーンとなって失格した。
当時の大スターカール・ルイスは、予選は走らず、決勝のみアンカーを務める予定だったが、走る機会すらなく、この大会2冠に終わっている。

Best12

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August 04, 2012

山県亮太100mで日本人五輪最高記録

男子100m予選が行われ、20歳の山県亮太(慶大)が日本歴代4位に並ぶ10秒07の好タイムで、5日の準決勝に進んだ。五輪同種目での日本勢の準決勝進出は、2000年シドニー大会での伊東浩司以来12年ぶり。江里口匡史は10秒30で2組6着に終わり敗退した。

●五輪陸上100m日本人選手ベスト13
①10秒07 山県亮太 2012年1次予選
②10秒16 朝原宣治 1996年準決勝5位
②10秒16 塚原直貴 2008年準決勝7位
④10秒19 朝原宣治 1996年2次予選
④10秒19 末續慎吾 2004年2次予選
⑥10秒23 塚原直貴 2008年2次予選
⑦10秒24 朝原宣治 2004年2次予選
⑧10秒25 伊東 浩司 2000年1次予選
⑧10秒25 朝原宣治 2008年1次予選
⑩10秒27 末續慎吾 2004年1次 予選
⑪10秒28 朝原宣治 1996年 1次 予選
⑫10秒30 江里口匡史 2012年1次予選
⑬10秒33 朝原宣治 2004年1次予選
⑭10秒34 飯島秀雄 1968年準決勝

1996年以降の記録が並ぶ中、1968年メキシコ五輪の飯島秀雄の10秒34は特筆に値する。

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January 03, 2012

箱根駅伝に名を残す日本初の五輪選手 金栗四三

今年の箱根駅伝は東洋大学が優勝し、最優秀選手の柏原竜二に金栗四三杯が贈呈された。
金栗四三は、日本初の五輪選手として知られているが、箱根駅伝の誕生に尽力し、2004年から最優秀選手に金栗の名を冠した賞が贈られることになった。

近代五輪の第1回が行われたのが1896年。
日本が初めて五輪に参加したのは、その16年後の1912年、第5回ストックホルム五輪である。
最初の日本選手団はたったの4名だった。
柔道の創始者として知られる嘉納治五郎・大日本体育協会(日本体協の前身)会長、大森兵蔵同総務理事を役員に、選手は陸上短距離の三島弥彦(東大)とマラソンの金栗四三(東京高師=現筑波大)の2人だけだった。
ストックホルムと言えばスウェーデンの首都。
仮に今年ストックホルムで五輪開催となれば、日本選手団はチャーター便でひとっ飛び…となるところだが、1912年当時、彼ら選手団はどうやって移動したのだろうか。
ちなみに、ライト兄弟の世界初の動力飛行成功が1903年のことである。
そのわずか9年後となれば、当然、日本からヨーロッパへの移動に飛行機が浸透しているわけもなく、鉄道か船を利用するしかなかった。

三島・金栗の両選手は、自腹でストックホルムに向かっている。
まず5月16日に新橋駅を出発し、敦賀から船でウラジオストクへ向かう。そしてシベリア鉄道でサンクトペテルブルクまで行き、さらに船に乗ってようやくストックホルムに到着。かかった時間、実に18日間。
短距離選手の三島はまず100m予選に出場し、最下位で落選。
続く200m予選も敗退した。
3種目目の400m予選では、3人が棄権したため、2位で準決勝に進出を果たしたが、疲労のため結局棄権した。

一方、マラソン代表の金栗は、当時のマラソン世界記録保持者だったが、32キロ地点で日射病のために倒れ、民家で一晩介抱された。
当時は極東から来た選手が行方不明になったと話題になり、時の人にもなっている。

ちなみに金栗には、後日こんなエピソードがある。五輪開催から55年後の1967年、ストックホルム市は五輪開催55周年記念祭を開き、「消えた日本人」こと金栗老人を招待した。
76歳になっていた金栗は、かつてのゴール地点に案内されて10m手前から走ってゴールする。
そこに場内放送が流れた。
「第5回ストックホルム五輪マラソン競技は完全に終了しました」
タイムは、54年と8ヶ月6日5時間37分20秒3
その後の会見で、金栗老人はこんな素晴らしいスピーチを披露した。

「長い道中でした。途中で孫が5人もできました」。

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September 21, 2011

国立競技場改修へ 1

文部科学省は国立競技場の改修に向けて、2012年度予算案の概算要求に調査費を盛り込むという。
これによって東京都が立候補を表明した2020年夏季五輪のメインスタジアムは、晴海ではなく国立競技場の改修となる。

2016年招致の際には、国立ではなく新スタジアムの新設という計画を立てた。
というのも、近年の五輪メインスタジアムは収容8万人、陸上競技のための直走路・曲走路は9レーンが必要だ。
さらに400mトラックのサブトラックも必要となる。

現在の国立競技場は収容人数は5万4000。
直走路・曲走路はともに8レーン。
これを9レーンに拡げることは構造上できないため、全面的な立替が必要となる。
また、サブトラックは空いている土地がないため、おそらく同じく国立である秩父宮ラグビー場を改修することになる。
2016年招致計画にあった晴海の新スタジアムは何故だめなのだろうか。
建設費900億円。
海外から1億ドルのスタジアムと揶揄されていた晴海スタジアムは、3方を海に囲まれている。
そのため震災に遭遇したら避難することが難しい。
大震災以降、海外から「日本=地震」と見られているため、地震に関することは必要以上に神経質になる必要がある。

そして、晴海のスタジアムは東京都が建設することになっていた。
これが「国立競技場の改修」という形になれば、改修費が800億〜1000億円かかったとしても、東京都の負担はなくなり、都民の理解を得やすい利点がある。

2009
●2009年に世界陸上を開いたベルリンのオリンピアシュタディオン。
1936年のベルリン五輪のメイン会場だが、直走路は9レーンに改修した。
上の方に400mのサブトラックが見える。

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