ウインタースポーツ

March 04, 2019

高木美帆2位 世界スピードスケート選手権とある選手の訃報

スピードスケートの世界選手権。
ディフェンディングチャンピオンとして出場した高木美帆は、500mと1500mで1位だったが、3000mは10位、5000mは8人中8位の総合2位。
3000m、5000mともに世界新記録を出したマルティナ・サーブリコワに競い負けた。

●高木美帆のタイム 500m、3000m、1500m、5000mの記録 ( )内は順位
2018年総合優勝
39.01 (1) 4:19.78 (2) 1:58.82 (1) 7:29.12 (4) 合計166.905 (1)
2019年総合2位
37.22 (1) 4:00.16(10) 1:52.08 (1) 7:02.72 (8) 合計156.878 (2)

スピードスケートのオールラウンド選手権は、500m、1500m、3000m、5000mを1回ずつ滑って、その合計ポイントで優勝を決める大会である。
昨年は、オランダ・アムステルダムで行われていた世界スピードスケート選手権に高木美帆が日本人選手として初めて優勝した。

高木の優勝はもちろん快挙だったが、試合会場のリンクが1928年のアムステルダム五輪のメイン会場のオリンピス・スタディオンだったことに何よりも驚いた。
こういうのを五輪のレガシーという。

今年の大会は1988年カルガリー五輪のスケート会場だったオリンピックオーバル。
高地にあり、世界記録が出やすいリンクとして知られている。

●歴代優勝者(女子
2007年:イレイン・ブスト
2008年:パウリーン・ファン・デートコム
2009年:マルティナ・サブリコワ
2010年:マルティナ・サブリコワ
2011年:イレイン・ブスト
2012年:イレイン・ブスト
2013年:イレイン・ブスト
2014年:イレイン・ブスト
2015年:マルティナ・サブリコワ
2016年:マルティナ・サブリコワ
2017年:イレイン・ブスト
2018年:高木美帆
2019年:マルティナ・サブリコワ

2007年から2019年までの女子の総合優勝者を並べてみた。
今年の総合優勝者で、五輪でも3つの金メダルを持つサブリコワ。
平昌の1500mで高木美帆に勝つなど、五輪の5つの金メダルを獲ったブスト。
この二人が交互に優勝している中、間を縫うように1回ずつ優勝しているのが高木美帆とオランダのパウリーン・ファン・デートコムだ。

平昌で金銀銅のメダルを一つずつ獲った高木美保に比べて、パウリーン・ファン・デートコムには、輝かしい実績はない。
2006年トリノ五輪に出場してはいるが、メダルは獲っていない。
オランダ語は発音が難しく、なんとなく名前を覚えているといった選手だった。
2012年引退したと言うことだったが、消息を調べていると・・・
今年の1月に亡くなっていた。

37歳。

昨年の夏に肺がんが見つかり半年持たなかったと言う。
ご主人と娘さん(Lynnちゃん)が残されたと言うが、娘さんは2017年生まれの1歳。
何とも気の毒でならない。

カルガリーで高木美帆選手はパウリーン・ファン・デートコム財団にサイン入りのユニフォームを贈った。オークションに出されて金額は財団に寄付されるようだ。



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平成のスポーツの記憶⑧ 荻原健司最後の金メダル 1997年世界ノルディック

ノルディックスキーの世界選手権は、日本勢がなかなか波に乗れないうちに終わってしまった。
今大会は、ジャンプの小林陵侑に世界のスキー関係者が注目していたが、獲得できたのは団体の銅メダルのみ。
シーズンを通じて優勝者を決めるW杯とは異なる、一発勝負の世界選手権。
雪、雨、温度といった自然の中で競い合うというスキー競技の醍醐味が味わえた大会だったのではないか。

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過去の世界ノルディックで日本チームが獲得したメダル

世界ノルディックは、2年に一度開催されているが、ほとんど欧州選手権に日本が招待されているかのような、参加国に偏りがある。
そんな中、長野五輪の前後は対等以上に欧州勢と渡り合ってきた。
1993年のファルン大会。
日本チームはノルディック複合個人の荻原健司、ノルディック複合団体(河野孝典・阿部雅司・荻原健司)、ジャンプNH原田雅彦と3つの金メダルを獲得している。

世界ノルディックというと荻原健司を思い出す。

ogiwara1990年代 W杯個人19勝、五輪団体2連覇などジャンプを含む日本のスキー界に残した記録は他を圧倒する。
この荻原が最後に表彰台の真ん中に立ったのが1997年の世界ノルディック選手権トロンハイム大会であった。

ジャンプで先行して、距離で逃げ切るという常勝パターンが崩れ、なかなかW杯でも勝てなくなってきていた荻原。
早大の先輩で、リレハンメル五輪複合個人銀メダルの河野孝典が引退。
長野五輪を1年後に控え、トロンハイムの世界選手権を迎えた。

この個人戦でメダルをとの思いは強かったが、海外メディアにとって荻原は既に下馬評に挙がることはなく、ビャルテエンゲン・ビーク(ノルウェー)、サンパ・ラユネン(フィンランド)の一騎打ちと見られていた。

複合のピークは20歳と言い切るラユネンはこのとき17歳。怖いもの知らずの勢いで、ジャンプで首位に立つ。
荻原はそれまで苦しんでいたことを振り払うようにジャンプをまとめ、2位で距離を迎えることになる。
15秒差でスタートした荻原健はワックスが合い、1キロ過ぎで首位のサンパ・ラユネンに並ぶ。
その後、4位から追い上げてきたビャルテエンゲン・ビークとのマッチレースになる。

3周目に入ったばかりの10キロ過ぎ、一度は抜かれたビークに先頭を譲られる形で首位に立つ。
勝負どころは残り2キロの上り。距離の猛者ビークを、一気に突き放し、そのままゴールした。
このとき荻原健司27歳、ビャルテエンゲン・ビーク25歳、3位入ったアルベールビル五輪金メダルのギーは28歳。
「20歳がピーク」といわれたベテランが意地を見せた。
 
その後2002年まで競技生活を続けた荻原だったが、優勝はこれが最後。
W杯の勝利も19を超えることはなかった。

翌年の長野五輪の複合個人は、ビークが優勝、荻原は4位。
地元での金メダルをさらわれたビークが、逆に荻原を抑える形になった。

●世界ノルディック選手権 トロンハイム(ノルウェー)複合個人1997年2月23日
(1)荻原健司(北野建設)(ジャンプ(2)232・0、距離(12)43分43秒1)
(2)ビーク(ノルウェー)タイム差30秒8((4)227・0、(13)43分43秒9)
(3)ギー(フランス)1分19秒4((10)217・0、(9)43分32秒5)
(34)荻原次晴(北野建設)
(40)大竹太志(専大)
(55)上野隆(東京美装)

●荻原健司の戦績
1992年アルベールビル五輪
個人7位、団体1位

1994年リレハンメル五輪
個人4位、団体1位

1998年長野五輪
個人4位、団体5位

2002年ソルトレークシティ五輪
個人11位、団体8位、スプリント33位

世界選手権
93年個人1位、団体1位
95年個人5位、団体1位
97年個人1位、団体9位
99年個人6位、スプリント3位、団体5位

W杯92~93 7勝
93~94 5勝
94~95 6勝
95~96 1勝

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March 01, 2019

小林陵侑 スキージャンプ5大タイトルに挑む

現在、アーストリアで世界ノルディック選手権が開催されている。
注目はジャンプの小林陵侑。

スキージャンプの世界には5つのタイトルがある。
五輪
世界選手権
世界フライイング選手権
W杯総合優勝
ジャンプ週間(4Hills)

22歳の小林陵侑は、昨年末から今年年始にかけてのジャンプ週間に4戦4勝、史上3人目の快挙をやってのけた。
今季11勝を挙げているW杯の総合優勝もまず間違いない位置にいる。

●ジャンプW杯2018~19ランキング
①小林陵侑(日本)1620
②ストッフ(ポーランド)1145
③クラフト(アーストリア)1017
④ジワ(ポーランド)963
⑤クバツキ(ポーランド)834
⑥ヨハンソン(ノルウェー)707
⑦フォーファン(ノルウェー)673
⑧ザイツ(スロベニア)664
⑨アイゼンビヒラー(ドイツ)661
⑩ガイガー(ドイツ)634
世界ノルディック開幕前までの成績。小林陵侑が2位以下を圧倒しており、総合優勝は間違いない。

すると5大タイトルのうち今季狙うことができるのは世界選手権の金メダル。
既にLHは終了(小林は4位)、残すはNLになる。

長野五輪のLHと団体の金メダリスト船木和喜は、1998年長野五輪LH個人、団体で2つの金メダル獲得。
1999年ラムソーの世界選手権NH金メダル。97~98年ジャンプ週間総合優勝。1998年FISスキーフライング選手権大会(オーベルストドルフ)優勝。
ジャンプ界にある5大タイトルの内、4タイトルを若くして獲得した。
だが、W杯総合だけは、最高が2位(97~98年)止まり、このタイトルだけは手にできなかった。

5title
ハンナバルト、ストッフ、小林陵侑の3人がジャンプ週間4戦4勝を達成している。

では、歴代の大選手の中で5大タイトルすべてを獲った選手が何人いるのか。
一人は、先日55歳で亡くなったマッチ・ニッカネン
まだV字ジャンプになる以前の選手だが、
・五輪個人金メダル
1984年90m級 1988年70m級、90m級
・世界ノルディック金メダル
1982年オスロ大会90m級
・フライイング選手権金メダル
1985年プラニツァ大会
・W杯総合優勝
4回(1982/83、1984/85、1985/86、1987/88)
・ジャンプ週間
総合優勝2回(1982/83、1987/88)

ほかには、いないのではないか。
シュリーレンツァウアー(オーストリア)は、五輪金メダルが団体はあるが、個人がない。
シモン・アマン(スイス)はジャンプ週間の優勝がない。
アダム・マリシュ(ポーランド)は五輪とフライイングの優勝がない。
カミル・ストッフ(ポーランド)はフライイングの優勝がない。

ドイツが東西に分かれていた時代に、東ドイツにゲオルク・アッシェンバッハという選手がいた。
1976年のインスブルック五輪70m級金メダリストだが、1974年のファルンの世界選手権では70m級、90m級の両方を制し、1973-1974年のジャンプ週間では総合優勝もしている。
が、この時代にはまだW杯が行われておらず、4冠に終わっている。

この人、本職は医師で、東ドイツチームのドクターを務めていたが、1988年西ドイツへ遠征中に政治亡命を果たす。そして翌年、自らの現役時代にドーピングをしていたことを公表している。

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January 03, 2019

小林陵侑 ジャンプ週間総合優勝なるか

ジャンプ週間というスキージャンプのシリーズをご存知だろうか。
年末年始の1週間にドイツとオーストリアで4戦して「世界最強のジャンパー」を決めるシリーズである。
W杯創設前から開催されている伝統を誇る大会で、既に半世紀以上に渡って行われている。
欧州の選手、観客にとってはシーズン最高のイベントであり、1週間で20万人を超える観客を集め、五輪とはまた別の「最高のステータス」を持つ。

この最高のステータスをつかみ取ろうとしているのが22歳の小林陵侑
オーベルストドルフ、ガルミッシュパルテンキルヘンとジャンプ週間で2戦2勝。
総合優勝はもちろん、史上3人目の4戦4勝も見えてきた。

ジャンプ週間は、1953年1月、ドイツとオーストリアの対抗戦から始まり、第2回大会(53~54年)から、年末年始を挟んで行うようになり、79 ~80年大会からは、各4戦がW杯を兼ねるようになった。

4戦4勝した選手が過去に2人いる。
2001–02年 スヴェン・ハンナワルド(ドイツ)
2017–18年 カミル・ストッフ(ポーランド)
ジャンプの五輪金メダリストは、4年ごとに確実に現れるが、ジャンプ週間の4勝は今後出ないかもしれないくらいの価値がある。

特にカミル・ストッフは、ソチ五輪でNH,LHの2冠。
平昌五輪でもLH金、団体で銅メダルを獲った、歴代最高のジャンパーの一人だ。


一方、4戦の内3勝した日本人が2人いる。
一人は札幌五輪の金メダリスト笠谷幸生氏である。
札幌五輪を28歳という円熟期に迎えた笠谷は、1971年~72年のジャンプ週間に3勝を挙げるという離れ業をやってのけた。
史上初の4戦4勝に欧州中が期待する中、笠谷は、「札幌五輪のための調整」を理由に帰国。
4戦目のビショフスホーフェンを飛ばなかった。

3戦のみでの帰国は当初の予定通りだったそうだが、SAJ(全日本スキー連盟)や笠谷自身のジャンプ週間に対する認識は、現在とはかなり異なっていたと思われる。
笠谷帰国後のジャンプ週間は、ノルウェーのモルクが総合優勝となるが、モルクは札幌五輪でメダルに届くことはなかった。
札幌五輪での笠谷は、70m級(現NH)で金メダル。日本勢日の丸飛行隊によるメダル独占はあまりにも有名だが、90m級は7位に終わっている。

2人目は、97~98年のシーズン、そう長野五輪直前の船木和喜だ。

1997-98年 ジャンプ週間
第1戦 12/29 オーベルストドルフ(ドイツ)
①船木和喜
②斎藤浩哉
③A・ニッコラ(フィンランド)

第2戦 1/1 ガルミッシュ・パルテンキルヘン(ドイツ)
①船木和喜
②原田雅彦
③斎藤浩哉

第3戦 1/4 インスブルック(オーストリア)
①船木和喜
②S・ハンナバルト(ドイツ)
③J・アホネン(フィンランド)

第4戦 1/ 6 ビショフスホーフェン(オーストリア)
①S・ハンナバルト(ドイツ)
②H・イェックル(ドイツ)
③J・アホネン(フィンランド)
⑧船木和喜

◆総合成績
①船木和喜 
②スベン・ハンナバルト(ドイツ)
③ヤンネ・アホネン(フィンランド)
 
地元の五輪開催年のジャンプ週間で3戦3勝と、笠谷幸生と同じ結果を出してきた船木だったが、4戦目、ビショフスホーフェンでは、緩やかでダラダラと続くアプローチにスピードに乗れず8位に終わった。
笠谷氏が、4戦目のビショフスホーフェンを飛ばずに帰国したことは前述の通りだが、このことに腹を立てたジャンプの神様が、以後日本人選手をこのジャンプ台で勝てなくしたという話も、欧州ではされている。

しかし、4戦の総合成績では、ハンナバルト、ゴルトベルガーを抑え、圧倒的な勝利だった。
この時点で長野では船木には勝てない と誰しもが思った。
長野五輪での日本勢は、NHで船木が銀メダル。LHで船木が金、原田が銅、団体で日本チーム(岡部、斎藤、原田、船木)が金メダルを獲っている。

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December 25, 2018

8年後に五輪復帰した銀盤の女王カタリーナ・ビット

全日本フィギュアで2位に入った高橋大輔が世界選手権を辞退するそうだ。
32歳になった高橋の姿を見たいファンも世界中にいるだろうと思うと残念な気もする。

かつての五輪金メダリストがアマチュアを引退後、時を経て復帰、再び五輪の舞台に戻ってきたケースもある。

2018年の冬季五輪の開催地を平昌と争ったのがドイツのミュンヘン。
韓国は、平昌の顔に金妍児を前面に押し出したのに対し、ミュンヘンはカタリーナ・ビットで対抗。
招致争いは、新旧フィギュアの女王対決と呼ばれた。

カタリーナ・ビットは、1965年12月3日 旧東ドイツ・シュターケン生まれのフィギュアスケート選手である。
五輪2連覇、世界選手権4回優勝など、史上最も成功したスケーターの一人だ。

●カタリーナ・ビットの主な戦績
1984年サラエボ五輪   フィギュアスケート女子 金メダル
1988年カルガリー五輪  フィギュアスケート女子 金メダル
1994年リレハンメル五輪 フィギュアスケート女子 7位
世界選手権金メダル   1984・85・87・88年
世界選手権銀メダル   1982・86年

冬季五輪の女子フィギュアは、五輪の全ての競技の中でも、最も注目を集める種目といっても過言ではない。
 
五輪のフィギュアスケートは、1908年から正式種目に加えられている。
といっても、冬季五輪の第1回・シャモニー大会は1924年であり、初期は、夏季五輪の種目だった。
この長い歴史の中で、女子で連続優勝したのは、ビット以外には1928年から3連覇したノルウェーのソニア・へニーしかいない。
連覇が難しいのは、この競技の特殊性にある。
五輪の金メダルは、プロ入りのまたとない格付けになるからである。
五輪2連覇を果たし、プロ転向後再び五輪の銀盤に現れた、それがビットであった。

1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊するまで、カタリーナ・ビットは東ドイツの「顔」だった。
ミスのない演技。
サイボーグのように鍛え上げられた肉体。
端正な顔に浮かべられた勝つことを疑わない笑み。
西側のメディアはビットを「社会主義の最も美しい顔」と呼んだ。

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1998年 PlayBoy誌に登場したときのカタリーナ・ビット

カルガリー五輪金メダルの後、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長は、祖国功労大勲章でビットを迎え、彼女は東ドイツ選手として初の「プロ」になった。
サラエボ、カルガリーと五輪2連覇の実績、妖艶にして聡明さもうかがわせる容姿。
東ドイツのスポーツ界だけでなく、ホーネッカー議長に気に入られ、プロパガンダとして政治の舞台に上がることも多くなっていった。

東ドイツは五輪を、社会主義国家の優位性を示す国際舞台と位置付けていたのはご存知の通りだ。
金メダルを獲得した者には、報奨金などの多くの恩恵が与えられていた。
事実、ビットもいくつかの特別待遇を受けた。
月々の手当に、勝てばボーナスが加わった。
18歳で運転免許をとると、すぐに車が購入できた。 
国際大会は食物持参で参加をした。
競技会の主催者から支給される食費をため、東ベルリンの外貨用高級デパートで買い物をした。
ささやかではあるが、物々交換が当たり前の庶民には、民主化によって批判の対象となっていったのである。

1990年、東西ドイツが統一された。
スパイ疑惑、ドーピング(禁止薬物使用)疑惑、大衆紙による男性関係の話題。
気がつけば、元「特権階級」のビットはスキャンダルとゴシップにおぼれそうだった。
自らの真情を繰り返し訴えるしか、対する道はないと思われた。
そんな中「プロ転向後も1回だけ、五輪出場を許可する」というISUの決定が、ビットを五輪に戻した。
 
1994年リレハンメル五輪、金メダルはウクライナの16歳、オクサナ・バイウルに決まっていた中、ビットはフリー最後の選手として銀盤に立った。
鮮やかな赤いコスチュームは血の色を表す。
曲は「花はどこへいった」。ヒトラーを嫌って米国へ逃れたドイツ女優マルレーネ・ディートリヒが歌った反戦歌である。
3回転ジャンプは2回しかない。
代わりに、舞う指先の1本1本へ、戦禍に苦しむサラエボへ平和の祈りを込めた。
この1994年当時は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っ只中であった。
ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力が、丘の上に陣取ってサラエボを包囲していたのだ。
1984年 サラエボで最初の金メダルを獲ったビットにとって、思いでの地が血にそまっていることに耐えられなかったのだろう。

7位

順位を示す得点表示板へ、ハーマル円形競技場を埋めた6,000人の観客席からブーイングが飛んだ。
銀盤を渦巻いたファンの声はそのまま、ビットの演技をたたえる声に変わった。
この瞬間は、サラエボの犠牲者に対する祈りによる開会式で始まったリレハンメル五輪の、ハイライトだったと記憶している。

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December 19, 2018

小平奈緒は25勝 高木美帆は9勝 スピードスケート W杯に挑む

W杯を冠したウィンタースポーツの競技会は多く存在する。
アルペンスキーが最も古く、1966年~67年のシーズンに始まった。
他種目に比べても随分と古い。
その後、他種目でも生まれたウィンタースポーツのW杯は、いずれもシーズンを通してチャンピオンを決めようとするもので、ジャンプが1980年から、クロスカントリーが1982年から、ノルディック複合が1983年のシーズンから始まった。
一方スケートは、スピードスケートが1985年と最も古く、ショートトラックは1997年と随分遅い。

スピードスケートのW杯の日本人初の優勝は、黒岩彰さん。
カルガリー五輪の銅メダリストだが、1986年12月6日、オランダ・アッセンで行われた500mに優勝している。
黒岩さんは1988年に引退したので、通算6勝。
日本勢で最も優勝回数が多いのは長野五輪金メダリストの清水宏保さんで通算35勝を挙げた。

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平昌五輪スピードスケート500m金メダルの小平奈緒は、今季も好調で、12月15日のW杯第4戦、オランダ・ヘーレンフェインで行われた女子500mに37秒17で優勝。
W杯は25勝目。
500mは、出場した国内外のレースで34連勝、W杯に限っても20連勝となった。

W杯は、2016年11月12日 中国のハルビンで行われた500mに優勝、それから平昌五輪も含めて丸2年以上負けていない。

2013年に引退した岡崎朋美は、5回の冬季五輪に出場した息の長い選手だったが、W杯は1996年から2005年にかけて10勝している。
ちなみに長野五輪で銅メダルを獲ったときは26歳、引退した時は42歳だった。
 1996年 500m4勝、1000m1勝
 1997年 500m1勝
 1999年 500m3勝
 2000年 500m2勝
 2005年 500m1勝

高木美帆はご存じのように中距離を得意としているが、1500mに7勝、3000mに1勝と日本人女子としては勝てないと言われていた種目で優勝している。
平昌五輪マススタート金メダリストの高木菜那は、今季マススタートで2勝を挙げている。


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December 04, 2017

世界歴代2位、3位、5位 小平奈緒、高木美帆W杯で連勝中

スピードスケートのW杯カルガリー大会が12月1~3日、カナダ・カルガリーであり、小平奈緒は女子500mで、高木美帆は、女子1500m、3000mでともに日本新記録を出し優勝した。

小平の500mは世界歴代2位、高木の1500mは歴代3位、3000mは歴代5位の好記録である。
カルガリーでは転倒したが、小平の1000mの持ちタイムも世界歴代3位。
女子のチームパシュートは、2戦連続世界新達成、おそらく史上最強チームで平昌五輪に向かうことになるだろう。

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小平のメダルを占う上でやはり気になるのが、韓国の李相愛。
ご存知、バンクーバー、ソチと500m2連覇中の女王だが、ここ数年は小平に及んでいなかった。
が、カルガリーの500mでは小平の36秒53に次いで36秒86を出し2位に入っている。

そろそろ本番モードに入ってきたか?
次週のW杯はソルトレークシティ。
また、好記録の出るリンクだ。
 
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November 20, 2017

クラウディア・ペヒシュタイン45歳 7度目の五輪へ

山本宏美さんというスピードスケートの選手がいた。
1994年のリレハンメル五輪女子5000mで銅メダルを獲った選手だ。
男女を通じて日本人の長距離で唯一のメダリストだが、当時23歳。
このとき金メダルを獲ったのが、この2年前のアルベールビル五輪では銅メダルを獲ったドイツのクラウディア・ペヒシュタイン、当時21歳。

山本宏美さんが1995年に現役を引退したのとは対照的に、ペヒシュタインが凄かったのはここからだ。
25歳の長野五輪の5000mで金メダル、30歳のソルトレークシティ五輪5000mでも金メダルを獲得。

33歳で迎えたトリノ五輪では冬季五輪初の、そして女子選手初の同一種目4連覇がかかっていた。
ところが、2連覇を目指した12日の3000mは5位に終わっていた。16日新種目の女子パシュートでドイツの優勝に貢献し、5度目の五輪で4大会連続となる通算5個目の金メダルを獲得。
しかし、22日の1500mは気候変化で持病のぜん息が悪化し欠場を余儀なくされた。 

4連覇をかけた女子5000m 最終組でクララ・ヒューズと同走。
前半はリードしていたが徐々に詰められ、最後の2周で逆転され、2位に終わった。

37歳で迎えようとしていたバンクーバー五輪の前年、2009年2月のノルウェーで行われた世界選手権の後、ISU(国際スケート連盟)は、ペフシュタインにドーピング違反を認め、2年間すべての大会への出場停止処分を下した。

網状赤血球のレベルが異常な値を示していたため、薬物違反を疑われたもので、本人は先天的な問題でドーピングによるものではないと主張し、出場停止と断固として戦った。
このケースは、状況証拠のみに基づくドーピング違反の最初のケースであったが、その後の、彼女に対して行われたドーピング検査で、禁止された物質が見つかったことはない。

40歳を前にしての、出場停止処分であり、誰もがこのまま引退するものと思っていたが、2011年2月に競技へ復帰。
41歳で迎えた2014年ソチ五輪では、1500mに19位に終わったものの、3000m4位、5000m5位に入った。
1500mの19位は、6回目の五輪で初めての入賞圏外だった。

そして2017年11月19日、ノルウェーのスタバンゲルで行われたW杯の女子5000mを6分56秒60で制し、自身7回目の五輪となる45歳での平昌冬季五輪出場を確定させた。

ペヒシュタインは8位以内に入れば平昌出場の資格を得る状況だったが、優勝、W杯通算33勝目とした。
五輪出場が確定するには、ドイツオリンピックスポーツ連盟(DOSB)による推薦が必要だが、これはあくまで形式的なものとなっているという。

生年月日を調べると 1972年2月22日生まれ。
なんと、札幌五輪画が閉幕した直後に当時の東ベルリンで生まれている。
8回目の五輪を目指す葛西紀明は、1972年6月6日生まれで同い歳ということになる。

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February 25, 2017

平昌オリンピックをめざす韓国のアイスホッケー

札幌市と帯広市で開催されている冬季アジア大会、男子のアイスホッケーの日韓戦は4-1で韓国が勝利した。
冬季アジア大会が1986年に始まって以来8回目の歴史の中で、アイスホッケー日本男子代表が韓国に負けたのはこれが初めてだ。

●冬季アジア大会における男子アイスホッケー日韓戦の結果
2017年札幌大会
日本1-4韓国

2011年アスタナ/アルマトイ大会
日本6-1韓国

2007長春大会
日本3-0韓国

2003青森大会
日本11-2韓国

1999江原道大会
日本13-1韓国

1996ハルビン大会
日本6 –1韓国

1993年札幌大会
日本11 –7韓国

1986年札幌大会
日本20 –1韓国

元々韓国でアイスホッケーは盛んではなく、五輪開催国でありながら出場出来ない可能性もあった。
アジア大会でも日本にとっては、好敵手というには程遠い存在だった。
ところが、特に男子は急速に実力を付け、男女ともに開催国枠での韓国の出場が決まった。

短期間にアイスホッケーの強化を図るにはどうしたら良いか。
彼等がモデルとするのはもちろん日本である。

1960年から6大会連続五輪出場を果たしてきた日本代表も、1980年を最後に五輪の舞台に立てなくなり、1991年に長野五輪開催が決定した当時、その競争力は落ちていた。
地元の五輪で恥ずかしくない成績を求める声に、日系カナダ人を呼び、帰化してもらい、代表チームを強化することを実践した。

ライアン•藤田、ダスティ妹尾、マシュー•樺山、ライアン•桑原、スティーブ辻占、クリス•ユールといった日本にルーツを持つカナダ人が日本代表に加わり、日本は長野五輪で1勝(オーストリア戦)を挙げ、14か国中13位となった。

韓国でも代表チームの強化のために、外国人選手の帰化を進めることを決めた。
韓国では最近、特別帰化制度とよばれる制度が始まっている。

◆特別帰化=特定分野で優秀な能力を保持しており韓国の国益に寄与するものと認められる場合、特に国籍を付与する制度。一般帰化とは違い、既存の国籍を放棄しなくても良い。

この制度により5人のカナダ人と1人の米国人のアイスホッケー選手が韓国籍を取得した。
元々の国籍を放棄することなく二重国籍。
以下の6名である。

エリック・リーガン(カナダ)
マイケル・スイフト(カナダ)
マット・ダルトン(カナダ)
ブライアン・ヤング(カナダ)
ブロック・ラダンスキー(カナダ)
マイク・テストウィード(米国)

現在開催中の札幌冬季アジア大会には、ブロック・ラダンスキーを除く5名が韓国代表に名を連ねている。

しかし、アイスホッケーは代表チーム同士の実力差があまりにも大きく、先述の長野五輪の日本以外にも、2006年トリノ五輪を開催したイタリアは、11人も帰化選手を獲得した。
1992年のアルベールビル五輪にもフランス系カナダ人がメンバーにいたはずだ。

平昌五輪を控える韓国代表が、少し違うのは、韓国系カナダ人ではない、「白人」のカナダ人をメンバーに入れていること。
来年、平昌五輪本番で初めてアイスホッケーを見る韓国人は、違和感を感じないだろうか。

欧米のメディアも「青い目の韓国代表」には興味があるらしく、ニューヨークタイムスはマイク・テストウィードにインタビューしている。

「今はまだ私は正しい選択をしたのか疑問を感じる時があるが、韓国選手としてプレーすることは、大きな責任感が続くことであり、巨大なプレッシャーを感じている。韓国人たちは、平昌で、私たちが戦う相手を知らない。彼らは、帰化選手を連れて来たので、カナダとも対等に戦えると思っている。」と話している。

ニューヨークタイムスの記事は、韓国の帰化選手たちはアイデンティティの混乱に加えてアイスホッケーへの無関心、またそれとは正反対の過度な期待と戦っていると付け加えている。


●参考記事
平昌の真実Ⅳ 韓国のアイスホッケーは地元開催のオリンピックに出場できるか?

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February 14, 2017

小平奈緒 五輪本番のリンクで500m平地世界最高記録

先日、スピードスケート世界距離別選手権が開催された江陵オーバルは、来年の平昌五輪のスピードスケート競技の会場だ。
8000人が収容でき、その建設費は1260億ウォン(117億円)に上る。

女子500mで日本人女子として同選手権初の優勝となった小平奈緒。
優勝タイムの37秒13は、自身の日本記録を0秒16縮める日本新記録だった。

今でこそ、スピードスケートは室内リンクで行うのが当たり前の競技になったが、五輪で室内リンクが初めて使われたのは1988年のカルガリー五輪だ。
それまで、天候に泣かされてきたスピードスケートにとって革命的なリンクであった。
好記録が出やすい点と、天候によるスケジュール変更があり得ない点が、テレビ放映に歓迎された。

先の小平奈緒の日本新記録は、世界歴代9位タイの好記録だ。
歴代10傑の中に小平の記録を含めてソルトレイクシティで出された記録が8つ。
カルガリーで出された記録が1つ。

Joshi500

陸上競技と同様に、スピードスケートも、高地であれば空気抵抗が少なく好記録が出やすい。
ソルトレークシティのリンクは標高1425m、カルガリーのリンクは1034m。
この30年近くの間、世界記録はほぼこのどちらかのリンクで生まれてきた。

では、江陵オーバルの標高は何mか?
41mしかない。

ちなみに長野五輪の会場だったMウェーブは標高342m、
ソチ五輪の室内リンクは標高5mでしかなかった。

が、江陵オーバルは、リンクに沿って風が舞い、常に追い風にあるという。
コーナーでもスピードが落ちずに選手にも好評であると聞く。

言うなれば、今回の小平の日本新記録は平地での世界最高記録である。
五輪3連覇を狙う李相花にも今季は一度も負けていない。

平昌五輪からは男女のマススタートも正式種目になった。
高木姉妹も調子が良さそうで、一年後が楽しみである。


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