陸上競技

June 10, 2020

金メダルを12年ぶりに獲ったウルリケ・マイファルトと16年ぶりに獲ったアンソニー・アービン

ウルリケ・マイファルト(西ドイツ=当時)は陸上史に残る選手である。
(Ulrike Nasse-Meyfarth 英語であれば メイファース と読むのだろうが、日本では昔から マイファルト と読んでいる。)

というのも16歳と28歳で、オリンピックの同一種目に金メダルを獲ったからだ。
1968年のメキシコオリンピック、走り高跳びはアメリカのフォスベリーによって新しい時代を迎えた。
現在では、誰しもが跳ぶ背面跳びを最初に始めたのがフォスベリーである。
とはいうものの、4年後のミュンヘンオリンピックでも背面跳びをマスターしていた選手は少なく、自己ベストが1m85だったマイファルトはホームの熱狂的な応援を背に1m92を跳び優勝。16歳の金メダリストとなった。

●ウルリケ・マイファルトの主な戦績
1972年 ミュンヘン五輪 ①1.92m
1974年 欧州選手権 ⑦1.83m
1976年 モントリオール五輪 1.78m 予選22位敗退
1978年 欧州選手権 ⑤1.91m
1980年 モスクワ五輪 ボイコット
1982年 欧州選手権 ①2.02m
1983年 第1回世界陸上 ②1.99m 
1984年 ロス五輪 ①2.02m

岩崎恭子がバルセロナオリンピックで14歳で金メダルを獲った後、自分の泳ぎが出来なくなり、アトランタオリンピックには出場しているが、バルセロナ以後、金メダルタイムを更新することは一度もなく引退した。
洋の東西を問わず、若き金メダリストが壁にぶち当たるのは同じようだ。
マイファルトも、1976年のモントリオールオリンピックでは決勝に進むことが出来なかった。
このときの記録を調べてみると予選通過ラインは1m80、マイファルトは1m78しか跳べずに22位に終わった。
西ドイツは、1980年のモスクワオリンピックを、日本と同様アメリカに追随しボイコット、マイファルトはモスクワの地を踏むことが出来なかった。

が、この後徐々に復調していく。
1983年、ヘルシンキの世界陸上選手権では、ブルガリアのタマラ・ブイコワと壮絶な争いの末2位。
1984年、ロサンゼルスオリンピックはソ連、東ドイツなど東側諸国が報復ボイコットし、オリンピックでのブイコワとの対決は見ることはできなかったものの、マイファルトは12年ぶりに同一種目での金メダルを獲得。
優勝記録は2m02と好記録だった。

同一種目で、12年のブランクを経て再び金メダルを獲った例はマイファルトが唯一である と長い間言って来たが、2016年のリオデジャネイロオリンピックでこの記録を上回る金メダリストが現れた。

競泳男子50m自由形において、19歳と35歳で金メダルを獲ったのがアンソニー・アービン。
同一種目で16年のブランクを置いての金メダルは、ウルリケ・マイファルトの12年を超える。

19歳で迎えたシドニーオリンピック。
50m自由形で金メダルを獲ったアービンは、白人と黒人の両親を持つハーフだが、初の黒人系金メダリストとして注目された。
22歳で一度は現役を引退した。
その際に両腕に鮮やかな入れ墨をしたが、現在も彫ったままだ。
シドニーの金メダルはオークションにかけ、04年のスマトラ沖地震の被災者のために寄付したというが、その額は17000ドル。

その後、ロックバンドで活動するなどしたものの、酒におぼれ、自殺未遂をしたこともあるというが、どん底の時期をへて2010年にプールに戻ってきた。
大学院に入学し、水泳の動作解析などを研究するうちに泳ぐ意欲が沸いてきたと言う。
そして、リオデジャネイロオリンピック。
35歳5カ月での金メダルは競泳個人種目で最年長となる。

昨年9月 競泳金メダリストの「挫折」と「復活」と題してNHK BSでアンソニー・アービンの特集が放送された。

38歳になった金メダリストは東京オリンピックをめざすとしている。
が、東京オリンピックの開催延期が決まり、2021年に彼は40歳になる。
果たして、東京のプールで泳ぐことはできるだろうか。

●アンソニー・アービンの50m自由形
2000年 シドニー五輪 ①21.98(ゲイリー・ホールJrと同タイム)
2004年 アテネ五輪 出場なし
2008年 北京五輪 出場なし
2012年 ロンドン五輪 ⑤21.78
2016年 リオデジャネイロ五輪 ①21.40

 

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January 29, 2020

続・陸上競技の短距離は、なぜ第1レーンを使わないのか

新しくなった国立競技場、旧国立競技場と大きく異なる点がある。
陸上競技用のレーンが9レーンあるのだ。
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▲左が現在の国立競技場 右が旧国立競技場

旧国立競技場は、1964年の東京五輪だけでなく、1991年には世界陸上を開催した。
1964年の東京五輪当時、約7万人を収容できたが、改修とともに観客席は少なくなって最後は約5万席、レーンは五輪当時の8のままだった。

ワールドアスレティックス(世界陸連・旧IAAF)は、2002年から五輪、世界選手権のメイン競技場は観客席が7万人以上、陸上競技用のレーンは9レーンを必要としている。

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▲五輪の開催された競技場 近年は曲走路、直走路ともに9レーン

何故9レーンが必要なのか?
中・長距離走の場合、トラックの内側が有利なので、1レーンの使用頻度が必然的に高くなる。
10000mでは1人が25周、5000mでも12.5周、主に第1レーンを走ることになる。
そのため短距離種目では、第1レーンを避け、2~9レーンを使用している。
この方が環境にもよく、競技場維持費も負担が少ないのだ。
であるから旧国立競技場はメイン競技場として不適格となり、新競技場が必要だった。

8レーンで行われた1964年の東京五輪の男子100m。
金メダルのボブ・ヘイズは1レーンを走った。
手動計測の世界タイ記録である10秒0、電気計時で10秒06(ただしこの時代は非公式)であったが、これが他のレーンであれば、更に驚くべき記録が出ていたかもしれない。

1936年から2004年までの五輪で1レーンを走って金メダルを獲った選手が3人いた。いずれも記憶に残る選手だ。

1936年 ジェシー・オーエンス(米国)10秒3
1964年 ボブ・ヘイズ(米国)10秒0
1976年 ヘイズリー・クロフォード(トリニダード・トバゴ)10秒06

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October 03, 2019

10種競技の選手だったIOC会長アベリー・ブランデージ

1964年の東京五輪の際、IOC会長が誰であったかご存知だろうか。

アベリー・ブランデージ氏(アメリカ)である。

ブランデージ氏は、東京五輪だけでなく1972年の札幌五輪開催時もIOC会長だった人物だ。
いかなる形であれ五輪にプロフェッショナリズムが持ち込まれることに強く反対したほか、親ナチス的・反ユダヤ的な態度、あるいは人種主義的とも取れる言動は、たびたび論争の的となった。
ブランデージ自身は陸上10種競技の選手として、五輪出場経験がある。

10種競技 (デカスロン)は、陸上の10種目からなる混成競技のことだ。
1997年の日本選手権大会の覇者である武井壮が、タレントとして活躍し、右代啓祐が日本人選手としては48年振りとなるロンドン五輪、さらにはリオ五輪に出場するなど、10種競技に関心を持つ人が近年増えてきている。

通常、2日間にかけて実施され、1日目は、100m、走り幅跳び、砲丸投げ、走り高跳び、400m、2日目に110m障害、円盤投げ、棒高跳び、やり投げ、1500mを行う。

陸上各競技の走・投てき・跳躍に関わる技術と、2日間にわたる体力、持久力、集中力が要求されることから、総合王者は「キング・オブ・アスリート」と称えられ、ヨーロッパでは特に人気が高い。
古代オリンピックの5種競技をルーツとし、近代オリンピックでは、1912年のストックホルム五輪から採用されている。
また、1912年のストックホルム、1920年のアントワープ、1924年のパリの各五輪においては、走幅跳び、円盤投げ、200m、1500m、やり投の5種目を1日で競技した5種競技(ペンタスロン)も正式競技として行われた。

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ジム・ソープ

1912年ストックホルム五輪の陸上5種、10種競技の両種目に優勝したのはジム・ソープ(アメリカ)。
ソープの偉業は、ストックホルム五輪の開催国であるスウェーデン国王、グスタフ5世から「世界で最も偉犬なアスリート」と特別にトロフィーを贈られたほどだ。

ソープはアメリカの原住民インディアンの血を引く万能スポーツ選手だったが、彼の名前が有名になったのは、
2つの金メダルを剥奪されたからだ、

アマチュアリズムが崩壊した現在では考えられない話である。
ソープが2つの金メダルを獲った翌1913年、アメリカの地方紙に「ソープはプロ野球選手だった」という記事が載る。
この記事が元で、ソープは金メダルを剥奪された。

現代の五輪では、プロ選手にも開放、オープン化されている。
しかし当時、五輪にはアマチュア規定が厳しく定められており、プロ選手の参加は認められていなかった。
貧しい学生だったソープは、学生生活の傍ら、プロ野球とは名ばかりのセミプロ球団で、夏休みに2度ほどアルバイト選手としてプレーし、週10数ドルほどの給料を受けたことがあった。

スウェーデン国王が素晴らしいと褒めたたえるほどの成績を残しても、プロで稼いだ金が微々たるもので、ほとんどが学校に入っていたとしても特例は認められず、ソープの金メダルは剥奪されてしまった。

後のIOC会長であり、アマチュアリズムの権化と呼ばれたアベリー・ブランデージ(アメリカ)は、ソープと同じストックホルム五輪の五種競技に出場し、6位に入ったが、ソープの失格で5位に繰り上がっている。
ソープの金メダル剥奪の影には、ブランテージの存在があったのではないかと言われている。
また、インディアンの血をひくソープヘの人種差別、偏見もあったようだ。

1953年にソープ自身は死去するが、30年経った1982年10月にIOC理事会はソープの権利回復を承認した。
ただし、当時繰り上げで金メダルを獲得した5種競技のフェルディナンド・ビー、10種競技のフーゴ・ウィースランダーともに繰り下げずにそのままとし、ソープも金メダルを獲得=両者優勝とした。

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October 02, 2019

ショーナ・ミラーかサルワ・エイド・ナセルか 17年ぶり48秒台が出るか 女子400m

ドーハで行われている世界陸上。

注目の女子400mの決勝が明朝行われる。

今日の大一番が期待を持たれているのは、17年ぶりに48秒台のチャンピオンが生まれるかもしれないからだ。

 

マリタ・コッホの 47.601985年東ドイツ・当時)の世界記録や

ヤルミラ・クラトフビロバの 47.99 1983年チェコスロバキア・当時)の大会記録が破られるとは思っていないが、今季はショーナ・ミラー・ウイボ(バハマ)が49.05サルワ・エイド・ナセル(バーレーン)が49.17を出している。(もちろん、今季の世界1位と2位だ)

昨日の世界陸上準決勝でも、サルワ・エイド・ナセル が49.79 で準決勝1組1位、ショーナ・ミラーが49.66 で準決勝2組1位。両選手ともに好調を維持している。 

 

ヤルミラ・クラトフビロバの4799(大会記録)は、1983年に始まった世界陸上の、第1回のヘルシンキ大会で生まれたもの。

それ以降は、47秒どころか、48秒台の優勝記録もアナ・ゲバラの2003年の1度しか出ていない。

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★こちらもぜひ読んでください。
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September 26, 2019

金メダルから失格 ベン・ジョンソンのその後

31年前 1988年の9月24日に陸上界だけでなく世界のスポーツ界を震撼させた大事件が起きている。
舞台はソウル五輪 陸上男子100mで金メダルを獲ったベン・ジョンソンにドーピングが発覚、追放された事件だが、五輪史上3本の指に入る大スキャンダルと言ってもいいはずだが、30年以上昔のこと。
今の陸上ファンには、話は知っていても映像を見たことがない人も多いと言う。

@TriviaOlympics がこのレースを紹介しているので見てもらおう。

 

1988年ソウル五輪の陸上男子100m決勝。
スタートから飛び出したべン・ジョンソンは、一気に走り抜け、9秒79の驚異的な世界新記録で優勝した。
2位にロサンゼルス五輪の同種目金メダリストのカール・ルイス(米国)、3位にバルセロナ五輪で同種目の金メダリストになるリンフォード・クリスティ(英国)が入った。
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ところが、その3日後、IOCはジョンソンのドーピングテストで禁止薬物が検出されたため、金メダルをはく奪すると発表。歴史に残るスキャンダルはこうして幕を開けた。
ジョンソンから検出されたのは、アナボリック・ステロイド(筋肉増強剤)の一種で、同年のカルガリー冬季五輪までは登場していなかった最新型だった。

ベン・ジョンソンは1976年にジャマイカからカナダに移民してきた。
その4年後のロサンゼルス五輪では、カナダ代表として100mに10秒22で銅メダルを獲った。
だが、あまり記憶にない。
1987年の陸上ワールドカップに10秒00で優勝、同年のローマの世界陸上で、9秒83という驚異的な世界新を出して優勝し、一躍ソウル五輪の金メダルの本命に挙げられていった。

100m決勝から3日後、国際陸上競技連盟(IAAF)はベン・ジョンソンの2年間競技者資格停止と、9秒79の世界記録取り消しを決めた。
さらにローマの世界陸上で出した9秒83の抹消と、こちらの金メダルはく奪も決まった。
するとジョンソンは27日午前中の内に、ソウルの金浦国際空港から追われるようにニューヨークへ逃げていった。

当時、ベン・ジョンソンは日本でも有名選手で、共同石油(現JXTGエネルギー・ブランドはENEOS)のCMにも出演していた。
共同石油は27日、ベン・ジョンソンのCMを別のものに差しかえるよう各放送局に連絡、ジョンソンのCMはこの日を境にオンエアされていない。
ジョンソンは、ローマの世界陸上の金メダルを機に、多額のスポンサーがつくようになっていた。
ディアドラ社のシューズの契約金は5年で2億円強、共同石油も億単位の契約金だったといわれている。


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筋肉増強剤であるアナボリック・ステロイドは1981年秋から使用していたと証言しているから、ロサンゼルス五輪の銅メダルの時には、既にクスリに犯されていたことになる。
が、メダル剥奪処分にはなっていない。

この後のベン・ジョンソンについてあまり知られていないが、2年間の競技者資格停止が解け、1991年陸上界に復帰。東京で行われたこの年の世界陸上にやって来た。
とはいうものの、100mの世界陸上B標準しか突破できていなかったジョンソンはカナダチームのリレー要員だった。3走を任されるも、コーナーが下手、カナダは何とか8位に入るのがやっとだった。

そして1992年バルセロナ五輪、ベン・ジョンソンは100mのカナダ代表として3度目の五輪出場を果たした。
スタジアムで名前が紹介されると、人気は意外にも高く、大きな拍手と歓声が沸いた。
1次予選は10秒55と、32人残った中で20番目。2次予選は10秒30、4組4位で辛くも準決勝に進んだ。
準決勝1組に出場したジョンソンは、スタートと同時にこけて、10秒70。最下位で決勝に進めなかった。
「陸上の神様がこけさせた」世界中が思ったに違いない。

そして、1993年3月. ベン・ジョンソンの同年1月に行われた尿検査でテストテロン(筋肉増強剤)の服用が判明。
国際陸連(IAAF)は永久追放処分を発表、カナダ政府もこれを受けてスポーツ基金受給資格を取り消し、さらにすべてのスポーツ競技から、ジョンソンを永久に締め出すとした。

その後ベン・ジョンソンは馬などと慈善レースをしていたが、1999年にまた薬物陽性反応があったとされる。(詳細不明)
2007年になって、選手としては永久追放処分を受けているが、コーチとしてのチャンスは与えられるべきだとの関係者のコメントとともに、20歳のカナダ人選手のコーチを務めることになったとAFP通信が伝えた。

 

余談になるが、ソウル五輪は1988年9月17日から1988年10月2日に開催されている。
暑さも和らぐいい季節に開催されたのだ。

 

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September 10, 2019

オリンピックで100mと100mハードルの両方を制した選手はいるか?

9月1日山梨・富士北麓公園で行われた陸上競技の富士北麓ワールドトライアルで、寺田明日香が100mハードルで12秒97(+1.2)の日本新記録を出した。この競技場は標高1,035mにあり、好記録が期待できたというが、2000年に金沢イボンヌが出した13秒00を19年ぶりに更新する記録だ。

29才の寺田明日香は、7月7日の南部記念では、100mに11秒63の自己ベストを出している。

なんと2007年のインターハイで出した11秒71以来12年ぶりの自己新であるという。

100mとハードルの両方走っていたと言うとこの人を思い出す。

依田郁子(故人)だ。

陸上競技において400m以下の種目を短距離と分類しているが、女子で日本五輪史上唯一陸上短距離で決勝を走ったのが依田郁子。スタートラインに着く際に独特のローテーションがあり、市川崑監督の東京五輪の記録映画からもその様子は伺うことができる。

1964年の東京五輪80mハードルで5位入賞を果たした。(手動計時で10.7+2.3m)

女子のハードル走というと100mハードルだが、100mハードルは1969年から実施されるようになった種目で、1968年までは80mハードルが行われていた。

依田は、非常に珍しいことに、100mと80mハードルを掛け持ちし、両種目の日本記録を出し、両種目の日本選手権を取った唯一の選手でもある。

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時事通信の東京五輪特集の中に依田郁子の80mハードルの画像がある。

依田郁子の日本選手権

(100m優勝)1959、1961年

(80mハードル優勝)1960、1961、1963年

1961年の日本選手権では2冠に輝いている。

 

1990年代の陸上女子短距離界にゲイル・ディバース(米国)という選手がいた。

非常に珍しい100mと100mハードルの両方で成功した選手だ。

1991年に東京で開催された世界陸上の女子100mハードルで、リュドミラ・エンクイスト(当時ソビエトのちにスウェーデン)に次いで2位に入ったのと、バセドウ病の治療をしていたことが印象深い。

1992年のバルセロナオリンピックでは100m、100mハードルともに金メダルを獲るのではないかとの下馬評だった。

100 m決勝では5位までが100分の6秒差という僅差の中で競い勝ち優勝。

より得意とされた100mハードルでは、ゴール直前まで2位以下を大きく突き放していたが、最終10台目のハードルに足を引っ掛けて、5位に終わった。

1996年アトランタオリンピックの100mは、マリーン・オッティとディバースが10秒94の同タイムで駆け抜けたが、写真判定の結果ディバースが金メダルを獲得。

しかし、100mハードルは4位に終わった。とは言うものの、100mのオリンピック2連覇は、東京・メキシコを連覇したワイオミア・タイアスとゲイル・ディバースの二人しかいない快挙である。

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ゲイル・ディバースの主な競技結果

 

一方男子には、100mと110mハードルの両方に金メダルを獲った選手が一人だけいる

少年時代にベルリンオリンピックの4冠王ジェシー・オーエンスに憧れていたというハリソン・ディラード(米国)だ。

元々はハードルの選手だったが、1948年のロンドンオリンピック選考会では110mハードルの出場を逃してしまう。

が、100mでは3位となり米国代表に滑り込んだ。

ロンドンオリンピックの100m決勝では、同じ米国のバーニー・ユーウェルと10秒3の同タイムでゴールするが、オリンピック史上初となる写真判定に持ち込まれ、1つめの金メダルを獲得した。

ロンドンオリンピックでは4×100mリレーでも3走を走り、40秒6で2つ目の金メダルを獲得した。

4年後のヘルシンキオリンピック、110mハードルでアメリカ代表の座を得たディラードは、13秒7のタイムで3つ目の金メダルを獲得。

さらに、4×100mリレーでは2走を走り4つめの金メダルを獲得した。

 

同一大会ではないが、100mと110mハードルに金メダルを獲った唯一の選手であり、今後も絶対に出ないだろう。

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August 26, 2019

8m40は戦後5人目 陸上競技のなかなか破ることのできなかった日本記録

戦前の日本陸上界に南部忠平さんという大選手がいた。
札幌の円山競技場で毎年行われている南部忠平記念陸上競技大会は、南部さん(以下敬称略)の出身である札幌市で、彼の業績を記念したものだ。
南部は、1932年のロサンゼルス五輪の三段跳びで金メダルを獲ったことは広く知られている、が、同じ五輪の走り幅跳びでも銅メダル(7m45)を獲った。
この前の年(1931年)10月27日、後に国立競技場が建つ地にあった神宮競技場で行われた競技会で、世界新記録となる7m98を跳んでいた。
ちなみに同じ日の三段跳びでは、アムステルダム五輪金メダリスト織田幹雄が15 m58の世界新記録を出している。

日本国内で、日本人による世界新記録が一日に2つ出ることは極めて稀であり、今後もあり得ないだろう。
南部の世界記録は、ベルリン五輪の4冠王ジェシー・オーエンスが、1935年5月25日ミシガン州アンアーバーでの競技会で、8m03を跳ぶまで、4年近く世界記録だった。が、日本国内で、この南部の7m98を超える選手はなかなか現れず、1970年6月7日、山田宏臣(故人)が8m01を跳ぶまで38年7カ月破られることがなかった。

1979年7月6日に順天大に在学中の臼井淳一が8m10を跳び、2人目の8mジャンパーになるも、この記録も1992年5月5日に森長正樹が8m25を跳ぶまで破られなかった。
そして、森長の記録も、ご存知のように今年の8月17日に橋岡優輝が8.32を、城山正太郎が8m40を跳ぶまで27年も日本記録として残っていた。
なんと1931年から88年間に、日本記録保持者は4人しかいなかったことになる。

●男子走り幅跳び 日本記録変遷
7.41 南部忠平(満鉄) 1929. 5.19
7.45 南部忠平(美津濃) 1929.10.17
7.57 南部忠平(美津濃) 1930. 5.24
7.64 南部忠平(美津濃) 1931. 4.29
7.67 南部忠平(美津濃) 1931. 6.28
7.98 南部忠平(美津濃) 1931. 10.27
8.01 山田宏臣(東急) 1970. 6. 7
8.10 臼井淳一(順天大) 1979.7.6
8.25 森長正樹(日本大学) 1992.5.5
8.32 橋岡優輝(日本大学) 2019.8.17
8.40 城山正太郎(ゼンリン) 2019.8.17

南部さんの38年7カ月にはやや及ばないものの、38年3カ月破られなかった日本記録もある。
男子円盤投げの川崎清貴の60m22で、1979年4月22日に出されたもの。
2017年7月22日 堤雄司が国士舘大競技会で60m37の日本新を記録、今年、湯上剛輝が62m16
まで記録を伸ばした。
もっとも、円盤投げの東京五輪の参加標準記録は66m00であり、世界はもう少し先だ。

 

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July 23, 2019

陸上男子200m 世界歴代記録

 

 

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January 28, 2019

平成のスポーツの記憶③ 東京世界陸上 谷口浩美マラソンを制す

平成1991

1991年9月1日 防災の日と重なったこの日、第3回世界陸上競技選手権大会東京大会 男子マラソンがスタートしたのは午前6時。
それでも気温は26度。しかも湿度が73%という悪条件だった。
日本陸連科学部が「東京での開催は選手の生命にかかわりかねない」として、この種目だけ北海道での分離開催が提案されたこともあった。
懸念された通り、厳しい残暑との戦いとなった。

体力の消耗を避けるためか、どの選手もスピードを上げない。いや上げられないのか、ゆっくりしたペースで進んでいく。25キロを過ぎて強豪のメコネン(エチオピア)が棄権。
続いて31キロ付近で、日本のエース中山竹通がレースを止めた。

先頭グループから次々と脱落者が出る中、「暑さは気にならない」という谷口浩美は「我慢」と自分に言い聞かせていた。
早朝にもかかわらず、沿道には約5万3000人(警視庁調べ)が応援に駆けつけた。
日本人のマラソン好きは、東京五輪時も、世界陸上時も、そして今も変わらない。
声援が谷口を押す。
38キロの市ケ谷駅前の上り坂を、口をあけ、首を振りふり、必死の形相でスピードアップ。
4人の先頭集団から、谷口が抜け出した。
四ツ谷の交差点で右折した時、谷口が後ろを振り返ると、もう後続は小さくなっていた。

いつものように首を傾け、口を開いてゆがめた苦しみの形相が笑顔に変わる。
ゴール手前100メートル。悲鳴にも似た歓声がスタンドを包む中、谷口は両手を広げてガッツポーズ。
酷暑のレースに耐え抜いて日本選手として大会初の金メダルをつかんだ瞬間だった。

マラソン金メダルは、1936年ベルリン五輪で日本統治下の朝鮮出身の孫基禎氏が獲ったことはあるが、日本人としては女子を通しても五輪、世界陸上を通じて初の快挙だった。

当時、谷口はマラソン14戦で7勝目。その最高のタイトルは自己最低の2時間14分57秒という記録だった。

 ◆1991年 東京世界陸上 男子マラソン成績

 (1) 谷口浩美(日本)2時間14分57秒
 (2) サラ(ジブチ) 2時間15分26秒
 (3) スペンス(米) 2時間15分36秒

谷口は世界選手権金メダルでバルセロナ五輪代表に内定される。
しかし、バルセロナでは途中シューズを踏まれ転倒。それでも後半追い上げ8位入賞を果たした。
そのとき、誰に恨みをいうでもなく「こけちゃいました」
と笑顔で答えた谷口。彼の人柄を示すエピソードだった。
なおバルセロナ五輪では男子は森下公一が、女子では有森裕子が銀メダルを獲った。

マラソン選手にとって最も過酷だったのはどの五輪あるいは世界陸上だろうか。
マラソンはロード競技であり、トラック競技とは性格を少々異にしている。道路や環境の状況によって条件が違いすぎるためだ。
そのため、かつては競歩とともに世界新記録という言い方をせずに「世界最高記録」と言われた。

1983年に始まった世界陸上選手権の優勝タイムを合わせて比較してみると、優勝タイムの最も悪かったのは1968年メキシコ五輪の2時間20分台。
メキシコシティは海抜2240メートルの高地であり、空気抵抗が少ないため、陸上の短距離や跳躍で高記録が続出した。
一方、空気が薄いため長距離は苦しかったようだ。
エチオピアのマモーに続いて君原健二さんが2位に入ったが、タイムは2時間23分台。
マモーから3分以上離されていたことになる。
君原さんの走り方は首を振り、いかにも苦しそうに走るのだが、このときは一層苦しそうに見えた。

ついで注目は2つの東京のタイム。
1964年10月10日に開幕した東京五輪のマラソンは、すばらしい条件下で、アベベ・ビキラがローマ大会に続いて史上初の連覇を達成。世界記録のおまけもついた。
一方、1991年の東京世界陸上。
高地のメキシコを除いて、ここ40年間の五輪、世界陸上で最もタイムが悪い。
夏のマラソンとしては陸上史に残る過酷なレースである。

●世界陸上東京大会男子マラソン 1991年9月1日
スタート:午前6時
エントリー:60選手
完走:36選手、完走率60%
優勝:谷口浩美 記録:2:14:57
真夏のマラソンは過酷。
2020年の東京五輪は1991年よりもさらに暑い。
スタートは何時?完走できるのは何人?

日本で行われた灼熱のマラソンといえばもうひとつある。

●世界陸上大阪大会男子マラソン 2007年8月25日
スタート:午前7時
出場:87選手
完走:57選手、完走率66%
優勝:ルーク・キベト 2:15:59

 

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December 06, 2018

陸上女子400m世界歴代10傑 なんと半分は昭和に出た記録だった

平成30年も間もなく終わろうとしている。
来年には新しい元号に変わり、昭和は遠いものになる…。
いや、昭和の遺物が多く残っている世界がある。
陸上競技の世界だ。

このブログでは、陸上競技、特に女子の歴代ランキングに、大昔の当時のソ連や東独の選手の出した記録が今も上位にあることを指摘してきた。
最もその傾向が強いのが400mだ。
外国人選手が主な話なので、昭和というには少し無理があるかもしれないが、30年以上ランキング上位に残っている記録が多数あるということを強調したいのだ。

Photo

実は今年の7月のダイアモンドリーグ、モナコ大会でショーナ・ミラー(バハマ)によって今季世界最高となる記録が出された。
48秒97という非常に好タイムだった。
YouTubeに動画があるので、ぜひご覧いただきたいが、実況しているアナウンサーが49秒を切ったことに興奮している。

 

現代においてはそれほどすごい記録なのだ。
背の高い選手が身長185㎝のショーナ・ミラー、低い選手が166㎝のサルワ・エイド・ナセルで、二人がが競い合い、ショーナ・ミラーが制した。
このレースの記録は

 1.ショーナ・ミラー・ウイボ(バハマ)48.97
 2.サルワ・エイド・ナセル(バーレーン)49.08 アジア新記録
 3.シャカマ・ウィンブリー(米国)50.85

ショーナ・ミラーは、2016年のリオ五輪の同種目で金メダルを獲った選手だが、アリソン・フェリックスと壮絶な競い合いをし、ゴール直前に倒れ込みそのままゴールしたシーンは、リオ五輪のハイライトの一つだ。
そのレースの記録と画像がこれだ。思い出す人もあるだろう。

 1.ショーナ・ミラー(バハマ)49.44
 2.アリソン・フェリックス(米国)49.51
 3.シェリカ・ジャクソン(ジャマイカ)49.85

 

Dive

 

この種目の世界記録は、マリタ・コッホ(東ドイツ=当時)が1985年に出した47秒60
五輪記録は、マリー=ジョゼ・ペレク(フランス)が1996年アトランタ五輪で出した48秒25
ショーナ・ミラーの49秒44でも世界記録、五輪記録から遠いことが判るだろう。

シューズやウエア、栄養の取り方、練習方法をみても、現代が1980年代よりも劣っているなどということは全くない。
では、なぜ30年前の記録が今でも残っているのか。
簡単に言うならば、国家ぐるみの違法行為が行われていたのではないかということ。
国際陸連もこのことは問題視しており、一度過去の記録はご破算にしてやり直したらどうかという話もある。
男子やり投げは、東ドイツのウーベ・ホーンが100mを超した投擲を出したところで、競技場内が危険だからという理由をつけてやりの重心の位置を変えて、昔の記録をご破算にしたという例もあるが、唯一の例だ。

身長166㎝で、ショーナ・ミラーに渡り合ったサルワ・エイド・ナセル(バーレーン)は、今年のアジア大会の同種目の金メダリスト。
このときの記録は、アジア新だったモナコよりも少し遅かったが50秒09というこれまたすごい記録だ。
但し、この選手は生粋のバーレーン人ではなく、ナイジェリアからの帰化選手。
陸上選手の国籍変更は様々な国で起こっており、来年以降、新たなルールの下に行われることになる。
が、現時点で国籍を変更している選手はそのままということになるというので、東京五輪の陸上はアジア勢の席巻もあり得る。

そして、ナセル以前にこの種目のアジア記録は中国の馬玉芹が持っていた49秒81。
1993年に北京で行われた全国運動会(全運)で出された記録だが、90年代の中国陸上界はソ連から10年遅れていたような状況で、灰色、黒色でかすんでいたような世界だった。
馬玉芹は、広島アジア大会にも優勝しているが、ご存知かもしれないが、競泳を中心に中国チームが大量のドーピング違反者を出した大会でもある。
とは言っても馬玉芹がドーピング違反をしたという証拠はない。

 

★この記事も是非読んで下さい。
アリソン・フェリックスも届かない、陸上女子400mの永遠に破ることのできない世界記録

 

 

 

 

 

 

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